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長恭の帰還

長恭が中軍の調練から戻った。長恭は冷たく接する青蘭との仲を深めようと、潅仏会を口実に城外に出掛けた。


        ★     楽安公主の婚姻     ★


高敬徳は、三月の中旬訓宣宮に婁皇太后を訪ねた。

高敬徳は、高岳の嫡子であり父親亡き後は、嗣部尚書の重職にもある。皇族の中でも将来を嘱望される青年である。

「皇太后様、お久しぶりです」

敬徳は、婁皇太后に拝礼した。


「皇太后様にお願いがあります。実は・・先日、楽安公主が来て、崔達拏との婚姻を撤回したいと言ってきたのです」

婁皇太后は、眉を寄せて扇子を閉じた。楽安公主は高澄の嫡女で、愛孫の一人である。

「楽安と崔達拏の婚姻は、すでに陛下の聖旨が出ている。・・・私にはどうにもならぬ」

今上帝高洋と婁皇太后は実の親子でありながら、長らく不仲であった。李祖娥皇后の立后をめぐって、親子の関係が決裂してしまったのだ。

「・・・崔達拏は私も知っています。崔達拏は、謹厳実直を絵に描いたような男です。公主の相手としては相応しいと思われます」

「私もそうだと聞いている。しかし、楽安は、なぜそのようなことを言い出したのだ」

敬徳は晴朗な瞳を婁氏に向けた。

「楽安は、見目の良い男子との恋に憧れているのです。それは、若い女子としては仕方が無いこと。幼い楽安は、いまだ憧れと現実との区別が付かないのです」

 我が儘一杯に育てられた楽安にとって、己の婚姻は生まれて初めてぶつかる人生の壁なのだ。

「皇太后様には、楽安を諭していただきたいのです」

 楽安は、多くの孫娘の中でも婁皇太后のお気に入りである。決して不幸な婚姻を望んでいるわけではない。しかし、公主の婚姻は皇子の場合のように、家柄だけで決めるわけにはいかない。何より真面目で妓楼通いなどせぬ人間性が重要なのだ。その点、崔達拏の生真面目さは広く知られている。

「そうだな、呼んで話をしよう」

敬徳は、感謝の拱手をした。


「そう言えば、長恭はいつ帰るかご存じですか?」

調練に出掛けて半月、見送りをして以来長恭の顔を見ていない。

「おおそうじゃ、昨日、斛律大将軍より知らせが来たのだ。明後日戻るそうだ」

 婁氏は愛孫の帰還に相好を崩した。

「長恭も調練で逞しくなったでしょう。早く手合わせがしたいものです」

敬徳は、無意識に腕をさすった。

「顔氏学堂に長恭を入れたが、学問の進み具合を聞いているか?」

 長恭が腹を割って話せる友人は多くない。

「顔之推は、中原一の学者と言われています。その門下から多くの優秀な官吏を朝廷に推挙しています。長恭は多くの弟子の中でも、秀逸であると聞いています」

 秘蔵っ子の長恭を褒める言葉に、婁氏は相好を崩した。

「そう言えば、長恭に学友ができたとか・・・」 

「長恭が、そなた以外と親しくするのは珍しい。学堂に入れた甲斐があった」

 婁氏は、満足げに数度頷いた。

「皇太后様が長恭を顔之推門下に入れたのは、叙任させるためでしょうか?・・・長恭なら十分やっていけると思います」

 そう言えば、長恭ほど文武に優れた人物が、未だ無位無官でるのは不思議なことだ。

「そなたもそう思うか?」

婁氏は、相好を崩すと敬徳を居房の茶に誘った。


 侍女の秀児が、敬徳に茶杯を出した。

「敬徳は、幾つになる」

「今年で、二十歳になりました」

年を訊かれた敬徳は、いつになく緊張した。二十歳で嗣部尚書とは、異例の出世と言える。

「敬徳は、二十歳か。もうそろそろ妻を娶ってもいいころだ」

 婁氏は、鷹揚な笑顔で茶杯を手にした。

「恐れながら、父の喪中ゆえ嫁取りは当分の間考えておりません」


高帰彦の策謀により父を失った敬徳は、漢族の習慣に従えば未だ三年間の喪中で、嫁取りは控えねばならなかった。しかし、鮮卑族では一年も過ぎれば、気にする者は少なかった。

 父の死以来、敵討ちだけを目標として生きてきた。たとえ大願が成就したとしても、権臣を殺害した罪は免れない。最悪の場合、三族皆殺しの可能性もある。妻や子どもはその犠牲になることは間違いないのだ。

「そうだったな、高岳の喪中であった。・・・高岳は、気の毒なことをした。救えなかった私を恨んでおろう」

「皇太后様、・・・滅相な・・」

敬徳が出陣している間に、父高岳が罪に陥れられたにも拘わらず、婁氏は助けることができなかった。

皇族としての権力を笠に着て漢人と手を組み、汚職で蓄財をしている高帰彦は、婁氏にとっても獅子身中の虫なのである。しかし、高洋の寵臣として高帰彦の権勢は、高まるばかりであった。

「両親を亡くしてそなたの心はいかばかりであろう。・・・しかし、仇を討とうなどと思うな。恨みは自分の身も滅ぼすのだぞ」

婁氏は柄杓を取り自ら茶を満たすと、茶杯を前に滑らせた。皇太后の婁氏は敬徳たち勲貴派の後ろ盾だ。その婁氏が、敬徳に高帰彦への恨みを手放せといっているのだ。

「皇太后様、そんな・・・私は・・・」

「敬徳、・・・帰彦は、必ず自滅する。そなたは若い、・・・耐えるのだ」

 婁氏は、苦しげに目を瞬かせた。

「皇太后様、・・・教えを、心に刻みます」

敬徳は静かに立ち上がると、拱手した。


     ★    長恭の帰還     ★

 

 立夏を迎えた鄴都には、初夏の風が吹き渡り、漳水支溝の川面は、したたり落ちるような新緑を映した。鄭家の後苑にある睡蓮地の薄紅色の睡蓮が、一つ二つと開いてきた。


 四月に入り、長恭の属する中軍が、調練を終えて上党から帰還した。しかし、皇宮に伝を持たない青蘭は、後から侍女の噂で知るだけであった。

『師兄に会いたい』

 秀麗な眉目に桃花の唇、広い肩。何度その麗しい姿を何度夢に見ただろう。しかし、これ以上縁を結べば、女人であることを悟られてしまう。長恭とどの様に向き合っていくべきか分からない青蘭は、学堂になかなか足を向けることができなかった。


四月の初旬、夏の熱い風が吹き出した頃、青蘭は学堂に向かった。

 顔家の垂花門をくぐると、内院には弟子たちが溢れていた。顔氏が西魏から脱出しておよそ半年、顔之推の名声は斉国内に広く知られるようになった。春以降、顔氏学堂に入門を希望する士大夫の子弟が多くなったと聞いている。

 青蘭は浅黄色の薄物の長衣に藍色の半臂の夏の装いで、講堂に向かった。


 午前の講義は、『史記』である。

 講師の何之元は、梁から来た官僚であり歴史家でもあった。何之元は父王琳と親交があり、梁の皇子簫莊の帰還について斉と交渉するために淮水・黄河を渡り鄴都に来ていたのだ。

 鄴都に落ち着いた何之元は、顔之推とも以前より友誼を保っていた。そんな縁で顔氏の要望により特別に学堂で『史記』の講義を行うことになったのだ。

 青蘭は何子元と面識はなかった。しかし、高名な何之元の来朝を知って、講義を聴きたいと久しぶりに学堂に来たのである。


 堂に入ってみると席の大方はすでに埋まっていた。辛うじて残っていた後ろの席に着くと、青蘭は『史記』開いた。

『韓非 列伝第三』

 戦国時代の末期、秦の始皇帝の時代、韓非は、韓の国の公子であった。

 韓非子は、生まれつきの吃音で、口で述べることが得意ではなかった。

『説くことの難しさは、説く者の知恵において説き伏せることの困難があるのではなく、説く相手の心を見抜き、いかにして自身の説き方を、それに適合させるかである』

何子元は、韓非子の言葉から政の表と裏を説いた。


 青蘭が、書冊から顔を上げると、斜め前に長恭の日焼けした横顔が見えた。師兄が戻ったのは本当だったのだ。

 秀でた鼻梁に長い睫が美しい。真っ直ぐに結ばれた唇は触れることができない氷花のように魅惑的で、青蘭は視線を逸らすことができなかった。

 気が付くと、いつの間にか『史記』の講義は終了していた。ほとんど聴いていなかった。

 学士達は、何之元を追いかけるようにして慌てて堂を出て行く。青蘭も学士たちのあとを追って堂を出た。早く学堂を出なければ・・・。


「文叔、文叔」

 長恭だ。後ろから自分を呼ぶ声が聞こえる。振り向いてはならない。長恭の声を振り払うように、青蘭は人波をかき分け垂花門に急いだ。

 早く門を出なければ・・・。垂花門を出ようとしたところで、青蘭は長恭に腕を掴まれた。

「文叔、待ってくれ」

長恭は、強引に垂花門の脇に文叔を連れていった。

「師兄、なにをするんだ」

 いつもは他人を気にする長恭が、今日は人目も憚らずに引っ張っていく。強い腕力に逃げることもできない。

二人きりになると、長恭は腕を放した。

「元気だったか、文叔」

 やっと会えた。長恭は抱きしめたい気持ちを、辛うじてこらえて笑顔を見せた。

「ああ、・・師兄こそ・・」

青蘭は、手首をさすりながらうつむいた。

 上巳節の後、調練を知らせてもぶっきら棒な態度だった。しかも、次の日には敬徳と一緒だった。問い質したい気持ちをどうにか押し留めた。

 長恭は文叔の手を今度は優しく握った。

「文叔、・・会いたかった」

「師兄、・・私は・・・」

 そっけない素振りをしてから半月、師兄は自分のことなど、とっく忘れたと思っていた。しかし、師兄は自分を忘れてはいなかったのだ。

 なぜか自然に唇がほころぶ。・・・でも、勘違いしてはだめだ。師兄の情は義兄弟としての愛情なのだ。義弟の顔で通さなければ。

「少しは、私の事を心配したか?」

 長恭はふざけた調子で、青蘭の頬を摘まんだ。ああ、いつもの長恭だ。


「食事を用意した。一緒に付き合ってほしい」

「用事が・・・」

 断ろうとしても、今日はいつになく強引に人のいなくなった門外に引っ張っていく。通りには、見慣れた馬車が二人を待っていた。

「腹が減っただろう?」

 青蘭が空腹に弱いことを、見透かしている。青蘭は唇をかむと、馬車に近付いた。馬車に乗ろうとする青蘭に、長恭は自然に右手を差し出す。

 青蘭は長恭の手を無視すると、馬車に乗り込んだ。文叔、お前は私を男として見てくれないのか。青蘭のつれない仕草に、長恭は差し出した手を見詰めた。


       ★     漠然とした不安   ★


長恭と青蘭は並んで馬車の席に座った。訊きたいことはいっぱいあったのに、二人だけになると反って言葉が出ない。

「その・・見送りに来てくれて、嬉しかったよ」

最初の言葉を詰問にはしたくない。長恭は笑顔を見せて感謝の言葉を述べた。顔を覗き込んできた長恭の視線を避けて、青蘭は窓に手を掛けた。もしや、女子である事に気付かれたのだろうか。

「でも、・・・あのとき、敬徳と一緒にいたのは、なぜなのだ」

長恭は胸につかえていた言葉を吐きだした。

「あのとき、敬徳と一緒になったのは、・・単なる偶然だ。門街で偶然出会ったのだ」

 中軍は斉国の精鋭だ。調練でさえ見送りの人垣は多い。そうか、・・・美しい唇が緩んで、長恭はほっと胸をなで下ろした。

 しかし、二人は親しそうだった。もしや私がいないところで敬徳との関わりを深めていたのだろうか?猜疑心が、長恭の瞳を険しくさせる。

「私がいない間、学問を怠けていなかったか?」

「戯れ言を・・・毎日講義と、剣術の稽古ばかりだった」

青蘭は、頬を膨らますと男らしく言い返した。しかし、長恭の心は癒えない。

「もしも、敬徳に連れられて妓楼に行っていたりすれば、学問が疎かになる・・・」

「妓楼だなんて、・・・師兄、私が行くと思うか?」

青蘭は、怒ったように長恭の肩を拳で叩いた。


「師兄、上党での調練はどうでした?」

 敬徳のことを話題にしたくない青蘭は、笑顔を作って話題を変えた。

「調練では、大変だったよ。自分でやる剣術の稽古は容易いが、兵士を動かすのはなかなか難しい」

武烈を重視する鮮卑族にあって、長恭の麗容はむしろ弱さの現れだと思われる。海千山千の将兵が女人と見紛う美貌の将軍の命令に素直に服するとは思えない。長恭は、よほど苦労したに違いない。

青蘭は、日焼けした長恭の手を握った。


 ほどなく、馬車は鄴城の門を出て青々とした草地に入った。

 城外へ行くのか?青蘭の脳裏に剣術の調練の苦しさが思い出された。

「まさか、中食の前に、また剣術の稽古を課されるのか?」

「やりたいのか?」

長恭は、悪戯っぽい笑顔になった。


「まさか」

 青蘭が男らしさを示して長恭の胸を叩こうとしたとき、馬車が大きく揺れた。青蘭の身体が、長恭の縹色の胸の上に投げ出された。逞しい肩が目の前に迫って、胸がいきなり高鳴る。

 身体の柔らかさが、長恭を甘やかな誘惑に誘う。放したくない。いつの間にか、長恭は文叔を両腕で抱きしめていた。なぜ、女子だと気付かなかったのだろう。

「師兄、・・・・苦しいです」

 青蘭の小さな声で、長恭は我に返った。

「そ、そうか、・・・すまん」

 気まずく起き上がると、二人は座席の両端に別な方向を向いて座った。文叔は自分を男として見ていない。文叔に恋心を悟られてはならない。

「涼しいところで、ゆっくりと食べたいと昼餉を用意したのだ」

長恭はしいて兄のような笑みを浮かべた。


★  文叔への想い  ★


 二人の乗った馬車は、漳水の辺に至った。

二人は馬車を降りると、灌木の林に入った。岩の多い川岸に出たとき、急に長恭が立ち止まり文叔の手を掴んだ。

「お前は変だ。・・・私を避けている」

「避けているなんて・・・」

長恭も気付いていたのか。

「母上に、あの時の外泊を咎められたか?」

 あの時とは、上巳節の宴の時のことだ。文叔が鄭家の令嬢となれば、無断外泊が許されるはずもない。

「男子が、外泊しても問題ないだろう?」

弱みを見せたくない文叔は、不満げに唇を尖らせ横を向いた。女子の名節にとっては致命的な外泊も男子にとっては、何の問題もないのだ。

 これからも、あくまで男子の振りを通すつもりなのか。せめて自分には打ち明けてくれると期待していた長恭は、隔てられた心が恨めしかった。


母上の叱責に話が及ぶと、いつかぼろが出る。話を逸らさねば・・・。

「心配なのだ。・・・皇族の師兄が、私などと兄弟の契りを結んでよかったのか」

 文叔は、苦しげに眉を潜めた。

 なんだ、文叔は、二人の身分の違いを気にしていたのか。

「何を言っているのだ。王琳将軍は梁の重臣だ。身分で引け目なんて感じるな」

長恭は、笑顔を作りながら文叔の額をつついた。


 青蘭は、衿を整えると髷に手を遣った。

 観翠亭で一緒に泊まって以来、長恭は弱さを揶揄することも亡く、何気ない仕草が優しくなった。

気まぐれな貴公子の優しさなのだろうか。それとも、私の記憶の無いところで何かがあったのか。

「もしかしたら、上巳節で酔ったときに、何か、・・・あったのか?」

 私が知っていることに、文叔は感づいたのか?

「その、師兄に、何か無礼を働いたとか・・」

「ああ、・・私の剣術の鍛錬が厳しすぎたと絡んできて、殴る蹴るの・・・」

長恭は出任せを口にした。

「えっ?泥酔して、師兄に殴る蹴るの乱暴を?」

 何と言うことだ、自分は泥酔して何も覚えていない。衣を自分で着替えると暴れたとは聞いていた。しかし、剣術の鍛錬の苦しさに文句を言って、師兄に殴る蹴るの乱暴を働いたとは、学士にあるまじき無礼だ。私が乱暴を働いたから、師兄は強く出るのを止めたのだろうか。

「文叔は、酒に酔うと乱暴になる。約束だ。私のいないところでは、宴に行くな。他の者だったら命はないぞ」

「ああ、分かった」

文叔はうなだれて涙を浮かべた。ああ、師兄に醜態を見られただけでなく、嫌われてしまった。

 ほっと小さく溜息をつくと、長恭は持参した食盒を草地に置いた。


  ★  長秋寺の灌仏会   ★


 調練から戻った長恭は、文叔を頻繁に城外の遠乗りに誘うようになった。弟子の多くなった学堂では、二人でゆっくり語り合うことが難しかったからである。


 南北朝時代の中国では、仏教が広く信仰されていた。

北朝では北魏の頃から、天竺より伝来した仏教が興隆し、雲門岩の磨崖仏や寺院の建立があいついだ。鄴城内はもちろん、鄴城の東の漳水沿いや、南の丘陵にも多くの寺院が建立されていた。

四月七日は、潅仏会である。潅仏会は、仏陀の誕生を祝う祭礼である。潅仏会の法会には、仏の加護を願う多くの庶民が詰めかけた。


長京と青蘭の乗る馬車は、鄴城の城門を出ると東に向かった。

「今日は四月七日だ。城外の寺院でも潅仏会をやっている。一緒に行ってみよう」

 長恭は、恋情を隠して義兄のこだわりない明るさで言った。

「潅仏会なら、城内の寺でもやっているのに、わざわざ城外へ?」

 青蘭は不満げに口を尖らせた。高一族の菩提寺である国宝寺でも、潅仏会は行われているはず。

「たまには、城外の寺に出掛けるのもいいだろう?」

四月の日差しは,すでに夏の暑さをおびている。長恭が窓を開けると、四月の涼しい風が吹き込んでくる。振り向くと、後ろに流した文叔の豊かな髪が、初夏の風になびく。

鄴城内の寺院に行けば、文叔の父である王琳将軍と好のある武将や士大夫に会わないとも限らない。梁の旧臣に出会ったら、具合の悪いことになる。

 特に敬徳には注意が必要だ。他人に冷淡な敬徳が、なぜか文叔に対して興味を持っている。


「長秋寺では、白い象が見られるそうだ。行ってみよう」

 長秋寺は前王朝である北魏の護持した寺院である。城内の寺院に比べて人出も少ないと聞いている。人目が少なければ、文叔が女子である秘密は守られる。

「ほお、白い象とは初めて聞いた。面白そうだ」

文叔は何心なく少年のような笑みを浮かべると、長恭の香色の袖をつかんだ。


 ★   長秋寺の白象   ★ 


長秋寺は北魏の時、元氏一族の崇敬を集めた寺である。北斉が建てられ高氏が皇帝の位に昇った今、往時の勢いはないものの、今でも多くの民の信仰を集めている。


境内に入ると中央には三重塔がその荘厳な姿を見せていた。三重の黒瓦の屋根と赤い壁が、仏陀の崇高な教えを象徴している。

 三重塔の正面に立つと中には、白い象に乗った釈迦の姿を写した像が安置されている。見たこともない鼻の長い巨大な動物だ。本当にあのような動物が天竺にいるのだろうか。

長恭と青蘭は、拝礼のために長い列を作る民の後ろに並んだ。

「師兄、あれが白い象?」

「ああ、天竺にはあのような巨大な動物がいて人を乗せるそうな」

天竺はこの中原より広いのだろうか。天竺は違った世界で、そこには女子を生かせる道があるのだろうか。

「師兄、いつか行ってみたいと思わないか?」

「鄴と違って、やたら暑い所だそうだ。でもお前と一緒なら行ってもいいぞ」

 誰も知らない土地へ行って文叔と夫婦として暮らせたらどれほどいいだろう。長恭は、冗談を装って青蘭の肩を拳でつついた。

 二人は、釈迦像の前に跪くと三度拝礼をした。


広い境内には、西域から来たと思われる胡人の奇術師や、縁起物を商う露店がひしめいている。

 甲高く奏でられていた天竺風の音曲が、一段と高くなったかと思うと、鬱金色の法衣をまとい香炉を下げた若い僧侶が正殿から出てきた。それに続いて袈裟を掛けた十数人の僧が続いた。

 そして最後に釈迦本尊像が輿に乗せられ現れた。釈迦像を拝もうとする多くの人々が行列を取り囲んだ。

「昨年は雨が少なく、実りも少なかった。民は今年の夏を前にして不安に駆られているのだ。御仏にすがりたい気持ちが強いのだ」

長恭は、仏像に手を合わせる民の姿に眉を潜めた。

 長恭と文叔は人混みから離れ、門に向かって進んでいく行列を見送った。

「干魃の時に民を救うのは朝廷の役目だ。しかし、朝廷が何もしない。だから民は仏に縋ろうとするのだ」

 憤慨の言葉を発した文叔は、言い過ぎたかと長恭の顔を見た。

官職に就いていないとは言え、長恭は皇族の一人である。朝廷を非難する言葉は耳に痛いにちがいないのだ。

「この惨状の中でも、皇族は血税を浪費している。でも、無位無官の私には何もできない。・・無力だ」

長恭は溜息をついた。

皇太后府は、昔から質素な生活をおくってきた。長恭の生活も祖母の意向に沿って質素極まりない。しかし、政治的に力の無い長恭にできることは限られているのだ。

「師兄、・・・師兄のせいではない。自分を責めるな」

 文叔はそう囁くと、うなだれている長恭の袖を引っ張った。

 

三尊の行列が大門を出て行くと、境内は再び喧噪に包まれた。

長恭は不機嫌に青蘭の手を握ると、拝殿の方に向かった。

「師兄、何を怒っているのだ?」

 青蘭は、引きずられるように後に続いた。


拝殿に入るとひんやりとした暗さに包まれた。目が慣れて辺りを見回すと、堂内は北魏の往時を偲ばせる豪華な装飾である。

 拝殿の中央の蓮台には、釈迦像が欠けている。そのせいか、拝殿に人影はない。

 長恭と青蘭は拝殿の奥にある曼荼羅を見上げた。

「綺麗な絵だ」

「これは曼荼羅と言って、仏の教えを現している」

 長恭は、学問の他に仏教にも造詣が深いらしい。

「師兄は、儒教だけでなく仏教にも詳しい。それに比べて私はまだまだだ」

 青蘭は、力なく朱塗りの手すりに寄りかかった。

「干魃に苦しんでいる人々を見ると、私の学問に意味があるのだろうかと思ってしまう」

 長恭は、慰めるように文叔の頭に手を置いた。

「文叔、お前は何のために学問をやっているのだ?」

「そ、それはだ、立派な士大夫になり、世の安寧のために尽くすためだ」

 広く儒学を志す学生は、国や民のために尽くすことが本分だとされている。

「だが、私に官吏は似合わない・・・と思う」

女子の官吏は、斉には存在しない。もし男だと偽って仕官すれば死罪を免れない。

「そうか、・・・官吏にならないなら、・・・お前が世のために尽くせるものを見つけられるように協力しよう」

師兄はいつだって私を助けてくれた。それをいいことに、いつも師兄に甘えてきた。

「今まで、師兄を頼りすぎた。だから、・・・これからは自分の力で・・・」

「水くさいぞ、文叔。・・・私が、迷惑なのか?」

長恭が子供っぽく、口を尖らせた。

「そ、そんな迷惑だなんて・・・」

青蘭は激しく首を振った。一人で学問をする困難さは、この半月で身にしみている。

「安心しろ、手助けをするだけだ」

 長恭は笑顔で腕組みをすると、青蘭の頬をつまんだ。


★   異形の僧侶   ★


 二人が台座の南面に回ったとき、三十代の長身の僧侶が現れた。

 異形の僧侶である。長身の長恭をはるかに超える六尺(およそ百八十センチ)の長身に、胡人を思わせる面差し、琥珀色の肌は、南方からの渡来人を思わせる。そして何としても目に付くのは彫りの深さと長い耳である。

那連提黎耶舎テレーンドラヤジャス殿ではないか」

長恭は、親しげに長身の僧侶に近づくと拱手した。

「南無阿弥陀仏、長恭皇子ではありませぬか、長秋寺でお目にかかれるとは・・・」

那連は、手を合わせて挨拶をした。

そうだ「しばらくだ。・・・調練に出ていたので、先日戻ってきた」

鮮卑族としては、長身の長恭よりかなり大きい偉丈夫である。

「那連殿は、今は何を?」

「現在、陛下の聖旨を受け経典の翻訳をしている。翻訳のために、天平寺の造営を始めるところだ」

今上帝高洋は深く仏教に帰依し、寺院の建設に留まらず経典の翻訳や注釈を支援していた。

「那連殿、経典の翻訳をしているところを見学してもいいだろうか?」

「もちろんだ。いつでも歓迎する」

那連の快諾に、長恭は丁寧に拱手した。


「あの僧侶はだれなの?」

台座の土台の彫刻を眺めていた青蘭は、戻ってきた長恭に訊いた。

「那連提耶黎舎という、天竺から来た高僧だ」

 那連提黎耶舎は、この年(紀元五五六年)北天竺から来朝した高僧であった。那連は、天竺の各地や西域を遊歴し、並ぶ者のない博学で有名であった。

 今上帝高洋に敬重され、この時昭玄統に封ぜられていた。那連は、その容貌から長耳三蔵とも言われ多くの士大夫から徳望を集めていた。


「あの僧は、はるばる天竺の山々を越えて、斉にやってきたと?」

天竺とは、広大な砂漠の遙か彼方にある国である。青蘭は歴史書では何度か目にしたことがあるが、文物でさえ手にしたことはない。

「ああ、仏教の教えを広めるべく、険しい山河を越えて来た」

長恭は朝廷での法会に参列したときに、たまたま出会ったのだ。那連の威厳に心引かれて交流するようになっていた。

 青蘭は、砂漠を越えて斉にたどり着いたという那連の志の高さに溜息をついた。

 経書を学ぶことだけが、大志に至る道ではないのだ。那連のように民に学ぶことが、書冊よりも重要なのかも知れない。

「斉には顔師父や那連昭玄統など多くの賢人が集まっている」

皇帝が勲貴派の力を弱め、皇帝の権力を強化するため、対抗勢力として多くの漢人や異民族を登用している。鮮卑族だけに偏らない人物の登用が、賢人や野心に溢れる者たちを引きつけているのだ。

「鄴都に来て、世界が広いことが分かった。それだけでも、ここに来たかいがあったというものだ」

青蘭は、釈迦像の台座を囲む柵を指でなぞった。


   ★   敬徳と文叔の関係   ★


 皇太后府の宣訓宮の東の殿舎、清輝閣の開け放たれた窓から、微かな涼風が入り込んでくる。蝋燭の燃える音と、料紙の上を筆が滑る音だけが聞こえる夏の宵だった。


 孫子列伝 第五である。

『信義を守り廉潔で仁徳と武勇あるものでなければ、兵法を伝え剣術を論ずることは出来ない・・・』

 長恭は、午前に行われた『史記』の講義の解釈を清書しながらも、昼間の柳順閣での光景が頭を離れなかった。


喫茶好きな長恭と文叔は、講義の後に柳順閣で落ち合い学問について語り合うのを常としていた。

文叔は自分を男子とは見てくれていないようだ、それでも、師弟として傍にいるだけで心慰められる。離れたくない。

 今日の午後、長恭は顔之推に個人的な質問をして、いつもより遅れて顔家を後にした。


 階段を登り二階の露台に入ったとき、卓を囲む敬徳と文叔の姿が目に入った。なぜ、ここに敬徳が?長恭は反射的に柱の陰に身を隠した。


「気に入った筆を手に入れた。文叔に進ぜよう」

懐から漆塗りの箱を取り出すと、敬徳は中から筆を出した。

「そのような立派な筆は、私などには相応しくない」

「いや、志の大きい者には良い筆が相応しい」

敬徳が箱を押し返そうとする文叔の手を笑顔で握った。

「若者は、遠慮するものではない」

 敬徳は、文叔の手に筆の箱を握らせた。


文叔と落ち合う約束であった。でも、なぜか二人が親しくしているところに出て行く勇気が無かった。

 これは嫉妬であろうか。爵位・財力・政治力、敬徳に比べて自分は男として何と見劣りすることだろう。質素な生活を送る長恭には、文叔に贈る上等な筆など望むべくもないのだ。 長恭は唇を噛んだ。

 長恭は、二人に気づかれぬように足音を忍ばせて階段を下りると、茶房を離れた。


馬車を返してしまっていた長恭は、トボトボと門街を歩いた。

自分が調練に行っている間に、二人は筆を贈り合うほど親しくなっていたのか。見送りの時に二人が一緒だったのは、偶然では無かったのかも知れない。

 もともと、敬徳は文叔の命の恩人だと言っていた。文叔が出仕を望むなら、頼れる者は無位無官の自分より嗣部尚書の敬徳だろう。

長恭は胸の苦しさを抑えて、茶房を見上げた。敬徳は、文叔が女子だということは、知っているのだろうか?知っていれば、贈る物も違ってくるだろう。

 女子は財力と官位で男を値踏みする。文叔が女子としての目で見ると、自分よりは敬徳の方がはるかに魅力的に違いない。



夕暮れの清輝閣に、初夏の涼風が吹き込んできた。

 顔を上げると、書房に掛けてある阮籍の詠懐詩が蝋燭の灯りの中に浮かび上がった。文叔から贈られた料紙を掛け物に表装したのである。


夜中、寐ぬる 能わず

起坐して 鳴琴を弾ず

薄帷 明月に 鑑らされ

清風 我が 衿を吹く


 長恭は、詩賦に近寄った。水茎の跡も麗しい阮籍の詩文と琴と明月の絵が、揺れる燈火に浮かんでいる。

 秀でた鼻梁、意志的な眉、大きく清亮な瞳、鍛錬の時に桃色に染まる頬、時には辛辣な言葉を吐く唇。青蘭は、並の女子の枠には入らない女人だ。

 長恭は、掛け物の詩文の文字に触た。冷たい滑らかさが、文叔の頬を思い出させる。

 文叔にとって自分は男ではないのか。たしかに、女子に見紛うと言われてきた。鮮卑族では、女子のような美しさは軽蔑の対象だ。むしろ醜悪なほどの武威こそ、尊敬されるのだ。

女子の気持ちになったら、文叔だって男らしさに惹かれるに違いない。長恭は、溜息をついて額に手を当てた。


  ★  将来の叙任   ★ 


 宣訓宮の前庭には、至る所に燈籠が掲げられ、低く植えられた樹木が静かな影を作っている。

 長恭は、涼風を求めて前庭に出た。東の空には、五月の望月が登り煌煌と輝いている。


「粛よ、あまり見詰めると、月に魅入られると言うぞ」

 声のする方を見ると、婁皇太后が、侍女の秀児に手を預け灯籠に照らされた回廊に立っていた。長恭は、笑顔で近付くと小さく拱手した。粛は、高長恭の諱(本名)で君主か父母のみが使用できる名称である。

「御祖母様、こんな宵にいらっしゃるとは、どうなさったのですか?」

「最近、そなたがなかなか顔を見せてくれぬゆえ、足を運んだのだ」

 皇太后が、左手を伸ばしたので、長恭は右手でそれを支えた。

「学問に忙しくて・・・ご足労を」

以前は朝夕の挨拶を欠かさぬ長恭であったが、学堂に通うようになってからは、間遠になっていたのだ。

「御祖母様、学問にかまけていました。申し訳ありません」

「学問への熱意ゆえだ」

 怒っていると思いきや、皇太后は笑顔で長恭を見上げた。


 婁皇太后は、今上帝高洋と長恭の父高澄の実母に当たる。東魏の宰相たる高歓との間に男女六人の子を産み、その大業を支えたのは皇太后婁昭君であった。

 高長恭は、諱を粛と言い、八歳で母荀翠容を九歳で父高澄を失うと、祖母婁昭君に引き取られ、その膝下で養育されることとなった。文襄(高澄)六兄弟の内、後見を持たない皇子は、長恭のみだったからである。

 成長するに従って、長恭は婁氏の寵愛を受けるようになった。六兄弟の中で、長恭が愛息である高澄の面影を一番宿していたからである。


 婁氏は、満月を仰ぎ見た。

「美しい満月よのう・・・されど、あまり見詰めると魅入られるという。祖母は心配じゃ」

「心配いりません。御祖母様、私はいつもお側にいます」

 長恭は、温色に満ちた笑顔で、もう一つの手を婁氏のそれに重ねた。


長恭は祖母の手を引いて清輝閣の扉を押した。祖母が長恭の居所を訪ねるのは久しぶりである。

 婁氏が、長恭の書房の榻にすわると、宮女が茶菓を運んできた。

 几案に重ねられた折り本と竹簡が、薄帳越しに蝋燭の燈火に照らされて見える。長恭は決して期待を裏切らない孫である。

「粛よ、学問に励んでいるようだな」 、

 婁氏は、目を細めた。

「武勇に優れたそなたに、学問を強いている。苦労しているのではないか」

 皇族は概して学問に重きを置いていない。

「苦労などと・・・学友たちの中で、刺激し合いながら学んでいます」

「学び合う学友がいるとは喜ばしい」

婁氏は、扇子をつかうと書架を見遣った。

「顔之推の弟子は多いのか?」

「以前は数人でしたが、最近、だいぶ増えたようです」

長恭は祖母の意図を図りかねた。漢人の顔之推の学堂に入門させたのは祖母である。

 陳皮茶を飲んでいた婁氏は、急に長恭を見詰めた。

「最近の朝堂の様子を知っているか?」

「朝堂の様子はとんと・・・」

 朝廷の腐敗は知っているが、陛下への批判となる。

「官吏と言えば漢人ばかりだ。・・・しかし、漢人の官吏が上奏文を造り、選び、決裁し、実際の政を行う。これで、高洋が斉の主と言えるか?」

 長恭は、多くの漢人と共に鮮卑族が官吏として任官していることを知っている。漢人と鮮卑族が協力し合って政を行っていると思っていたが、その実態は違うらしい。

「陛下を戴いているように見えながら、この斉の実権を握り、実際にこの国を動かしているのは楊令公などの漢人なのだ」

 婁氏は、書冊を手に取りながら悔しそうに眉を寄せた。

「漢人の力が、それほど大きいとは・・・」

鮮卑族の君主を戴きながら、政の実務の多くは漢人官吏に委ねられていた。

 広大な斉の政治には文書の修辞が欠かせない。かつて鮮卑族から不満が出て登用の道も開けたが、教養も学問も不足していた鮮卑族は、その責を全うせず禄を貪るばかりであった。


婁氏は、目を細めて長恭の手を握った。

「そなたには、武勇だけでなく学問でもこの斉国を支える人材になってもらいたいのだ。漢人に太刀打ちできる学問を身につけさせるために顔之推に弟子入りさせた」

 昨年の入門は、そのような含みがあったのか。

「近々、そなたを任官させるつもりだ。名ばかりではない。漢人官吏に互していけるよに、学問に励むのだ。期待している」

五弟の延宗は、すでに安德王の爵位をえている。しかし、兄の自分は十七歳になりながら、いまだ爵位も任官もしていなかった。なぜ、六兄弟の中で四番目の自分が無位無官なのだろう。心の中では不満に思いながらも、主君たる祖母の前では決して口に出せないことであった。

御祖母様は、愛孫たる自分に名実共に実力が備わるのを待って、任官させようとしていたのだろうか。

 長恭は、期待の言葉に笑顔を作った。



皇太后より冬の任官を言い渡され、長恭は喜ぶが、青蘭にとって任官は長恭との別れを意味する。

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