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自身の生活圏、あるいは、その少し外側において、強大で陰謀的な暴力が個人に対して振下ろされた。彼女は彼の僅かな証言から、その危惧すべき事実を推量った。そして、謂わばそれは、この物語の総体を貫いて設定された、対立構造の暗示の役割も果たしていた。
記憶喪失――いわゆる逆行性健忘症――は概ね、頭部への衝撃や損傷、もしくは、心的外傷に対する防御反応に起因することは彼女も承知している。それらの所為で発症以前の記憶の一部、ないし、その総てにアクセスができなくなるのだ。
再説になるが、その知識は文献や口述から得たものであり、実際に目の当たりにしたのは此度がはじめてだった。しかし、彼の状態――自身に関する記憶と魔法の概念そのものの喪失――が実に特異で、作為的であることは疑いようがなかった。
第一に、衝撃や損傷の類いでないことは間違いない。もしそれらであったならば、総身にあてた治癒魔法で回復しているはずだからだ。また、心的外傷としても腑に落ちない。自身の記憶だけならまだしも、魔法の概念そのものが悉く封じらることなど、はたしてあるのだろうか。
そして、彼女は思至る。彼はとある魔法に依って、記憶と魔法の概念を奪われたのだ。底無しの悪意に依って、まるで生きた歯を無理矢理に引っこ抜くみたいに。フィクションにおける劇的なファクターとして、幾度と見聞きしたことがある。それがいま、目の前の現実として起こっているのだ。
いや、衝撃や損傷や心的外傷の可能性も全くの0ではない。自身の治療が完璧ではなかったのかもしれない。しかし、どちらにせよ、その簒奪は戦闘に依ってもたらされた因果であるに違いない。いまにして思えば、あの衣服の損壊程度は尋常の海難事故のものとは見えなかった(救出の際にびりびりに破いてしまったから、後からそれを検証するのも難しいと思う。それに、サーヴァントたちに依って既に処分されてしまったかもしれない)。ただ、記憶を奪う魔法が実在するなんて、巷ではまるで聞いたことがない。これまで読んできた文献にも、存在を示唆する記述はなかった。たとえあるにしても、メカニズムとしては甚だ高度な部類に入るはずだ。きっと私程度では到底使いこなせない。闇や裏といった反社会的領域の実力者にだけ知られた魔法なのか、それとも公権力に依り秘匿とされた……。
ここまでの推論を咄嗟に構築できる彼女の聡明さに、僕は改めて尊敬の念を抱く。愛おしく思う。物語なんだから当たり前だろう、なんて野暮なことだけはどうか言わないで欲しい。
彼女自身に戦闘や戦争の記憶はない。彼女の父親が従軍した十数年前の戦争は国外を戦場(同盟国の応援)としていたし、自国土が過去戦場になったのは30年以上も前のことだった(彼女の父親が僕たちよりも幼かった頃だ)。書籍や父親の話を介してしか、争いを知らないのだ。
彼女は畏れずにはいられない。これまで頭の中の形象でしかなかった戦闘の一端が、突如として目の前にやって来たのだ。リアルに小突かれた想像力は指数関数的に増大し、彼女の心を重い気体のように圧迫する。僕と同じだ。この不可思議でリアルな夢が、彼女の死の生々しさを捉えさせたのと同じように。
いや、その同一性も彼女への好意に想望、同じように在りたいという願望の反映なのかもしれない。本来の僕に自身を覆う殻の外へ放出し、ある種の像を与えられるような類いの想像力を未だ保持できているのだろうか。
いや、そんなものは疾うに捨て去ってしまった。あらゆる現実が、僕にそれを保持し続けることを許してくれなかった。それを頑なに手離さなかったら、いま頃僕は特別な医療機関に入院して、ハードな薬物的治療を受けることになっていただろう。結果として僕は、ホームレスの前を横切っても何も心を動かせない人間になってしまった。自身を守ることで精一杯だという言い訳を、『鱗のように身に纏って』。
いまの僕は、謂わばその鱗を剥がされた状態だ。けして乱暴にではなく、優しく花を摘むように。それを行ってくれたのは、いうまでもなく彼女だ。彼女の勇気と魔法のお陰だ。海の中で死にかけていた僕を助け、蘇生し損壊した衣服を剥いで、身体を温めてこの屋敷へと運んでくれた彼女。どのような者にも別隔てない、『聖母』のような優しさを与えてくれる彼女だ。
その彼女は、自身の畏れを撥除けてこう言ってくれる(それは自身に言聞かせるための意味合いも、多分に含まれていたと思う)。
「責めたてるようなことを言って申し訳ありません。自分自身の記憶も曖昧なのに、余計に不安にさせるようなことをして。どうか許してください。私もとても驚いているんです。魔法が分からないと言われる方に会ったことなんてこれまでなかったですし、この世界は隙間なく魔法に満ち溢れているものなんだと確信していました。でも、それは驕りだったのかもしれません。世界は果てなんてないように思えるほど広大で、あなたはその中でも魔法が知られていない、我々にとって未開の地からここにやってきたのです。いやもっと、きっとこことは違う、魔法の存在しない別の世界から迷い込んできたのかもしれない。そのせいで一時的に記憶が混乱しているだけなんです。きっとそうです。そんな素晴らしい奇跡によって私たちはこうやって出会うことができた。そうです、これはとても素晴らしいことなんです」
あなたは魔法のない別の世界からやってきた。邂逅のはじめにこの台詞を持ってくるのは、よい意味でいやらしいなと個人的に思う。それは、読者を物語へ没入させるための1つのキーワードになっている。
彼女がSF映画の印象的な台詞のように素晴らしいことだと繰返すなかで、僕はこう言葉を返す。「ありがとうございます。本当にサラさんの言う通りなら、どれほどよいのでしょうね」
そんな素敵な現象に依らないことだけは分かっている、といった風に。
でも、僕の心は違う。主人公としてではなく、あくまでも僕としては、彼女の言葉通りの素晴らしいことがいままさに起こっているのだ。怪異だ、なんてとんでもない。僕のことを散々に叩伏せてきた現実から、魔法と優しさの溢れる世界に足を踏入れることができた。それは結局のところ、総て僕の頭の中で為されていることなのだろうけれど(それも先ほどの彼女の台詞が、ある種のキーとして作用しているのかもしれない)、これほど世界観に広がりがあるのは、間違いなく彼女と「ハルカ」のおかげだ。
僕は口角が跳上がりそうになるのを必死に統御する。ここでポジティブな笑みを浮かべるのは気味が悪過ぎる。彼女を弥が上にも不安にさせ、よりカオスなところへ導いてしまう。僕はそれを歪にしてとり繕う。彼女はこの時の彼の表情を、何も読み取れないような透明な笑みだと表現していた(「ハルカ」の文章の中で、数少ない詩的な表現だった)。それを見て不安や安堵ではなくどこかミステリアスな気分になって、不思議と心が軽くなった(恐らくは、彼女がはじめて彼に心惹かれた瞬間なのだと思う)。それを踏襲するのだ。心を静めて頭の中を空っぽにし、顔から感情を消し去る。唇を結び、目を柔らかくする。ただそれだけ。それ以外の情報は与えない。想像力を刺激して、余計な感情を彼女の頭の中から追出すのだ。
僕は慣れない駆引きをしていることを自覚している。はじめての体験だ。彼女の心を弄んでいるような気にさえなる。このやりとりに対して明確な答が欲しいのだけれど、僕の透明な微笑みを観る彼女の顔もどこか透明だった。まるで共に違う次元へ移動しようとしてるみたいだ。僕は次の展開を待ちながら、息を切らさないように専心する。




