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王文叔の秘密

長恭に誘われた文叔は、上巳節の踏青に出掛ける。潔斎の後に、文叔は長恭が幼い頃に過ごした山荘に連れて行かれる。

 

       ★     鳲鷗陂の青鞜   ★


 三月三日の卯の刻(朝六時頃)、長恭と青蘭は鄴の城門の開門と同時に、南へむかって馬を駆けた。

洹水は、鄴都のはるか南を東に流れる河である。鄴都の西に連なる太行山脈を源として、渤海湾に注がれる。

長恭と文叔は灌木の林の外で馬を降りると、洹水の川べりに引いて行き木に繋いだ。

 長恭は、草地に立って洹水の川面を見渡した。水面を川霧が流れ、三月の清涼な陽光がゆらゆらと反射している。眩しさに目を細めると、文叔の精美な横顔を見た。

「この洹水は、東海まで続いている。今日はその途中にある鳲鷗陂まで行くのだ」

 河の上流を眺めると、太行山脈の山々が見える。

「河北の河は多くは黄色く濁っている。しかしこの河は、林慮山を水源としている。ゆえにこのように清らかな流れなのだ」

清水は北斉にとって田畑や人々の飲料水として貴重な存在である。この洹水は、聖岳である林慮山から流れてくるので、清らかな水を湛えているのか。鳲鷗陂で行われる潔斎は、きっと霊験新たかでにちがいない。青蘭はこれから行く鳲鷗陂での潔斎への期待に胸を弾ませた。


 長恭と青蘭は再び騎乗すると、洹水の河岸を東に駆けた。手綱をにぎり顔を上げると長恭の縹色の背中が揺れ、薄藍色の両袖が翼のようになびいてる。

小高い丘を下ると、木々がまばらに立っている喬木の林で馬を停めた。

 長恭は鞍に付けた水筒を取ると一口飲み、青蘭に渡した。青蘭は、長恭の水筒から一口飲んだ。

 甘露な水が、長恭の唇を感じさせる。女子の恋心に負けてはならない。恋情を出せば、やっと見つけた朋友を失ってしまう。

「師兄が行く目的は、春遊踏青だろう?」

 青蘭は、男らしさを強調するとうに長恭の胸を叩いた。

 儒教が支配する中原では、未婚の男女が同席することは許されていない。しかし、例外的に踏青の時は男女の親密な語らいが許されているのだ。

「文叔、何を言うのだ。鳲鷗陂に行ったら、・・・御祖母様からの潔斎の供物を、届けるように言付かっている」

 長恭は気色ばんで反論した。しかし、多くの若者が、男女の出会いを求めて踏青に出掛けるのは常識だ。女子の視線を一身に集める師兄が、無関心とは思えない。

「師兄、言い訳しなくても・・・」

「鳲鷗陂では、毎年巫女の潔斎が行われる。本当に御祖母様に供物を頼まれている」

自分を好色な男子だと思い込んでいる文叔の誤解を解こうと、長恭は大きな声を張り上げた。

 文叔は信じられぬと言うように、腕組みをすると長恭を見上げた。

「踏青など行かぬ。・・・祓いの後に、一緒に行きたいところがあるのだ。楽しみにしていろ」

唇を結んでいた長恭は、笑顔を作ると文叔の肩をポンと叩いた。


高くなった朝の光を浴びて、長恭と青蘭は洹水から北に別れて湖が見渡せる小高い丘に登った。馬を降りて崖の上に立つと、眼下に鳲鷗陂が見える。

 白い砂に囲まれた鳲鷗陂は、さながら碧い玉のようだ。


青青たり、園中の葵

朝露 日を待ちて 晞く


青々と茂る庭の葵も

そこに降りた朝露は

日の出と共に乾く


 春風が、さやさやと葉音をさせて通り過ぎる。桃花の香りを帯びた風が、湖面を金色に波立たせた。

 青蘭は、桃花の下で、『長歌行』の詩を口ずさんだ。


陽春 徳澤を 布き

万物 光輝を生ず


陽春の恵みが 行き渡り 

万物は 光り輝く


 長恭が清澄な声で言葉を継いだ。

 湖を見て同じ様に美しいと感じる、価値観を共有する朋友がいることこそ、人生の幸福だ。

文叔を愛している。しかし、男と男の間で、情などあってはならない。自分が想いを押し殺せば、二人は義兄弟として生涯付き合っていけるのだ。長恭は文叔から目を離すと、溜息をついた。

 丘の上に植えられた桃の花は今が盛りで、薄紅色の肉感的な花弁を開かせている。青蘭は桃花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


     ★   水辺の潔斎     ★


 水辺に降り祭壇に近付くと、三人の巫女が長恭に寄ってきた。

 三人は長恭の前に来ると拝礼した。婁皇太后の庇護する巫女たちである。目の周りにけばけばしい化粧をした赤と緑色の長裙をまとっている。

「殿下に、拝謁いたします」

「挨拶はいい。御祖母様から言付かった」

 長恭は懐から小さな朱塗りの櫃を取り出すと、巫女に渡した。西域から来た貴重な香料と金子である。婁皇太后は、仏教に深く帰依しているが、皇族の女人の代表として鬼道に仕える巫女も庇護していた。

鳲鷗陂の湖畔には、いくつかの潔斎の台が設けられ、鬼道に仕える者たちが準備をしている。巫女に導かれて長恭と青蘭は、潔斎台の中央の座に腰を掛けた。


 桃の枝が左右に供えられた祭壇の中央には香炉が置かれ、甘い濃厚な芳香が漂ってくる。

 左右に座した楽人が瑟や鐘鼓を奏でると、二人の巫女が桃花の枝を持って舞を始めた。化粧の濃い巫女たちは、桃の枝を払うように振ると身体をくねらせながら奇妙な声を上げた。鐘鼓の音が高くなる。

 聖水に浸した桃の枝を音楽に合わせて振ると、辺りに桃の香りが強く立ち上った。陶然とした表情の巫女が、二人の方に近寄ってきて桃枝を長恭と青蘭の頭上でかざした。


 太陽が中天に近づくと、春遊踏青を目的とする馬車がぞくぞくと湖畔に入ってきた。やがて、幕を巡らした宴の席からは、管絃の音や酒食を楽しむ声が漏れてくる。

「どちらの若様かしら」

 湖畔をそぞろ歩く男女が増えてくると、自然と長恭に女人の視線が集まる。いつのまにか二人が座る台の周りには、人垣ができた。

「きっと権門の貴公子よ」

着飾った妓女と思われる女人が、袖を引き合っている。

粘り着くような女人の視線を避けるように、長恭は青蘭の手を引いて立ち上がった。

「早めに出よう。一緒に行きたい所があるんだ」

二人は女子たちの視線を振り切るように林に入ると、騎乗して忙しく鳲鷗陂の湖畔を離れた。


 太陽を背に丘を越えると、草地に出た。

「文叔、遅れるな」

 長恭は振り向くと、馬の歩みを緩めることなく山間を北へ向かった。

「師兄、待ってくれ」

 長恭の背を追って進むのは、流れに沿った起伏の多い隘路である。ここで長恭に遅れては、女子だと悟られてしまう。青蘭は手綱を絞ると足に力を込めて、ひたすら馬を走らせた。


      ★    思い出の観翠亭     ★


 清流を右に見ながら緩やかな坂を上ると、流れのほとりに鄙びた屋敷が見えてきた。周りに芝垣を巡らせ、広い前庭の野趣に溢れた茅拭き屋根の山荘である。

「ほら、見えてきた。御祖母様の別邸だ」

 素朴な門の前で馬を降り前庭に引いて入る。ほどなく、正面の母屋から老女と大柄な年若い男が現われた。

「若様、お久しぶりでございます」

 老女は笑顔で拝礼した。

「礼はよい。劉婆・・・久しぶりだな」

長恭は、老女を立たせて手を握った。

「若様、よくぞ・・・いらして・・・」

「乳母の劉恵と乳兄弟の呉栄だ」

 長恭が青蘭に紹介すると、劉婆は袖で目を拭った。

「こちらは、顔氏門下で一緒に学問をしている王文叔だ」

 長恭は青蘭の肩に手を遣ると、乳母に紹介した。

 

劉恵は元々は梁の官吏の妻であった。梁の滅亡後戦乱を逃れ、呉栄を連れて鄴にたどり着いたのだ。

 親類のつてで高家の侍女となった劉恵は、荀翠容の側仕えとなった。高氏の屋敷を出された荀氏に同情して婁氏の屋敷に移った劉氏は、出産にも立ち会い長恭を取り上げたのだ。

 命の危険を感じた婁氏は、荀翠容親子を観翠亭に移したが、乳母の劉恵親子も一緒に観翠亭に追随した。

 観翠亭で細々と暮らす長恭にとって、劉恵親子は、まさしく家族であったのだ。晋陽に引き取られるが、長恭は幼くして父の高澄と母の荀翠容を亡くしている。その後、長恭は祖母の皇太后に引き取られたが、陰になり日向になって守り育ててくれたのは、この劉恵であった。

 

 寡黙な呉栄は、二頭の手綱を受け取ると厩に引いて行った。

 劉恵は、皺のよった目を潤ませて青蘭を見た。

「若君、ここにお友達を連れてきたのは初めてですね」

「旨い酒と、乾し肉を持ってきた。旨いものを頼む」

 劉恵は、人の良さそうな笑顔を浮かべながら二人を母屋に案内した。


 観翠亭は、一見鄙びた庵に見える。しかし、茅葺きの母屋の室内は、さすが皇太后の別邸だけあって、素朴ながら思いのほか瀟洒な造りである。正房の両側には臥内と書房が配され、奥は湖に面した露台になっていた。


 青蘭は露台に出ると、手摺りに手を掛けて湖面を見渡した。

 山の清流を集めたのだろう。思いの外深い湖は、午後の明かりを反射して不思議な碧緑色に輝いている。目の前の湖の周囲には、木瓜や躑躅などの鮮やかな花が咲き、白や紅色が湖面に映っている。

「きれいだ。翡翠湖とはこのことだな」

 青蘭は、南朝の湖面を思い出した。

「南朝でもこのようなきれいな湖はないだろう?」

 河北の川や湖の多くは黄砂の影響を受けて黄色く濁っており、太湖のような翡翠青色の湖は珍しい。

横の文叔を見ると、ほづれ髪が吹き上げてくる風になびいている。白い肌に映える黒目がちな瞳が、長恭に向かって微笑んだ。

 お前は、可憐すぎる。動揺を誤魔化すように、長恭は湖に目を遣った。

「ここは、かつて母上と暮らした御祖母様の別邸だ。事情あって父の邸を出された私たち母子は、御祖母様の庇護のもと、この別邸で隠れ暮らしていた。鶏を飼い野菜を育てる貧しい暮らしだったが、母の愛に包まれた穏やかな生活だった」

 父高澄の屋敷に引き取られて以来、母との思い出を他人に語るのは初めてのことであった。

「義兄弟のお前に、私の育った家を見せたかったのだ」


 長恭は東魏の宰相であった高澄の子息としてなに不自由なく育ってきたと思っていた。しかし、長恭は、このような侘しい山荘で幼少期を過ごしたのか。長恭の意外な告白に青蘭の胸が痛んだ。

 両親を幼くして亡くした長恭は、様々な困難に打ち勝ってきたからこそ、皇族とは思えない仁愛と忍耐を身につけたのだろう。

「こんな寂れた家に追いやられた私を、哀れだと思うか?・・そうではない。母と一緒にいた数年が、私にとって一番幸せな時だった。父上の屋敷に引き取られてからは、・・・苦労を重ね、・・・母上は身体を壊し亡くなられた。私は独りぼっちになった」

貴族の父子関係は希薄だ。ましてや、生まれて直ぐ山荘に追いやられた長恭にとって、母のいない祖母の屋敷の生活は、どれほど孤独だったか。


 容貌と身分に恵まれた完璧な貴公子だと思っていた長恭は、想像もできないほど過酷な人生を生きてきたのだ。青蘭は、並んで立つ長恭の清雅な姿を眺めた。そこに怨嗟の影はない。

 父親からの冷遇と母の死で砕け散った宝石の欠片を、長恭は孤独の中、忍耐と努力で拾い集め、元の碧玉に戻してきたのだ。その輝きは、より一層陰影が豊かだ。

 青蘭は、午後の陽光に照らされた長恭の顔を見上げた。

「師兄の母上を尊敬する。師兄がこのように立派になったのは、母上が注いだ愛情のお陰だ」

人が本当に愛された経験は、人生の困難に直面しても、人格の崩壊をもたらさない。むしろ強固な陶冶をもたらすのかも知れない。

高一族は武勇の一族であるが、衝動的で残酷な噂が絶えない。その中で、慈悲の心を持ち仁愛を示せる長恭は希有な存在である。

「師兄が立派になって、きっと母上は喜んでいらっしゃる」

 青蘭は無邪気をよそおって、純粋な笑顔を見せた。

最愛の母を尊敬すると言ってくれた人は文叔が初めてだ。文叔の言葉に、長恭は自然と瞳が潤んだ。

「そんな風に母上を言ってくれたのは、お前が初めてだ」

 自分にとって、文叔は一番親しい存在だ。思いを打ち明けて文叔との友情を穢してはならない。文叔への想いは決して明らかにすまい。

長恭は、堅く唇を噛んだ。


        ★     上巳節の宴      ★


 ほどなく、劉恵が料理と酒を運んできた。

 露台に設けられた食盤(食卓)に、手早く皿を配していく。鴨の蒸し物、羊の煮込み、蒸し饅頭、沢蟹の炒め物など心尽くしの料理である。

「若様の、好物ばかりでございますよ」

 劉恵は、目に皺を寄せて笑顔になった。

 劉婆は、長恭の訪れのために、前々から準備していたのであろう。旨そうな料理の匂いが漂ってくると、青蘭は急に空腹を感じた。


 長恭は酒瓶を取ると、二つの杯に酒を注いだ。そして、杯の一つを青蘭の方に滑らせた。

「この杯は文叔に捧げたい。・・一杯目は梁と斉、遙か遠くに別れて生まれながらも、この鄴都で巡り会えた天恵に感謝して」

 長恭は、酒杯を文叔に掲げると一気に飲み干した。二人で飲むために持ってきた芳醇な酒である。

 青蘭が恐る恐る酒杯に唇を付けると、ピリリと思いの外強い酒であった。

 ここで怯んでは女子だと悟られる。青蘭が一気に流し込むと、喉が焼けるように痛い。

「二杯目は、共に学問に励み、縁あって義弟となってくれたことに感謝して」

 師兄は、酒に強いのだろう。長恭は二杯目を干しても白い頬に赤みも差さない。青蘭は仕方なく酒杯に少し唇をつけた。

「三杯目は、いかなる困難にも二人で共に乗り越えられることを願って」

 青蘭は長恭に釣られて酒杯に酒を注ぐと、男らしく強い酒の三杯目を干してしまった。


いまだ十五歳の青蘭は、飲酒を禁じられ南朝では酒を飲んだことがなかった。

 この感覚はなんだろう。焼けるような刺激がのど元を過ぎると、ふわった身体が浮かぶような感覚がして、体の中から動悸と息苦しさが湧き上がってきた。身体が熱い。

 目を閉じると湖水から吹き抜ける風がほてった頬をかすかに冷ました。長恭が幼い頃住んだという観翠亭にいると、青蘭は自分の来し方を思い起こした。

「私とて、寄る辺ない境遇は同じ。かつて、私と母は父の屋敷を追われ、建康より淮水を渡って鄴都に来た。家族との別離は子どもにとって何より辛いこと。ましてや・・・」

 両親を亡くした長恭は、皇太后の元でどれほど心細い暮らしをしていたのだろう。青蘭は言葉を詰まらせた。


長恭は、酒杯を持って湖を眺める文叔を見遣った。

文叔の父と母は、幼き頃より淮水の南北に別れて生活してきた。鄭家が豪商であろうと梁の滅亡と淮南の戦乱は文叔にとって辛い経験だったにちがいない。文叔は苦難を抱えて、新しい運命を信じて江陵からはるばる鄴都に渡ってきたのだ。

「父は宰相だったが、邸での母と私の暮らしは針の筵だった。幼かった私は、山荘に戻りたいと駄々をこねて母を困らせたものだ」

 長恭は、酒杯を強く握ると口に運んだ。

「全ては、・・・私の将来を思ってのことだったと、今では分かる。・・・母上は、その一年後に身体を壊してみまかられた。私が母を責めなかったら・・・」

「師兄、自分を責めないで・・・」

 青蘭は、長恭の腕をつかんだ。

「祖母に引き取られてからは、母を侮った奴らを見返すために、自分の力を認めさせたいと必死だった」

 師兄は婁皇太后に寵愛されていると聞いている。しかし、師兄の心に、そのような想いがあったとは・・・。青蘭は目尻の涙を拭いた。


 なぜか頭が重い。青蘭は頬杖をついて長恭の清澄な顔を見上げた。

 いつまでも見つめていたい。頬が熱い。何だか浮遊したようだ。瞼が重い。男たるもの酒を献杯されたら、返さなければならない。

 青蘭は自分の酒杯に四杯目の酒を注いだ。

「義兄として、いつも導いてくれる師兄に感謝して捧げる」

 青蘭は思い切って四杯目を干した。

「文叔、そなたは学問も剣術も確実に上達している。義兄としてうれしいぞ」

 長恭の大きな手で乱暴に頭を撫でられると、青蘭は卓に沈み込みそうになる頭を腕で支えながら笑った。

「全て、師兄のおかげだ」

『女子である事を隠し、清河王との関係を隠し、義兄弟の契りを結んでしまった。それでも、許してくれるのか、それとも・・・』


 ああ、なぜか身体が熱く眠い。瞼が重くなり目を閉じると、腑臓の奥から湧き出でるような悪寒が昏く青蘭を襲った。青蘭は、崩れ落ちるようにして食盤に突っ伏した。

「文叔、どうした」

長恭が慌てて立ち上がった。

 長恭の声が遠くに聞こえる。強烈な悪寒と乱暴な嘔吐感が、胸を駆け上ってきた。気持ち悪い。

 師兄の前で、無様な姿を見せられない。青蘭は力を振り絞って立上がると、よろめきながら露台の手すり際に走った。力が入らない。

「どうしたのだ、文叔」

 長恭が慌てて立ち上がり、文叔を後ろから支えた。

 今まで経験したことのない悪寒がわき上がったかと思うと、青蘭はその場に嘔吐した。青蘭の長衣の胸元に嘔吐物がかかった。

『何という醜態』師兄の腕の中で、嘔吐をするなんて。

 手で顔を覆うと、目眩に襲われた。薄れ行く意識の中で、青蘭は絶望感に飲み込まれながら、長恭の腕の中に倒れ込んだ。

「文叔、大丈夫か?まさか、たった四杯で酔いつぶれたのか・・・」

 腕の中の青蘭は、長恭が乱暴に揺すっても反応がなかった。


 鮮卑族の男子は、概ね酒豪である。

 ゆえに、遅い昼餉を食べながら酒を飲んで、夕方には馬を駆けて鄴城へ戻るつもりであった。ところが文叔は、たった四杯で潰れてしまったのだ。

「文叔、・・・そなたは、体も小さく、酒にも弱い。まるで女子だな」

 文叔が聞いたら傷つくと思いながら、長恭は青蘭を背中から抱き起こした。

 妙に体が軽い。

 茉莉花の香が、長恭の理性を揺るがす。あの夜、暗闇に紛れて文叔の唇を奪ってしまった。不埒な行為は、文叔との絆を断ち切ってしまう。

 いや、酔った義弟を介抱するだけだ。長恭はそう自分に言い聞かせながら、青蘭を横抱きにすると、臥内に運んだ。


      ★    文叔の秘密    ★


 榻牀に横たわった文叔は、呼吸が浅い。

 長恭は手巾を濡らすと、酔いでむしろ青白くなっている文叔の顔を拭いた。文叔は眉根を寄せ苦しげに唇を開いた。

水を飲ませなければ。文叔の頭の後ろに枕を当てると、水を満たした木椀を唇に寄せる。唇から溢れた清涼な水が無情に胸元に流れた。

一人では飲めないほど、弱っているのか。

長恭は文叔の後ろに回ると、抱きかかえるようにして文叔の上半身を起こした。椀を唇に添えて少しずつ水を飲ませていく。

 僅かに開けられた花弁のような唇に、長恭の心臓がドクンと高鳴る。儒学を学ぶ自分が、男の文叔に恋情を覚えるとは何と言うことだ。

 義兄として文叔への想いを振り切るつもりで、観翠亭に来たというのに・・・。文叔の寝顔を見ると邪念がまた湧いてくる。長恭は想いを封印するように、衾(掛け布団)を文叔の胸元まで上げた。


 どのぐらい時間が経ったのだろう。気が付くと文叔は静かな息を立てだした。

 文叔の顔色が、やや赤みを帯びた色に戻っている。文叔の脈を診ると、平静に近くなっていた。

『酒量の限界を知らぬ文叔に、酒を強いてしまった』

 義兄としては失格である。

 文叔のほずれた髪が、汗で顔に張り付いている。指でかき上げると、眉を寄せるようにして長恭の方に体を向けた。こちらを向くと、こぼれた水が文叔の胸元を濡らし、長衣の襟に吐瀉物が付いている。

 汚れた衣を着替えさせねば。

 長恭は、壁際に置かれた櫃の中から、藍色の小振りの長衣を取り出した。長恭が少年の頃にまとった衣だ。小柄な文叔に合うに違いない。


 文叔の外衣を脱がせ、長衣の帯に手を掛けても、文叔は起きる気配を見せない。結び目をほどいた長恭は、長衣の衿から白い内衣ののぞく姿に一瞬手を止めた。

 文叔の身体には、戦いで負った醜い傷があるという。そのため傷を恥じている文叔は、人前で決して着替えをしない。しかし、刀傷は武将の誉れだ。例え醜い傷であろうと、恥ずべき事があろうか。義兄の自分が着替えの途中で傷を見ても、何ら問題はないであろう。


 弟義だ、義弟だ。長恭は疚しい気持ちはないと自分に言い聞かせながら、帯を引き抜き長衣の襟を拡げた。胸元を見ると、上半身に巻かれた白い包帯が解けかけている。哀れな、・・・身体の傷はまだ治っていないのか、まき直してやろう。

 長恭が白い布の端を持ち上げると、布は緩んで腰の方にずれた。なだらかな丘の上に桃色の丸いかたちが見える。女子の乳房ではないか。

『な、何で、文叔に乳房があるのだ?』

 長恭は弾かれたように衾を掛けた。


 自分の妄想ではないのか。夢の中で文叔を何度も抱いた。それで、包帯の下に胸がある幻を見たのか。

 夢と現実の区別が付かないなんて酒に酔ったのか?長恭が恐る恐る衾をめくると、前をはだけたままの文叔が寝返りを打った。少女の清潔な胸の谷間が確かに深い陰を作っている。

『文叔が女人だって?』

 再び衾を掛けると、長恭は呆然として榻牀の端に座った。

 何と言うことだ。師弟として共に学問に励み、義兄弟の契りまで交わした文叔が女人だったなんて・・・。

たしかに文叔と出会ってから、疑問に思うときがあった。

 南朝で戦塵をくぐり抜けてきたと言いながら、剣術の鍛錬では、木剣も十分に振れなかった。騎術はなかなかだが、酒にはめっぽう弱く、小柄で身体も細くい。抱き上げたとき、その軽さに驚いた。

南朝の戦乱のために食う物もなく、虚弱に育ったためだと思っていたが、本当は女子であったのか。

 醜い傷があると言い張って、同じ部屋で着替えを嫌がったのも、女子である事を知られないためであったのか。


 ありえない。女子が男と偽って学堂で男に交じって学問をするなんて・・・。どれほど無謀なのだ。

 しかし、騙されたという怒りはなかった。むしろ胸のつかえが下りたような気がした。

 自分が文叔に惹かれたのは、文叔が女子だと感じていたためだったのか。文叔が女子なら、自分の想いは邪悪なものではなかったのだ。


 強い酒に泥酔した文叔は、泥のように正体無く眠っている。文叔を起こさないように、長恭は慎重に胸の布を縛り直した。身体に触れないように細心の注意を払いながら、文叔を藍色の長衣に着替えさせた。


盛春の太陽はすでに西に傾きつつある。今日中に屋敷にもどるなら、この時間には観翠亭を出発しなければならない。夕暮れとともに鄴都の城門は閉まってしまう。そうなれば、自分も文叔も屋敷に帰り着かないのだ。

 馬車で来るべきだった。このままでは、自分はともかく女子の身の文叔は無断外泊になってしまう。

 文叔が貴族である王琳の令嬢であるなら、無断外泊は女子としての名節に関わり、決して許されることではない。

 この時代、未婚の男女が同じ屋根の下で一夜を過ごしたら、一線を越えなくとも、女子は名節を失う結果となる。不名誉を雪ぐためには、本人たちの意向に関わらず婚姻に持ち込まなければならないのだ。

自分の外泊は、何とか誤魔化すことができよう。しかし、文叔の所在は鄭家に知らせておかなければならない。

 苦慮した長恭は、皇太后の別邸に泊まる旨の手簡を認め、父兄弟の呉栄に鄭家に届けさせた。


長恭が臥内に戻ると、文叔は静かな寝息を立てている。とにかく、やれることはやった。

 長恭はほっとして榻牀の端に座った。

『なぜ、文叔は女子である事を隠して、顔之推の学堂に入門したのだろう』

学問のためであろうか。確かに、文叔の学びは、仕官を望む他の弟子たちより真剣で純粋だった。

 顔之推に学ぶためには、身分を隠すことはあるだろう。しかし、義兄弟の契りを結ぶほど親しくなりながら、なぜ自分にも隠していたのだろう。

 長恭は、衾から出ている小さな文叔の手を見た。白い手には剣を握った傷が見える。自分が強いた稽古の傷だった。長恭は静かに手を握ると掌を優しく撫でた。

『学問ばかりか、なぜ、無理して剣術までやろうとする?』

 男子であることを示すためか?・・・もしや、文叔は梁の間者で、斉の政情を探っているのか?そのために、男と偽って自分に近付こうとしたのだろうか?

 いや、いや、皇子でありながら、爵位も官職も持たない自分に、何の政治的な利用価値があろうか。


 長恭は、榻牀の手すりに寄り掛かりながら、文叔を見下ろした。長い睫、滑らかな頬、細い首筋、花弁のような唇。なぜ、もっと早く女人であることに気づかなかったのであろう。

『気づいていれば、無理な稽古で体を痛めさせることもなかったのに』

 文叔は、苦しげに、壁側に寝返りを打った。天頂に結った髷は崩れて冠を留めている簪が外れそうだ。簪で顔を傷つけてしまう。長恭は簪を抜き冠を外した。

 とたんに髷が解けて、艶やかな髪が鳥の翼のように広がった。女人にしては、短い髪が哀れである。

 いつもは血気盛んな少年が、今は童女のように儚げに見える。長恭が手を伸ばし髪を左右に整えると、文叔は何かにすがるように眠ったまま体を長恭の方に傾けてきた。

 細い指が何かを掴むように伸びてくる。長恭が思わず両手で捕らえると、文叔は満足したように微かに微笑んだ。

『お前は、なぜ私に隠している?その苦しみを一緒に乗り越えたいのに』

 長恭は、文叔の手を離しがたく、隣に静かに横になった。


目覚めた青蘭は、隣に眠っている長恭の存在におどろく。長恭の温もりに身動きできない自分に、あらためて、長恭への思慕の心を思い知るのだった。

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