想いを伝える手巾
長恭の出仕を知った青蘭は、やがてくる別れを予感した。長恭が去った後も、強く生きていきたい青蘭は射術の稽古を長恭にたのむ。
★ 射術の特訓 ★
鄴都の暑さはいよいよ増し、夏の盛りを迎えようとしていた。
学堂の講義は時々しか行われず、内院を行き来する弟子たちの姿も少なかった。士大夫の子弟である弟子たちは鄴都の暑さを避け、太行山脈の山麓にある寺院や道灌、別邸などに避暑に出掛けているのだ。
御前の講義を終了した長恭と青蘭は、涼しい四阿で昼餉を摂ると、馬車で漳水の河畔へ向った。
涼しい風を入れようと、馬車の窓を開ける。青蘭の後ろ髪が風になびき、茉莉花の香が広がった。
青蘭が振り返ると、長恭の清麗な瞳と目が合った。何かを訴えるよな長恭の瞳に、青蘭は慌てて席に座リ直した。
師兄は絶対疑っている。射術の稽古で力を発揮して、女子だとの疑いを晴らさねば・・・。
漳水の畔、赤い夾竹桃の林が続く辺りで馬車を降りた。
御者の栗が木の根元に的を据え、長恭は馬車から弓と箙を取り出すと、夾竹桃の影に並べた。
「文叔、士大夫はなぜ射術を重視するのか知っているか?」
軍を率いる将軍が、戦場で直接敵に弓を引くことはあまりない。しかし、武門に生まれた者が最も重要視するのは、射術である。
青蘭は首をかしげた。
「そうね・・・体力をつけるためだろうか」
「いやちがう。射術では、姿勢を正し、精神を整えることが大切だ。精神と礼法を鍛えられる。それが、射術を重視する所以だ。お前も、官吏を狙うのであれば、弓ぐらい引けないとな」
射術の稽古は、男子としての精神に関わるらしい。このまま男子として生きていくなら射術ぐらい身につけなければ・・。
長恭は文叔に小ぶりの弓を差し出した。
「私が幼少の頃に、使っていた弓だ」
黒漆に金の象嵌が施されている弓は、美しさ以上に手にしっくり馴染んだ。
「こんな立派な弓は、・・・私にはもったいない」
「筆は受け取れても、弓はだめなのか?」
長恭は不満げに片眉を上げた。敬徳から筆を贈られたことを長恭は知っていたのか。
「そんなことはない。・・師兄の弓をいただけるとは光栄だ」
流麗な長恭の弓は、その主に似て姿を裏切る強弓だった。教えられた通りに矢を射ても、青蘭の矢は的に届かない。青蘭は肩を落とした。
「お前は、だれから射術を学んだのだ。いいか、私が射るのを、よく観ていろ」
長恭は、精神を集中し、力を溜めると矢を射た。
優雅な舞のように箙から弓を取り、矢に番えると優雅な舞のように引き絞り放つ。長恭の矢は的の中心を正確に射貫いた。
「弓は、弦から引いてはだめだ。体全体で引くのだ」
青蘭が、矢を番え、震える右手で弦を引くと、長恭が後ろから手を添えてきた。
長恭の長い足が、青蘭の両足の間を押し開いた。頬を青蘭の頬に押しつけると的に精神を集中させる。 文叔が近い。真梨花の香がまとわりついてくる。五射放った後で、長恭は自分の体が青蘭に密着していることに初めて気付いた。青蘭の襟元から甘やかな薫りが立ち上り、体の芯を熱くさせる。このままでは、文叔を奪ってしまう。
衝動を抑えきれず、長恭は青蘭から体を離した。
「呼吸を整え、腹、胸、腕と全身の力を伝えるように射るんだ」
斛律将軍府で学んだ長恭の射術は、論理立った峻厳なものであった。
戦乱の陣中では、青蘭は誰に教えを受けたわけではなく、自己流で矢を放っていたに過ぎない。弱い弓を使えば、どうにか形になっていた。しかし、長恭の指導は、非力な青蘭にとってあまりにも苛烈なものだった。
瞳を凝らし花弁のような唇を食いしばって的を狙う文叔が愛しい。文叔に惹かれていく己の気持ちを隠すように、長恭は大きな声で叱咤激励した。稽古に集中せねば・・・。
鍛錬に打ち込むうちに、長恭の脳裏から、か弱い女子への稽古という意識が飛んでしまった。
「絶対当てるという欲で弓を引くな。正しい姿勢、正しい呼吸で弓を引けば、自ずと的に当たる」
じりじりと青蘭を照らす盛夏の太陽が少しずつ西に傾いていく中、青蘭は汗だくになって矢を射続けた。
長恭の叱咤の言葉が川岸に響くなか、力を失った文叔の震える指が限界を超えた。引き絞った矢が蔓を外れて、指先に弾けた。夾竹桃の赤い花弁が飛び散ったように見えた。
「あっ・・・」
叫び声とともに青蘭の身体が、長恭の腕の中に倒れ込んだ。
「文叔、どうした」
長恭は文叔を覗き込む。
「指から出血している。・・・大丈夫か?」
長恭は手を取ると、傷口を唇に持って行った。
いきなり指に唇を当てられた青蘭は、声も出ない。
「文叔、すまぬ。・・・お前に無理をさせて・・・」
気が付けば、文叔の瞳が目の前だ。腕の中の茉莉花の香が、長恭を縛り付ける。
このまま、近くにいたい。長恭は気が付けば文叔を抱き寄せてしまっていた。
「だ、大丈夫・・・師兄、て、手が・・・」
長恭の唇の柔らかさが、青蘭を切なくさせる。
「師兄、・・・近すぎる」
青蘭は長恭の唇から指を離すと、顔を逸らした。
「す、すまない・・・」
長恭は文叔を放すと、眩しげに川面を見遣った。
長恭は文叔をとなりに座らせると、手巾を指に巻き付けきつく縛った。
「あとで傷薬を届けよう・・・すまぬ、・・・厳しすぎた」
「いや、力の無い私が、情けないだけ・・・」
青蘭は手巾を巻かれた手を左手で押さえると肩を落とした。
「射術の力は、一朝一夕にはつかない。毎日の鍛錬が大切だ」
「師兄、肝に銘じます」
長恭は、うつむいた青蘭の顔を覗き込んだ。
「実は、五日後、林慮山に御祖母様に付き合って行かねばならない。・・・だから、焦って厳しくしてしまった。すまない」
青蘭は唇をかんだ。やっと、調練から戻ってきたのに、五日後にまた長恭が鄴を離れるなんて・・・。
「大暑までには戻ってくる。それまで鍛錬をおこたるな」
学問と稽古に励めば、茶房で敬徳と会うことも無いであろう。長恭は、笑みを浮かべて頷いた。
★ 避暑への準備 ★
小暑が過ぎた。宣訓宮でもうだるような暑い日々が続いていた。紅色の睡蓮となめらかな葉が、睡蓮地に彩りを添えていた。
明日には、皇太后のお供で避暑に行かなければならない。長恭は、林慮山の山麓にある道灌へ持って行く書冊の準備をしていた。
長恭は書架の前に行くと『史記』の書冊が置いてあるところに立った。長恭は、青い表紙の『淮蔭侯列伝』を手に取った。顔氏邸の最近の講義で使われた書冊である。
講堂で講義を聴いた後は、四阿に行き青蘭と講義内容について討議したことを思い出した。
淮蔭侯韓信は、淮蔭の人である。
韓信は、劉邦に臣従した。趙と魏を攻め落とし、燕と斉を平らげた漢建国の功臣であった。しかし、平民であった頃、韓信は貧乏であったという。
「おい、お前死ぬ気なら刺してみな。死ねないなら、俺の股をくぐれ」
韓信は、頭を下げて股下をくぐった。人々は彼を臆病者だと思った。有名な韓信の股くぐりの逸話である。
「漢王朝の成立に貢献した韓信は大将軍になった。しかし、それは後のことだ。お前はこの時の韓信をどう思う?」
大の男がごろつきの股を潜るなんて最大の屈辱だ。文叔は腕を組んだ。
「後に大将軍になった韓信の志が大きかったと思うべきだ。大望を抱いていたが故に、小事に怒ることなく股の下を潜ったのだ」
これは巷間に膾炙している説である。
「後の出世は、結果に過ぎない。韓信は、悔しかったに違いない。その恥辱を晴らそうと、奮起したのだ。自分ならそうする」
四阿の周りに植えられた石楠花の間から、長恭は蒼空を見上げた。
『史記』は簡潔な表現の中に、多くの示唆を含んでいる。その解釈は一様ではない。
師兄は、韓信以上の恥辱に堪えてきたのか。両親のいない高家でどれほどの苦難に耐えてきたのだろう。
「私も韓信を見習って大業を成し遂げたい」
文叔は拳を握ると、明るい眼差しで長恭を見た。
そのとき、まだ女子である事を知らなかった長恭は、学問を志す文叔の真っ直ぐな瞳が眩しかった。
「文叔、先人に学んでこそ、歴史を学ぶ意義があるのだ。私達が学ぶべき生き方が歴史の中にあるのだ」
長恭は笑顔になると、文叔の肩に手を載せた。
歴史は繰り返さないが、韻をふむ。歴史の中に国の栄枯盛衰があり、先達の生き方の中に我々の生きる指針を見つけることができるのだ。
長恭は、学堂で、四阿で、茶房で語り合ってきた時を思い出しながら櫃を開けた。
『このまま、一生文叔と学び続けることが出来たらいいのに・・・』
男女の別なく、毎日、同じ書を読み、学問を論じる心の通じ合った友がそこにいることこそ、幸せなのだ。そして、その人を一生の伴侶とすることができたらどれほどいいだろう。
長恭は、『史記』と『荀子』を、櫃に入れると、榻に座った。
★ 長恭の生い立ち ★
高長恭の人生は、北斉の歴史に翻弄され続けてきた。
東魏の宰相であった祖父の高歓の死後、その後を嗣いだ父の高澄は、副都である晋陽に幕府を建てた。しかし、侯景の反乱なども重なり、政権基盤は盤石なものではなかった。
もともと荀翠容は、婁昭君の侍女であった。美しく聡明な翠容を気に入った婁氏は、翠容を高澄の側仕えとして仕えさせた。やがて高澄と翠容は愛を育むようになる。ほどなく翠容は高澄の子供を身籠もる。
しかし、そんな時、高澄は東魏の公主を正妃に迎え、政治的な基盤の強化を図ろうとしたのである。馮翊公主との縁談が持ち上がったのである。高澄は東魏の公主を正妃に迎え、政治的な基盤の強化を図ろうとしたのである。
公主を迎え入れる高澄邸に、懐妊した側女がいては具合が悪いと、翠容は婁氏の屋敷に戻された。荀翠容は、喜ばしいはずの出産を密かに屋敷の外で迎えることになったのだ。こうして、高長恭は父親に見守られることもなく祖母の屋敷でひっそりと生まれたのである。
しかし、いつしか長恭の存在は馮翊公主の知るところとなる。愛妾と庶子の存在を知った公主は、二人の抹殺を図る刺客を放った。そこで、婁氏は二人の命を守るべく、鄴都からはるかに離れた観翠亭に親子を避難させることにしたのである。
高澄の政治的基盤が確固たるものになり、東魏王朝の権威が傾き始めた頃、荀翠容親子はやっと晋陽の本邸に入ることを認められた。しかし、母の荀翠容は皇子を生んだにも拘わらず、妃に立てられることはなかった。
東魏からの禅譲を画策していた高澄は、荀翠容を正式な妃に立てることによる馮翊公主の嫉妬を恐れたためである。そして、本来孝婉より早く生まれていた長恭は、屋敷に戻った後も四男とされていた。嫡男の高孝琬を憚ったためである。
屋敷にあっても、正式に妃に立てられない翠容母子は、他の妃にとって侮りの対象でしかなかった。長恭の子供の頃からの美貌も、武勇を尊ぶ鮮卑族においては、むしろ弱さの表れとされたのだ。
陰に陽に行われる悪意に満ちた仕打ちは、母荀翠容の健康と精神をむしばんでいった。観翠亭では、貧しくとも朗らかに暮らしていた母が、晋陽の贅沢な邸では、みるみる憔悴していくことを長恭は見ていることしかできなかった。
「まるで、女子のような容貌」
その言葉は、晋陽の忌まわしい記憶と共に今でも長恭を苛立たせる。
長恭は、翡翠の玉玦を厨子より取りだした。観翠亭に行くときに、母が父より贈られた玉玦である。父上は、直ぐに迎えにくると約束して、母上と自分を送り出したという。しかしその約束は果たされず、五年も放置されたのである。母上は、どれほど絶望したことだろう。
「母上、・・私は未だ母上の無念を晴らしていません」
十月になれば任官できる。与えられた職務に励み、出征しては武功を立てよう。王に爵封されれば、母上に太妃の位を追封できる。族譜に記載し墓も改葬するのだ。儚く亡くなった母上の無念を晴らします。
長恭は玉玦を厨子にしまうと鍵を掛けた。
長恭は蝋燭を持つと、阮籍の掛物の前に立った。
流麗な楷書が蝋燭の明かりに照らされて、温かく光っている。自分で描いた月と琴がしっくりと文字を支えているのが嬉しい。長恭は滑らかな紙面に指を沿わせる。温かい・・・。
『連れていこう文叔。その体が無理なら・・・この詩賦を』
長恭は、掛物を降ろすと、丁寧に巻いて櫃の中に入れた。
★ 楽安公主の訪れ ★
太陽が、中天に昇り始めていた。後苑の緑が濃くなり、夾竹桃の花の赤が、鮮やかに見える。
堂房の扉の外から、宦官の吉良の声がした。
「楽安公主がいらっしゃいました」
長恭は櫃の蓋を閉めると、大きな巾を掛けた。
「長恭兄上、久しぶりです」
楽安公主の諱は高珞、字は瑗児である。躑躅色の袖を翻しながら、瑗児は堂房に入ると金の歩遙をシャランと鳴らした。
楽安公主高珞は、長恭の父高澄と北魏の馮翊公主との間の摘女で孝琬の同母の妹であった。
「瑗児、今日はどうしたのだ」
長恭は、筆硯を箱の中にしまうと、几案を回って公主の前に立った。
「御祖母様が、避暑に行かれると聞いて、挨拶に来たのよ」
長恭は楽安を椅に座らせると、卓に並べた書冊を整理した。
婁皇太后は、長男の嫡女である高瑗児をことのほかかわいがっている。しかし、長恭にとっては母親を虐げた敵に等しい。しかし、それを素振りに出してはならない。
「兄上ったら、河間王府の宴にも来ないし、手簡に返事もくれない。本当にひどいわ」
唇に紅を濃く付けた瑗児は、子供のように唇を突き出した。
長恭が幼き頃は、侮蔑し見下していた瑗児が、なぜか長恭が加冠の儀を終えると親しげに寄ってくるようになった。長恭の美貌が、権門の令嬢たちのなかで噂になったからである。
「学問が忙しいのだ。お前の相手をしている暇などない」
長恭は、端華な瞳を細めて冷たく言った。幼き頃の虐げられた記憶が、決して脳裏を去ることがない。
しかし、常に穏やかに接している長恭の態度に、楽安公主は昔のことなどすっかり忘れているようだ。
「崔家の宴に一緒に行ってもらおうと思ったのに、御祖母様の避暑に同行するなら無理ね」
喉の渇いた瑗児は自分で、茶杯を満たすとごくっと飲んだ。
「崔家の宴に出るのか?・・・それはいい・・・」
崔達拏の良さを説こうとしている長恭を、楽安がさえぎった。
「宴なんてうわべだけ。行ったら崔達拏との顔合わせをさせられるんだわ」
瑗児は、唇を歪めた。すでに決まった婚姻であるが、一応顔合わせをさせようという高孝琬の温情であろうか。
「崔達拏は、崔暹の息子だ。実直で仕事もできる。悪い話ではない」
放恣な官吏が多い中で、崔暹は謹厳実直な宰相で、その厳しさのために何度も罷免の上奏があったほどだ。その子息の崔達拏も、正義感に溢れた実直な若者である。
「兄上、私は家宰を探しているわけではないのよ。あんな、さえない男を附馬にするなんて・・・」
高家は美形の家系である。少女になった瑗児は、記憶にない父親によく似ていると聞いた長恭に、親しみを感じるようになった。夫にするなら四兄のような美丈夫をと願っていたのだ。
「崔達拏は、いい男だろう?職務に忠実で真面目な男だ」
長恭は通り一遍の言葉で瑗児を慰めた。
女子の婚姻は一生の大事である。少女らしい瑗児の憧れは十分理解できる。しかし、政略結婚により嫁いできた馮翊公主に虐げられた母親の苦悩を思い返すと、瑗児に冷たく接してしまう自分をどうすることもできなかった。
附馬になれば、公主の夫として朝廷で大きな力を持てるが、他の貴族のように多くの側女を囲うわけにはいかない。そして、妻に頭の上がらない男として、同情と軽蔑の対象になるのである。
「私には、バカ真面目で面白みのない男がお似合いってこと?ひどいわ」
長恭は楽安の言葉を無視して書冊を持って立ち上がると、書架に書冊をしまった。
「前にも言っただろう?お前の婚姻は、陛下の勅命だ。私にはどうにもできない」
長恭は書架を背にして立つと楽安に諭すように言った。
公主と言っても、追封された文襄帝の公主だ。父親の高澄が亡くなっているため、その立場は弱いものであった。重臣の子息で実直な崔達拏は、公主の婿である附馬として最適であったのだ。
瑗児は、卓に頬杖をつくと、清澄な兄の瞳を見つめた。
「斛律蓉児が羨ましい」
斛律蓉児とは、斛律光の長女である。幼い頃から斛律家で武術を修練してきた長恭にとっては、妹のような存在であった。
「蓉児ったら、兄上に嫁ぐとあちこちで触れ回っているのよ」
瑗児は、心外だと唇を尖らせた。容児は十歳を三つ超えたばかりの子供であり、戯言に過ぎないだろう。
「蓉児は、まだ子供だ。子供の言うことを気にするなんてお前らしくない」
長恭は、呆れ気味に首を振りながら料紙を櫃に入れた。
「四兄上、本当に宴には来てくれない?」
瑗児は立ち上がると几案の所にいる長恭の肩にしな垂れかかった。
「だめだ、御祖母様の避暑に同行する」
長恭は、瑗児の腕を外した。
「仕方が無いわ、三兄上に頼むから」
自分の婚姻に無関心とみた瑗児は溜息をつくと屋敷に戻っていった。
父親の高澄が亡い中。三兄は文襄帝の嫡男として、政治的な基盤の強化を望んでいる。
妹の瑗児と崔達拏が婚姻すれば、その父である崔暹を強力な後ろ盾にできる。このような好機を逃すはずがない。長恭は、野心に満ちた三兄の顔を思い出した。
★ 敬徳への気持ち ★
太陽が西に傾き、夕暮れが迫ってきた。侍女の紅衣が堂房の前に立った。
「若様、清河王が来ておられます、後苑でお待ちです」
夕暮れの後苑に行くと、敬徳が蓮池の辺に立っていた。香色の長衣に薄紫の背子をつけた敬徳は、影を長くして西の空を見ていた。
「おお、長恭、久しぶり」
長恭の姿に気付いた敬徳は、振り向いて笑顔を見せた。
一昨年、敬徳は両親を失っていた。二年前の紀元五五五年(天保六年)に、敬徳の父高岳が高帰彦の讒言により死に追い込まれたのだ。その後、冤罪であったことが判明したが、高帰彦は罪に問われることはなく、いまでも高位に留まっている。
申し訳のように、高洋は敬徳に父親の爵位を継がせ、その領地も相続させた。嗣部尚書を務める敬徳は、青年皇族の中で出世頭で、最も多くの財と領地を持っていた。
「敬徳、久しぶりだな?」
茶房で文叔と会っていたのを目撃したが、それを言うわけにはいかない。長恭は、敬徳を四阿に誘った。
「昨日、清河郡より戻った。皇太后様が明日出掛けると聞いて、今日慌てて挨拶に来たのだ」
晴朗な高敬徳は、一族の子弟の中でも幼い頃より婁皇太后に気に入られていた。
「私も、出発の前に敬徳に会いたかった」
茶房での二人を目撃して以来、長恭は文叔を馬車で送るようにしていた。敬徳と文叔が二人だけで会えば、女子である事がいつ知られないとも限らない。
「最近は忙しくて、出掛けていた。清河郡は、洪水での被害が大きかったのだ。被害の復旧と灌漑工事の指図に行ってきた」
この時代、皇族や権門貴族は領地の他に、私有地である多くの荘園を持っていた。領地の経営に無関心で臣下任せな皇族が多い中で、敬徳は、領地の経営も立派に行っている。
「清廉で経営に熱心な領主で、清河の民は幸せだな。民のために尽力しているのだな」
二人が四阿に入ると、侍女の紅衣が、冷たい茶と菓子を持ってきた。
蓮池を渡ってくる夕方の涼風の心地よさに、長恭は目を細めた。
「長恭に尋ねたいことがあるのだ」
長恭は、敬徳を凝視した。
「お前と同じ学堂で学んでいる文叔だが、学問の進み具合はどうなのか?」
文叔の話題が出て、長恭はドキリとした。
「どうかって、・・・よくやっている」
他の弟子に比べて、熱心だと言って良い。
「文叔は、仕官を望んでいる。学問が十分進んでいるなら、文叔の願いを叶えてやりたいのだ」
文叔は自分のいないところで、いまだ官吏になる希望を敬徳に言っているようだ。
他の者にはひどく冷淡な敬徳が、なぜ文叔には仕官の推挙をしようとしているのか。なぜ、文叔に執着するのか。うすうす女子だと感づいているのだろうか。
「ああ、文叔か・・・あいつはまだ十五歳だぞ。仕官するには、学問も覚悟も不十分だ。文叔には、官吏は早すぎる」
あの純粋な文叔に、官吏が務まるとは思えない。それに、女子の文叔が男として仕官することは朝廷を欺くことになる。露見すれば死罪である。
「そうか、・・・それでは少し待つとしよう」
高官であった父高岳の遺勢は、まだ残っている。敬徳が本気なら文叔を官途にねじ込むことは不可能ではない。
「ところで、文叔の出自を知っているか?」
官吏に推薦するなら、その出自を明らかにする必要がある。
しかし、南朝からの亡命者は、複雑な事情を抱えている者が多い。そのために、自分の身分を明らかにしないことが普通であった。
「いや、聞いていない。文叔は、親戚の屋敷にやっかいになっているようだ」
文叔の出自を詳しく言えば、敬徳に言えば、鄭家に
会いに行くに違いない。二人を近づける結果になってしまう。
「官職に就くならば、出自をはっきりさせねばならない。文叔に訊いておいてくれ」
文叔と王琳の関係が分かれば、女子であることも直ぐに知れてしまうであろう。
「分かった、訊いておく」
長恭は曖昧に答えると、敬徳を清輝閣に誘った。
高敬徳は、太保であった高岳の嫡男である。幼き頃より聡明で、長じてからはその武勇と温厚な人柄により、宮中の女人から熱い視線を送られる存在であった。
長兄高澄の死後、皇帝となった高洋にとって、一族の長老高岳は疎ましい存在だった。その聖意を感じて利用したのが、平秦王高帰彦だった。
後悔した高洋は、軍務から戻った嫡男高敬徳を清河王に爵封したが、当然罪に問われるべき高帰彦は、何の咎めもなく、いまだ寵臣である。
敬徳が変わったのは、その時からだった。
朗らかだった敬徳は、無口になり他人に本音を語らなくなった。喪を発していると称して、屋敷に閉じこもり誰にも会わないほどであった。
敬徳が後苑から帰った後、長恭は再び四阿に入った。
「何で、避暑への同行を断らなかったのだろう」
自分は鄴都を遠く離れるのに、敬徳は都に戻ってきた。もし自分がいない間に、敬徳に女子である事が知られたら・・・。自分の身体から湧き上がる昏い衝動を長恭は持て余した。
★ 皇太后の見送り ★
朝の陽光の中、皇太后一行は林慮山に出発した。
三台の馬車に数人の宦官と侍女、そして数十人の侍衛が付き従う。長恭は愛馬の俊風に乗り、馬車の前後で皇太后の警護をしていた。
前触れがされて、大街の左右には、見物の人々が並んでいる。
長恭は、馬上から大街を見渡した。調練のときとは違って、見送りに来ると約束してくれた。
『しばらく文叔に会えないのだ。文叔の姿を目に焼き付けておきたい』
鄴都を離れる前に、皇太后の行列の中で自分の勇姿を見せ、男としての自分の価値を示したい。そんな思いも無かったと言えばうそだ。
中庸門街を城門に向って一町ほど南行したとき、長恭は左の薬房の前に男装の文叔を見付けた。
翡翠色の長衣に銀色の冠を付けた男装の文叔は、人混みの中でもそこだけが光が当たっているように明るく見える。
馬上の長恭に気が付いた青蘭は、花のような笑顔を長恭に向けた。長恭の肢体に熱いものが流れ、胸を苦しくさせた。
『友としてだっていい。見送りに来てくれたのは、嫌いじゃない証拠だ』
長恭は右手を挙げて、文叔に向かって笑顔で小さく拱手した。
その時だ、紅色の長裙を着た少女が長恭の馬の側に走り寄ってきた。
「長恭兄上、蓉児です。これを・・・」
少女は手にした手巾を長恭に差し出した。精一杯伸ばした少女の手は、長恭の膝にも届かない。このまま前に進めば、蓉児が危ない。長恭は慌てて手綱を引いて馬を止めた。
「そうしたのだ、蓉児。こんなところに」
長恭は戸惑いながら不機嫌な声で尋ねた。なぜ、蓉児が門街に?蓉児は斛律光の嫡長女で、街に出歩くような女子ではない。思い詰めた眼差しの蓉児の手には、鴛鴦を刺繍した手巾が握られている。
「長恭兄上、無事なお帰りを・・・。心を込めて刺繍しました。受け取って」
手巾を受け取ることは、女人の思いを受け入れるということである。しかし、衆目の中で突き返しては、斛律家の令嬢である蓉児の面目を潰すことになる。
長恭が一瞬躊躇している間に、蓉児は手巾を長恭に押しつけて走り去ってしまった。薄紅色の手巾が長恭の手に残った。
「皇子様、皇太后様がお待ちです」
南を見ると婁皇太后の乗る馬車が前に行ってしまっていた。侍衛が前進を促しに来た。後ろには数人の侍衛が自分の前進を待っている。
「ああ、そうだな・・・」
振り向くと青ざめた文叔が、人込みの中に見えた。長恭は何か言おうとしたが、言葉は凍りついたように出てこない。
「文叔、これは・・・」
馬上から手を伸ばそうとしたが、文叔の姿は人波に紛れて見えなくなってしまった。再度、侍衛が前進を促した。
『ああ、文叔の前で何と言うこと』
できるなら、馬を降りて後を追いかけていきたかった。しかし、皇太后の行列でそれは許されることではない。しかたなく、長恭は手綱を引き、鐙に力を入れると馬歩を進めた。
郎皇太后が避暑に行く行列を見送りに行った青蘭は、斛律将軍の令嬢である蓉児が、想いを伝える手巾を渡している場面を目撃してしまう。自分と長恭の身分の違いを改めて思い知らされた青蘭は、長恭への想いを封印しようと決心するのだった。