高敬徳の仇討ち
邯鄲の別邸で、高敬徳が私兵の訓練をしていると知った高長恭は、清河王府を訪ねて先走らないように注意を促すと共に、協力を申し出るのだった。
★ 清河王の仇討ち ★
邯鄲から戻った数日後、高長恭は清河王府を訪ねた。
高敬徳は祠部尚書として叙任している。祠部尚書は、儀式や皇族の婚礼を司る仕事であるため、午後の日が高い内に帰宅している事が多い。
長恭が書房に入ると、敬徳は几案に向かって上申書と格闘していた。
「敬徳、忙しそうだな」
長恭は壁際の榻に腰を掛けると、竹簡が積まれた書架を見回した。父親の高岳の亡き後、清河王になった高敬徳は、王府の経営を一人で行っている。
「長恭、久しぶりだな」
気が付いた敬徳は、やっと長恭の方に目を向けたが、再び忙しげに上申書に目を落とした。
清河王家は、高岳の武勲と北斉建国の功績により多くの領地や財産を得た。冀州の領地以外にも、籯州や定州に広大な荘園を持ち鄴都の王府以外にも邯鄲や晋陽にも別邸を持っている。若くして家督を継いだ敬徳は、一人で領地の経営に当たっていた。
しばらく上申書を睨んでいた敬徳は、筆を取ると指示を書き込んだ。筆を置き上申の帖装本をたたむとと、敬徳はやっと几案を離れた。
敬徳は長恭の隣に座ると溜息をついた。
「忙しくて、最近は茶楼にも行っていないのだ」
敬徳は茶杯を満たすと、長恭に渡した。
「先日、雨宿りで邯鄲の屋敷に寄らせてもらった。助かったよ」
長恭は、茶杯に口を付けた。
「聞いたぞ・・・。女子を連れて屋敷に来たと聞いたが、お前の・・・」
敬徳はからかうように片方の唇を上げた。
「誤解だ。・・・家人が何を言ったか知らないが、兄弟弟子だ。女子などではない」
女子連れだったことを否定する長恭に、敬徳は片目をつぶり唇だけで笑顔を作った。皇宮の横街を歩いただけで女子の目を奪う長恭に、女子がいてもおかしくない。
長恭は、手に持った茶杯の湯気越しに敬徳を見た。
清河王家の家人が、文叔の可憐な姿を女子と勘違いしたのであろう。男子でありながら女子と間違えられる辛い経験を文叔はしてきたに違いない。文叔の気持ちを思うと胸が痛んだ。
文叔と遠出したと言えば簡単だが、長恭はなぜか文叔と一緒に邯鄲に行ったことを知られたくなかった。
「敬徳、実は訊きたいことがあるのだ」
長恭は女子のことから話を逸らすと、前に立つ敬徳の顔を正視した。そうだ、訊いておかねばならぬことがある。
「先日、邯鄲の別邸の花園で、調練をしている者たちを見たのだ。あれは、し・・」
敬徳の手がいきなり長恭の口を押さえた。その拍子に長恭の茶杯が空中に飛んだ。
「だめだ・・・」
敬徳は辺りを見回すと、素早く長恭の肩を掴んだ。王府にいようと、どこで間者が聞き耳を立てていないとも限らない。
「敬徳、あれは単なる侍衛か?」
長恭は、愁眉をよせて敬徳に小声でささやいた。
「もし、私兵なら・・・罪に問われる」
敬徳は苦渋に満ちた表情でうつむいた。
「父上が亡くなって、はや一年だ。父上の敵討ちもできていない。だから、高帰彦の屋敷を・・」
「だめだ」
長恭は力いっぱい敬徳の腕を掴んだ。敬徳は私兵を使って、高帰彦の屋敷を襲撃するつもりなのだ。
「敬徳、早まるな。・・・屋敷を襲えば、お前の命はない。それだけに留まらず、一族皆殺しに・・・父上が喜ぶと思うか」
長恭が敬徳の腕を乱暴に揺すった。
「父が殺されて、足かけ三年だ。・・・無実の罪で殺された父の敵を討たないでおれようか」
「敬徳、考えてみよ。高帰彦の不正に憤る者は多い。その者たちと手を握れば敵討ちも容易になる。必ずや敵討ちが・・・」
「高帰彦の不正を憎む者?」
敬徳は、長恭の言葉を遮った。
「高帰彦は、渤海高氏の総帥だ。数々の不正を働いても陛下でさえ処罰できない。例え不満を持っていても、不正を暴くのは命がけぞ。だれが協力するものか」
長恭の祖父である高歓は、元々は懐朔鎮出身の鮮卑族であった。しかし、北魏の政界に進出するに際して、漢族の名族である渤海高氏に賄を贈り、姻戚関係を詐称したのである。没落していた渤海高氏の一族は高歓の旗下に入り、しだいに力を付けていった。そして現在、今上帝高洋が高帰彦の不正に対して断罪できないくらい政の中枢を握っているのである。
「敬徳、それはちがう。・・・私がいるではないか」
長恭は、孤立無援だと言い張る敬徳の腕をつかんだ。
敬徳と違って、自分は何の爵位も官職もない。朝堂では、いないも同然なのだ。しかし、敬徳の暴走を、止めるぐらいはできるかも知れない。
「そうだな、・・・長恭がいる」
世の人々が、全て自分を裏切っても、長恭だけは信じられる。敬徳はうなずくと長恭の手をつかんだ。
「力を溜めてこそ、強い弓も引ける。敬徳、軽挙は慎むのだ」
敬徳は、温順な幼なじみの瞳を見遣った。
★ 高帰彦の宴 ★
高敬徳は、太保であった高岳の嫡男である。幼き頃より聡明で、長じてからはその武勇と温厚な人柄により、宮中の女人から熱い視線を送られる存在であった。
長兄高澄の死後、皇帝となった高洋にとって、一族の長老高岳は疎ましい存在だった。
その聖意を感じて利用したのが、平秦王高帰彦だった。
ある宴の時、寵妃薛嬪と高岳の密通を誣告したのである。文宣帝は、有無を言わせず薛嬪と高岳を誅殺した。ところが、その直後密通を否定する証言が出てきた。薛嬪と高岳の密通は、高帰彦の讒言だったのである。
後悔した高洋は、軍務から戻った嫡男高敬徳を清河王に爵封したが、当然罪に問われるべき高帰彦は、何の咎めもなく、いまだ寵臣である。
心痛のあまり、敬徳の母は、その三ヶ月後に身罷ったのだ。
敬徳が変わったのは、その時からだった。
朗らかだった敬徳は、無口になり他人に本音を語らなくなった。喪を発していると称して、屋敷に閉じこもり誰にも会わないほどであった。
嗣部尚書として出仕するようになっても、
妓楼に入り浸り、口から出る言葉は皮肉ばかりだった。
そんな中でも、幼いときから兄弟同然の長恭の訪れを拒むことはなかった。後ろ盾もなく権力争いから遠い存在だからであろうか、長恭にだけには以前と変わらない親愛の情を示した。
高帰彦は渤海高氏の連枝である高徽が、市井の王氏と私通して生まれた子どもである。高歓の族弟となった高帰彦は、高歓に可愛がられた。しかし、高帰彦は私生児として幼少期に養育する者もなかったため、敬徳の父である高岳の家に預けられていた。
そのころ裕福ではなかった高岳の家では、高帰彦も労働に駆り出されることがあったという。従人と同じような労働を強いられた高帰彦の心情は量りがたい。
後年、高歓に抜擢された高帰彦は、幼き頃の処遇を恨みに思うようになった。そして、権力を握ると敬徳の父である高岳を誣告して死に至らしめたのである。
高帰彦は、このころ高洋に信任され、平秦王に封じられて中書侍郎に任じられていた。
この年、高帰彦は、長楽郡公の別封を受けて昇進したため、平秦王府で祝宴が催された。
敬徳は平秦王府から少し離れたところで馬車を止めた。
「長恭、俺は行かないぞ」
敬徳は、唇を歪めると顔を逸らした。
「敬徳、・・・気持ちは分かるが、宴は平秦王府をさぐる良い機会だ。・・・宴に行って平秦王の警戒心を緩めるのだ」
誘いを受けているにも拘わらず出席しないと、警戒心を起こさせる。
「平秦王に、愛想笑いをせよというのか」
長恭は、敬徳の肩に手を置いた。
「敬徳、声が大きい。・・・愛想笑いぐらいできなくて、仇が取れると思うか?」
敬徳は、長恭を睨んだ。
「高帰彦は、寵臣だ。いつまでも避けていては、警戒されるだけ。むしろ持を低くして従う姿勢を示せ」
敬徳は権門の令息として、誇り高く育てられてきたため、意思に反して恭順を示すことなどできないのだ。低い出自のために耐えてきた自分とは違うのだ。
「いやだ。あの高帰彦の奴に、愛想笑いなんて死んでもできない。俺は、お前のようには・・・」
敬徳は、長恭の腕を振り払った。
長恭は、皇宮では温厚な皇子で通っている。しかし、このときは珍しく怒りを露わにした。
「そうか、私が好き好んで愛想笑いをしていると思うのか?・・・いいさ、そう言うなら、何も言うことはない。私の事はあてにしてくれるな」
長恭は立ち上がると、馬車の外に出て行こうとした。温順な長恭の罵声は、珍しい。
「ま、待ってくれ」
敬徳は、長恭の腕を捉えた。
侍衛を鍛えて王府を襲撃するなどとは幼稚なやり方だった。自分は、屈辱に耐えて志を貫くという覚悟が足らなかった。
「わ、分かった、宴に行くよ」
敬徳は、贈物の玉の仏像を入れた櫃を手に持つと、長恭と一緒に馬車を降りた。
高帰彦はすでに高官として朝廷で権勢を振るっていた。そしてこの時、それに加えて領軍大将軍の称号を賜ったのである。
ちなみに、大将軍としては前漢の衛青が有名であるが、南北朝時代の当時では、実質を失い箔をつける称号の一つと化していた。
三月の朔日に、爵封祝の宴が廷臣や商賈を招待して平秦王府で開かれた。
高帰彦は、中書侍郎として皇帝に近似し詔勅の伝達耶記録に関わっていたため大きな権力を有し、その執行にあたっては、官吏や豪商からの賄賂が贈られるのが通常であった。
鄭家も豪商の一つとして祝宴に招かれた。鄭賈の賈主である鄭桂瑛は、家人の装いをした青蘭と侍女の春華を従えて大門を入った。
桂瑛が振り向くと、男の格好をした青蘭が物珍しげに辺りを見回している。
女子としての道は諦めたと言って、現在は学問に熱中している青蘭であるが、男子のように仕官する道はない。十六歳の少女に世間が分かるはずもない。しかし、本人の言うとおり独身を通す覚悟なら、いずれは鄭家の商賈の一翼を担って欲しい。
「青蘭、招待客の名前と顔を覚えておくのだ。鄴の主立った者はほとんど来ている」
鄭佳瑛は、持参した昇進祝の櫃を家宰に渡すと前庭に入った。高帰彦の屋敷は皇宮を凌ぐほど豪壮な宮殿である。広い前庭に多くの招待客が列をなしている。
「あちらが、侍中の魏殿、こちらが織物商の・・・」
後ろに従う青蘭の耳元に唇を寄せ、佳瑛は小声で青蘭に鄴の豪商や権門の名を教えた。
招待客たちは平秦王に挨拶をすると、その身分に合わせて各宴席に案内されるのである。
鄭桂瑛主従は、正殿に入った。
正面の榻には、五十歳をいくつか過ぎた高帰彦が左右に多くの貴族を侍らして座っている。
この男が、敬徳の父親を誣告した平秦王高帰彦なのか。青蘭は母親の肩越しに高帰彦を睨んだ。
「此度は、領軍大将軍への就任おめでとうございます」
平秦王の前に行くと、桂瑛は丁寧に挨拶した。青蘭もそれに習った。
「おや、鄭家の賈主が自ら来るとは珍しい」
女子の商人が珍しくない鄴でも、女人の大賈は希少である。高帰彦は、淸雅な笑顔で挨拶する鄭桂瑛を見遣った。
「平秦王の慶事とあらば、駆けつけるのは当然です。今後とも鄭賈をよろしくお引き立てのほどを・・・」
高帰彦は、顎から伸びる髭をしごきながら笑みを漏らした。
鄭桂瑛は女子ながら、鄭家の本店である鄴の商賈を采配する切れ者の賈主である。皇族や権門との取引も多く、他の商賈とも如才なく付き合っている。その手腕は大同にある宗家を凌ぐほどで、年々その商盛を広げているとの噂である。
「殿下、ご用の節はよろしくお願いします」
高帰彦に挨拶をすると鄭桂瑛は清雅な笑みを浮かべ、青蘭を引き連れて外に出た。
鄭桂瑛主従は、商賈が多く座る東の側殿の前に案内された。
側殿の前には露台があり、多くの卓が設えてあった。
露台の中央に設けられた席に案内されると、桂瑛は周りの賈人たちに黙礼をした。それに応えた五、六人の賈人は、全て壮年の男子である。
青蘭は、母の後ろに立って辺りを見渡した。
招待された賈人の中で女子は桂瑛だけである。しかしその威厳は、決して他の男たちに負けるものではない。鄭賈の安寧を母の双肩が支えてきた。母は、これらの男たちと商賈の世界で渡り合いながら鄭賈を広げてきたのだ。時には冷酷に思える母親だが、賈人としては鄭家を支える頼りになる賈主である。
庭には篝火が焚かれ、灯籠が下げられている。
「これは、鄭家の賈主の鄭殿ではないか」
はるか左に座っていた范家の賈主が、席を立って挨拶に訪れた。
「まあ、まあ范殿、お久しぶりです」
鄭桂瑛は満面の笑みになると、素早く立ち上がった。
鄭賈主の宴への出席はめずらしいらしい。桂瑛主従に賈人たちの注目が集まっているのが分かる。近くで接すると、青蘭が女子である事を悟られるかも知れない。
「子靖、扇子を忘れたわ。馬車の中から取ってきてちょうだい」
突然、母の桂瑛が命じた。
「承知しました」
青蘭は深く礼をすると、俯きがちにその場を離れた。
このころ、北斉では、権門の間で庭園を造営しその冨貴を誇示することが流行していた。清官の中書侍中を拝命する高帰彦の後苑は、広大な睡蓮池に中の島を有する広壮な庭園である。陸と島を繋ぐベンガラ色の美しい橋がその財力を示していた。
正殿で高帰彦に挨拶を済ませた長恭は、用意された宴の席を避けて後苑に向かった。
平秦王の宴には、その権勢にあやかろうとする皇族や官吏、商賈が群がっているのだ。長恭は敬徳が企てている敵討ちの困難さに胸が痛んだ。
青蘭は人混みを避けて、東の回廊を北に向かった。平秦王府の壮麗さは、往時の建康の皇城を凌ぐほどである。単に中書侍郎の職だけでは得られぬ富を蓄えているのだろう。
東の偏殿がつきて側殿に曲がった。そのとき、青蘭はいきなり後ろから腕を掴まれた。ううっ、痛い。刺客か?
「そなた、もしや、・・王文叔では?」
恐る恐る声の方を振り向くと、長恭の温顔が見えた。
「あ、・・師兄」
緊張がいっきに解けた。
「なぜここに?」
「お前こそ、何だその格好は?」
皇族である高長恭が、高帰彦の宴に来ていても何の不思議もない。しかし、賈主の令息である文叔が家人の格好で来ていることは確かに不審である。
「師兄、それには訳が・・・」
長恭に何と言って言い訳をしよう。
しかし、秀麗な長恭には人々の注目が自然と集まるのだ。こんな人目の多いところで言い合いをしている訳にはいかない。青蘭は、長恭の腕を引くと、近くの扉を開けて中に入った。
窓の少ない房は、すでに暗闇に包まれている。書庫であろうか。中にはずらっと書架が立てられ、多くの竹簡や書冊が収められている。宴の日に書庫に入ってくる者など、めったにいない。
「今日は母の付き添いで来ている。私が鄴に来ていることは、内密なのだ。だから、家人の格好をしている」
腕を掴まれた青蘭は、決まり悪げにうつむいた。梁の将軍王琳を父に持つ文叔を、鄭家としてはあまり公にしたくないに違いない。文叔も微妙な立場なのだ。
「そなたの立場も大変だな」
長恭は文叔の藍色の半臂(半袖の上着)の肩を軽く叩いた。
「師兄は、なぜ平秦王府に?」
清廉な長恭が、賄賂で財を築いたと言っていい高帰彦におもねるはずがない。
「平秦王府の様子を探りに来たんだ」
平秦王に何か含むところが?青蘭は暗がりの中で長恭の顔を見上げた。
「敬徳の父上が、亡くなったのは知っているか?」
「はあ、聞いたことは・・」
一昨年、先代の清河王が亡くなったことは知っている。
「先の清河王に、罪を着せたのは平秦王なのだ」
「平秦王が?」
青蘭が思わず大きな声を出すと、青蘭の口を長恭の手がふさいだ。
その時、扉の前を数人の人陰が通り過ぎた。
長恭は、慌てて文叔の腕を取ると書庫の奥に引っ張って行った。
「敬徳が、・・仇討ちを狙っている」
青蘭は小声になって長恭の耳に口を寄せた。
「清河王が、敵討ちを?」
息子の敬徳は、北方に軍務で赴いていたため父親の冤罪を訴えることもできなかった。戻った敬徳は若輩で政治的な力が弱く、憤慨しながらも高帰彦の罪を問うこともできなかった。
「ああ、敬徳は高帰彦の首を狙っている。敬徳は、親友だ、協力したい。そのために、平秦王府を探りに来た」
一見温順に見える敬徳は、そのような恩讐を抱えていたのか。
表の扉が音を立てて開いて、暗い書庫房に一人の男が入ってきた。
薄闇にいた長恭と文叔は、慌てて書架の陰に隠れた。男が中に進むに従って、長恭と青蘭は壁に沿ってゆっくりと奥に進んだ。すっかり夕日が落ちた窓からは、回廊の灯籠の灯りがわずかに差し込むだけで、書庫の奥は暗闇に包まれている。
「静かに・・・」
長恭は青蘭の肩を手で押しつけるようにして、壁の奥に身を潜ませた。
「動かないで・・・」
長恭の喉に顔を押しつけられて、青蘭の鼓動が跳ね上がる。身じろぎをすると、長恭が腕に力を込めた。
しばらくすると、また扉が開いて別の男が入ってきた。
「殿下・・・」
「礼はいい」
先に来ていた男の影が礼をした。
長恭は、文叔を抱きしめる腕に力を込めた。後から来た男は高帰彦であろうか、声に聞き覚えがある。
「天平寺が新しく建立される」
高帰彦の影がわずかに動いた。さすが、権門の高帰彦は情報に精通している。
「寺の建築のために材木が不足するはずだ。最近は戦がなくて、材木の値段が下がっている。前もって買い集めておけ」
高帰彦の影が、扇子をつかって仰いだ
「御意。・・・それにしても、各地から寄進された材木の中には、傷がついた物もあるでしょうな」
この男は、献上の材木を狙っているのか。
「わかった、工部に渡りを付けておく。傷物はそなたに下げ渡す。・・・見返りは・・・」
先に入って来た男が礼をすると、高帰彦は、静かに扉を開けて出て行った。
「まったく、強欲なお方だ・・・商賈の我々を食い物にして・・」
男は舌打ちをすると、扉を開けて左右を見た。
青蘭が竹簡の間からわずかに覗くと、灯籠の灯りに照らされて横顔が見えた。
高帰彦に挨拶をしたとき、高帰彦の横にいた曹鈞礼である。曹氏は、素早く回廊に出ると足早に歩いて行った。
音を立てて扉が閉まり、青蘭は、ほっとして長恭から身体を離そうとしたが、また話声が近づいてきた。
「まだ、動かないで」
長恭の腕に力が入って、青蘭は逞しい胸に顔を押しつけられた。襟元から立ち昇る沈香の香に胸が高鳴る。
「もう大丈夫?」
扉の前から声が遠ざかって、青蘭はやっと声をあげた。
窓の少ない書庫の壁際は暗闇に包まれている。青蘭が瞬きをしながら顔を上げると、唇に柔らかいものが触れた。
これは、なに?・・・離れなければと思いながらも、長恭の身体の温かさが離れがたくする。
「行ったみたいだ」
辺りが静かになると、長恭は青蘭の身体を離し、二人は壁を背にして並んで座った。
「平秦王と喋っていた男を知っているか?」
「曹鈞礼だ。鄴の豪商の一人だ。母が高帰彦に挨拶をしたときに側にいた」
最初聞いたときには、寺院を建立する話かと思ったが、材木の不足を利用して儲ける話だった。しかも、各地から献上される材木を傷物として横流しを図るとは・・・。
「師兄、あれは、材木の横流しの話だ」
青蘭は暗闇の中、頼りなさを感じて長恭の手を握った。
「高帰彦は、商賈と結託して富を築いていたのか。師兄、寺院の建立のために各地から納められる材木を横流しして儲けるつもりなのだ」
長恭は、青蘭の手を握り返した。
「きっと、これは高帰彦の悪事の一端だ。他にも多くの悪事に荷担して賄賂を受け取っているに違いない」
高帰彦の闇は深い。高帰彦の不正を追求することは、敬徳の仇討ち以上の意味がある。
「不正を、突き止めなければ・・・」
長恭は、唇を噛んだ。
怒りに燃える長恭の言葉を聞いて、青蘭は不安になった。
「高帰彦の権力は絶大だ。師兄に・・・危険はないのか?」
青蘭は長恭の顔を見上げた。窓から差し込むかすかな灯りが、長恭の眉目を神々しいまでに照らしている。
「私の心配をしてくれるのか?」
長恭は、笑顔になると文叔の頬をつまんだ。
「大丈夫だ。そこまでは深入りしない。気をつけて戻れ」
立ち上がった長恭は先に文叔を外に出すと、扉を閉めた。
長恭は、中指で自分の唇をそっとなぞった。柔らかい文叔の唇だった。
高帰彦と曹鈞礼が書庫に入ってきたとき、身を寄せる振りをして、文叔を抱き寄せた。放したくなかった。華奢な身体と茉梨花の香が、長恭を愚か者にした。
闇に紛れて長恭は、無防備な文叔の唇を一瞬の内に奪ってしまった。
男子の唇をだまし討ちのようにして奪うなんて、何て自分は卑怯者だ。長恭は、自己嫌悪に捕らわれて拳で自分の頭を叩いた。
★ 上巳節の日に ★
長恭が手を伸ばすと、文叔の唇がそこにあった。
文叔、君が欲しい。
「師兄、ああ・・」
抑えきれない恋情が溢れだし、両手が文叔を組みしいて顔を近づける。
滑らかな桃花の唇を躊躇なく奪った。
文叔は、顔を仰け反らせる。
逃げようとする文叔の胸を唇が這い上る。
長恭の唇が、滑らかな乳房を捉えた。
放したくない。文叔の細い腰をたぐり寄せる。
文叔の清雅な瞳は、女人のものだ。
「文叔、愛している」
あらがいがたい文叔の柔らかさが、長恭を押し包んだ。
天が炸裂し長恭は残虐な欲望の放恣に敗北した。
そうだ、私は夢の中で文叔を抱いていた。女として・・・。
王文叔は、梁の将軍である王琳と斉の豪商鄭桂瑛の息子である。昨年南朝の江陵から斉の都である鄴にやってきて、中原一の学者である顔之推に弟子入りした。王文叔は流麗な手跡を誇り、学問に専心する若者である。阮籍の詩賦がきっかけで、共に学問に励むようになった。
そして、いつの頃からだろうか、その笑顔や手に触れる度に、長恭の胸が高鳴るようになったのだ。
夢の中で、文叔を女子のように抱いてしまった。自分が決してされたくないと唾棄してきた行為を、夢の中とは言え、自分が行ってしまったのだ。
兄弟の契りを交わせば、邪念と決別できると思っていた。ところがどうだ、自分は毎夜のように女子の文叔を抱いている。
これからも義兄弟としているためには、放恣に走ってはならない。どこかでこの想いを断ち切らなければ、おぞましい男たちと同じように文叔を襲ってしまうだろう。
榻牀から起き上がると、長恭は深い溜息をついた。
長恭は文叔を、上巳節に鳲鷗陂で行われる踏青に誘った。
上巳節は、三月三日に河や湖の辺に集まり、穢れを祓う祭礼である。
しかし、それだけではない。春の陽気に誘われ、若い男女が出会いを求めて、桃の花が咲く水辺に繰り出すのである。そのとき、花や若菜を摘んだりするので踏青と言われていた。
鄴都から南東におよそ二十里のところに鳲鷗陂がある。毎年上巳節には鄴都の巫女が集まり、祓いの祭礼を盛大に行うことになっていた。
それを口実に、妓楼の女子たちや貴族の遊び人達が出会いを求めて合集するのだ。そして噂では、名門の令嬢もちらほら出掛けるらしい。
巫女や潔斎に興味のない青蘭は、最初は断るつもりだった。しかし、男女の出会いを求めて権門の令嬢や妓楼の妓女たちも出掛けると聞いて、行ってみる気になった。
出会いを求める女子たちの中に、端華な長恭を一人行かせれば、注目を集めるのは必定だ。それは、虎の檻の中に兎を放つようなものだ。美しく着飾った令嬢が、長恭の心を射止めるに違いない。
青蘭の中の女子の嫉妬心が疼いたのだ。
長恭に上巳節の踏青(野原への春遊)に誘われた青蘭は、迷いながらも一緒に行くことにする。
上巳節の踏青は、厄を祓う儀式であると共に、若い男女の出会いの場でもあったからだ。潔斎の儀式の後、長恭は青蘭をかつて過ごした山荘に連れて行く。