表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/40

ホワットエバー 1

 

 鏡には人の顔が映っている。当然のこととして、鏡の正面に構えたら、そこには自身の虚像が現れる。しかし、その造形はどこを取って見ても、僕の容貌とは似ても似つかなかった。敢えて述べておくけれど、それは内的な疲弊や損耗に依って自己認識に障害が生じている、といったことではない。文字通り、面立(おもだち)が僕本来のそれとまるっきり異なっているのだ。同じ構成要素は1つとしてない。凡庸で面白味に欠ける、特別に美しくも醜くもない僕の見目とはまさに対極。大衆の心を捕らえ、アファーマティブに自身を物語ることを認められた個性。目の前のそれは、美しさに依ってその資格を獲得している。


 それはこの物語の主人公、レオン・ルブルムの顔だ。僕はいま、彼自身になっている。軌跡をなぞるどころではない。そう、いま僕こそが物語なのだ。


 太くしっかりとした鼻根を誇る高い鼻。大きな垂目で、きれいなラピスラズリの瞳。眉骨が発達していることで目は奥まっており、瞳に洞穴の深部に収められた宝物のような印象を与えている。細く長い眉はユニセックス的できれいなアーチを描き、唇は20世紀のハリウッド女優のようにセクシーだ。「Backstreet Boys」のニック・カーターの若かりし頃によく似ている。きっと彼がモデルなのだろう。もしかすると、「ハルカ」は()()()()の、ニックのファンなのかもしれない(それは普遍的な魅力は世代を容易く超えることの証明とも読み取れる)。

 現実の人の顔は、どれほど整っているように見えても左右非対称で、どこかしらに歪みが抱えているものだ(ニックでさえ、その例外とは成得ない)。しかし、2()()の顔は見蕩れるくらいに対称で、尚且つ純粋だ。その神話の如き美しさは、自身が夢裡に沈入っていることの確信を補強してくれている。


「あの……何かお分かりになりましたか?」

 彼女は僕のすぐ左隣に立って尋ねる。

 ん……、と僕は言葉を濁す。


 さて、ひとまずの材料は揃った。僕はこれから、大切な選択をしなければならない。誰でもない僕自身として彼女と交流を図るのか、あるいは、このまま彼を、主人公を()()通すのか。そのどちらかを、速やかに決断しなければならないのだ。これ以上の「とりあえず」は許されない。いわゆる()()()だ。

 前者を取る場合、これ已後の台詞も表情も行動も、総て自身の思通りにやる。何も飾らないし、偽らない。ありのままの僕の()を、彼女に余すことなく知ってもらうのだ。それはとても素敵な試みに聞こえる。実にポップス的だ。無力の三人称だったはずの僕が、直截的にヒロインと、物語と関聯できる。シナリオは総て頭の中に入っているのだから、何かしら破綻を来してしまうこともないはずだ。「記憶がひどく曖昧だったんだけど、自分の顔を見たら色々と思出すことができたんだ」。こんな具合に説明すれば、彼女はそのまま信じてくれるだろう。疑う理由も、その根拠だってないのだから。いや、もういっそ、別の世界から()()()()()()()()()()()()()()()、と正直に打明けてしまってもいい。君を近く待受ける破滅的な死から救いだすためにやってきたんだ、と。魔王の討伐なんて知ったことか、せめて僕たちだけでも災厄から免れて生き延びるんだ、と。彼女がそれに賛同してくれるとは到底思えないけれど、たとえ力尽くにでも。この充溢した膂力を持ってして、……。


 ただ、結局のところ、総ては僕の頭の中に閉込められた()()()()でしかない。しかし、その試みは僕の心を、根本的にではないにしても癒してくれるはずだ。総ての物語と同じように。そもそもだ、僕は夢裡に墜落する直前に、そういった修正と補完を望んでいた。ここではそれを主体的に、部分的にではなく総体的に行うことが可能なのだ。まさに夢のような話ではないか。



 またいろいろと前置きしたけれど、僕は後者を取ることを既に決心している。ベッドから(ピアノ)の道程にて、それは揺るぎのない心念になっていた。それは食欲や睡眠欲、――性欲にも迫るような、逆らうことの難い根源的欲求に近しいものだ。僕はその欲求を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。その()()()()()()欲求を呼覚ましたのは、彼女の説明不要な無類の優しさと、「ハルカ」の真摯な創作的姿勢と魔術に依るものだ。先ほども述べたように、主人公の描写が他のキャラクターを通した外的情報しかないという構成が、僕の想像力をじっくりと擽るように刺激した。不親切と感じることもままあるけれど、それは発掘した古代生物の化石から当時の姿形や体色を想像するのと同じように、人の心を捉えて離さない圧倒的な魅力なのだ。僕は無力の三人称であると同時に、常に彼の言動・行動・感情を我事のように考察してきた。そして、本を閉じて目も瞑り、自身の思考の中で彼になった自分自身を常に思描いてきたのだ。この夢は、その蓄積の反映でもあるのかもしれない。


 僕は僕のままでもいてもいいし、僕は何にだってなることができるのだ。夢裡や物語の世界では尚更に。だったら、僕は彼になってみたい。大きな物語の中心にいて、他者の小さな物語に光を当てる太陽になってみたい。


 大丈夫、何も憂慮することはない。それを咎める人間なんてこの場にはいないし、結局のところ、彼女と彼の破滅までこの物語が進行するはずもない。文庫本5巻分の稠密で純粋な夢など、あるはずがないのだ。パイロットフィルムのようなものと思えばいい。

 たとえもし、そのような場所が存在するのなら、僕はいつまでもそこにいたい。その暁には、あの悲劇的な総括だけは死んだとしても回避してやる。いや、たとえそれが納得のできるものだったとしても、彼女と実際的に触れてしまったいまの僕には、彼女の死そのものを許容できない。彼女は()()()()()()()()()()()()。それで僕が死ねるなら本望だ。それに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 さぁ、気持ちを創り上げるのだ。子細に隙間なく、誰にも文句を言わせないくらいに。何故僕は鏡を見る必要があるのか? その理由は何に依ってもたらされたのか? 鏡を見た結果僕は何を得て何を失い、その影響はストーリーにどのような役割を果たすのか? そのことを彼女にどのように伝え、彼女の表現の助けとするのか? 悠長な時間は与えられていない。たった玉響のこと。しかし、それだけあれば十二分だ。僕はことこの部分に関しては、うんざりするほどにシミュレートしてきたのだから。



 僕は彼女に振返り答える。「分かりましたよ。――やはり何も分からないということが」

「何も分からない……と言いますと?」

 彼女は僕の台詞を慎重に抜出した。

「何故僕が海に流されていたのか? 何故ぼろぼろの状態だったのか? そうなるほどの恐ろしい目とは一体何だったのか? そして、そんな体験をした僕自身の顔も身体も名前も、想い出も、何もかもが分からない。真っ白なんです、頭の中が。消しゴムをかけられたみたいに」

「――記憶、喪失……ですか」と彼女は囁く。

 彼女は主人公の挙動から、最悪のケースとしてそれを想定してはいた。しかし、此度はじめて症状を目の当たりにして、戸惑いは隠しきれない。文献は体験に勝てないことを実感する。百聞は一見に如かず、()()()()()()()()()


「そうみたいですね。厳密には、さっきまで大きな水の中にいたという感触は思いのほか残っているんです。ただ、それ以外のことがさっぱりなんです。……外傷に依るものか内因に依るものか、どちらにせよ、忘れられてよかった目に合ったのは確実なんだとは思います」と僕は言った。「すみません。怖がらせるようなことを言ってしまって」

 僕は能う限り誠実に答えようとしてついつい余計なことまで口にしてしまった、という具合の表情を浮かべ肩をすくめる。優しい王子様のような微笑みを忘れずに。ついその不慣れさに粟立ってしまいそうになるのを、力むことで堪えながら。


 ここで僕は気がつく。声は僕のままなのだ。細く高い声、僕のコンプレックスの1つ。しかし、その声がキラキラとした美少年の口から発せられると、宛らジャンプ漫画の主人公みたいな好印象を持てる。それほどまでに、ルックスが優れていることのアドバンテージは絶大なのだ。ちなみに、僕はもう少し低い声を想像していた。

「いえ、そんな、気になさらないでください。もとはといえば、私が無理に聞いたことですので」彼女はすかさずのフォローをしてくれる。「きっと一時的な記憶の混乱だと思います。すぐに思い出せますよ。気を落とさないでください」

「――ありがとうございます」

 彼女の微笑みは、()()()()()僕に勇気と活力を与えてくれる。


「……外傷」僕は思いついたように呟く。「ひどい怪我をしていたとあなたは言いましたが、僕の身体はこの通りピンピンしています。切傷擦傷1つもない、とても海で溺れていたような状態に思えない。感触は残っているのに」

 僕が自身の現状に懐疑を示すと、彼女はまたも素敵な微笑みを浮かべてくれた。「あなたではなく、サラとお呼びください。ふふっ。申し遅れました、私はサラ・ベニーニと申します」

「――サラさん、ですね」と僕は言った。その音響をいつまでも忘れないように、噛締めるように。「それで、僕の怪我というのは?」

「私が治したんですよ。治癒の魔法を使いまして」

 彼女は自身の胸許に右手を当てて、得意気な表情を浮かべる。これは彼女が、自身を希少な治癒魔法の使い手だと、彼に直截知らせる大切な場面なのだ。


 しかし、彼は彼女に対して、こう言葉を返すのだ。

「『まほう』? ……『まほう』ってなんですか?」


「ま、魔法が分からないんですか?」

 まるで信じられないといった驚愕の情動が、声だけでなくその顔からもひしひしと伝わってくる。顔の総てのパーツが、ワンサイズ肥大化している。雲1つない空から大量の魚が降ってくる様子を目の当たりにしたような、それほどの衝撃を僕の発言から受け取ったようだ。それもそのはずだ。この世界で魔法を知らないということは、現代日本でずっと育ってきて1度も白米を食したことがないと言っているに等しいのだ(勿論、その可能性も全くの0ではないと思うけれど)。どの国どの地域でも、習熟度に差こそあれ超生活レベルで浸透している。生まれ落ちて1()7()()と経つ人間が、見たことも聞いたこともないなどまず有得ない。ピアノや鏡や紅茶などの生活的事物はしっかりと認識できているのだから尚更だ。


「意味も知らないですし、その語句自体も聞いたことがありません。それは何か、この地域特有の言葉なのでしょうか?」

「違います。なんと説明したらいいのか……えぇと、科学とか物理とか、それらの言葉と意味は分かりますかね?」

「勿論、分かります。なんとなくですけど」

 分からないと答えた方が、むしろ彼女にとってはよかったのだろうけれど。

「それらでは現状説明ができないけれど、存在して体系化できている不思議な力の総称を魔法というんです。こんな感じに」彼女は右手で指をパチンと鳴らす。すると、ピンと張った人差し指の先に火が点った。「何か、こういった力に心当たりはないですか?」

 僕は狐に抓まれたような表情を浮かべる。「本物ですか、これ」

 あっっつぅん。僕は不意に吸込まれるみたいに、その火に自身の右手人差し指を接触させ(鏡は左手に持替えている。装飾が少ないため思いのほか軽量だ)、即座に情けない声を上げてしまう。一応覚悟はして触れたのだけれど、染入るほどに熱い。本当に夢なのかと疑いたくもなるけれど、()()()()()()()()()()()


「だ、大丈夫ですか?」

 そう言って、彼女は僕の右手を両手で包込んでくれる。()()()は分かっているのに、実際にされると心音が喉許まで跳上がってきてしまう。喉仏が心臓と置換わってしまったみたいに。

「だ、大丈夫ですよ、このくらい」

 彼はもっと冷静に言っているような気もするけれど、僕はどうしようもなく声が裏返りそうになる。

「ごめんなさい。まさか触れようとするとは思わなくて」

 彼女の言う通りだと、僕も思う。いくら信じられない気持ちになっても、火に直に触れようとするなんてとても幼い行為だ。しかし、記憶を喪っている状態だと、実際そのような危険な行為をしてしまうものなのかもしれない。彼女自身も、僕を責めてる訳ではない。自身の至らなさの所為だと思っている。


「火傷していますね」と彼女は言った。「すぐに治します。――これが治癒魔法です。よく見ていてください」

 彼女は口から少量の息を吸込んで止めた。すると、彼女の身体がライトグリーンの光に包まれて、それが僕の右手にも延びて手首までをすっぽりと覆ってしまった。組織の時間が巻戻っていくような不可思議な感覚がある。擽ったいような何というか、少なくとも痛みはない。単に再生だけでなく、鎮痛作用もあるのだろう。20秒くらいすると光は消えて、彼女は僕の右手を解放した。僕は当の右手人差し指を動かしてみる。ピンと伸ばしたり鉤状にしたり、親指の腹と擦合わせてみたり。痛みとか引攣りとか、まるでない。若く健康的な指に戻っている。


「いかがでしょうか?」と彼女は言った。「これで完全に回復したはずです」

「ええ、痛くありません。触覚にも異常はないみたいです。……ありがとうございます」

「こちらこそ……申し訳ございません。それで、あの、何か思い出せませんか? 魔法について」

 僕は首を横に振る。「ダメみたいです。スプーンやフォーク、ベッドや絵画や青空、そういった日常の物や言葉はしっかりと覚えているんですが、どうしても魔法は思出せません」

 魔法だって、この世界にとっては日常の事象であるのだけれど。

「その指輪」と彼女が言った。「もちろんですけど、あなたがずっと身につけていたものです。それも、何か思い当たる節はありませんか」

「――ダメですね。何も思出せません」

「……」

 彼女は言葉を見失う。

 彼女は自身が想定していた以上の事態であることを強く認識した。これはただの事故ではない、明確な悪意によってもたらされた事件なのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ