ブールヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス 1
現在、時刻は21時を少し過ぎたところだ。食事も入浴も疾うに終えて、後は好きな時に床に就くだけ。本来であれば、1日で最上のゆとりを持てる時間だ。誰にとっても貴重で値段のつけられない、清浄な財産……。
僕は母のそれを、恒常的に踏躙っている。
まずは自身とその所在について、平明に順序立てて開示していこうと思う。勿論、幾つかの重大なプライバシーは伏せたままに。万一の時、それは僕だけのトラブルではなくなるからだ。
僕の名前は楠木 奏、年齢は16歳。日本の政令指定都市に住む日本国籍の男子高校生だ。シスジェンダーのヘテロセクシュアルで、慢性疾患や障碍や欠損はない。身長は172センチメートル。肋骨の形状がうすらと分かるくらいの痩身で、容姿の美醜についてとりたてて語るところもない。黒色の髪は眉や耳に掛からないくらいに整えていて、髭や体毛は年相応に薄い(それでも、髭は毎朝きれいに剃っている)。
大衆的な語り手であれば、それらを「ごくふつうの」と纏めてしまうのだろう。所謂お約束の文言、最適化された物語的共通認識。しかしながら、僕はその言回しが嫌いだ。その言葉を獲得するために苦心し結果心を損なってきた人たちを、僕は幾度と目撃して――そして見放しても――きたからだ。
結局のところ、「ごくふつう」とは強者に依る「安全保障」のパラフレーズに過ぎないのだ。構造と社会から認定された無害性、現代的免罪符。どうやら僕は、それを殊更に求める必要のない人間らしい。街頭で渡されたポケットティッシュくらいに持余している。1度ないし2度鼻をかんで、残りは手持ちの鞄にとその口を開けば、中から前回同様にして忘れ去られてしまったそれがこちらを睨みつけているのだ。一時期は――包隠さずいえば人生の大半において――そのことを誇りにさえ思っていた。コミュニティの潤滑油。それこそが自身の存在価値であり、役割であり、優越なのだと。
しかし、現在の僕に、それを有難がる気は毛頭ない。きわめて不愉快だ。まさに他人の鼻水を擦りつけられるみたいに。甚だ迷惑だし、侮蔑すらしている。どうかそのレッテルは、あなたの心の中だけに留置いて頂きたい。
その自己紹介1つもスマートにできない少年はいま、小さな部屋の中にいる。木造2階の戸建住宅の1室に。両親と彼のプライベートエリアに含まれる、彼だけのささやかなパーソナルスペースに。
随分と居馴染んではいるが、生まれてこのかたずっと、という訳ではない。
僕と両親の生活は、小ぢんまりとした賃貸アパートからはじまった。木造2階で戸数は8。その1階の、表門から最奥の1室。裏手が広めの狭隘道路に面していて、ダンプやトラックが通過するといつも小刻みに振動していた。その所為で午睡を時偶に妨げられたことを、朧気ながら覚えている。
外観も溜息の漏れるほどに凡庸で、周辺も同然の集合住宅ばかりだった。まるで手を抜くことを覚えた漫画家の描く背景みたいに。杜撰なコピーペーストに、少し手を加えた程度。そのため誰かを家に招く際は、住所を履歴書に書記す時のように精確に伝える必要があった。表札も掲示していなかったし、付近にランドマークといえる目標物もなかった。最寄駅は徒歩15分ほどの距離にあって、コンビニやスーパー等の店舗はその付近に集中していた。築年数も僕が0歳時で20数年と経過していた。
部屋数も浴室とトイレを除くと2つ、キッチンは廊下に併設、何れも窮屈だった。ドアの鍵や窓の留具は素直に填まらないし、床は甲殻類の断末魔のような軋みを上げる。ガスや水道の音はおっかないほど虚ろに響くし、電球はどこかしこも仄暗い。どれほど丁寧に掃除をしても、毬藻のような埃が部屋の片隅に発生する。そして、隣人の生活音が、半ば怪しげな咒いのように突如耳に入ってくる。
要するに旧居はオンボロアパートであり、それは寂れた住宅街の中にあった訳だ。
「ごくふつう」のレッテルを嫌う僕が、そのように言葉を纏めてしまうのはダブルスタンダードだと思われるかもしれない。しかし、それは誤想だ。僕は何も、レッテルそのものを悪だとは認識していないからだ。
人間の情報伝達は必然的に齟齬が発生する。それは致方のないことであり、我々が個々に独立した人格を有しているが故である。それは創作においてもなおざりにできない観点だ。文章・絵画・彫刻・映像・etc.、各様式それぞれに伝えることの艱難な事柄があり、その分別が作品のクオリティに密接に関聯してくる。こと文章(言語)において、その最たる事例は「視覚情報の正確な再現」だ。文字はとりもなおさず、主観的なものさしの1つに過ぎないからだ。1目盛りの間隔は人に依ってばらばらで、その間にはそれはもう途方もない数が実際的に存在している。勿論、情報を事務的に寸分の狂いなく羅列していけば可能なのかもしれないけれど、それは円周率を求めるくらいの天文学的作業になるだろうし、1つ誤れば総てがおじゃんだ。そのため、書き手はどうしても受け手の知識や固定観念に補完を要請しないといけない部分がある。あるいは、それを「解釈の幅」ともいうのだろう。
我々は評価することをなくして、世界と交わることは能わない。そして、思い込みと一面性を排した評価は有得ない。人類が知性を獲得して以来数百万年、真の霊長への道程は未だ万分の一以下だ。我々は未だ、風どころか土すら手に入れられていない。あるいは、それは生物というちっぽけで不自由な枠組において、僭越が過ぎた夢想なのかもしれない。たかだか2平方メートルにも満たない肉の皮の内でしか自己を保存できない存在が、烏滸がましいことこの上ないのだ。
しかし、その不完全さこそが表現の、ひいてはコミュニケーションの醍醐味なのだ。不完全を補完し合う聯続した試みこそが、我々の美しさだ。満たされたところに、芸術は生まれない。完全が故の美しさは、神にでも任せていればいい。だからこそ肝腎なのが、そのレッテルが気に入らなかった場合は気に入らないと率直に口にすること、反対に気に入らないと返されたら即座にとり下げることなのだ。それらを注意深く丹念に、無理のない範囲で繰返していく。そうやって観念をアップデートし、豊饒なものにしていく。それこそが公正なリレーションシップといえるのだ。
斯くいう――ロックアーティストのインタビューのように洒落臭いことを叙述する――僕自身は、その機会の悉くを抛棄してる訳なのだけれど。退嬰的に、退廃的に。原罪を忘却してしまわないために。
旧居について、もう少し話したい。
オンボロアパートで暮らすというのは、常日頃から一定の緊張を強いられるものだ。騒音トラブルに共用部のマナーはいうまでもなく、何より自身の所有しない老朽した設備で生活すること自体が一大事だ。満席に近い居酒屋の店内にて、なみなみのビールジョッキを片手それぞれ4,5杯ずつ掴んで配膳して回るようなものだ。誰にも接触することなく、1雫も溢すことなく。しかし、当時の僕はそのことを理解できない。母の目を盗み赤のクレヨンで壁にサーカスのテントを描いた時、脳髄液が煮立つくらいの説教をされたことも覚えている。せめて洗濯機や冷蔵庫にしなさい、と言われたりもした。
当の家具家電も当然最新のモデルではないし、須くスモールからミディアムサイズ。リサイクルショップが買取に応じてくれないほどの代物だ。街で親子3人、健康で文化的な最低限度の生活。
ただ、それは自身の幼さも相まって、純粋に生きることのみに専心できる環境でもあった。僕たちの生活は、換金のできない事柄だけに充溢していたのだ。そこには羽毛のような身軽さと、見上げるほどに高い生命の蓋然性があった。軒先に隠された燕の巣のように。雛鳥の微かな鳴声と、親鳥の風を切る両翼。愉快な時に笑い、不機嫌だと泣き、両親の温もりを感じとりながら、食べて排泄して眠る。シンプルで、とりとめがなかった。
純心な記憶は、孤独の数少ない友だ。
旧居との離別は11年と少し前だった。僕がほどなく小学1年生になる時分に引越をしたのだ。同市内の丘陵地帯に開発されたニュータウンにある、当時新築ほやほやだったこの家に。
ニュータウンの人口は約8万人で、いわゆる学園都市の様相を呈している。既存の公立大学2校と私立大学1校の新キャンパスを開設させて、小中高に幼稚園と保育園も新設した。お陰で商業施設と複合した中心駅(市営地下鉄)は、朝夕には活気のある学生たちで犇めいている。教育機関の充実も然ることながら、適度な自然や都会との距離感もセリングポイントとしている。ニュータウンから少し外れれば田園風景が広がっているし、総開発面積の1/3は緑地を残している。市の中心部は電車で凡そ30分、自動車で――法定速度を遵守した場合――25分ほどの距離にある。バス路線は蜘蛛の巣状に張り巡らされ、幹線道路には自転車専用道まで整備されている。公園は数と質ともに十二分。映画館・ゲームセンター・スポーツ施設の入った大型のショッピングモールが駅から少し離れたところに鎮座している、まるで涅槃仏のように。図書館に博物館に美術館、知の集積にも抜かりなし。電波だってびんびんだ。生活に不便を感じることなんてまるで思浮かばない。とても恵まれた環境にいさせてもらえているのだと思う。
ただし、それはあくまでも即物的なものの見方だ。この街では、目に見えること手に触れることの能わない事柄があまりにも閑却されている。互換性のないものこそ、我々の生にとっては肝腎のはずなのに。
父は優秀で、これまで仕事で順調に昇進してきた。地域に根づいた中堅の運輸会社に勤めていて、現在は取締役に就任している(新居に移った際は営業部次長だった)。給与明細を見せてくれたことはないけれど、某国民的幼稚園児の父親より収入がある(あった)ことは確実だ。でなければ、ニュータウンの新築一戸建のローンなんてとても組めるものではない。父は経済的なゆとりと展望を持てる、ごく限られた勝利者なのだ。此頃はこの時刻になっても帰宅できないほどに多忙だ。資本主義社会にうまく溶込んでいる(オンボロアパートに住んでいたのも、一重に移転費用、俗にいう夢のマイホーム資金を貯えるためだったのだ)。
幸運という名の上昇気流を掴まえてステータスをぐんぐんと高めていく、自身の養う家族と共に。けして気を緩めてはいけず、常に張りつめていなければならない。他人に情を掛ける暇なんてない、パイは限られているから。奪わなければ、奪われる。そして、奪われたが最後、フードプロセッサーに掛けられるようにただただ自らを磨潰されていくだけだ。そのようにしてペースト状になった敗北者の成れの果てを、敢えて食したい物好きなんて何処にもいやしない。勝利者でなければ、生きている価値がない。資本主義社会ではそのようなスタンスだけが望まれている。
学校でもそのように教え叩き込まれる。それこそが正義なのだと。強者の矜持であり、男の責務なのだと。
見呉にはまるで対極のことを喧伝し、人工甘味料のような綺麗事を並立たせながら。
まったく、反吐がでそうだ。
旧居と較べ部屋数も3倍以上になり、何れも広い。色々と持余してしまう。物置と化した洋室が2つもあるのだ。とはいうものの、そのうちの1つは僕の弟ないし妹に宛がうはずのものだった。それが結局履行には至らずといった具合で、やや致方ない部分もある。僕が最初に資本主義を感じた事例だ。
『まずは○○橋を越えて、すぐ左にある坂道を突き当たるまでまっすぐ進むんだ。そこを右に曲がって、3つ目の赤い屋根が僕の家さ』
このくらいの説明で、誰もが僕たちの家を訪れることができる。表札も僕と両親のフルネームが掲示してある。余裕と主張を多分に含んだ暮らしだ。でかでかとルイ・ヴィトンのロゴが入ったブルゾンを羽織るみたいに。
僕は仰向けのまま身を捩り、背骨をぽきぽきと鳴らした。「ふぅ」
ここはそのアファーマティブな移転と同時に与えられて、それから延々と使い続けている子供部屋なのだ。移転当初はまっしろだった壁も、ところどころ変色とへこみが確認できる。それが太陽も既に沈んだ時間に人工的で冷ややかな黄色い光のみに照らし出されると、具体的な救いや赦しなんてこの世界にはないように思えてしまう。
実際のところないのだろう。あるはずがない。
あるべきではないのだ。
ベッド、学習机、小型の薄型テレビとその台、洋服だんす、本棚、恐竜のフィギュアを幾つも飾ってある木製の陳列棚、日焼けしたモスグリーンのカーテン、キャラメル色のふかふかとしたラグマット、制服とコートとジャケット類を掛けてある備付けクローゼット。プラスチックの小さな水色のごみ箱。それらが7畳ほどのスペースにゆったりと収められている。
そう、とりわけはベッドだ。
僕の寝そべるこのベッドも、ずぅっと使い続けている代物だ。長さ180センチメートルの幅80センチメートル。足を伸ばして眠るには既に心許ないサイズだ。僕の成長期が未だ余白を残しているのなら、そのうちに足が枠を越えて飛出してしまうことになる(それは僕がごくふつうから幾分遠ざかることを意味しているので、むしろ歓迎ではある)。
最たるはサイズだけではない。マットレスに顔を埋めると、消費された時間のすえた匂いまでする。洗浄しきれずに残存した汗や垢などの分泌物が、地層のように折重なった匂い。抽出された、僕の歴史の断片。少なくとも衛生的ではない。ただ、その匂いを良いか悪いか、どう評価するかは人それぞれだろう。僕は少なくとも嫌いではない。しかし、とまれかくまれ、流石にくたびれてもきているので、近々に買換えることになるのだろう。解体して業者に回収され、何処かしらの処分場で口の中に放り込まれたクッキーみたいに粉砕されて塵になる。そして、新しいベッドがやって来る。
ベッドの残骸がどのような幕切を辿るのかは知らない。知りたくもないし、想像もしたくない。
その時には新しい住処に移っているかもしれない。進学を名目とした独り暮らしのはじまりだ(高校卒業時点での就職はまるで念頭にない)。
きっとそこは、ハムスターの寝床のようなアパートの1室だ。7畳もいらない。3点ユニットバスにささやかな備付けキッチン、小型の冷蔵庫と電子レンジ、書き物机にいまよりもミニマムな薄型テレビ、シンプルな食器棚とチェスト。欲を出すのはベッドの質と、本棚のスペースだけで十分だ。衣服も機能性を重要視、洒落気は二の次で構わない。
僕の提示するマスタープランは、見呉だけならこの国のティーンエイジの規範ともいえるだろう。私生活における拘りは1つか2つ程度で、あまり多くの物事を欲しない。それらは概ね、ステータスの向上に熱量を注ぐため。そして、自身のステータスに即した住処に速やかに移っていくためである。
ただし、それは哀しいことに、この国で生まれ育つ者――過去の父も含めて――の大半が伏在的に貧しいことも表象している。強者と勝利者と富裕、弱者と敗北者と貧困は、必ずしも吻合しないのだ。飢えに喘いでも貴族は貴族だし、どれほど着飾ることができても、奴隷は奴隷だから。
諸々を端的に述べれば、そこがはじまりの場所なのである。物語やRPGに倣うなら最初の町、どうのつるぎとたびびとのふく。
しかし、僕の場合は違う。ステータスを高めるためではなく、その概念自体から逃れるために。腰掛けのための身軽さではなく、具体的なプレッシャーからの解放のために。そして、申訳ないのだけれど、けして貧しい訳でもない。
はじまりでもなければ、終わりでもない。メインストーリーに直截関与しない、台詞も持たないNPC。道端の石ころ。安穏とした孤立。
僕が希むのはそういった在り方なのだ。人並みの資産なんていらない。資本主義への順応なんてしたくない。誰からも奪いたくないし、誰からも奪われたくない。誰も保護したくないし、誰からも保護されたくない。独りでひっそりと生きるのだ。眠らない歓楽街を、イヤホンで耳を塞ぎながら通り抜けるみたいに。主人公には、なりたくない。
誰も、『僕の孤独に触れさせはしない』。
しかし、総ては夢物語だ。僕は強者であることと資本主義社会で生きていくことからは遁走できない。たとえ何処に居住しようとも。勿論、外国で放浪生活でもすればそれは可能かもしれない。だが、それはできない。僕は家を出るにしても、両親の前から完全に消え去ることはしたくないのだ。それだけが僕にできる、せめてもの贖罪だからだ。
僕は句読点を打つように溜息を吐く。
それでも僕は、ジョン・レノンのように想像してしまう。僕を蝕む盲目的な癌の如き呪いを誰かが引受けて、塵1つ残さず処分してくれないかと。くたびれたベッドと同じように。そして、余剰も不足もない、まっさらな観念を届けに来て欲しいと。完璧な純心を。生まれたての赤ん坊のような。まるで薄氷のように繊細な魔法の鏡を通り抜けた先にあるみたいに。
そういった民間のデリバリーサービスがあってもいいような気がする。アメリカのシリコンバレーに本社があって(きっとイーロン・マスクあたりがCEOをしている)、専用のアプリページでカタログを見て注文する。すると、数日経って汗臭い配達員が小振りの段ボール箱を届けに来て、僕は愛想笑いを浮かべながらそれを受取る。中には正方形の小さな錠剤ケースと、QRコードが記載された紙切れ1枚(読み込み先のページには効能と訳の分からない成分表、使用後に何があっても責任は一切とらないといったことが英語で書かれてある)に、意味のなさげな緩衝材が入っている。錠剤ケースにはカプセルが1錠だけ入っていて、水と一緒に服用して一眠りすると、まったく違う自分に生まれ変わって晴れやかな気持ちになる。その晴れやかさもそのうち当然になり、何とも思わなくなる。効能は心臓の止まるまで続く。観念は完璧に修整され固定される。ハリウッドの優秀な脚本家と、MITの科学者の複数が監修しているのだ。後悔や反省とも無縁、過去の不完全な自分とは永遠にさようなら、バイバイだ。
なんて貧困な妄想なのだろう。ジョン・レノンに申し訳がない。
閑話休題。




