離れえぬ想い
泥酔して観翠亭で一泊してしまった青蘭は、屋敷に戻ると母親からの叱責を受け長恭との交際を禁止されてしまう。数日後に学堂に行った青蘭は、長恭より半月の調練を知らされる。
★ あけぼのの観翠亭 ★
薄明かりの中で青蘭が目を醒ます。目の前に喉が見える。
ここはどこ?思わず青蘭が上を向くと、長恭の頬と唇が目に入った。
なぜ、師兄の腕の中に?
どうしたということだ。昨夜、何があったのだろうか?痛む頭で考える。ああ、何も思い出せない。
青蘭は、逃げるように身を固くして目をつぶった。
そうだ、・・・上巳節の潔斎の後に、かつて師兄が住んでいた観翠亭で酒を飲んだのだ。その酒は口当たりはいいが、思いの外強く、・・・三杯目の酒杯を傾けたことまでは覚えている。四杯目を飲んだのだろうか。
いつの間にか気分が悪くなって、・・・露台の端に行って・・・。そうだ、喉と口の不快感は嘔吐したせいに違いない。その後は?・・・悪寒が襲ってきて・・・身体が宙に浮いたような気がする。
ほのかな沈香の香り・・・もしや師兄の腕だったのか。その後、いったい何があったのか。まさか、青蘭は長恭に気付かれないように、胸元と腰帯を確認した。・・・よかった。下着は乱れていない。長衣は帯もしっかり結んである。
身体は見られていない。何もなかったようだ。青蘭は、目を瞑り安堵の溜息をついた。
泥酔したが女子だと気付かれていないようだ。ほっとすると、急に頭の芯がズキズキと痛んでくる。
このまま長恭が目を覚ましたら、気まずくて義兄弟としての関係など吹っ飛んでしまう。長恭を起こしてはならない。
青蘭は細心の注意を払いながら、長恭の腕を身体から離した。青蘭は寝返りを打って背中を向けたが、長恭は目を覚ます気配もない。
ああ、このまま榻牀を出てしまおうとしたが、昨夜の酒が、鎖のように青蘭を縛り付ける。
「ぶ、文叔・・」
長恭は夢うつつの中で青蘭の名を呼ぶと、無意識に青蘭の方に手を伸ばした。青蘭は大きな長恭の沈香の香る腕の中に再び抱き取られた。長恭の体温の温かさが、青蘭を策略家にさせる。
青蘭は目をつぶった。このまま師兄のたくましい腕の中にいられたら、どれほどいいだろう。
『私は欲にまみれている。男子だと嘘をついても、師兄の腕を離れたくないのだ』
青蘭は長恭の胸に頭をよせた。
皇族との付き合いに、母の鄭佳瑛は反対している。そのため、師兄との踏青について、母に知らせることなく外出したのだ。城門が閉まる前に戻れば、何の問題も無いと思ったからだ。
自分の無断外泊で鄭家では大騒ぎになっているかもしれない。男子であれば何の問題ない外泊も、女子にとっては一大事である。母上の怒りはいかばかりか。青蘭は長恭の腕の中で額を抑え身を縮めた。
青蘭が目を瞑っていると、長恭が目を覚ます気配がした。青蘭の首の下から躊躇なく腕を抜くと、長恭は上半身を起こした。
長恭を意識していた自分に比べて、師兄の仕草はさりげない。青蘭は身体を縮めたまま、なぜか溜息をついた。師兄は何にも気が付いていないのだ。抱きしめてくれたのも、純粋な兄弟愛だったのだ。
「大丈夫か?文叔」
身体を起こした長恭は、文叔の顔をのぞき込んだ。青蘭は、恐る恐る目を開けた。朝日に輝く長恭の姿は、青蘭には眩しすぎる。
「ああ、・・頭が・・・」
長恭は、何心ない仕草で寝ている文叔の額に自分の額を重ねた。途端に、青蘭の心臓が跳ね上がる。
「文叔、大丈夫か?気分はどうだ?」
清純な長恭の瞳がまぶしい。まるで新婚の共寝のようだ。このまま同じ榻牀にいては、女心を抑えられない。
青蘭は、いきなり起き上がると、榻牀の端に腰を下ろした。ぐらっときて一瞬意識が遠のいた。
酔った後の事が思い出せない。青蘭は、額に手を当てた。もしかして、酔った勢いで、自分の気持ちを吐露してしまったのでは無いか。青蘭は、身体をずらして長恭の表情を窺った。
「師兄、昨夜は、申し訳ない。・・・醜態をさらした」
吐いたのは確実だ。まず謝って昨夜の事を探らねば。
青蘭は、痛む頭を下げた。
隣に座リ直した長恭は、呆れたように頭を振った。
「そうだ、酔ったお前は、私に・・・」
青蘭は、思わず目をつぶった。
「四杯の酒で泥酔したお前は、嘔吐物で衣を汚したのだ」
「私が吐いて衣を・・・、そんな無体なことを?」
青蘭は身体を縮めて手を合わせた。
「そりゃあ、大変だったぞ。私の衣を貸してやった」
着ている見慣れない長衣は、長恭の衣だったのか。
「ところが、散々迷惑を掛けておきながら、お前は私を罵って、殴る蹴る散々暴れたのだ」
長恭は、苦笑交じりに皮肉った。
「私が罵って、暴れたなどと・・・」
そ、そんなことをしてしまったのか。記憶にないが、そう言われると師兄に絡んだ気もする。
「文叔、お前が酔うと、あれほど乱暴になるとは驚いたぞ・・・」
長恭は痛そうに左の腕をさすった。何と言うことだ。尊敬する師兄に乱暴を働くとは・・・。青蘭は、肩を落としてうなだれた。皇族に乱暴を働けば、杖刑もありうる。
「衣の着替えは、師兄が?」
女子だと知られていないと言うことは、着替えるときに師兄と諍いになったのかもしれない。
着替えさせたかと訊かれた長恭は、一瞬言葉を失った。自分が着替えさせたと言えば、女子だと知たことを白状しなければならない。秘密が漏れたと知れば、文叔は自分から離れていくかもしれない。
「私が着替えをさせようとしたら、自分でやると怒りだしたのだ。覚えていないのか?傷を見られたくないと私を追い出したのだぞ。覚えていないのか?」
長恭はありもしない傷を持ちだして、ことさら文叔を睨んだ。
「い、いや、・・・覚えている」
女子だとバレていないようだ。長恭の言葉に、青蘭はほっと胸をなで下ろした。
「その、師兄に乱暴するとは、申し訳ない・・・どこを?」
「ここだ・・・」
長恭が左腕を差し出すと、文叔は優しくさすった。
長恭が洗面の水を取りに行っている間に、青蘭は冠と簪を手に鏡の前に座った。いつの間にか解かれた髪が肩のところまで垂れている。鏡の中には、起き抜けの少女の顔が写っている。
このままでは、女子だと分かってしまう。師兄が戻る前に早く髷を結わなければ。
青蘭が髷を結うのに手間取っていると、長恭が入ってきた。いつもは側仕えに結ってもらっているので、手早くできないのだ。
「侍女がいないと結えないのか?まったく鄭家の若様にはこまったな」
長恭は弟に言うようにふざけると、青蘭の後ろに回った。
師兄は女子だとは気付いていないようだ。もっとも、美女に見紛う師兄に比べれば、自分などは不細工な洟垂れ小僧に過ぎない。
長恭は櫛を取ると、髪を梳きだした。
「文叔、お前は酒に弱い。泥酔して乱暴を働いたら一大事だ。私の居ないところでは酒は飲むな」
泥酔したら、いずれ女子である事が露見するにちがいない。何としても文叔を守りたい。
「師兄のいないところでは、禁酒なのか?」
「こたびは、私が傍にいたから良かった。他の者だったら、とんだことになってたぞ・・・」
記憶のない文叔は、長恭に従うほかない。
「分かった、わかった。師兄に従う」
櫛で梳いた青蘭の髪は、黒く豊かだ。しかし、男の髷を結うために背中の辺りでぶっつりと切られた髪が痛々しい。女子の格好をしていたときは、どれほど美しい髪であろう。
長恭は慣れた手つきで天頂に髷を結うと、冠を載せて銀の簪で留めた。
「これで、いいかな」
鏡越しにおどけると、長恭は文叔の頬をつねった。それは、いつもの義弟に対する仕草だ。
「文叔、鄭家はお前の外泊を心配しているだろう。鄭家には、御祖母様の別邸に外泊すると、遣いをやっておいた。だから、心配いらないぞ」
長恭は、何心なく微笑んだ。
皇太后府は鄭家にとって不服の言えない相手である。皇太后の名前を出せば、母親の了承も得やすいという師兄の思惑であろう。
『えっ?鄭家に知らせた?』
青蘭は思わず目をつぶった。ああ、万事休すだ。長恭の好意が反って仇になる。どこ泊まったかを曖昧にすれば言い逃れもできるが、長恭との友人関係を母に知られてしまったら、母上は決して許してはくれない。
屋敷に戻ったら、こってりと油を絞られるに違いない。
「師兄、・・感謝します」
長恭の行動を責める訳にはいかない。青蘭は力なく、長恭に拱手した。
★ 鄴への帰還 ★
長恭と青蘭は劉恵の作った朝餉を食べると、早々に鄴城に向った。
春の盛りの草野は緑を濃くし、漳水沿いに植えられた柳は、高くなった春陽を浴びて風に枝葉を揺らしている。しかし、鄭家に戻らなければならない青蘭には、春の風景は目に入らなかった。
馬を急がせ城門の前まで来ると、鄴城へ入ろうとする人々が列を作っている。長恭と青蘭は、馬を降りた。
「外泊で、家の者に怒られるか?」
長恭は心配げに、声を掛けた。
「私は男だ。外泊ぐらいで・・」
青蘭は強がって言い返した。ここであまりに外泊を思い煩っては、女子である事を白状しているようなものだ。
長恭と文叔は馬を引いて、鄭家の門の近くまで来た。
「あ、あの師兄、・・昨夜の醜態は忘れてくれ」
青蘭は、懇願するように言った。
「昨夜?私も酔っていたゆえ、よく覚えてはおらぬ。昨夜の事は水に流そう。・・明日は学堂で待っている」
長恭が確認すると、青蘭は笑顔で頷いた。昨夜の泥酔を責めると、学堂に来づらくなる。
『君が、女人であることを忘れるなんて、どうしてできよう』
鄭家の大門に向かって行く青蘭の後ろ姿を、長恭は見送った。
★ 母の怒り ★
青蘭が大門から恐る恐る垂花門に入ると、晴児が内院から走り寄ってきた。
「若様、・・いつお戻りになりましたか」
「今戻った」
母上に見つかってはまずい。
青蘭は辺りを見回すと、庭木の陰を通って自分の居所に入った。臥内に入り緊張が解けると、一斉に頭痛が襲ってくる。ひどい二日酔いだ。
「眠らせてくれ」
何かを言いかけた晴児を無視して、青蘭は身体を投げ出すように、外衣のまま榻牀に横たわった。非難がましい晴児の視線が辛い。
「お嬢様、酒臭いです。・・・うん、もう。酒を飲んだのですか?・・・酔い覚ましをお持ちします」
酒の匂いを避けながら、青蘭の靴を脱がすと晴児は居房を出て行った。
藍色の長衣からは沈香の香りがほのかにする。
もし、女人であると知れたなら、態度にでるはずだ。朝起きてからも、いつもの師兄だった。きっと気付いていない、大丈夫だ。
青蘭は薄絹の帳をとざし、衾を引き上げると、くるりと寝返りを打った。
酔い覚ましの蜂蜜湯を乗せた盆を持った晴児が、榻牀の帳の中を覗き込んだ。
「昨夜、高様のお遣いが来ましたけど、どちらにお泊まりでした?」
青蘭は大げさに頭を抑えながら、苦しげに眉根を寄せた。晴児が椀を小卓の上に置くと、青蘭は晴児を睨んだ。
「私は男だ。男がどこに泊まろうと関係ないだろう?」
「はいはい、分かりました。でも、賈主様がどう思うかは知りませんよ」
晴児が出て行くと、青蘭は酔い覚ましの蜂蜜湯を飲んだ。
★ 禁じられた友情 ★
鄭氏邸の内院には木槿の赤い花が咲き、沈丁花の赤紫色の花が沈香に似た甘い芳香を放っている。
青蘭は露台の卓で茶を飲みながら、昨日の母の怒りを思い出した。
居房に入ったときから、母の桂瑛は怒っていた。
「青蘭、跪くのだ」
雷のような怒声に、青蘭は母親の前に膝をついた。
「母上、・・・私は・・・」
桂瑛は、跪く青蘭の前に立った。
「男と一緒に外泊するとは、・・・そなたは女人としての名節をどう考えているのだ」
いつにない、厳しい母の叱責だった。
「心配ない。師兄は、私を男子だと思っている、だから、心配ないのです」
青蘭は、背筋を伸ばしてきっぱりと言った。
「心配ない?・・・そなたは王家の娘なのだぞ。貴族の娘として女子としての名節は守らねばならぬ」
桂瑛は、溜息をついた。
この時代、男女が同じ房で一夜を過ごしただけで、女子の名節(名誉と貞節)は汚されたと考えられていた。既婚者だったら不貞であり、未婚者だったら、女子は他の男とのまともな婚姻は許されず、その男と婚儀を挙げるしかないと考えられていた。
「顔氏門下では、私が男である事を疑う者などおらぬ。男同士の師兄と、何かあるはずもない」
桂瑛は、几案を拳で打つと、青蘭の前に立った。
「並の漢人ならそれで通じる。しかし、高長恭殿は皇族だ。斉では、皇族を欺けば死罪なのだぞ。男子と偽り皇子に近づき、清河王との縁談を一方的に破談にしたことが皇太后に知られれば、鄭家も罪を免れぬ。長恭皇子はもちろん清河王とも関わりを持ってはならぬ」
皇族を欺けば死罪になるという母の言葉に体が強張った。ただ学問をしたいがために男子の振りをしただけなのに・・・。
「母上、肝に銘じます」
青蘭は跪いたまま頭を垂れた。
「立ちなさい。・・・戻ってよく反省するのだ」
青蘭の手を取って立たせると、居所に下がらせた。
師兄と関わりを持たないと母上に誓ってしまった。長恭と会えなくなったら、どのように過ごしていけばいいのだろう。学堂に行ったら、学問はどう学べばいいのだろう。
★ 青蘭の決心 ★
上巳節を過ぎると、顔氏邸の躑躅が一斉に咲き出して、内院を華やかに彩った。
この日、青蘭は有名な学者である徐陵の講義を聴こうと学堂に出掛けた。
徐陵は梁の文人徐璃の子で幼少より聡明で二十代半ばで梁の参軍を務め、後に陳の尚書佐丞に任じられた。『荘子』『老子』に通じ多くの史書に博覧していた。この時期、陳の使者として鄴都に滞在していた。顔之推は南朝出身の学者として、陳の学者との交流が盛んであった。
母には師兄との付き合いを禁止された、しかし、弟子同士が関わらないということは難しいのだ。
師兄と顔を合わせたら、どう接すればいいのだろう。悩んだ青蘭は、何日も学堂に足を踏み入れることができなかった。
垂花門をくぐり、内院に入る。午前の講堂では、徐陵が『史記』の講義をしていた。
「孫子は、言った。『それがし、もはや命を受けて大将となりました上は、将たる者、軍にあれば君命も受けざる所ありと、申すものであります』これは則ち、軍令の厳しさを示すことにより、呉は、諸侯に名を響かせることが出来たのだ」
武将が出陣したら、たとえ皇帝の勅命であろうと最前線の状況によっては、その命に反することも許されると孫子は述べている。多くの場合、君主は都にいて最前線の状況を把握している訳ではない。戦況を一番把握している大将の軍令は、状況を把握していない君主の命よりも優先されることにより、真に精強な軍と言えるのだと孫子は説いている。
武将として武功を挙げようと心に決めている長恭にとって、孫子は一番興味のある章であった。
しかし、講義をする徐陵の声が耳に入らない。斜め前方に文叔の後ろ姿を目にしたからだ。見慣れた銀の冠に、後ろに垂らされた滑らかな髪、そして、薄藍色の外衣の衿から見えるうなじがまさしく文叔であった。
上巳節で観翠亭に一泊した後、学堂で文叔の姿を見ていなかった。外泊を咎められて、母親に禁足を言い渡されていたのだろうか。
講義が終わると、文叔は逃げるように堂を出ていってしまった。長恭は、すばやく後を追った。
「文叔、今日は来たのだな」
文叔に追いつくと、長恭は後ろから声を掛けた。一瞬立ち止まったが、文叔は振り向かず逃げようとする。
「文叔、待ってくれ、話があるのだ」
文叔の腕をつかんだ。ここで逃したら、このまま縁が途絶えてしまう。
「師兄、な、何をするのだ」
青蘭はつかまれた腕を払おうとしたが、長恭は強引に書庫に引きずって行った。
書庫房には、絹を貼られた窓から盛春の陽光が明るく差し込んでいる。
「文叔、なぜ、何日も来なかった」
両肩を掴んだ長恭は、不機嫌な顔で青蘭を覗き込んだ。
「その、家の用事があって・・・」
文叔は、目を逸らした。
「そうか、・・・母上に、その、何か言われたりしなかったか?」
男子であれば、外泊など問題にならない。師兄は、女子だと知っているのか?
「私は男だ。外泊したって親に何も言われないさ」
青蘭は胸をそびやかせた。
「確かに、そうだ」
痛々しい。言葉と裏腹に、長恭は溜息をついた。文叔は虚勢を張っている。きっと家族から酷く叱責されたに違いない。
お前を守ってやりたい。長恭は抱きしめたい衝動に駆られたが、自制して文叔の肩に手を載せた。
「実は、・・明日より、中軍の調練で上党方面へ出かける。ゆえに、半月ばかりは会えぬのだ」
長恭は、辛さに口ごもった。
「半月会えない?」
「ああ、半月ほど調練にでかける」
上巳節以来、師兄とどう接したら良いのかが分からず、通学を躊躇していた。やっと学堂に来てみたら、明日から学堂に来なくなるなんて・・・。
何と言ったらいいのか分からず、青蘭はあぜんとして長恭を見上げていた。窓から差し込む春の陽光が、うつむく長恭の睫に深い影を作っている。
「明日の午の刻に出発するのだ。だから、どこかで昼餉を・・・」
これでいいのだ。去る者は日々に疎しだ。半月も会えなければ、長恭は自分を忘れるに違いない。これで、自然に長恭を忘れられる。これまでの縁は無かったものとして忘れるのだ。
「すまない。今日は用事があって」
青蘭は、長恭の目を見ないで答えた。
「私が嫌いになったのか」
青蘭は長恭の前から、逃げるように扉に向かった。
「待てよ、文叔・・・」
長恭は、扉の手前で文叔の腕を掴んだ。
「師兄、・・・調練では、・・・身体に気を付けて・・・」
「どうしたんだ、文叔、他人行儀だぞ」
掴んだ長恭の腕を振り払うと、文叔は足早に出て行ってしまった。長恭が扉を押して外に出ると、すでに文叔の姿はなかった。
「文叔、なぜなんだ」
一緒に酒を酌み交わし、義兄弟の契りまで交わしたのに、なぜ冷たい態度なのだ。女子である事を隠しているのは、自分を男として見ていないからなのか。
長恭は溜息をつくと、垂花門に向かった。
★ 調練の見送り ★
次の日、青蘭は学堂で使う料紙を紙問屋で買うため東市に出掛けた。紙問屋で望みの料紙を選んだ後、青蘭は中陽門街の大路に向かった。
『師兄は、もう行ったのかしら』
青蘭は人混みをかき分けて、中陽門街を南に歩いた。
鄴都では、軍の出陣や調練の時には盛大な見送りが行われる。斛律衛将軍が指揮する中軍が上党に出発するために、今日の中陽門街は露店も出ていない。
青蘭は料紙を入れた嚢を肩に掛け、茶房が多く建っている辺りにさしかかった。
長恭とはそっけないままに、学堂で別れてしまった。しかも、長恭とは半月も顔を合わせることができないのだ。せめて、物陰からでも長恭を見送りたい。
青蘭が妓楼の前を通り過ぎようとしたとき、自分の名前を呼ぶ声を耳にした。
「子靖」
声の方を振り向くと、少し離れたところに貴公子然とした高敬徳が立っていた。
敬徳とは二月以来である。縁談の相手が自分だと悟られてはならない。気付かぬ振りをしよう。青蘭はきびすを返すと南に向かった。
「子靖、子靖だろう?」
しかし敬徳が、追いかけてくる、あっという間に追いつかれてしまった。
逃げられない、・・・青蘭は振り向くと笑顔を作った。
「清河王、お久しぶりです。こんなところで会えるとは・・・」
青蘭は手を合わせると、恭しく拱手をした。
「やあ、・・・子靖やっと会えたな。」
敬徳は、鷹揚に青蘭の肩を叩いた。敬徳の言葉はいつも優しい。
「学問の方はどうだ。学堂では、長恭は兄弟子として教えてくれているか」
背の高い敬徳は、青蘭の顔を覗き込んだ。
「師兄には、いろいろ教えていただいています。でも、叱られてばかりで・・・」
敬徳は長恭よりも危険な存在だ。長恭との親しさを知られたくない。青蘭は無理に笑顔を作った。
「そうか、あいつは真面目で堅苦しいところがある。しかし、心根はいい奴なのだ。学問にも長けてる。きっと勉強になるぞ」
敬徳は、長恭を信頼しているようだ。
「せっかく会ったのだ。茶でもどうかな?」
早く傍を離れたい青蘭は、
「ありがたいですが、今日は用事があって」
青蘭は残念そうに何度も頭を下げると、その場を離れた。
やがて、太陽が中天に登った。
青蘭が薬房の前に至ったとき、皇城の方から長槍を持った歩兵が現れて、大街の両側に立った。その後は、大路の横断ができなくなる。
騎兵による前触れが通り過ぎた後、中軍の旅団が甲冑のふれ合う音をさせながら、大街に入ってきた。
斉の中軍は、衛将軍斛律光の指揮下にあり中原では圧倒的な壮強さを誇っていた。
長槍の歩兵、銀色に輝く明光鎧や黒光りする黒明鎧を纏った騎馬兵、数々の戦車(戦闘用馬車)などが、威容を示しながら進んで来る。
旅団の半ばが通り過ぎた頃、高長恭の姿が見えてきた。
赤い上衣に、表面の光沢を消した黒明鎧を付け、なびかせた臙脂色の斗篷が白い頬に映えている。兜は被らず天頂に結った髷には翡翠をはめ込んだ銀の冠が輝いている。上気した頬を引き締めている長恭の花顔が、馬上に見えてきた。
門街の両側には見送りの人々が溢れ、将兵たちの家族であろうか、民とは思えない女子の主従も見られる。
女子としては長身の青蘭も、人混みに囲まれると、まったく見えない。青蘭は、長恭の甲冑姿を一目見ようと商賈の石段を上がった。
長恭は馬上から、道ばたで見送る人々を見渡した。その目は、文叔を探している。
『文叔は、見送りに来てくれるだろうか』
学堂での文叔は、いつになくよそよそしかった。話しかけてもろくに返答が反ってこない。
外泊のことを、母親からきつく叱責をされたのだろうか。義兄弟の契りも、親の叱責には勝てぬと言うわけか。
中軍の列が中庸門街を南に進むと、人垣はさらに厚みを増した。
望みが尽きかけようとしたとき、薬種房の前に文叔を見付けた。文叔は自分を嫌ってはいなかったのだ。文叔の清澄な瞳が動いて、唇が『師兄』と動いた。長恭は、自然に笑みがこぼれるのを抑えることが出来なかった。
『どうして、文叔と離れることができよう』
これから半月も文叔の顔を見ることができないなんて、長恭の胸が痛んだ。戻ったら、この思いを文叔に伝えよう。そうしたら、思いを受け止めてくれるかも知れない。
文叔の笑顔が見たい。手を振ろうと左手を挙げようとすると、何と文叔の傍に敬徳がいるではないか。
なぜ、二人が一緒に?・・・共に大路で見送りに来るほど親しかったのか?
長恭は、馬鞭を握った手を高く挙げて振った。待っていてくれ。お前を失いたくない。
しかし、行軍は、決して立ち止まることはできない。長恭が首を巡らしたが、文叔の姿は次第に遠くなっていった。
長恭の想いとは関わらず、春の陽光に映えた長恭の美貌は、軍列が進むにつれて女子たちの視線を釘付けにした。長恭の麗容は鄴城内で広く噂になったのである。
★ 青蘭の見送り ★
青蘭は、自分の前を通り過ぎていく長恭の姿に声を掛けることもできず、薬房の前に立ち尽くしていた。ああ、師兄とは仲直りもしないまま半月も会えないのか。もしや、二人の縁もこれまでなのか。
「子靖、一緒に茶を飲まぬか?」
敬徳に声を掛けられ、青蘭は我に返った。何で敬徳がまだ横にいるのだろう?
「ああ、敬徳殿、・・・茶を?」
何かに気が付いたのか?ここは、探りを入れてみよう。
青蘭は敬徳の後について香麗房に入った。
香麗房は、門街に面した高級な茶房である。
「子靖・・・学堂では文叔の字を名乗っているのか?」
敬徳は運ばれてきた茶釜から、杓子で香り高い茶を白磁の茶杯に注ぎながら訊いてきた。
「顔之推師父に、文叔の名を戴きました」
二つの字の事で動揺してはならない。文叔という字は、後漢の光武帝が名のっていた字である。学門好きで、民のために学問を生かした皇帝にあやかって顔氏父が付けてくれた字である。
「顔之推はそなたの意欲を買っているのだな。師の期待が表れている」
温顔で敬徳は、香りの良い茶を満たした茶杯を勧めた。
「文叔、長恭の出立を見送リに来たのか?」
「料紙を買いに行ったついでに、見送りをしようかと・・・」
青蘭は素っ気なく答えた。長恭との親密さを知られたくない。
敬徳は香りの良さを味わうように、茶杯を口に運んだ。
「長恭は幼くして父母を亡くし皇太后の元で育てられた。近くには親しく話せる者も少ない。容易に腹を割って話せぬ性格なのだ。学堂では、そなたが朋友となってくれて喜んでいる」
敬徳にとって長恭は弟のような存在なのだろう。
『苦労しているのだな。男なのにこんなに痩せている』
敬徳は、細い首筋や手首を見遣った。青蘭の華奢な身体を気の毒に思った敬徳は、中食を注文した。
「腹が減っているであろう。ここは料理も旨いのだ。昼餉を共にしよう」
長恭は自分との約束を守り、私が王琳と鄭氏の子どもである事を明かしてはいないようだ。世の中は入り乱れている。出自を明かせば、どのような困難に遭遇するかは予想できないのだ。
青蘭は、長恭の温情をありがたく思った。
★ 長恭からの自立 ★
顔之推が来斉してから半年たち、顔氏が西魏より脱出したことが鄴都中に知られるようになった。
漢人たちの中に、弟子入りを希望する者が多くなった。もちろん学問を探究するよりも、顔之推の推挙による仕官を狙ってである。
また、王琳たちの梁と陳、西魏の傀儡である後梁との戦闘が激しくなるに従って、西魏に反感を持つの士大夫や学者が顔家に集うようになったのである。
中原でも名高い顔之推の学堂では、一流の学者による講義がたびたび行われるようになった。
長恭が調練のために学堂を離れて以来、青蘭は一人で学問をすることの限界を感じるようになった。そのため講堂で行われる講義には、できるだけ顔を出すようになったのである。
広い講堂に行くと、すでに席は半分ほど埋まっている。歴史の大家である蔡遼の『史記』の講義である。
蔡遼は、竹簡を書見台に広げた。孟嘗君の章ある。
青蘭は講堂の最後尾に席を占めると、『史記』の書冊を几案に広げた。
正面に座った蔡遼は、学生達が付けかけている講堂を見渡すと声を張り上げた。
「あるとき、夜の宴会で一人の客の席は、燈火が昏くてよく見えなかった。その客は、他の客と飯が違うと言って怒り出し、食事をやめて座を立とうとした」
蔡遼は、水を一口飲んだ。
「客に出されていた飯は、極めて質素だったのだ。孟嘗君は立ち上がり自分の飯を手に持って比べて見せた。孟嘗君とその客の飯は同じだったのである。その客は、慚愧して自殺した。それから、士たる者は、孟嘗君のもとに集まるのが増えた」
蔡遼は、講堂内を見回した。
「孟嘗君は、財物を投げ出して人々を優遇した。食客には、身分を問わず同じようにもてなしたという。ゆえに、食客は自身の命も省みず孟嘗君のために尽力したのである」
孟嘗君は王族であったが、身分の低い妻妾の子として生まれた。しかも五月五日に生まれたために、忌むべき子として父に死を命じられたという。
しかし、研鑽を積み同時代の君主が尊敬する名宰相として輿望を集めたのだ。
青蘭は、孟嘗君の困難の大きさと生き方の見事さに心が震えた。
孟嘗君と長恭は、どこか境遇が似ている。
共に身分の低い妻妾より生まれたが、師兄は出自に負けず己の運命を切り開いている。皇太后の庇護の元、斛律家に通い武芸の腕を磨き、顔氏学堂でも長恭の学問の深さは際立っている。
調練に出掛けている師兄にこの講義を聴かせたかった。
青蘭は長恭の指導通り、書冊の余白に蔡遼の言葉や自分の考えを書き加えていた。
両親が離縁しているとは言え、自分は両親が健在で経済的にも困っていない。命を狙われたこともない。自分の困難など、孟嘗君に比べたら、何ほどのこともあろう。
青蘭は、『史記』の書冊を静かに撫でた。
青蘭が、ふと講堂の外に目を移すと、一人の少年が階の側に立っている姿が目に入った。少年はキラキラした眼差しで一心に講義を聴いている。
最近来た顔家の下僕であろうか、見慣れない少年である。膝下までの鉄紺の粗末な身なりが、学堂の弟子ではないことを物語っている。
講義が終ると、門弟たちは講堂を出て三々五々門外に散っていった。
青蘭が筆硯を片付けて堂を出ると、階の下に少年の姿はない。目を落とすと、少年が立っていた地面には枝で書いた文字が残っていた。
あの少年は、ただの奴卑とは思われぬ。耳で講義を聴きながら、枝で『史記』の文言を地面に書いていたのだ。下僕として働きながら、あの少年は学問への志を失っていない。
それに比べて自分は、母の叱責に負けて師兄の傍から離れようとしている。師兄は学問への道しるべだ。師兄とは離れられない。
青蘭は、少年を探して後苑に行った。
あの少年は、南朝から避難してきた士大夫の子息に違いない。質素な装いでも、その佇まいは、決して卑しい生まれのようには思えない。
南朝の戦乱の中で、多くの士大夫と家族が建康や江陵を追われ、ちりぢりになった。あの少年もその一人に違いない。青蘭の力では、あの少年の境遇から救い出すことはできない。しかし、学問の道を手助けすることはできるかも知れない。
『あの少年の学問への思いを手助けしたい』
青蘭は四阿に座ると、料紙に『史記』の一節を視写した。一部だけでも地面に書いた文字よりは役に立つはず。青蘭が料紙を懐にして内院に行くと、先ほどの少年が薪を抱えて歩いて来る。
「もし、・・・君は堂の下で講義を聴いていた童子だな?」
青蘭は少年の行く手をさえきった。
「そなた、講義を地面に書いていただろう?」
盗み聞きを叱責されると思った少年は、身をすくめた。青蘭は、少年の警戒をほぐそうと笑顔を作った。
「学問に興味があるのだろう?」
少年の手に料紙を握らせる。
「学問を志す者は、みんな兄弟弟子だ。『史記』を書写した。これを使え」
料紙を広げた少年の目に光が差した。
「これを、僕に?・・・感謝します」
少年は、姿勢を正すと丁寧に拱手した。
「名は何という?」
「馮元烈と申します」
十二歳ぐらいであろうか、青蘭と同じ背格好なのにひどく痩せている。少年は何度も頭を下げながら膳房に向かった。
★ 長恭の不在 ★
顔氏邸の後苑に躑躅の花が咲いている。
青蘭は、四阿の中に座って書冊を開いた。傍らに寄り添い、疑問に答えてくれる長恭が、今はいない。
門街で見送った長恭の甲冑姿を思い出した。斉国の皇子である高長恭は、学士である前に、鮮卑族の武将だといことを目の当たりにしたのだ。
皇太后の秘蔵っ子である師兄は、いずれ朝廷に位を得て出仕する。義兄弟になっても、永遠に学堂で共に学べるわけではない。いつか離ればなれになるのだ。
美しい花の色も一人で見るなら、きっと色あせてしまう。目をつぶると、躑躅の香りを乗せたそよ風が青蘭の頬を通り過ぎた。
そうだ、この四阿は、一人で書冊を広げるには広すぎる。長恭が恋しい。
青蘭は、『荀子』を筆写する手を休めた。
「故に人を錯きて天を思わば、則ち、万物の情を失う」
『だから、人間的な努力を棄てて天を思慕しているのは、万物の実態を見失うことになるのである』
荀子は、それまでの運命や天命に任せるという考えを善とせず、努力や教育こそが人間を導いていくと言う考えを唱えている。幸運は天に願うより、努力して人事を尽くせと言うことである。
運命に逆らい江陵を飛び出した自分には、普通の女子として嫁ぐ道は残されていない。
さすがに男と偽って朝廷を欺くことはできない。自分の未来に官吏としての道がないとしても、学問を学び世の人々のために自分ができることを探すのだ。
ああ、そう思いながらも、長恭への想いを消し去ることはできない。
「師兄に会いたい」
青蘭は、長恭から譲り受けた写本を取り出した。指でなぞってみる。長恭の容貌を思わせる、美麗な楷書の筆跡が並んでいる。
師兄は今頃どうしているだろう。どれほど学問に打ち込んでも、心の中を吹き抜ける喪失感はごまかせない。
『師兄が恋しい』
青蘭は勧学篇の書冊を、額に押しつけた。
調練の見送りの時に、青蘭は命の恩人の高敬徳に出会う。敬徳こそ、かつて青蘭が逃げてきた婚姻の相手なのだ。長恭の不在にも拘わらず、一人で学問に励むが、むなしさは否めない。