ビリー・ジーン 1
「ふぅ」
僕はベッドで仰向けになりながら、1つ息を吐いた。
現在、僕は客室に戻っている。目覚めた時と同型のリネンの涼やかな衣服を身につけて、掛布団を被ってぬくぬくとしている。身体を捻ってマットレスに馴染ませながら、シャンデリアの点す優しい光を見詰めている(客室のシャンデリアは蝋燭の火ではなく、各燭台の針先に発生した魔法の丸い発光体に依って、部屋全体をほどよく照らしている)。この時間になると気温も随分と――屋敷周辺に熱を溜込むような人工物が皆無だから尚更に――下がって、こうしているのが実にちょうどいい。身を捩る動作を含めて、まるで蛹にでもなった気分だ。僕の本来の肉体がどろどろと溶解して、美しい羽を備えたまったく新しい生物に生まれ変わる形象。時間と空間が前後し絡合い、崩壊し再構築される。ある限定が試煉的廻廊を潜抜けて、また異なる限定へと移行する。僕が常々、心の片隅で追求めてきたことだ。
フェデリコさんは彼に係る――と現時点で推測される――手持ちの情報を共有すると、引続き通信や調べものがあると席を立った。おやすみ、と穏やかな言葉を添えて。
フェデリコさんが食堂を後にすると、僕と彼女は互いに沈黙してしまった。謂わば意図して与えられた2人きりは、僕たちには未だ尚早だった。まさにそれを見かねるみたいに(いや、実際そうなのかも知れないけれど)、マリオさんたちがぞろぞろとキッチンから戻ってきた。それぞれに飲み物を携えて、夕食時の席に着く。そうして夕食からの談笑が、何とはなしに再開された。
3人は何よりもまず、僕と彼女を励ましてくれた。理屈も根拠もなく、ただ只管にポジティブな言葉を掛けてくれた。それはとりわけ彼女の心を掬上げる。別の誰かを責めることを知らない彼女にとって、不安や恐れは総て我がものとして蓄積される。その気質のある種の中和反応を、屋敷の人たちは皆十二分に心得ているのだ。
彼女が一定の落着きを得るのに、さして時間は掛からなかった。こわばっていた彼女の顔は、まさに焼きたてのパンのような弾力と温かみをとり戻した。僕も映し鏡みたいに表情を柔らかくして見せた。
声に依らないコミニュケーションもほどほどにして、僕たちは改めて言葉を交わした。彼女たちは町に加え自分たちのルーツについて、より精細に教示してくれた。僕はのめり込むように耳を傾けた。1度完成させたパズルを再度バラして組立てるような気持ちで。
彼女たちをはじめ町の人々の大半は、凡そ100年前に大陸から渡ってきた移動型民族の子孫なのだ。数千里と数世代の永い旅路の果てに、元は無人だったこの土地に定着して、王国の庇護を受け開拓し町を興したのだ。いまでは彼と同じ白い肌の居住者も少ないながらいて、その混血の子供たちもいるけれど、大陸時代の文化をいまも大切に営んでいる。
定住が可能になると、当然にして職業選択の幅は広がる。この地を信用の背景として、国内の各都市に働きに出る者たちが現れる。斯くいうフェデリコさんたちももともと、それぞれの職務のために辺境伯のいる都市に移っていた。それが先述した戦争の恩賞として、郷里の自治機能を獲得したのを機にUターンしたのだ。故に領主――及びその娘――と領民の間に、支配者と被支配者の空気感が皆無に等しいのだ。
自分たちの歴史を開示してくれるのは信頼の最上級だと、僕は喜ばしく解釈する。
僕は、明日が本当に楽しみです、と心からの気持ちを述べた。それを聞いて、4人はとても喜んでくれた。とりわけ、彼女は格別に。しかし、その笑顔の裡面には、常に巨大な憂患が潜んでいる。彼女はそのことについて、密かな罪悪感を抱えている。僕(彼)の所為ではないのに、僕との出会いに依って自身の思い描く夢や目標や将来が地震の如く大きく揺さぶられて、身体の芯から恐怖していることを認めずにはいられない。遮るものなどないように思えた自身の視界に、どす黒の絵の具を津波の如くぶちまけられたような感覚に陥っている。その悉くを中和するには、一夜の慰めだけではあまりに不十分だったのだ。此度の彼女の格別の笑みは、謂わばその内的な災害を悟られまいとするための強固な防衛反応なのだ。あくまでも僕のための。そのある種不完全な笑みを、やはり僕は美しいと思ってしまう。
しかし、それはあくまで紙面上でのことであり、現在もそうなのかは定かではない。ただ、僕にはそれが読み取れてしまうような気がする。それはあらかじめの知識の所為なのかもしれない。けれど、彼女のそれにいわゆる営業スマイル的な要素をどうしても感じずにはいられない。僕の不得手とする笑顔だ(美しいという感想と矛盾することは、百も承知である)。僕は実際それに欺かれて、大切なものを見落としてしまったことがあるからだ。そして、さらに致命的なのは、僕自身に本来的に、それらを拭い去ってやれるほどの権能も力もないということだ。
しかし、アウレウス・アングィスなら、それが可能なのだ。そして、その精髄の能力が、これから与えられるのだ。
しかし、そのイベントは明日の午前中だ。そのためには、これから眠らなければならない。不眠不休では総てが台無しになるだろう。ベストパフォーマンスができなくなってしまう。そして、実際に眠いのだ。夢の中で重だるい眠気がするというのも、また妙なものである。
ここで眠ってしまうと遂に現実に引戻されてしまうのではないか、という疑念もどうしても拭えない。しかし、僕に眠る以外の選択肢はない。物語を致命的に損なわせること、それだけは絶対に避けなければならない。
いや、ここでもし目覚めてしまったとしても、もう十全に愉しませてもらったではないか。ここで獲得したものは、これから現実で行おうとしていた物語の個人的補完にかなりのプラスになるはずだ。それでよしとしよう。
僕は目を閉じる。すると、泥のような睡魔がやってきて、僕の心はこの身体から霊魂みたいに離れていった。




