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ギィ
再び扉の開く音がした。その音に少し遅れて、新たな料理の完成を僕の鼻腔が捉えた。じっくりと煮込まれた野菜の甘い香りだ。それは先着の魚料理と見事に調和して、心地のよい刺激が僕の脳みそを駆巡る。神経系が小躍りしているのが、感触としてよく分かる。計算された美しいコードの連なり、まるで天国の扉を開くギターソロを聴いているみたいだ(ちなみに、僕の場合は「Oasis」の『Don't Look Back in Anger』が思浮かぶ)。
ここまでを立続けに知覚して、僕は自身がうとうとしてしまっていたことを自覚した(夢の中で微睡むというのもまた奇妙な話だ)。いけないいけない、これまた本来のシナリオから意図せず逸れた状況だ。彼はずっと、明瞭に意識を保っていた。首をしゃんとまっすぐにして、彼女がヘアドライをしやすいように気を配っていた。彼と較べた人間的な幼稚さに、僕は幾分の恥ずかしさを覚えた。
しかしながら、それは致命的なミスとならずに済んだようだ。いま尚続けられている彼女のヘアドライの手際に不自然な点はなく、むしろ微睡みのもたらす時間のささやかな跳躍が、髪の毛の乾燥・軽量化をうまく認識させてくれた。
浴室での自己嫌悪の暴走、次いで不意の微睡みがあっても、僕はこの物語に含まれ続けている。僕は自身の夢の強度・持続性に、我ながら感心した。僕は目を瞑って、肩から大きく深呼吸する。目覚めの入口を平易に表現する。ハーモライズされた料理の薫りで肺が満たされ、実際に目が冴えてくる。その様子を、恐らく彼女は微笑ましく見下ろしてくれているだろう。
新たな料理を運んできたワゴンのカラカラとした音もまた、2つきれいに重なって聞こえる。1つはヴィクトリオさんだ。そして、もう1つは。
「サラお嬢様、残りの料理をお持ちいたしましたよ」未だ知らない女性の声だ。大木の根の如き深みと太さのある、声楽的な発声。ウィスパー気味なのに、宛ら空気という抵抗を切り裂くように、こちらまで減衰なしに届いてくる。「うふふ、楽しそうで何よりですわ」
「ええ、おかげさまで。ありがとね、最後任せちゃって」と彼女は言った。
いえいえ、とその女性は答えた。
「はい、きれいに乾かせましたよ」
彼女から完了の合図をもらうと、僕はすっと目を開いた。そして、正面を向いたまま、ありがとうございます、と伝えた。次いで、彼の髪の毛に触れる。右手で慎重に、刺のある植物を扱うように。しかし、実際には絹糸のようにさらさらとしていて、ずっと揉んでいたくなるほどだ。彼女の温風にはマイナスイオンだとか、そういった物質も含まれているのかもしれない。
とはいいつつも、髪の毛の堪能は2秒くらいで切上げた。本来のシナリオ通りに。ただ、そのままになぞった訳じゃない。彼女のせっかくの御業にケチをつけているようにも捉えられかねない、と考えたからだ。僕はそんなことを絶対に望まない。誤解がどうとかは肝腎ではない。そして、恐らくは同じことを、彼も思っていたはずだ。そういった個人的信頼の蓄積が、物語に、彼女に更なる生命を吹込むのだ。説得力をある種の媒介として。
さて、僕の心からの気持ちとして、さらには礼節を欠かないためにも、声楽的女性に挨拶がしたい。僕は椅子に座ったまま、上体だけを振返す。ヴィクトリオさんの――僕から見て――左隣にいる、ワゴンに手を掛けたその女性を見据える(マリオさんは見当たらない。またキッチンに引っ込んでいるのだ)。
背は特別高くない、160cmに満たないくらいだ。恐らくは40代の後半(その女性とマリオさんは、紙面上では年齢の細かな設定がされていなかった)で、ふくよかではあるけれど、それは惰性ではなく何かの目的のために身に纏ったように見える。まさしくオペラ歌手のそれみたいに。4人と同じ褐色の肌、皺はあるけれど深さはない、半円状の眉と丸い目許、セミロングの黒髪、ブラウンを基調とした悪目立ちのない伝統的メイド衣装。これほど家政婦としての在り方に馴染める人を、僕はこれまで見聞きしたことがない。
僕は椅子から立上がって、その女性に向けて正対する。そして、頭を軽く下げる。「はじめまして。僕はアウレウス・アングィスと言います。アルと呼んでください。今日はごちそうになります」
「はじめまして、ソフィア・ローレンスと申します。あなたのことは皆さんからお聞きしていますよ。礼儀正しくて優しくて、ユーモアもある方だと」声楽的女性、もといソフィアさんは、余裕と深みのある微笑みを見せてくれた。「本日は私が腕によりを掛けてお作りいたしましたので、存分に味わってくださいね」
ユーモアもある、それは彼には与えられることのなかった評価だ。やはりその特別の心象は、名づけに対する僕の返答に係っているに違いない。
「ユーモア」。それは概ね、喜ばしく受け取るべき言葉だ。ソフィアさんの声にも、その定義を逸脱する響きはなかった。彼自身の魅力に加えて、僕の心から行動でよい評価が積重なっていくのは、実に気持ちのいいことだ。
ただ、此度に限っていえば、それだけには留まらない。僕は彼女とはまた異なる理由で、ソフィアさんから良い反応をもらえること自体に、特別の満足感を得ている。推量るに、それはソフィアさんに対しても、母を重ねているからだと思う。僕が叩上げられた鋼のように健かであれば、もしくは、塀を超えて外の世界を覗くことのできない小人のように運がよければ、母にもソフィアさんのような微笑みを常とさせてあげることができたはずなのだ。実の息子にある種の怯えを感じなければならないなんて、如何なる理由があろうともおかしいのだ。誤っているのだ。分かってはいるのに、行動に正せない自分自身に、腹が立って仕方がない。
「おや、さっぱりと乾きましたね」
マリオさんがキッチンから戻って来た。ワゴン何もなしに、手ぶらのまま。調理の片しをある程度終わらせてきたのだろう。フェデリコさんの姿は見えない。僕のことで、未だ少し確認していることがあるからだ。ただ、もう直に顔を出す。そして、フェデリコさんの口から、彼に関聯した物語の世界観・バックボーンが語られる。そのことを想像すると、一転わくわくとした気持ちが僕の内に噴出する。しかし、それでも母に対する罪悪感は暫く拭えそうにない。このままではいけない。母に対する気持ちは、とかく彼女にとって敏感に感じ取られてしまうだろう。どれだけ巧妙に隠そうとも、彼女の視線はまるで地中のミミズを引っこ抜こうとする幼児の太短な指のように僕の内へ闖入し、それを暴いてしまうだろう。いまこの時だって、彼女は何かしらを感じ取っているかもしれない。それが何らかの像をとる前に、ただの疑念のみで幕を引かなければならない。そして、そのために何をすればよいのかは、彼が紙面上で示してくれている。僕はその立振舞いに、有難く乗ずることにする。
「やっぱり、配膳を手伝わせてくれませんか?」と僕は言った。「お客様として待つよりも、少しでも準備に加わった方が美味しくいただけるような気がするんです」
僕は久しく家事の手伝いをしていない。そもそも、両親とのコミュニケーション自体がほとんど失われてしまった。思春期とはそういった側面があるものなのかもしれないけれど、少なくとも僕の場合は、自立や成長が見込めるポジティブな事柄ではない。只今の自分がいる場所に必死にしがみついているだけで、前進がない。後退もない。これ以上の親不孝が、はたしてあるのだろうか? しかし、いまの僕はそうしない訳にはいかないのだ。それが優しさだろうが攻撃だろうが、いまの僕は人の体温に触れるのが恐ろしくて仕方がないのだ。その36度と少しの温度でひどい火傷をおってしまうくらいに僕の肉体は、心は弱っているのだ。そんな僕を癒してくれていたのが物語だった。ひやりとして指に吸いつく紙の感触だけが、僕を傷つけないから。
ですが、とやはり彼女は断った。彼女の立場としては、そうやすやすと譲れるものではない。しかし、ソフィアさんがこう切返した。
「いいじゃないですか、美味しくご飯を食べたいからなんて、とても気持ちのいい言葉ですよ。ねぇ」
その、ねぇ、という同調は、マリオさんに対して向けられた。マリオさんはそれを受け取って、こくっと頷く。「よろしいのではないでしょうか。食器を置いて頂くくらいでしたら」
すかさずヴィクトリオさんも応えた。「そうですよ。それに、私たちもしっかり見ていますから」
「――わかりました」彼女は観念するように言った。次いで、控えめな笑みを見せた。あるいは、周囲のお膳立てを期待していたのかもしれない。彼女はそのことを、素直に心の内に表さなかったけれど。「それでは、何を手伝っていただきましょうか」
「では私のお持ちしたナイフとフォークをお願いしたいです」
真っ先にヴィクトリオさんが提案してくれた。
はい、と僕は返事をして、ナイフとフォークの入った木編みの箱をヴィクトリオさんから受け取った。そして、指示に従ってテーブルの所定の位置にそれぞれ置いていく。次いで、サーヴァントらに依って料理が並べられていく。イタリア料理に酷似している、いやイタリア料理そのものといったラインナップだ(あくまでも、日本人の想像しやすいそれだとは思うけれど)。新鮮なサラダ、鯛のアクアパッツァ、豆と野菜のスープ、トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。カプレーゼは幼少時に1度、家族で入った個人経営のレストラン(名前も具体的な場所も覚えていない)で食して、飛上がるほどに美味しかった記憶がある。そして、木編みの籠に入った手に持ちやすいサイズにカットされたバゲット。これも見るからに美味しそうだ。表面はパリッとしていて、切口から見える中身は空気をたっぷり含んで弾力に富んでいることが分かる。口から涎が溢出そうだ。
「このパンは私が選んだんですよ」彼女が僕の後ろから囁いた。「町自慢のベーカリーが焼いたもので、領外でも評判なんです。明日にでも、町を案内してあげますね」
「はい、楽しみにしていますよ」
僕は振返り応える。そこにある彼女の自然な微笑みは、目の前のどの料理よりも美味しそうに見えた。
明日か、あれば嬉しいな。
ガタッ
また、扉の開く音がした。しかし、これまでと異なって、その音はキッチンのそれとは対極の位置から響いてきた。「いやぁ、待たせたね」
フェデリコさんも、ようやっと食堂にやってきた。そして、物語は加速度的に進行する。




