バスケットケース
ちきしょう、と僕は口にしてしまう。自室のベッドに腰掛けた状態で。
心の中でなら幾度と呟いてきたけれど、実際に音声にしたのは久方ぶりだった。ただただ只管に無様で、弥が上にも憐れな気持ちになった。
間髪をいれず、僕は歯軋りをしてしまう。悔言の残響を打消そうとするみたいに。
ぎぎぎ、と不愉快な音が口腔に響く。ゴムとEPSが擦合わさる時のような、舌根が竦上がるノイズ。実存が磨減っていく実感。すると、自身の手許からも、ぐぐぐ、と似た音が聞こえてくる。それは幾百と束ねた紙を指で圧する際に生じる音だ。僕は両手である書籍を握緊めている。400頁弱の文庫本で、ファンタジーシリーズ小説の最終巻。そして、此度の奔騰の素因でもある。
まるで首を絞めているみたいだ、僕は自身を俯瞰して思った。そして、当の文庫本のサイズ感は、まさに少女の細首のようだった。圧倒的で、超越的で、理不尽な、『暴力』。僕の奔騰、失望の素因と、まったく等質の行いを、いままさに自身で再現している。
僕は総身のひどいこわばりから、ひとまず右手だけを解放した。そして、残る左手で文庫本を振上げて、思いきり床に叩きつける。
タ°ァン
しかし、その力みのわりに、衝突音はいやに軽かった。まるで空気の抜けたバスケットボールのような音だ。床にはラグマットが敷かれていて、それが衝撃の大半を吸収してくれたようだ。床も文庫本も、致命的に損なわれることはなかった。
文庫本は結局、横に滑るように微かに跳ねてから静止した。裏表紙を上にして。
致命は免れた、悪運の強いアクション映画のキャラクターのように。しかし、本来の衝撃の熾烈さを、文庫本は敢えてその身に表現している。重要な伏線を配置するみたいに。
それは目に見えて傷がついたとか、塑性が発現するまでに変形したとか、そういう訳ではない(それはもはや、表現とはいえない)。表紙カバーが下に5センチメートルほどずれてしまった、ただそれだけである。書籍本体に異状は認められない。押し込めばすぐもとに戻る程度。とり返しがつく。しかし、それは僕の暴力を不問に付してくれている訳でもない。むしろ、その対極の意を表明している。
僕は文庫本から、抗議の視線を注がれている。まるで発熱する剣を眼前に突きつけられているみたいだ。鋒がゆらゆらと揺らめいていて、熱気に依る大気の歪みと合わさり催眠的な雰囲気を醸している。しかし、練上げられた剣身は凍てつくほどの光を反映させてそれを阻害する。僕の心はその鬩合いにひどく翻弄されている。軟化と硬化の忙しない繰返し、消耗感が無音の雪のように堆積していく。
その形象は僕の網膜に直截貼付けられたみたいに、僕と文庫本の空間に固定されている。そのうえ、室内を漂動する微小な塵までも、僕への誹議を開始したように思える(彼らもまた、僕の暴力に依って空に巻上げられた被害者なのだ)。まるで政権与党の二世議員にでもなった気分だ。強固な地盤と血統だけに胡座をかいた、不能の体現。
目を瞑れば、きっとそれらは見えなくなるのだろう。容易いことだ、闇の中に逃込めばいい。限りなく黒に近い灰色の中に。光を遮るのだ、夜行性の憐憫な小動物がそうするように。しかし、それでも熱だけはのべつまくなしに、僕の心へ峻烈に訴え掛けてくるに違いない。まるで宿主を操るタイプの寄生生物みたいに、脳みその皺までを掻分けて煮沸する。非暴力不服従を貫いた、ガンディーやキング牧師のように。強者と相対する弱者。
弱者は勇気と自立を勝取るために行進し、強者は信仰と狂騒を用いて徹底的にこれを弾圧する。弱者は実に健全な慾望として強者にフェアネスを求める。しかし、強者はそれを棄却する。学生の問掛をあしらう不心得な教師のように。自身の安寧は弱者を踏躙り続けることで成立していることを、いみじくも理解しているからだ。その仮初の安寧を維持するために、強者はあらゆる価値観を歪曲させる。畏怖に依って暴力を正当化し、無知を装って差別を透明化する。聯帯に依って罪を分割し、恫喝を持ち寄って恥を希釈する。そして、様々な美しい可能性が、しゃぼん玉よりも虚しく宙へと失せていく。それは旧約聖書の時代から聯綿と紡がれてきた人類の記憶であり、進化のある時点で成可くして恒常と化した過剰免疫反応でもある(そう、結局のところその寄生されるような感覚は、こちらの勝手なバイアスなのだ)。
またの名を、『システム』という。
当然ながら、僕もそこに含まれている。概ね強者の側として。僕はそのシステムの極々小さな一部として、この世界に包含されている。60兆に1つの細胞、あるいは、2万5千に1つのDNAのように。
勿論、強者に帰属することは僕の自由意志が希んだ因果ではない。子が親を選べないように、誰もその帰属先を選択することはできない。そして、変更も利かない。それが構造というものだ。どれほどの叡知も、個人と構造を引離すことは能わない。個人がどれほどの内省を重ねても、拳を握らない決意をしても、それは露聊も崩れない。1つの意識の消失、ないし、共同体の崩壊を待たない限り、延々と固定されている。まさに生命の機能と同じだ。心臓がなければ肺は呼吸をできないし、肺がなければ心臓は鼓動を刻めない。神に定められし領分は絶対不可侵である。たとえ脳みそが殺人を命令し手足がそれを実行しても、肝臓は知ることも止めることもできない。しかし、脳みそも手足も肝臓も、心臓も肺も、皆同じ『罪悪』を背負わなければならない。
僕はその世界の在り方の映し鏡なのだ。その観念は僕の心の中を常に去来している。そして、実に様々なところから、その観念的影法師を認めることができる。
どす黒い飛蚊の如く、混迷を極めた視界。病的なまでの欠落、その拡大の、生涯を賭した付合い。
たまらず僕は、衣服の上から太股をつねあげる。――痛い。
文庫本の情態に話を戻す。
そのずれた部位から淡い黄赤色、所謂あんず色が垣間見えている。書籍の地肌というべきものが、幾分剥出しになっている。いや、皮下組織といった方が近しいかもしれない。まだら模様のデザインも実にそれらしい。
顫動する視界の央で、文庫本のその諸々の様相は古寂びた消しゴムのように映る。現役の消しゴムというには甚だ質感が硬く、老齢の額のように乾燥している。まだらのデザインもある種の宿命的な染みみたいだ。そこにあんずという色彩が重なると、まるで時代や老朽の概念を素敵に表しているようにも見える。セピア色よりも鮮明な、古代に著された幸福の物語のように。僕の手とほぼ等しい大きさも、その回顧の芳香を構成する1要素だ。
直観から詳密に言葉を抜き出していくと、古寂びた、というよりは、伝承的、と表現する方が適切に思えてきた。
最たるはその規格、大きさだ。
まず前提として、古代は現代と比較して、観念や概念の類いが総体的に壮大だった。たかだか数十キロメートルの移動が終日を費やす旅であり、即座の理解に難儀する事象事物は神業や魔術の為すところと解釈される。空想も含めたあらゆる数字の桁が、大方は両手で数えられる程度に収まってしまう。学問の峻別も遥かに容易く、シャーロック・ホームズの如く明快だ。バターケーキをホールでまるごと食するみたいに、直截的で稠密な時代だったのだ。「1」の価値がまるっきり異なるのだ、アメンボにとって波紋は津波であり啓示であるのと同じように。
しかし、そのような時代においても、掌から溢れるサイズの消しゴムが、はたして人事に適しているといえるのだろうか(そもそも消しゴムが歴史上に現れたのは、18世紀に入ってからのことなのだけれど)。加減を僅かでも誤ると紙をびりびりに破損させてしまうだろうし、管理保管にだって苦労する。消したくないものまで消してしまうだろうし、毎度必要分を切取って使うのも面倒だ。
きっと使用者は神話の登場人物のような、まさにヘラクレスみたいな半神半人の英雄に違いない。筋骨隆々で天空をも支えたとされる彼にこそ、その消しゴムは相応しい。観念や概念どころではない。消しゴムに、文字も紙も、彼の扱う事象事物の総て、それ自体が壮大なのだから。裏表紙に印字されたコードやあらすじの文章が、そのメタファーを抒情詩の如く物語っている。
消しゴム、と僕はその文庫本を喩えている。イメージを十重二十重して。しかし、僕はこれから、ジョセフ・ヘラーの『キャッチ=22』みたいなことを述べる。
その消しゴムは消しゴムとして肝腎の、線を消すこと自体が能わない。
どれだけ擦りつけても滓すらでない。体積も変化無し。いけすかない対象は精強のままだ。しかし、だったらそれはただのゴムじゃないか、と率直に述べることもまたできない。安直な言葉遊びで片しきれる事柄ではないからだ。
それは時代や神話よりも深淵にある、それこそ素因といえる概念のためだ。
結局のところ、それは消しゴムという『象』をとっているだけなのだ。つまりは虚飾そのものなのである。それらしいことのそれらしい羅列。はったり。具体性は、そこでは何の意義も持たない。好意的な表現をすればシュルレアリスティックなオブジェ。より悪しくいえば塵芥、機能の破滅、収奪された想像力、永遠に果たされないままの責任。
謗りに限定するなら、後8つくらいは容易く、尚且つ嫌味たらしく言い換えられそうだ。だが、これ以上はやめておく。昂りが再び臨界に達して、今度は叩きつけるだけではすまないかもしれない。近くにライターやマッチを置いていないことが、なけなしの幸運だった。
チッ、と僕は舌を鳴らした。何かしらの区切りが欲しくなって。そして、文庫本から目線を切って、腰掛けていたベッドに仰向けにして寝転んだ。後頭で手を組み枕へ押し当て、マットレスともども身体の型でもつけるようにもぞもぞと馴染ませる。ベッドの下部に畳んでおいた掛け布団が邪魔に感じたので、足で押退け床に落とした。普段は心地のよいマットレスのささやかな反発が、いまはひどく煩わしいものに思えてしまう。
身体のポジションが定まると、僕は白く無機質な天井を睨みつける。僕の心の震えが伝わったのか、天井の一部が波打っているように見える。
そこは小さく密やかな砂浜だ。引波があり、寄波がある。月からのギフトのようなさら砂に、メレンゲのような細かな泡まで見て取れる。レースカーテンに透かしたように茫漠とした陽光が、それらを丁重に照らし温めている。地形に起伏がないから影が見当たらない。正午でもなければ夕暮でもない、恐らくはその中間の時間帯。関数グラフの交点。実際に潮の音まで聞こえてきそうだ。それはテレビのような限定的に調整された指向性ではなく、実に拡散性に富んだ自然の生きた音として感じられる。
――いや、ただ僕の目蓋が震えているだけなのだろう。
扁平で瞑想的だった波は、次第に激しく高くけたたましくなる。そして、世界の悉くを終末的に呑込んでいく。現実を象る無数の描線が、炎天下に拋棄されたレインボーアイスみたいに溶合っていく。まるで水深十数メートルのあたりから水面を仰ぎ見ているような情景、抽象された純粋現実。
その波に、僕もいつとはなしに拐われてしまったみたいだ。
そして、純粋現実は透明で不定形の魚の象をとって、僕の存在を、魂を惑わせている。常に一定以上の、互いに直截は脅かせない距離を保ちながら、その象と色合いを倏忽に変化させている。舞うように、かつのたうつように。分裂して統合し、消失したかと思えば現出する。
やがて、僕を象づくる描線も次第に解かれる。僕自身のささやかな生命活動が、地球の裏側の何処か遠い国で起こっている他人事に思えてくる。内臓と血管のシステマティックな収縮、血液の循環がもたらす内的な若干のこそばゆさ、体温から読取れる種々のケミストリーのしるし、それらを包括する骨と筋肉と皮膚。その諸々がまるでニュースキャスターの読上げる原稿のように、断片的で客体的な事実としか認識できない。
併せて、無限と有限、拡大と縮小、広汎と限定、この世界のありとあらゆる対立が同時同座標に位置しているような不可思議の感覚に陥る。カートゥーンアニメーションによくあるサイケデリックな表現みたいに。いや、パラレルユニバース的表現といった方が適当かもしれない。鏡の中の世界にもまた鏡の中の世界があり、その世界にもまた鏡の中の世界がある。∞。そして、総ての世界は、そのメビウスの輪の中に等しく抱かれている。
水面へ速やかに浮上しなければならない。しかし、僕の手足は回路を遮断されたみたいにピクリとも動かない。いや、それは遮断なんて生易しい所業ではない。四肢の簒奪、というべき不条理であり悲劇だ。肩と腰からの先にもはや実体はなく――あるべき痛みと血の滴りと、温かみの喪失すらも与えられず――、動かせるのは首から上だけ。赤子よりも無力な、屈辱的状態。起上がれない達磨。
いや、その諸々はある種の自己暗示、僕の希みの裏返しなのかもしれない。結局のところ、僕は戻りたくないのだ。明確な象と意味を持った現実に。
現実は有形無形を――そして、対象の立場も――問わず、我々の身体に絶えず重くのしかかるものだ。それは時折、潜水艇でさえ危ぶまれるマリアナ海溝的重量にまで到達する。1平方センチメートルに1トン以上の圧力、それを生身で受止めるなんてとんでもない。想像するだけで肺がぺしゃんこになりそうだ、まるでたこ煎餅のように。ただ有難いことに、現在の僕にかかる重量はそれよりも遥かに易しいものだ。
しかし、僕は知っている。その1トン以上の圧力が有形という明確な悪意――あるいは、無邪気・無関心――をもって、個人をアスファルトの赤壁蝨のように踏潰した現場を。そして、その凄惨な光景を目の当たりにして、僕自身も深く損なわれてしまったことを。
いや、違う。それは過ぎ去った過去ではけっしてない。
あの人を消し去った力は、暫くして黒く粘気のある雨に象を変えて、僕の許にザーザーと降注いできた。しかし、僕はそれを避けるための雨具を持っておらず、甘んじてそれを身に受けるしかない。そして、黒い雨粒は皮膚や粘膜から僕の内奥にまで闖入し、居座って、何度も何度も、僕の組織を犯すのだ。健全な魂に肝腎な、あらゆる内的結びつきをズタズタにして。カート・コヴァーンのシャウトのようにしつこく、鋸を振下ろして引千切るみたいに。いまもなお、致命的に、直截的に。まさに原爆症のように。
そのようにして耗弱の坩堝と成った僕には、光明を視認できるほどの水深ですら耐えることが能わない。ならば、せめて無形の、概念的で純粋な現実に依って……。
「奏」
誰かが、僕の名前を読んでいる。
「奏、さっきの音何ぃ、いったいどうしたの?」
それはベッドで仰向けになっている(はずの)僕自身よりも、遥かに低い位置から響いてきた。
母だ。階下から僕を心配して声を掛けてくれたようだ。
それは思春期の子供を持つ親特有の、薄い磁器を扱うような声調だった。いやに低音の響きが強い。そうしないと地面とうまく接地できないみたいだ。
いや、違う。母は文字通り、磁器の口縁みたいにたよりのない場所に立っているのだ。迂闊な体重移動や僅かな衝撃で粉々になってしまう脆すぎる地盤の上に。そこでは呼吸間隔の乱れや、涙を流すことさえ命とりだ。その眼前には星の薄ら笑いのように洪大な亀裂まで横たわっている。そこから深さと両端を見極めることは到底不可能だ。下腹が凍えるほどに恐ろしい光景。それはまさに、海溝の入口といえる地点。脆弱な地盤の元凶。枯渇した大洋。
その暗黒の淵からは匂いが立上ってくる。若い霊魂のような細く白い煙に付着して。それは道端にへばりついた吐瀉物のように、身の毛もよだつほどの悪臭だ。ハ-デスの薫り。母はたまらず鼻を摘まむ。それを肺にまで吸込んでしまったら最後、あまりの痛痒に意識が混濁し、足場を失って淵まで真っ逆さまだ。
しかし、衝突はしない。その淵に底などないからだ。気がつくと匂いも煙も何処かへ失せている。そこにあるのは母子の関係が産み出す耐難い重量と、際限のない加速のなか墜落し続ける自身の肉体と精神だけだ。
そこに墜下した母親がどのような運命を辿ってしまうのか、僕はテレビやインターネットメディアで幾度と見聞きしてきた。
僕は途端に昂奮が冷めて、申し訳ない気持ちになる。自身の象がもとに結ばれていく。四肢の感覚も回復する。ベッドで仰向けになっていることもはっきりとする。頭に上った血がはち切れんばかりであることを、改めて自覚する。
僕は中立な声音と返答を意識する。「……何でもないよ。ちょっと重たい物を落としただけ」
しかし、うまくやれなかった。僕の用意した台詞はまるで破裂寸前のトマトみたいにこわばっていた。間の抜けたインコのようにピッチも外している。まったくもって、中立ではない。いまにも手製の手榴弾で、ポリティカルな自爆テロを起こしそうな印象だ。しかし、言葉の節々が年老いた小型犬のように震えてしまっている。きっとそれを実行したとしても滑稽に失敗し、誰も殺すこともできず、死ぬこともできず、遂にはその場の全員に指を差され嘲笑されること請合いだ。
認めたくはないけれど、それは紛れもない僕の声なのだ。気導音と骨導音が混じりあった特別の音。変声期は疾うに過ぎたが、周りと較べて音高が高く軽いまま。僕の数多ある――しかし、唯一の外面的――コンプレックスの1つ。
「――そう、気を付けなさいよ」
母の声調は変わらない。母の緊張は露聊も解されていない。ずっと踏張り続けている。まぁ、いまの返事では当然だろう。むしろカジュアルな反応をされる方がかなりのショックだ。とても自分本意な感想だけれど。
親もまた、子を選べない。
もどかしいけれど、これが現在の僕の精一杯なのだ。いますぐ部屋を出て階段を駆下りて、母を目一杯に抱締める。そのような直截的行為を選択するには、僕の心はエドワード・シザーハンズの両手のように変形して戻らなくなっている。
僕はその損なわれた両手(心)で、これまで幾度と大切な人たちに迷惑を掛けてきたのだ。
「おぅん」僕は寝転んだまま聞こえるか聞こえないかくらいの返事をして、目をぎゅうっと、雑巾を搾込むようにして閉じた。そのまま心の中で5つ数える。1、、2、、3、、4、、5。気持ちゆっくりと、ひとつ唱えるのに2秒くらいを掛けて。数え終えると目を開いた。世界はどろどろに溶解している。蕪雑な溶卵のように。しかし、それもほんの瞬き1つの玉響で、もとの光景に回帰した。現実が本来の象と意味をとり返す、僕は求めていないのに。加速していた時空間が、まともな位相に復するみたいに。「はぁ」
ここまで、僕の剥出しで無遠慮な、アンコントローラブルな独白を聴いてくれてありがとう。
もしいまの君に、未だ時間と余力があるのなら、僕の悲哀にもう暫し耳を傾けて欲しい。聞流してくれるだけで構わない、ラウンジで流れるグランジ・ロックのように。『フォレスト・ガンプ』のバスを待つ人々のように、なんて驕奢なことも言わない。他者を意識して語ること、それこそがいまの僕にとって何よりも肝腎なことだから。
辛い時に辛いと言えること、僕はそれを1つの象として表現したいのだ。そのためには、君の助力が必要だ。