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ツー
はっ、となる。唇に流動体の触れた感触がして、我に返ることができた。
僕は直ちに自身の状態を確認する。だらんと弛緩させていたはずの身体が、いつとはなしに三角座りのかたちになっている。両膝の間に頭部が落込むほどに後背を丸め、岩石みたいにこわばっている。罪悪感という万力にかけられるようにだんだんと胎児の如くポーズをとって、その因果として唇がお湯に触れてしまった訳だ。
唇、……いけない。また自分自身と、そして、彼を見失いそうになる。僕は首を何度も横に振り、続けざまに右手で自身の頬を叩く。右頬をたたっと2回、手首を返して今度は左頬をまたたたっと2回。最後に梟のように大きな深呼吸をする。そこまでして、僕はようやっと落着くことができた。
物語に復帰しなければならない。心が乖離しすぎてしまった。再び専心しなければならない。この物語の主人公に、アウレウス・アングィスに戻らなくてはならない。
僕の数多ある悪癖の1つだ。1つのネガティブな感情が増殖し連鎖して、土石流の如く収拾がつけられなくなる。その土と石と流れ1つ1つ総てに余すことなく冗長且つ痛烈な誹議をくわえて、結局のところ何も動出せずに硬結してしまう。
現実でなら、その害は実に軽微かもしれない、親切な人からは、それを優しいと表現してもらえるのかもしれない。しかし、表現の最中において、それは実際的な暴力よりも害悪なのだ。
僕は湯船から出る。そして、右手で桶を取って、注ぎ口から新しいお湯を溜めて頭から被る。これを3回、呼吸の間を挟みながら繰返す。次いで、持込んだタオルで簡易的に身体の水分を落とし、桶と椅子を元あった状態に戻してから、浴場の扉を開ける。バスタオルとタオルをとり替えて(タオルは木編みの籠に入れる)、浴場内で重点的に身体を拭いた。
僕はバスタオルの材質に感銘を受けずにはいられなかった。入道雲みたいにふかふかで、現実のそれとまるで遜色がない。いや、かえってこちらの方が優れているかもしれない(僕がこれまで使用してきたものなんて、マスプロ的安価な代物でしかない訳だけれど)。タオルも当然として、バスタオルの方が実に明快だった。僕のために高級素材の新品を出してくれたのだろうか。いや、それにふさわしい材料があるにしても、これほどの質感を出すには、現代的な技術や設備が必要な気がする。それも魔法で補えるものなのだろうか? 描写がなかっただけで、魔法と科学を掛合わせた高等技術が存在するのかもしれない。医療をはじめ、この世界にはそういう素敵な掛算が幾つもあるのだ。
肢体の水分の粗方を拭取れると、続いて髪を拭いた。指を立ててシャンプーする時と同様のマッサージを布越しでも行ない、ある程度すると休止した。そして、脱衣所に上がって用意された衣服を身につける(浴場の扉下にはきちんとバスマットが敷かれていて、弾力の強い材質をしている)。これから皆で食事することを考えられた紳士的衣装だ。黒いスラックスにワイシャツと赤いベスト。
衣服の材質も素晴らしい。本当に着心地がいい。編み込みや裁縫の糸も均等で完璧だ。ミシンが存在するとしか思えない。そういえば、ミシンという機械はいつからあるのだろう? いや、タオルの件だって、本来の近世ヨーロッパでこれほどのタオルを制作するのは不可能だ、という差別的な決めつけなのかもしれない。僕は西洋の裁縫史なんて何も知らないのだ。そのくせに、物語の都合がいいように調整されているのだろう、なんて評価はよろしくないはずだ。実際、西洋社会が地動説こそ真実と認識したのが17世紀であるのに対して、他の古代文明は紀元前からそれをコモン・センスとしていたのだ。僕は首を大きく横に振る。こういった決めつけや差別に僕は何度も損なわれて、そして、反論のできない他者に叩きつけてもきたことを、僕はまるで学習していないのではないか。ほんと、自身の愚鈍なまでの矮小さにはうんざりしてしまう。
いけない。また落込みそうになる。踏留まるのだ。もうすぐ僕の出番なのだから。
着替えを終えると、バスタオルでもう1度髪を拭く。ヘアドライヤーはなかった。あくまでも、僕にとって馴染み深い形状のものは。脱衣所の隅――ラックと対称の位置――に姿見があって、その側に美容室でよく見かけるような、頭をすっぽりと覆う葉巻形UFOみたいなスタンドがある。丁寧に椅子まで設置している。これこそが、この世界のヘアドライヤーなのだ。魔力で温風を送出す。この世界は現代日本と同じように毎日髪を洗うことが習慣化――恐らくは湿度とまた異なる要因に依って定着化――していて、伴ってヘアドライヤーの存在も不可欠なのだ。女性の「ハルカ」らしい設定……というのも偏見になるのだろうか。
僕は姿見の前に立ち、また自身を俯瞰する。長い手足と引締まった体型が、衣装と実にマッチている。普段ならしないような、所謂ジョジョ立ちを幾つか試して、深めのため息を着く。寂寥感に苛まれるとは、まさにこのことをいうのだろう。次いで、右手でヘアドライヤーを少し撫でてみる。金属製でシンプルな作り、中を覗くと丸い水晶が見える。そこに魔力が蓄積されていて、スイッチを押すと作動する。しかし、いまは使わない。幾分の水分を残した髪で食堂を訪れる。すると、素敵なイベントが発生するからだ。
精神がようやっと安定したところで、僕は、よし、と心の中で呟く。バスタオルを籠の中にいれて、これまた用意されていた黒の靴下と指輪を装着し、黒の革靴を履いて浴室を後にする。
廊下へ出ると、最初にキョロキョロ辺りを見渡す。廊下には他に誰もいない。いまこの時点で誰かと鉢合わせになることはないようだ。もう一息つける余裕ができた。しかし、あまりもたもたしている訳にもいかない。ここで怖気づいて食堂へ行きあぐねている場面を見られてしまったら、せっかく構築できた信頼が崩壊する事態にもなりかねない。記憶障害という虚偽を働いて盗入った無頼の輩だと思われてしまうかもしれない。確乎とした自信をもって足を運び、食堂の扉を開ける。主人公らしく堂々とするのだ。自身の立場に不安を感じてはいけない。僕は、皆を照らす太陽だ。『Billie Jean』を披露するマイケル・ジャクソンなのだ。
モデルのような足取りで廊下を横切り、食堂の扉に右手を掛ける。丁寧に、華奢なガラス細工を扱うように開く。
「あらアルさん、お湯加減はいかがでしたか?」
彼女は微笑みながら、快活な声を掛けてくれた。
彼女はガラスのコップをテーブルに配り終えたところだった。合わせて6つ、等しくシンプルな円柱形だ。テーブルの上はそのコップと同数のナプキンだけ、他の食器や料理は未だ運ばれていない。
現在、食堂には空のトレイを抱えた彼女1人だけだ。フェデリコさんは書斎に、マリオさんたちは奥の扉の先のキッチンにいるのだろう。僕は胸を撫下ろす。紙面上と寸分の狂いなし、最も安心のできるタイミングで顔を出すことができたようだ(もしかすると、彼自身も浴室で何かしら葛藤することがあったのかもしれない)。
「とても気持ちよかったです」と言って、僕は彼女に歩寄った。お湯、と彼女の口から発せられた時、また湯船の中で思った劣情が頭を過ったけれど、僕は歯を食縛ってそれを押止める。表情に顕れないように留意して。「……こんなにいいお風呂は、ちょっと記憶にないですね」
「――ふふ、そうでしょうね」
彼女は粋に応えてくれた。僕がジョークを言えるまでにメンタルも回復したことに安堵して。
食堂の広さは、客室より幾分広いくらいだ。横幅は客室のそれと凡そ同じながら、縦が長い長方形の造りになっている。しかし、厳密な長方形という訳ではなく、奧が半円状になっていて、そこに大窓が3つに別けて嵌められている。付属するクリーム色のカーテンはそれぞれ両端に纏められていて、そこから入込む陽光はきれいなオレンジに染まっている。夜も直にやって来るだろう。
いや、本来的にいって、いまは真夜中な訳なのだけれど。
床はあんず色の絨毯が敷詰められている。壁と天井は白の漆喰が用いられているけれど、隆起したダークブラウンの梁やその他木材の線が幾つかの図形を描いていている。屋敷の中でも、食堂はパッと印象が変わっている。天井の中心は半球状に切り取られていて、そこからシャンデリアが降りている。そのシャンデリアは特別な構造をしている。金色の一般的なシャンデリアが天井のすれすれにあり、そこからさらに照明が3本の糸で空間の中央に吊るされている。上のシャンデリアで部屋全体を、下の照明で食事を照らす役割を担っている。テーブルは中央に1つ。食堂をそのまま縮尺したような長方形で、卓上を赤いシーツで総体的に、白いシーツでダイヤ形を縁取るように載せてある。テーブルを囲うように椅子も6つ用意されている。飾り暖炉、また複数の彼女の風景画、四隅の1つにサイドテーブル。
ギィ
食堂の全容を具に鑑賞していると、奥の扉の開く音がした。キッチンから木製3段構造のワゴンを携えて、マリオさんが顔を出した。
「アル様。お戻りになっておられましたか」
マリオさんはワゴンをテーブルに寄せる。クロッシュを被せられた料理が1段に2皿、3段合わせて6皿。加熱された魚の香ばしい薫りがする。「もうすぐ準備が整いますので、どうぞお座りになってお待ちください」
「よければ、僕も手伝わせてください」
僕は清い物語の主人公が皆そうするように提案する。
「そんな、とんでもないですよ」彼女がすかさず言った。「元気になったとはいえ、先ほどまで意識のなかった人を働かせるなんてできませんよ。それに、アルさんは大切なお客様でもあるんです。えーっと、そう、どっしりと構えていてください」
彼女は大袈裟に微笑んでから、僕の髪に気づく。「髪の毛が濡れたままですけど、ヘアドライヤーはされなかったのですか?」
「ヘアドライヤー、ですか?」
僕は慎重に言葉を抜出した。
「はい、脱衣所の姿見の横に」そこまで言って、彼女ははっとした表情をする。そして、改めて説明する。「ヘアドライヤーは温風を出して、髪の毛を乾かす魔道具なんです。先に説明しておけばよかったですね」
「魔道具、ですか」
僕はまた言葉を抜き出す。
「これはこれは、私も抜けておりました。申し訳ございません」とマリオさんが言った。
「そうだわ」彼女はにんまりとしたいたずらな笑みを浮かべた。「マリオさん、悪いんだけど、ここからの夕食の準備は任せるわね」
「かしこまりました」
マリオさんは彼女のしたいことを即座に理解したようだ。
「ありがとう」彼女はマリオさんに言った。そして、おもむろに近くの椅子(食堂の扉から見て右側最前)を引いてこちらを見た。「アルさん、どうぞこちらへお座りください」
「は、はい」
僕は彼女の指示に速やかに従った。椅子に浅めに腰掛けると、彼女は真後ろに立った。
「いまから脱衣所に戻って使い方を教えてさしあげようかとも思いましたが、いい機会ですから、もっと私の魔法をお見せしましょう」
彼女はまるで、はじめて知った知識を親にひけらかしたがる幼児のようだ。
彼女は僕の頭頂に両手を翳す。そして、息を細く吸った。すると、彼女の両掌で温かい空気の流れが起こった。
おお、と僕は声を上げる。「これも魔法ですか?」
「ふふ、そうです。魔法で温めた空気をアルさんの髪の毛に送っています。こうしていれば、ものの数分で髪の毛を乾かせます。髪の毛を美しく保つには、丁寧な乾燥は必要不可欠ですから」彼女は得意気に語った。「治療行為にしても温めることと冷やすことは基本中の基本で、それを応用しているんです。だからこんなことも」
彼女は僕の頬を両手で挟込む。この段取りももちろん把握していたけれど、僕はまた不意打ちみたいに烈しく動揺してしまう。役作りを失念しそうになるほどに。そして、彼女は追討ちを掛けるように冷却の魔法を両手に集中させる。彼女の掌は氷のように冷たくなり、僕は、うぉ! と素頓狂な声まで上げてしまった。
彼女は僕の頬を解放して、はっっははっは、と声に出して笑った。その笑声を背景にして、僕は口を濯ぐみたいに顔の筋肉を動かした。彼女のくれる素敵なこわばりを、細かく砕いて血流に送出すみたいに。自身の内に堆積させてきたこわばりの組成を組換える、素晴らしい試みのつもりで。
このシーンをはじめて読んだ時、この種のいたずらもできる人なんだと知れて、フレッシュな感動があったことを覚えている。
いや、いま思うとそれは、大切な記憶のリブート、といった方が近しいかもしれない。
「やられました」そう言ってから、僕は椅子に座ったまま振返った。彼女は両手で目の下までを大きく覆っている。それは、口腔の奥まで僕に覗かれてしまうのが――たとえ故意でなくとも――恥ずかしいからだ。けれど、とり残された目許は細まりなだらかな弧を描いて、むしろ僕はその緩和の強調に立会えたことを幸せだと思った。なるほど、真正面からはこう見えていたのか。「……それにしても、急に温めたり冷やしたりして、手の方は大丈夫なんですか?」
「同時に魔法で肌を守っているから大丈夫なんですよ」彼女は両手を自由にしてから答えた。そして、僕に再び前を向くように促して、ヘアドライを続けてくれる。「ほんとうに面白い力ですよ。でも、できることは基本的にシンプルなんです。温めたり冷やしたり、治したり火を灯したり。だからこそ、アイデアと技量が重要なんです。ちなみにこの温める魔法や冷やす魔法は、自分でパンやお菓子をつくる時にも応用しています。食材や調理法によって手の温度を調整するだけで、味や出来映えが結構変わってくるものなんですよ。そうやって複数の魔法や道具と組み合わせたり、目的に対して最適な魔法量を幾つも試して体系化させて、魔法は発展してきました。その歴史の中で、酷いことに使われたこともたくさんあります。拷問に殺傷、詐欺に洗脳。むしろ、そういった場面の方が多いかもしれません。それらの研究から生活にとって有益となる技術が派生してきたことも多々あります。でも、いつまでもそういった発展を受け入れるわけにはいきません。いつまでも暴力の副産物としての技術に縋ってはいけないのです。これからの魔法はアイデアと、そして、優しさで発展していかないといけないんです。私は、その担い手になりたい」
ふふ、と僕は控えめに笑った。「……とても素晴らしいです」
彼女は声明には、明確で多層的な対決の姿勢があった。自身の能力の利用を広く世界の悪意から隔絶すること、そして、現行的な闘争の爪痕への反抗。
彼女は一貫して悪と不義を憎んでいる(そこに今日、彼の記憶と魔法を封じたものたちへの誹議も含まれた)。そして、それを口にしても憚れない強さと美しさが保証されている。しかし、僕はそれを羨ましいとは思わない。いまの僕にも、その同等以上の資格が与えられているからだ。彼女に対する消極的賛同だけでなく、彼女の横に立って――むしろ幾らか先行した状態で――共に突進むことができる。僕たちは、壁を蹴破る巨人なのだ。
村上春樹が語った「壁と卵」の話、そこに手を加える無礼をどうか許して頂きたい。
巨人は壁に向かって放たれた卵が衝突して割れてしまう前に、まるでカンフーの達人のような連撃を壁に浴びせ総てを柔らかい塵に変える。卵はその塵の上に、無傷で着地することができる。僕はそういった存在こそを、物語に求めていた。現実のどこにもいないから。
いや、かつては存在した。ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンこそがそうだった。しかし、彼らは魔術的な音楽を手にしていたけれど、本物の魔法は持合わせていなかった。彼らだけでは不可能だった。現実の彼らが実際的に壁を破壊するためには、世界中の皆の助力が必要だった。しかし、世界は彼らの魔術的メロディーを消費すれど、その魔術性を成すに至ったメッセージを真に理解しようとはしなかった。結局のところ、世界は彼らを面白がって消費し、都合が悪くなると叩きのめし、そして、殺した。資本主義的に。睡眠薬や銃ではない。我々が自分たちの手で2人を殺したのだ。そして、我々の居場所は、弥が上にもカオスな状況となった。
少なくとも、僕は2人の同志に、なれるものならなりたかった。2人を守る銀の鱗の一部に。しかし、ジョンは僕が生まれる数十年も前に、マイケルは物心もつく前にいなくなってしまっていた。
僕の求める巨人、主人公の資格。それは僕の小さな頭の中で、且つ「ハルカ」から刹那的に借受けたものでしかない訳だけれど、僕はこの機会を最大限に生かしたい。そして、ここで得たものを現実に持帰る。これまでもそうしてきたように。これからも息をするために、食べるために、眠るために。贖罪のために。




