長恭の帰還
長恭の見送りに行って、斛律蓉児から手巾を贈られる場面を見た青蘭は、改めて自分の恋心が成就しないと思い知らされる。
★ 長恭の不在 ★
厳しい鄴都の夏も、早朝の空気はまだ涼しい。
鄭家の後苑の薄紅の睡蓮が花開く睡蓮地の奥、夾竹桃の下に手作りの的が据えられている。
長恭との鍛錬の後、的を持ち帰った青蘭は、睡蓮地の奥にある夾竹桃の林の陰に的を据えた。広い鄭家の屋敷の中でも、毒を持つ夾竹桃の林には、だれも近付かない。従人の通らない夾竹桃の影が青蘭の射術の鍛錬の場となった。
長恭が林慮山に出掛けてから、青蘭は早朝の時間を、弓の鍛錬に当てるようになった。
青蘭は、傍らの几から弓を取ると弓に番えた。的の中心を狙って弓を引き絞る。息を止めて矢を放つと矢は中心を外れて赤い印の外に刺さった。
右の手を見ると、指には先日の傷跡が赤黒く残っている。傷口に当てた師兄の唇は柔らかかった。
彼に 簫を采る
一日 見ざれば
三秋の如し
カツラ蓬を採る
一日 会えないと
三年会えないようだ
青蘭は静かに『采葛』の詩賦を詠じた。
長恭が指に巻いてくれた手巾を、懐から取り出してみる。ああ、師兄が恋しい。出発から未だ五日しか経っていないのに、何ヶ月も経ったように思える。
この手巾を巻いてくれたとき、師兄の好意を感じたような気がした。しかし、見送りの時の出来事が青蘭の心に棘のように刺さっている。あの少女は、師兄の何なのだろう。
『見送りの時、師兄に手巾を渡していた少女、そう、蓉児と言っていた。女子の憧れの師兄に堂々と渡せるなんて、・・・きっと師兄の想い人なのだろう』
幼いが貴族の息女らしい華やかな容貌だった。少女は、何の憂いもなく大切に育てられたに違いない。 『可愛らしい人、・・・何年か経てば、師兄に相応しくなる』
この焦燥感は何であろう。少女が渡した上等な薄紅色の手巾が、青蘭の胸を苦しくさせる。これは嫉妬だろうか?しかし、男を公言している自分には、長恭や蓉児と呼ばれる少女を責める資格はないのに。青蘭は拳で己の頭をたたいた。
顔氏邸では、周りが男子ばかりであるため、長恭を取り囲む女人の存在に思い至ることがなかった。
まさしく女と見紛う美貌で、皇子の身分となれば、権門の令嬢の胸を焦がす存在にちがいない。そして、皇子という身分は権門の娘婿に相応しい存在と言えるであろう。
『師兄の親切は、師弟への単なる友情にすぎない。男として付き合っているからこそ、示される親愛の情なのだ。多くを望んではならない』
青蘭は惨めな思いで的を片付けると、弓矢を持って居所へ戻った。
★ 独りぼっちの学問 ★
小暑を過ぎると、鄴都は大地が焼かれるような猛暑になった。顔氏邸での講義の幾つかは、暑さを理由に休みになった。
青蘭は早朝の射術の鍛錬を済ませると、毎日のように顔氏邸にでかけた。朝の人気の無い書房や風通しのいい四阿で、青蘭は一人『荀子』や『史記』に向かうのだった。
皇太后府に伝のない青蘭にとって、長恭の帰りの情報が得られるのは、顔氏邸だけなのだ。毎日の鍛錬と学問が、自分と長恭を繋ぐ唯一の絆のように思えた。
午後の暑さの中、文叔は鄭家に戻った。
居所に入り重い嚢を几の上に置くと、青蘭は身体を榻に投げ出した。早朝の鍛錬と酷暑で、身体はくたくただ。
「あの少女は、師兄の何なのか・・・」
青蘭は白い手巾を懐から出してみる。白い手巾に茶色いシミがついている。は、射術の鍛錬の時に、右指から出血した跡だ。豪華な刺繍がされた薄紅色の手巾と、手当のためのシミの付いた手巾、それは少女と自分の立場の違いを如実に示している。大切に守られ育てられた令嬢と名節を失った女子でもない者、それは比べようもない。
これは、嫉妬だ。苦しい思いに名前がつくと、その感情は、より一層青蘭を苛んだ。
『何故、早く帰ってきてと言わなかったのだろう』
これ以上女子である事を隠したら、本当に師兄を騙していることになる。長恭が鄴都に戻ったら、女人であることを告げたい。
しかし学問の徒は、おおかた男女の別を厳しくする。長恭は、男と偽った自分を許してくれるだろうか。
青蘭は榻から起き上がると、書架の前に立った。
そうだ、『孫子』を読んでおこう。女子として受け入れてくれなくとも、師弟としてならできることがある。
『孫子曰く、凡そ用兵の方は、国を全うすることを上と為し、国を、破るはこれに次ぐ』
「孫子は言う。およそ、戦争の原則としては、敵国を傷つけずにそのままで降服させるのが上策で、敵国を討ち破って屈服させるのは、それに劣る」
孫子は、戦をしないで敵国を屈服させることが上策だと説いている。南朝で戦闘を繰り広げている梁と陳、そして西魏も、平和的に共存できるみちがあるのだろうか。
青蘭が蔀戸を開けると、居所に涼風が流れこんでくる。几案に座ると、青蘭は『孫子』を開いた。
鮮卑族の皇子である長恭は、最近『孫子』を頻繁に手にしている。父の元に居るとき、青蘭は兄の書架から『孫子』を拝借して読んだことがあったが、じっくりと学んだことは無かった。せめて、長恭が戦術や政の話をするときに、普通に話せるようにしておきたい。
いつの間にか内院の空は藍色が濃くなり、内院の喬木の間には夜の静寂が漂っている。
居房の暗さに気付いた青蘭は、几案の端にある蝋燭に灯をともした。
★ 林慮山の月 ★
林慮山の夏の離宮でも六月の上弦の月は煌々と照っていた。長恭は、蝋燭をよせると『史記』の書冊を開いた。長恭が調練に出掛けている間の講義の記録を文叔が取ってくれていたのだ。
『衛将軍 驃騎列伝』である。
衛青は、低い身分から戦功を立て、大将軍までのし上がった前漢武帝時代の武人である。
その姉衛子夫は賢皇后として名高いが、外戚としての地位に奢ることがなかった。慈悲深く常に謙遜の心を示し、穏やかな態度であったという。
衛将軍は、長恭の恭敬する武人であった。果断に匈奴を攻撃したが、その恩賞は公平で、戦場での刑罰は適正公平であった。前漢の大将軍衛青は、長恭の崇敬する軍人である。
文叔の端正な筆致で行間に講義の内容が書き込まれている。休んだ長恭に代わって、書いてくれていた文叔の心遣いがありがたい。
文叔は、今頃何をしているのだろう。出立の時、せっかく見送りに来てくれたのにも拘わらず、文叔の前で蓉児からの手巾を受け取ってしまった。
それを見ていた文叔の青ざめた顔が思い出される。衆目の中で手巾を受け取るような軽薄な男だと自分を軽蔑したのか。それとも、少しは自分に好意を持ってくれて、怒ったのか。
長恭は、溜息をついて朱塗りの箱から蓉児に渡された手巾を取り出した。手巾には、鴛鴦の拙い刺繍が施されている。
蓉児は、斛律光将軍の嫡長女である。
少年期から斛律家で武術の鍛錬に励んだ長恭にとって、蓉児は妹のような存在であった。自分に好意を寄せている事は感じていたが、あくまでも妹としてのものだと思っていた。まさか、衆目の中であのような大胆な行為にでようとは、・・・。
門街の真ん中で手巾を突き返すのは、斛律家の面目を潰してしまうのではと、戸惑いながら受け取ってしまったのが間違いであった。文叔は、蓉児を自分の想い人と勘違いしたに違いない。気が多い男だと、愛想を尽かしたかも知れない。
『仕官まで、もう間がないのに、文叔の心がどんどん遠ざかっていく』
私のいない鄴都で文叔が敬徳と会ったなら、敬徳と親しくならないとも限らない。
私は何をしているんだ。長恭は、後悔の想いで両手で頬を抑えると、ピシャンと叩いた。
書房の壁を観ると、文叔から贈られた阮籍の詩賦の掛物が、蝋燭の灯りの中に浮かんでいた。
早く鄴都に戻り、この手巾を返さねば。長恭は、手巾を櫃にしまった。
★ 長恭の帰還 ★
大暑も近く、夏の盛りである。
六月の半ば過ぎ、顔氏邸の後苑では、夾竹桃の花が赤々と咲いている。今日は講義がないため、顔氏邸の後苑は、人影もなく静けさに満たされている。四阿の周りには、百日紅と花海棠の花が風に揺れていた。
四阿に座った青蘭は、背筋を伸ばし端整な筆致で筆を滑らせていた。
傍らでは、馮元烈が正座をして墨を擦っている。
「元列、千字文は終了したのか。・・・それなら『荀子』を読むといい。」
青蘭は、『荀子』の書冊を嚢から出すと、元烈に渡した。
「勧学篇の写本だ。熟読して分からないところがあったら、後で訊くが良い」
書冊を手にした元烈は、目を輝かせた。
「文叔様、書冊を手にできるなんて、・・・感激です」
青蘭は、書冊を抱えた元烈の肩に手を遣った。
「元烈、・・・学問の道は厳しいぞ」
青蘭は顔之推の声色をまね、胸を張って男らしく元烈を見た。
「君子曰く、学は已むべからず。青はこれを 藍より取れども、藍より青く、冰は水より これを為せども水より寒たし」
青蘭の朗々とした声が四阿に響いた。
「文叔様、荀子は青と氷に託して、何を言わんとしているのでしょう」
元烈は、清澄な眉目を真っ直ぐに青蘭に向けて訊いた。
「学ぶことにより、知識を得るだけでなく人格も陶冶される。そして、そうせねばならぬということだ」
長恭の言葉を思い出しながら、青蘭は微笑みを浮かべた。
「学ぶことにより、私も藍より青くなれるのでしょうか」
元烈は、清澄な瞳で小首をかしげた。
「孔子も荀子も決して恵まれた生い立ちではなかった。一心に励めば、必ずなれる。学問は身を助けると顔氏師父も仰っている」
青蘭は、元烈を包むように優しく頷くと精美な睫を伏せた。
馮元烈は、元々梁の官吏の子息であった。西魏による江陵陥落の最、長安への拉致を逃れて淮水沿岸を彷徨い姉とはぐれてしまったのだ。親類を頼って鄴都へ来たというが、広い鄴都で親類を探すことは叶わず、顔氏に拾われて下僕となったのである。
青蘭に渡される聖賢の経書の一節や堂から漏れ聞こえる講義の声を聞きながら、学問への志を暖めてきたのだ。
「元烈、菓子を持ってきた。・・・後で食べてくれ」
「文叔様、ありがとうございます」
元烈は菓子の包みを書冊を懐にしまうと、拱手をして立ち上がった。
その時、元烈の後ろに長身の影が立った。元烈の学問を咎める顔氏の家人であろうか。青蘭が、訝しげに元烈の後ろを見上げると、在るはずのない長恭の顔が見える。
『え?・・・恋しいと思っていると、幻が見えるの?』
元烈は後ろの長恭に気付くと、丁寧に拱手して南房に戻って行った。
青蘭は目をこすった。幻ではない。花海棠の向こうに長恭が見える。
「文叔、帰った・・・」
長恭の恥じらうような微笑みを見て、青蘭は思わず立ち上がった。
「師兄、なぜここに?大暑に帰ると言っていたから・・」
青蘭はぎこちなく長恭を見上げた。見送りの出来事が、青蘭の心を縛り付ける。
「今朝、上党より戻ってきた。城門が開くのが遅くて、城外でしばらく待ったのだ」
長恭は林慮山より駆けに駆け、城門が開くのを早朝の城門の外で待っていたというのだ。そう言えば、長恭の顔に疲労の色が濃い。
師兄は無理に帰京を早めてくれたのだ。自然に頬が緩みそうになった。しかし、女子のような喜色を見せるわけにはいかない。
「そ、そうなの?」
強ばった笑顔で再び几の前に座ると、青蘭は書冊を開き目を落とした。
文叔は、喜んでくれないのか。早期の帰還を喜んでくれると思っていた期待が、胸の奥で萎んでいく。
「文叔、御祖母様にお願いして、無理して早く戻ってきた」
四阿に入った長恭は、卓を挟んで座り、書冊を開いている文叔の顔を覗き込んだ。
「学堂を休んでは、学問に障りがあると言って、皇太后様を説得したのだ」
青蘭の顔が書冊の陰で自然にほころんだ。しかし、青蘭はむしろ素っ気なく言った。
「せっかく戻ったのに残念だが、このところの猛暑で、ほとんどの講義が休みだ」
文叔は、手巾のことで怒っているのだろうか。
「それは、残念だ。漢人は、軟弱だな」
予定より早く戻って来たのは、学問が理由ではない。
「手巾を贈られた想い人に会えた?」
青蘭は、持った書冊の上から長恭の瞳をのぞき込んだ。これは嫉妬だろうか。
「想い人なんていないさ」
「また、・・・衆目の中で手巾を受け取ったのに」
醜いと思いながら、青蘭は責める言葉を止めることが出来なかった。男を装っている自分には、嫉妬をする資格もないのに。
「あの手巾は、何の意味も無い。・・・蓉児は、妹同然だ。決して想い人ではない」
長恭は林慮山からの道すがら、馬上で何度も練習した言葉を一気に喋った。
「何も、私に言い訳しなくとも・・・」
書冊をどけて顔を覗こうとしている長恭を避けようと、青蘭は横を向いた。
「誤解しないでくれ。単に、斛律家の面目を潰さぬように考え受け取ったのだ」
長恭は、書冊を持っている青蘭の手を上から包んだ。
「誤解だなんて、・・私には関係がない」
青蘭は口を尖らせると、意味もなく書冊の文字を凝視した。
『ああ、これでは、まるで嫉妬に狂った女子ではないか』
青蘭は、唇をかみながら下を向いた。
「私が、安易に手巾を受け取る軽薄な男子だと思ってほしくないのだ」
長恭は、手で書冊をどけると、文叔の表情を下から覗き込んだ。しかし、青蘭は反対側に顔を向けると鉄扇の蒼い花に目を遣った。
「やっぱり、怒っている」
文叔の花のような唇が、不満そうにすぼめられている。
「手巾は、蓉児に返す。受け取ったままでは誤解を招く」
長恭は、誤解という言葉に力を込めた。
自分の誤解を解くために、手巾を返す気のだろうか。いや師兄は、君子らしく蓉児の名誉を守るために手巾を返すのだ。師兄の優しさを、愛情だと勘違いしてはいけない。
長恭は、青蘭の横に移ると、その隣に座った。几の上に広げられていたのは『史記』の『伍子胥列伝』である。
「あらかじめ自分で調べて、私を出し抜く気なのか?」
長恭が耳元で小さく囁くと、左手で青蘭の肩を抱き寄せた。
「文叔、成長したな」
長恭は青蘭の髪を乱暴に揺らした。
耳元に感じる息の熱さが、青蘭の身体を包んだ。女子として師兄を愛している。やっぱり自分は女子だと師兄に伝えよう。
身じろぎしたとき、青蘭は耳元で寝息を聞いた。
これは、何なの?横を見ると、長恭が青蘭の肩にもたれかかりながら、寝息を立てているではないか。鄴都まで急ぐあまり、睡眠を取っていなかったのであろう。
きっとすぐに起きる。青蘭は、しばらく全身で長恭の体重を支えていたが、やがて長恭の身体を静かに横にさせた。よほど疲れているのか、長恭は青蘭の膝の上に頭を降ろしても目を覚まさない。
髷を結い後ろに垂らしている黒髪が、青蘭の膝の上に鳥の翼のように広がって見える。
『会いたかった師兄が、私の膝の上にいる』
長恭の頭の重さは、幸福な重さだった。自然に唇が緩んでしまう。
秀でた鼻梁に瞼は閉じられ、睫が深い影を作っている。僅かに開かれた唇は、青蘭を誘うように桃色に息づいている。
触れてみたい。しかし、触れたらその瞬間、義兄弟としての関係は壊れてしまう。信義を重んじる長恭は、己を謀った青蘭を許しはしないだろう。そして、永遠の離別がその先にあるのだ。
青蘭はためしに長恭の額に掛かる髪に触れてみた。すっかり熟睡した長恭は、まったく瞼を開けない。
勇気をえた青蘭は、長恭の額に当てた指を、直接触れないようにゆっくりと鼻梁から下に添わせ、唇に至った。桃の花弁のような形のいい唇が、わずかに開いて自分を誘うようだ。
触れてみたい。でも、それは、あまりに卑怯だ。
眠っている間に唇を奪うのは、道を志す学士のすることではない。
青蘭は男らしさを装い、やや乱暴に長恭の頬を撫でた。すると、長恭は、無意識に青蘭の方に顔を寄せ、逞しい腕を青蘭の腰に回してきた。甘やかな衝撃が青蘭を包み、その後しばらく、青蘭は動くことが出来なかった。
★ 文叔の指 ★
この年の暑さは厳しく、清河王府の玫瑰の薄紅の花も、力なくうな垂れていた。清河王府の後苑の東、夾竹桃の赤い花の奥にある矢場を長恭は訪れていた。
長恭は矢を番えると弓を引いた。精神を的に集中し矢を射る。矢は、鍛錬の成果を表し正確に的の中央を射貫く。
敬徳の乾いた拍手の音が、静かな後苑に響いた。
「見事なものだ、長恭。また腕を上げたな」
長恭は、清河王府の家人が抜いてきた矢を受け取ると椅に座った。
敬徳は、几の上から矢を一本取ると、ぎりぎりまで引き絞って矢を放つ。優雅な所作は修養の成果を如実に表している。
長恭は、敬徳の様子を目で追いながらも、心は文叔を思い出していた。
林慮山から帰京した日、長恭は、女人としての文叔を想っていると告白しようと思っていた。
蓉児は想い人だという文叔の誤解を解こうと言葉を尽くしたが、不機嫌な様子は直らなかったのだ。
『朋友としての文叔も失ったら、自分自身を保っていけないであろう』
伍子胥の章を一緒に読む振りをしながら、長恭は文叔の肩に頭を寄せた。
『男同士の友なら、肩を寄せることも不自然ではない』
肩の細さと頬の柔らかさ、そして、文叔の茉莉花の甘い香りが、酒を飲んだときのように長恭を陶然とさせた。
不眠不休で駆けに駆けてきた疲労感が、泥のように長恭の体を睡魔の足元に引き寄せ、気が付くと、長恭は文叔の膝の上に頭を載せて寝ていた。
文叔の柔らかさが、長恭を卑怯者にした。目が覚めても瞼を開けることが出来なかった。
静かな四阿の中、密かな温柔さが、長恭の額から鼻梁にゆっくりと動くのが感じられた。それは、肌に触れないように動く文叔の細い指だった。指はためらうように唇にたどり着くと、ほんのりとした温かさが感じられた。
薄目を開けようとしたとき、やや手荒に頬と唇の上を掌が横切った。指の跡が熱く感じられて、長恭は思わず身を捩った。
すると、あろうことか、文叔の腰を抱くような腕の形になってしまったのだ。長恭は、赤くなった顔を隠すように俯くと、茉莉花と青蘭の不思議な甘い香りに埋もれて、長い時間動くことが出来なかった。
「私の腕も相当なものであろう」
長恭は、敬徳の得意気な声で我に返った。
「えっ、何が?」
「長恭、見ていなかったのか。弓術は、六技の一つ、貴族の教養だ。技術よりも精神の修養が大切なのだ」
的を見遣ると、十本の内の七本が的の中央に命中している。
「長恭、聞いたぞ。斛律家の蓉児と恋仲なんだって」
長恭は、そのような噂がすでに敬徳の耳に届いていることに驚いた。
「敬徳、それは全くの誤解だ」
長恭はとんでもないというように、手を左右に振った。
「長恭、・・・そなた脇が甘いぞ」
敬徳は、茶杯を持つと清明茶に口を付けた。
「例えばだ、皇宮で、お前が宮女からうっかり手巾や恋文を受け取ったらどうなる?・・・命取りだ。斛律蓉児との婚姻は、斛律将軍が許すまい」
皇妃に拘わらず、宮女はすべて皇帝の女人である。その中の一人とでも密通すれば、斬首されても文句は言えない。
敬徳の父高岳の出来事を思い出して、長恭は体が震えた。
「蓉児とはまったく考えていない」
「そうか、よかった。でも、出仕したら気を付けよ。男の嫉妬は怖いぞ。今のそなたが宮中に出仕するのは、丸腰で戦場に臨むようなものだ」
すでに嗣部尚書として出仕している敬徳には、思い当たる事があるに違いない。
敬徳は、深く椅子に腰掛けると目を瞑った。
皇太后は長恭がそのような陥穽に落ちることを恐れているにちがいない。
父高澄の面影を色濃く写す長恭の花貌が巻き起こす、朝廷の波風は決して小さくない。
皇太后の避暑から早めに帰って来た長恭は、疲労のために眠ってしまう。しかし、文叔の様子から自分への好意を感じ取る。
その後、敬徳より不用意に手巾や恋文を受け取る危険性について注意される。そして、斛律将軍府に手巾を返しに行く。