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邯鄲での雨宿り  

高長恭は、王文叔への恋心を抑えるために義兄弟の誓いを立てた。

二人の時間を持ちたい長恭は、文叔を鄴都の北にあるかつての趙の都であった邯鄲への遠乗りに誘う。

         ★       邯鄲の秘密      ★


午前の講義を終えた長恭と文叔は、城門を出てると鄴城の北に向かって馬を駆った。

「今日は、義弟に面白い物を見せてやろう」

漳水を左に見ながら北へ向かう。長恭は馬に鞭を入れると文叔を追い抜いて前に出た。

「文叔、私の後をついてこい」

文叔は自分の馬に鞭を打つと、長恭の縹色の外衣を見ながら後を追った。

長恭は兄弟の契りをしてからは、以前のように苛立つこともなく落ち着いた笑顔を見せることが多くなった。


 河沿いの緑の喬木の中には、所々に山桜の淡い桃色が見える。

東に見える皇族の狩猟の場である禁苑が尽きると、漳水は東に大きく迂回する。漳水に掛けられた浮橋を渡ると、遙か遠くに邯鄲の邑の影が見えてきた。


邯鄲は、およそ九百年前の戦国時代のころ、趙王朝の都として隆盛を誇った城である。その後、秦の始皇帝によって滅ぼされ、かつての栄華を失った。しかし、北斉が鄴を都に定めてからは、多くの豪商や貴族が別邸を構えていた。


喬木の林を西に曲がると、小高い丘が見えてきた。丘には所々に灌木が生えて、周囲には巨大な岩が散らばっている。

長恭と青蘭は、丘の南の平地で馬を降りると、馬を繋いだ。

「ここが、趙城の跡地だ」

 岩の間をしばらく進むが、丘の上には宮殿の跡も見えない。

「始皇帝が、徹底的に破壊したのか?」

邯鄲は、始皇帝生誕の地である。人質として趙に送られた皇子異人の子として生まれた籯政は、父が秦に戻ってからも邯鄲に捨て置かれ悲惨な少年時代を過ごした。

 秦王に即位した秦王政は、惨めな少年時代に復讐するように趙を攻めた。

 そして趙を滅ぼした後には、王宮のあった邯鄲城を徹底的に破壊したのであった。そのため、旧邯鄲城の跡地は捨て置かれ、その北に新しく邯鄲城が建設されたのだった。

「邯鄲での生活が、始皇帝を破壊者にしてしまったのだ。怨念や恨みは、人生を狭めてしまう」

長恭は、高帰彦への復讐に燃える敬徳のことを思った。敬徳は、復讐のために他人への信頼も人生の喜びも捨てようとしている。


 長恭と青蘭は、かつては宮殿の礎を支えていたと思われる岩に腰掛けた。

「これほど、破壊し尽くされていたとは・・」

 青蘭の瞳の底には清泉な悲しみが流れた。

「始皇帝は、己の運命に押しつぶされてしまったのだ。文叔、人は辛さを乗り越えて、成長するものだ。もし、始皇帝が己の恨みに打ち勝てたら秦は、長続きしたかも知れないな」

 長恭は、馬から水筒を取ると一口飲んで青蘭に渡した。師兄は、惨めだった幼年時代の恨みを乗り越えて生きてきたに違いない。

「分かった。師兄、肝に銘じるよ」

義兄弟の契りを交わして以来、長恭は己の辛かった生い立ちも少しずつ話すようになってきた。しかし、そんな師兄に気を許すと、自分が女子である事を悟られてしまう。

 あまりなれなれしいのも考え物だ。文叔は、長恭が口を付けた水筒を押し返した。

「文叔、何を怒っているのだ?」

「いや、怒っているなんて・・・」

「私が何か悪いことでもしたか?」

長恭が顔を背けた青蘭の顔を覗こうとしたとき、水筒から水が飛び出て顔に掛かった。

「わあ、冷たい」

大げさにわめくと、長恭は手巾で青蘭の顔のしずくをぬぐった。

「すまぬ、すまぬ・・」

手巾が生え際や瞼に触れる。

 甘やかな感覚が青蘭の身体を走った。

「どうした、顔が赤いぞ。まさか、風邪を引いたか」

義弟の体調の不良は、義兄たる自分の責任である。女子であると夢にも思っていない長恭は、文叔の額に、己の額を重ねた。

「師兄、や、やめてくれ」

青蘭は、慌てて長恭の身体を突き放した。身体に触れられると、自分の恋情を制御できなくなりそうだ。

「何がだめなのか?義弟の面倒をみているだけだ」

長恭は、心外だというように唇をとがらせた。


「師兄は優しい。でも、それに甘えては、自分が成長できない気がするのだ」

青蘭は、成長のためを主張した。

 長恭は文叔に対する好意を、義弟への兄弟愛に昇華しようと努力していた。しかし、文叔にとっては煩わしいのだろうか。

「分かった。お前の言うとおり見守るよ。でも、何か困ったことがあれば、二人で乗り越えたい」

 長恭は文叔の右手を握ると、右の人差し指で文叔の頬をつついだ。

「それが、義兄弟というものだろう?」

長恭が顔を傾けて、笑みを浮かべた。

 義弟であれば、こんな仕草も可笑しくはない。たとえ、文叔の想い人になれなくても、ずっとこのまま傍にいられたら、どんなにいいだろう。

 青蘭は長恭の指のふれた頬を、静かに撫でた。 


     ★    邯鄲の雨宿り     ★


長恭と青蘭が、持ってきた焼餅と乾し肉で遅い昼餉を摂っていると、にわかに冷たい風が吹いてきた。黒い雲が湧くと、瞬く間に土砂降りの雨が降り出した。稲光が辺りを包むと突然雷鳴がとどろいた。


二人は慌てて乾し肉の包みを片付けると、大きな枝を広げる槐の木の下で雨宿りをした。文叔の髪に肩に雨粒が落ちてくる。

「文叔、こちらに来い」

 長恭は文叔の肩を抱き寄せると、縹色の外衣を脱いで文叔の頭から掛けた。

「文叔、寒くないか?」

長恭は両腕で抱きしめる。長恭の長い腕が枝の間からしたたり落ちる雨粒から文叔を守った。

「文叔、大丈夫か?」

 冷たい雨に打たれているのに、膝の上にのせた文叔の身体からは柔らかく温かいものが流れてくる。雷鳴におびえて文叔が、腕に力をもめた。文叔の頭に被せた縹色の長衣の隙間から、茉莉花の香が立ち上って、甘い衝撃が身体を走る。何と言うことだ。義弟として諦めたはずなのに・・・。

 男にしては頼りない細さは、戦乱の中で十分栄養を摂れなかったせいに違いない。長恭は、文叔の背中を優しくさすった。

雷鳴が通り過ぎ、激しかった雨が小降りになった。

 文叔は雨に濡れたままでは、風邪をひいてまた寝込んでしまう。被せていた長衣を文叔の頭から下ろすと、文叔の顔を覗き込んだ。

「文叔、ずいぶん、濡れてしまった。・・・邯鄲で雨宿りしよう」

長恭は懐から出した手巾で、雨に濡れた文叔の頭や肩を拭った。

「邯鄲で?」

「ああ、邯鄲には敬徳の別邸があるのだ。管理の者はよく知っているから、そこで休ませてもらおう」 

「敬徳様の?」

「敬徳は、鄴に滞在中だ。別邸はいつも空いている」

敬徳と長恭が出くわすことを恐れていた青蘭は、長恭の言葉に少し安心した。


さわさわと小雨が降る中を、二人は馬を駆って邯鄲に向かった。

邯鄲は、趙の旧都の北に建設された城である。左右に優美な城壁を従える城門を入ると、北の方には武霊叢台の壮麗な姿が雨に煙って見える。

叢台に向かう道を途中から東に曲がると、大きな屋敷に着いた。清河王家の別邸である。


長恭が馬から下りて門を叩くと、ほどなく門衛が脇門から顔を出した。

「雨に降られてしまったのだ。火藘と着替えを頼む」

長恭と敬徳は、よほど親しいのであろう。ほどなく大門が開くと、長恭は我が屋敷のように家人に手綱を渡した。

清河王の別邸は、人気がないものの広大な庭を有する壮麗さであった。長恭は案内を請わず文叔の手を引いて瀟洒な建物に入っていった。


 長恭は偏殿にある部屋に入ると、濡れた外衣を脱ぎ衣桁に掛けた。

「文叔、衣が濡れている。早く脱いでここに掛けるがいい」

 長恭は文叔の後ろに回ると、衣に手を掛けた。

「だ、だ、大丈夫、自分でやる」 

青蘭は慌てて長恭のそばを離れると、外衣を脱いで掛けた。

 長恭がよく使っている部屋なのであろうか、物入れから手巾を出すと青蘭の髪を拭きだした。

「師弟。お前は身体が弱いのだ。ちゃんと拭いて内衣から着替えねば・・・」

ここで着替えるって?下着姿になれば、女子である事が知れてしまう。しかし、着替えねば風邪を心配している長恭が承知しないだろう。

 どうして逃れよう。青蘭が思い悩んでいると、二人の侍女が着替えと茶を運んできた。

「師兄、このままで大丈夫だ。着替えは必要ない」

榻に座った文叔は、そう言うと雨に濡れた長衣の衿を合わせた。

「前みたいに、寝込むと学業に支障があるだろう?意固地になるな・・」

長恭が、白絹の内衣を広げて着替えさせようと前に立っている。このままでは、むりやり衣を脱がされそうだ。

「分かった、着替える。その・・・実は、身体に戦場で負った傷があるのだ。とても醜いから、師兄に見られたくない」

盆にのせられた内衣と臙脂色の長衣を手に取ると、青蘭は長恭に背を向けた。

長恭は唇を噛んだ。

 何と言うことだ。文叔は南朝での戦いで酷い傷を受けていたのか。だから、あんなに病弱なのか。

「わかった。気付かなくて、すまなかった。外に出ているから着替えてくれ」

 長恭は、そう言い置くと自分では着替えをせずに、濡れたままの長衣姿で外に出ていった。


青蘭は、長恭の足音が遠ざかっていくのを確かめると、ほっと溜息をついた。

 師兄に嘘をついてしまった。しかし、女子だと知られるわけにはいかない。

 青蘭は急いで長衣を脱ぐと帯を解いた。そして、長恭の隣に自分の濃紺の長衣を掛けた。

 婚儀の初夜には、新郎新婦が婚礼衣装を並べて衣桁に掛けるという。そんなことは夢のまた夢だ。青蘭は縹色と濃紺の外衣の袖を手に取ると静かに重ねた。

 青蘭は、密かに行った初夜の真似事の衣を、しばらく眺めていた。

 

  ★    秘密の調練    ★ 


長恭は扉を閉めると、回廊の柱の陰から雨が上がった蒼空を見上げた。

文叔は身体にそんなにひどい怪我をしていたのか。それに加えて、江陵から鄴への道中で賊に襲われたときに受けた怪我もあるかもしれない。

文叔は、か弱い身体に多くの刀傷を受けながら、その痛みを隠して自分の鍛錬に付き合ってくれていたのか。

そんな文叔を、南朝の軟弱な若様と皮肉りながら、過酷な調練を科していた自分は、何という残酷な義兄だろう。長恭は己の酷薄さを呪って頭をたたいた。傷を負っているなら、着替えも簡単ではないだろう。


 長恭は、回廊に出ると内院から広い後苑(正殿の裏庭)に入り込んだ。広々とした睡蓮池が築山を取り囲むように広がっている。すでに驟雨は上がって、青空には太陽が輝いている。


 長恭の祖父高歓と、敬徳の父高岳が従兄同士に当たるために、高歓が北魏で頭角を現すと、引き立てられて幕僚として活躍したのでる。

 皇族であるが血縁的には高一族の宗主に遠いために、反って高歓や高澄の信頼を得て、財産を築くことができた。邯鄲の屋敷は、皇宮にも劣らない豪壮さであった。

 しかし、父の高岳の死後、喪に服している敬徳は、宴を開くこともないせいか、広大な庭園の手入れは行き届いていなかった。睡蓮池の横を通り藪と言っていい築山を越えて行くと、以前に来たときにはなかった板塀が造られている。

 敬徳の母親が健在であったころは、よく手入れされた花苑になっていて牡丹や石楠花などの花が咲き乱れていたところだ。


長恭が板壁に寄り耳を澄ますと、塀の向こうから男たちの声が聞こえてくる。

 いったい何なのだ?長恭が板塀の隙間から覗くと、二十人ばかりの男たちが、かけ声に会わせて木剣を振るい、修練に励んでいた。

 単なる侍衛ではない。身のこなしが尋常ではなく、禁軍の兵士よりも統制が取れている。全員がかなりの遣い手と見た。まさか、敬徳は私兵を養っているのか?

北斉の王朝では、武器を蓄えたり私兵を養うことが公になれば死罪である。

なぜこんなことを・・・。そうだ、敵討ちだ。力を蓄えるまでは、と言っていたのに・・・。高帰彦を殺すために、こんな危険を冒すとは・・・。


長恭は板塀のそばを静かに離れると、偏殿にある部屋の外に戻った。

「文叔、文叔、着替えはすんだか?」

 長恭が話しかけると、室内から文叔の返事が聞こえた。

「義兄、終わった」

客房の中には火藘が運ばれて、文叔はすでに臙脂色の長衣に着替えている。大きな瞳に臙脂色の大きめの長衣が妙に似合っている。

 髪が雨に濡れて、前の髪が額に掛かっているのを目にすると妙に胸が高鳴る。

「ちょっと、大きくて変だろう?」

 文叔は、長衣の袖をひらひらさせた。

「そんなことない。よく似合っているよ」

 長恭は、笑顔で文叔の衿を整えた。


「師兄の着替えはまだでしょう?早くしないと風邪をひいてしまう・・・」

 青蘭が着替えの衣を差し出すと、長恭はいきなり長衣と内衣を脱ぎだした。青蘭が驚いて衣を取り落とした。

「な、何を・・・」

女人の様な容貌にも拘わらず、長恭の肢体は引き締まって逞しく、一つの傷も付いていない。青蘭は正視できずに後ろを向いた。

「まったく、変な奴だな。男の裸を見て驚くなんて」

 長恭は内衣を着るとその上から香色の長衣をまとった。帯を簡単に締めただけのしどけない長恭の姿は、はっとするほど艶めかしい。

 着て来た長衣を乾かすために卓の上に広げると、二人は並んで榻に座った。

「寒いだろう?炭を増やしてもらおう」

「いえ、大丈夫だ」

 青蘭は、立ち上がろうとする長恭を制した。多くの目に触れれば、自分が女子である事が知れてしまう。

「ここは清河王の屋敷だ。厚かましいことはできない」


青蘭は臙脂色の衿を合わせると、火藘に手を伸ばした。

「そんな遠慮はするな。義弟の身体が心配なのだ」

長恭は隣に座る文叔の肩を引き寄せると、身体をぴったりと付けた。

 文叔が義弟になって以来、長恭は常に慈しみの態度で接してくれる。しかし、これは自分だけではないにちがいない。長恭は慈悲深く、従人にさえ親切だ。

 良い友は、良い夫になるに違いない。長恭の身体から立ち上る沈香の香りが、青蘭の恋心を刺激する。

「義兄は、いつも優しい。きっと、将来は妻にも優しくするのだろうな」

 自分は何を言っているのだろう。

「妻を娶るなんて、まだ先のことだ。・・文叔、何を心配している」

「妻を娶れば、二人でこんな遠出はできない。妻が大切だ」

 これは、まさしく嫉妬だ。

「何を言う。・・妻は妻、文叔は文叔だ。どちらも大切にするさ」

 長恭は笑顔になって、文叔の首に腕を回した。

皇族の婚姻は早い。長恭が任官したら、婚姻の相手が決まるであろう。それは、遠い将来のことではない。

「妻は、自分が大切に思える女人でなければと思っている。だから、・・・きっとずっと先だと思う」


隣には火藘を見つめている文叔の横顔が見える。前髪が頬に掛かって、女子のような可憐さだ。

長恭は抱きしめたいという衝動に気付いて肩に回した腕を離した。大切に思える人は文叔しかいないのに、どうして妻など娶れようか。

長恭は、男を愛してしまった忌まわしい自分の想いに溜息をついた。


一刻後、長恭と文叔は清河王の別邸を出ると鄴に戻った。


邯鄲の清河王別邸に雨宿りをした長恭は、光敬徳が復習のために私兵を訓練していることを目撃してしまう。敵討ちにはやる高敬徳に不安を感じた長恭は、清河王府に敬徳を訪ねるのだった。

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