プロローグ 2
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それは、ドナドナ聖女になる二か月前。
わたしが前世の記憶を取り戻す数時間前のことだった。
前世の夏希の記憶が混ざり合う前の、単なるクリスティーナ・アシュバートン公爵令嬢だったときのことである。
こう言うのもなんだけど、前世の記憶を取り戻す前のわたしは、どちらかと言えば人生悲嘆型で、どんな理不尽なことも諦めて受け入れるような後ろ向きな性格だった。
まあ、そこには自分の生立ちや境遇が多大に影響していて、正直言って仕方がなかったと思っている。
この時までのわたしことクリスティーナは、アシュバートン公爵の長女で前妻の忘れ形見で、王太子ジェラルドの婚約者で、「聖女」という肩書は持っていなかった。
金髪にブルースターの花のような水色の瞳の、美しいけれど人形のように表情を変えない氷の女。
それが、世間一般に噂される「わたし」の姿らしい。らしいというのは、どうも自分自身のことは客観的に見られなくて、ごく稀にジェラルド王太子に伴われて出席する夜会で、こそこそと噂されているのを耳にしたことがあるくらいの情報だからだ。
……それにしても、嫌な天気。
小さくて天井の低い屋根裏部屋で目覚めたわたしは、三角の明り取りの窓の結露をそっと指の腹で払って、はらはらと舞い落ちる雪に憂鬱になった。
大陸でも南のあたりにあるフィサリア国は滅多に雪が降らないのに、その日は珍しく雪がちらついて、なんだか不吉な予感がするなと思ったのを覚えている。
二歳になる前だったわたしは覚えていなかったけれど、母が死んだ日も雪が降っていたと乳母が言っていた。
雪の日には、いい思い出がない。
十歳になって、今日から屋根裏部屋で生活しろと、父の後妻で、義母のエメリーンに命じられたのも雪の日だった。
今日から使用人と同じように働けと命じられた十三歳の冬の日も、やっぱり雪が降っていた。
この国には滅多に雪が降らないくせに、わたしにとってつらいことがあった日には、必ずと言っていいほど雪が降っている。
「……もしかしたら、今日は、何か起こるのかしらね」
嫌なことが起こる。その予感は確信に近い。
「それにしても寒いわ」
この部屋に暖炉はない。暖を取るには毛布にくるまるしかないが、わたしに与えられている毛布はけば立った古いもので、暖を取るにはいささか心もとない。
わたしは屋根裏部屋の扉の鍵がきっちりかかっていることを確認し、口の中で小さくつぶやいた。
「部屋を暖めて」
その瞬間、部屋の気温がぐんと上がった。
おそらくこれは、魔術の一種だと思う。本当はわざわざ望みを口に出す必要もなく、心で願ったことをそのまま現実にできるのだが、口にした方がイメージがつきやすい。しかしわたしがこんな力を持っていることが家族や外部に知られると、いろいろと都合が悪いことになるので、わたしにこんな力が備わっていることは誰にも教えていなかった。
昔は大勢いたという魔導士だが、最近はその誕生率は一万人に一人の確率だと言われている。かつては魔道具と言う便利な道具も存在したそうだが、稀に誕生する魔導士の中でも、それを起動できる人間はほとんどいないと言われ、本来ならば計り知れない価値のあるそれらは、価値あるガラクタとして見つけたら国の宝物庫という物置に収められ埃をかぶっているのだとか。
温かくなった部屋の中で大きく伸びをして、わたしは壁にかけられている着古したメイド服に着替える。
早く仕事をはじめないと、義母のエメリーンや異母妹のアンジェリカがキンキン声で怒鳴りつけてくる。
父のゲイリーはわたしに無関心なので何も言わないが、エメリーンたちの甲高い声が耳障りなようで、それもこれもわたしのせいだと、冷ややかな氷のような目で睨みつけてくるのだ。
アンジェリカに微笑みかける父は、わたしには笑いかけない。
幼いころ、縋れるものは冷たい父しかいないと信じていたわたしは、それが悔しくて悲しくて仕方がなかったけれど、十歳になって乳母を取り上げられたあの日、すべてを理解した。
父は、わたしが邪魔なのだ。
エメリーンが厭味たらしく語ることには、父ゲイリーはわたしの母との結婚を望んでいなかったらしい。
母と結婚する前から父にはすでにエメリーンという恋人がいて、わたしの母と結婚したのは、すべて祖父の命令だったとか。
祖父が死んで、そのあとすぐに母も死んで、母の喪が明けないうちにエメリーンと再婚した父は、もしかしなくても二人が死ぬのを今か今かと待ちわびていたのかもしれない。
祖父のことも、わたしの母のことも憎んでいたのだろう。
だから母の娘であるわたしのことも、娘だとは思っていないに違いない。
それがわかったら、何故だかおかしくなってきた。
使用人たちはわたしに優しい。けれども、わたしが一番愛してほしかった父は、わたしに無関心なのだ。
嫌われるより、無関心でいられることの方が何倍もつらいけれど、逆にここまで無視されればあきらめもつく。
ああ、わたしは生まれるべきではなかった存在だ。
本当なら、王太子ジェラルドとの婚約だって、わたしではなくアンジェリカと結ばせたかったはずだろう。
しかしアンジェリカは、わたしが八歳、アンジェリカが六歳の時に、聖女だと認定された。
実際アンジェリカが力を使うところは見たことがなかったけれど、聖女を選ぶとされる「聖王の泉」が光ったのだから、彼女が聖女で間違いないのだ。
わたしはあの日、アンジェリカと一緒に「聖王の泉」にいて、その泉が光るところをこの目でしかと見た。その直後、アンジェリカが興奮して「わたしが聖女よ!」と叫びながらゲイリーとエメリーンに抱きつくところも。アンジェリカを高く抱き上げて「さすが私の娘だ」と満面の笑みを浮かべる父の姿も。蔑んだ目をこちらへ向けるエメリーンの姿も。
聖女は帝国の皇帝に嫁がなくてはならない。
帝国に嫁げば、女神もかくやと言わんばかりに大切に大切にされるのだそうだ。
アンジェリカは自分が女帝として帝国に君臨する妄想でもしているのか、恍惚とした目をして何度もこう語った。
――わたしは女神になるの。その時に召使にならしてあげてもいいわよ。
アンジェリカのその口癖がぴたりと止んだのは、わたしが十四の夏のこと。わたしと、わたしより一つ年上のジェラルド王太子との婚約がまとまったときだった。
王の命令で決まったこの婚約だが、ゲイリーは直前まで辞退を申し上げていたらしい。クリスティーナは出来の悪い娘で、王太子殿下の婚約者が務まるはずはないと。
けれども、父が何を言おうと、王の命令も、わたしがアシュバートン公爵家の娘である事実は覆せない。
わたしと王太子ジェラルドの婚約は父の抵抗も虚しくあっさりとまとまり、それを聞いたアンジェリカとエメリーンは激高した。
アンジェリカなどは、自分は帝国で女神になると騒いでいたにもかかわらず、「王妃になるのはこのわたしよ!」と言って大騒ぎをはじめた。
帝国の皇帝の妃と、フィサリア国の王妃。同時になれるはずもないのに馬鹿なことを言うものだ。
わたしの心は十四歳の時にはすでに半分死んでいたようなもので、誰と婚約させられようがどうしようがどうでもいいと思っていた。
この先一生、誰からも愛される気がしない。
幼少期に自分にとって唯一の存在だと信じていた父から顧みられない現実は、思った以上にわたしの心に闇を巣くわせていたらしい。
普段は使用人のように扱う癖に、「公爵令嬢」としての対面を保っていなければならない日――簡単に言えば家の外に出す時だ――には、豪華なドレスを着させられ、父からは「お前は余計なことを喋るな」と言われる。まるで人形にでもなれと言われているようで、ならばいっそ望み通り人形に徹してやろうと、わたしは一切笑わなくなった。
そんな日々が続いて、次の春で十九歳になるわたしは、来年にでもジェラルドと結婚式を挙げることになっていた。
「クリスティーナ! 起きてるの⁉」
下から、ヒステリーなエメリーンの叫び声が聞こえてきた。早く仕事をしろと急かしているのだろう。
わたしは急いで顔を洗うと、屋根裏部屋から出て、梯子を伝って二階へ降りる。
すると、梯子の下ではエメリーンが腰に手を当てて仁王立ちをしていた。
「なんてみすぼらしい格好をしているの! 早く着替えなさい‼ 城へ行かなくてはいけないのよ⁉」
城? そんな話は聞いていない。
朝から登城しろとはいったいどんな急用なのだろうか。
驚いて目をしばたたいている間に、エメリーンの命令でメイドが三人、わたしの手を引いた。
屋根裏部屋とは別に、わたしを外に出すときのためだけに使う「お着換え部屋」へ連行される。
「雪がちらついておりますが、寒くはございませんでしたか?」
そう言って、メイドの一人がわたしの手を取って、おやと首をひねった。冷たく氷のような手を想像したのだろう。魔法で部屋の中を温かくしていたから寒くなかったとは言えず、わたしは一言「大丈夫よ」とだけ伝えておいた。
メイドはホッとしたように胸をなでおろして、手早くわたしのボロっちいメイド服をはぎ取る。
この家の使用人たちはとても優しい。いつもわたしが虐げられているのを見て、「お可哀そうに」と顔を曇らせる。母が生きていたころから働いている古参の使用人も多いので、事情を知っている彼女たちはわたしが物語の「灰かぶり姫」のようにでも見えるのだろうか。
雪が降っていて寒いから、クリーム色の厚めの生地のドレスを着させられ、少しパサついている金髪にオイルを塗って艶をだし、サイドを編み込んでから一つにまとめられた。
「まだなの⁉」
扉の外で、エメリーンが甲高い声で叫んでいる。
メイドたちは眉を寄せて、わたしの顔に薄く化粧を施すと、「本当はもっと完璧に仕上げたかったんですけど」と悔しそうな顔をした。
「充分よ、ありがとう」
わたしが部屋から出て行くと、待ち構えていたエメリーンが怒鳴った。
「さっさと馬車に乗りなさい! 約束の時間に遅れてしまうじゃないの!」
だったら事前に伝えておけばいいじゃない、とは思っても口にはできなかった。
本当に、そんなに急いでいるなんて、何の呼び出しなのかしら。
不思議に思いつつも急かされるままに馬車に乗り込むと、馬車の中にはすでに派手に着飾ったアンジェリカが座っていた。
「もう、お姉様ったら早くしてよね。わたしまで遅刻しちゃうじゃない」
わたしの顔を見るなり文句を言うが、その表情はびっくりするほど上機嫌だった。
何かいいことがあったのだろう。
もしかしたら、帝国に嫁ぐ日取りが決まったのかもしれない。帝国で女神のように崇め奉られる自分を想像してはうっとりしていたから、嬉しくて仕方がないのだろう。
「急いで頂戴!」
雪は積もっていないけれど道は凍っているかもしれなくて、そんな中で馬車のスピードを出すのは危険なはずなのに、エメリーンは御者にそう命じる。
これで約束の時間とやらに遅れたらすべて御者の責任にされるだろうから、彼は青くなって馬の尻を鞭で叩いた。
ガタンと大きく揺れて、馬車が走り出す。
御者の頑張りもあって城まで早くたどり着いたけれど、馬車がスリップ事故を起こさないだろうかと不安で仕方がなかったわたしは、到着したころにはすっかり疲れてしまっていた。
城に到着したわたしたちは、なぜかそのまま謁見室へ案内される。
緋色の絨毯が敷かれた長い廊下を進んで謁見室にたどり着くと、広い室内にはすでに父ゲイリーと、それから王太子ジェラルドの姿があった。奥の玉座には国王陛下が座っている。
ゲイリーはわたしを素通りして、アンジェリカとエメリーンに視線を向けた。
ジェラルドはわたしを見たけれど、すぐに興味なさそうに視線を逸らされた。
……まあ、婚約者とはいえ、ジェラルドがわたしに微笑みかけたことなんて一度もないけどね。
わたしも笑わないのだから、人のことをとやかく言えた義理ではないけれど。
わたしもジェラルドから視線を外して、玉座の国王陛下に深く一礼する。
エメリーンも腰を折って一礼したけれど、アンジェリカは聖女は国王よりも偉いと勘違いしているのか、小さく会釈したきりだった。
陛下は難しい顔をして、わたしとアンジェリカを見つめたあとで、大きく嘆息した。
「クリスティーナ・アシュバートン。王太子ジェラルドとの婚約を解消し、そなたに我が国の聖女と認める。春を待って、帝国の使者とともにマクシミリアン皇帝へ嫁ぐように」
「…………え?」
わたしは思わずポカンとしてしまった。
今、陛下は何と言っただろうか?
驚いて二の句が継げないわたしに、ジェラルドが嘆息しつつ言った。
「クリスティーナ。聖女が帝国に嫁ぐのは知っているだろう?」
「……はい、それは……」
「だが、アンジェリカは帝国に嫁ぎたくないそうだのだ」
は?
今、何を言ったのかしら、この王太子は?
茫然とするわたしをよそに、話は続けられる。
「アンジェリカは帝国に嫁ぐのではなく、私の妃となってゆくゆくはこの国の王妃になりたいと、そう言っている」
ちょっと待ってほしい。そんな我儘が通るのだろうか。
わたしはくらくらと眩暈を覚えた。
ジェラルドの表情から見るに、アンジェリカのその申し出を、彼は歓迎しているようだった。
考えてみれば、ジェラルドは野心家な男で、独立を認められてはいるものの帝国の属国のような扱いを受けているこの現状を、いつか打破してやるのだと言って憚らない男だった。
帝国が強大なのは聖女を娶っているからだと、ジェラルドはそう信じきっている。
聖女を奪えば帝国の国力がそげると本気で思っているのだろうから、アンジェリカが帝国ではなく自分に嫁ぎたいと言ったのは、彼にとって願ったりだったのだろうけど。
ジェラルドは失念している。
聖女がいてなお、フィサリア国は四百年前、ソヴェルト帝国に戦争で負けているのだ。それで、国の存続を認める代わりに聖女を嫁がせるという約束をさせられたのに、アンジェリカを手元に置いて何になるだろう。
だがそれを指摘しても、ジェラルドの機嫌を損ねるだけだ。
わたしは心の中でこっそり嘆息しつつ、なるほどだからわたしを代わりの聖女に仕立て上げるつもりなのかとあきれた。
聖女が本物かそうでないかなど、帝国には判ずる手段はない。
聖女かそうでないかは、世界で唯一「聖王の泉」が判ずることができるのだから、「聖王の泉」のないソヴェルト帝国では、それを確かめるのは不可能なのだ。
アンジェリカは勝ち誇ったような笑みを浮かべてわたしを見ている。
アンジェリカに甘いゲイリーも異を唱える様子はない。――いや。もともとこうなることを、知っていたとしか思えなかった。
馬鹿馬鹿しいほどの茶番劇。
この場で知らなかったのはおそらく、わたしだけだ。
異を唱えることも、許されない。
わたしはゆっくり瞼を伏せて、それから深く腰を落として一礼した。
「……承知いたしました」
アンジェリカのかわりに帝国へ送る。
わたしの意思をよそにそれが決定事項になっている現状で、抵抗したところで、わたしにはもうこのフィサリア国に居場所はない。
ならば最後の矜持とばかりに、微笑んで受ければいいだろう。
父から「余計なことは喋るな」と命令されて以来、はじめて浮かべた微笑み。
ジェラルドが瞠目したのがわかったけれど、そんなに驚くようなものだろうか。
わたしは人形ではなく人間なのだから、笑うことくらいできるのだ。
そのあと陛下から何かを言われた気がするけれど、あまりはっきり覚えていない。たぶん、ねぎらいの言葉か何かだったのだろう。
父から先に帰っていいと言われたので、わたしは一人、乗ってきた馬車に乗り込んだ。
アンジェリカやエメリーンは、まだ城に用があるらしい。
馬車に座ると、わたしは一人なのをいいことに、はあーっと声を出してため息をついた。
馬鹿馬鹿しいったらない。そんな馬鹿馬鹿しい茶番に付き合わなくてはならないわたしも、やっぱり馬鹿馬鹿しい。
「やっぱり、嫌なことがあった」
雪の日は、わたしと相性が悪いらしい。
でもさすがに、これだけのことがあったのだから、今日の不幸は終わりだろう。
そう油断していたわたしはこのあと、馬車の事故に巻き込まれて気を失うことになり――、まさかそれで前世の記憶を取り戻すことになるとは、露ほどにも思わなかった。