前編
僕はエリオット・ブライス。ブライス商会の跡取り息子だ。
23歳の誕生日、いつの間にか婚約者ができていたことを聞かされた。
「結婚式は半年後だ。くれぐれも、相手の機嫌を損ねることのないように」
まるで仕事の指示でもするかのように、父が告げる。
持ち上げたフォークから、朝食の炒り卵が零れ落ちるのを目で追った。口の中に苦いものが広がるような気分を顔に出さないよう注意を払いながら、父を見る。
「お相手は、どなたですか」
父は新聞から目を離した。感情の読めない視線を僕に向ける。いつものことだが、居心地が悪い。
「ボールドウィン子爵のご令嬢だ。名は、たしか……フランシスカ嬢」
家名を聞いて、妙に納得してしまった。いかにも父らしい。
ブライス商会は国中に名の知られた豪商だが、所詮は平民の成り上がりだ。僕の母が男爵家出身で多少のパイプはできたものの、懇意にしていると言えるのはまだ下位貴族のいくつかの家だけ。特に保守派の貴族との相性が良くない。
ボールドウィン子爵家は、保守派筆頭といわれる伯爵家の分家として爵位を得た家だ。下位貴族の中でもかなりの名家である。近年精彩を欠いているようだが、その名と人脈の持つ力は健在だろう。ブライス商会が縁を結ぶ相手としてはできすぎているくらいだ。
しかしだからこそ、なぜそんな家との縁談がまとまったのだろう。
ボールドウィン家か、はたまたフランシスカ嬢当人か。何かあるのは間違いない。
「今日の午後、こちらにいらっしゃる。私は同席できないが、しっかりもてなしなさい」
「それはまた、急ですね」
相変わらず、僕の都合など気にも留めていない。言葉のとげが気に障ったのか、父は鋭い視線をよこした。
拒否権などないことは、わかりきっている。
味のしない卵を飲み込んで、顔に笑みを貼り付けた。
「わかっています」
決定事項だということは。
聞き届けると、父は興味を失ったように新聞に視線を戻した。
目を閉じて、様々な感情をやり過ごす。ひとつ深呼吸をして、僕は席を立った。
「予定変更だ。今日は昼過ぎに戻る」
私室に戻るなりそう告げると、従者のアレンは眼鏡の奥の目を見開いた。
「どうなさったのですか」
「僕の婚約者様とやらが、お茶にくるらしい」
「一体いつご婚約されたんです?」
「僕が知りたいよ」
アレンは訳知り顔で頷いた。
「わかりました、どこぞの貴族のお嬢様でしょう。会長の商売にかける情熱は留まるところを知りませんね」
「聞かれたらクビになるぞ」
「なりませんよ、私のような優秀な秘書は新しく探す方が手間ですから」
「言ってろ」
軽口をたたきあいながらも、アレンは手を止めることなく支度を手伝ってくれる。従者兼秘書であるアレンは、寄宿学校からの付き合いだからか、使用人といっても友人のような関係だった。
「フランシスカ・ボールドウィン嬢。何か知ってるか?」
名前を告げると、アレンは口をぽかんと開けた。滅多に見ない表情に、不安が募る。
「ボールドウィン子爵家のフランシスカ嬢……実在したんですね……」
「どういう意味なんだ、それは」
実在すら疑われていた子爵令嬢なんて、全く想像がつかない。
頭を抱えたくなってしまう。いやしかし、先入観はよくないだろう。なるべくまっさらな状態で顔合わせをしたい。
この家に、あの父の子として生まれた以上、婚約を反故にするという選択肢はない。商会の仕事はとても好きだし、向いているとも思う。幸い恋人も想い人もいない身だ。どんな相手であっても、婚約者として、未来の伴侶として尊重するのが僕の信念に基づく最善の行動だ。
決して、母と同じ轍は踏ませたくない。
複雑な思いを抱えたまま取り組んだ午前の仕事は、我ながら情けない有様だった。まるっきり動揺している。
アレンに何とも言えない表情を向けられるのに少々腹が立ったが、おおむね無事に昼を迎える。
商会の執務室で適当に軽食をつまんで、足早に屋敷に戻った。
「フランシスカと申します」
そう名乗って淑女の礼をとった目の前の女性は、ちぐはぐな印象を抱かせる人物だった。
所作はとても綺麗だ。容姿も、美人といって差し支えないだろう。僕自身あまり美醜に頓着しない方だから、おそらくは。柔らかそうな栗色の髪は、簡素だがすっきりとまとめられている。僕よりひとつ年上の大人の女性らしく、グレーの瞳は落ち着いた光を讃えていた。
けれど、着ているドレスが、どうにも似合っていない。数年前に流行した型の、派手なピンク色をしたそれは、どうみても十代の少女が着るようなものだ。肩の布地もわずかに浮いている。
「エリオットです。御足労いただきありがとうございます」
僕がそう言うと、後ろで噴き出すような声がした。どうやらアレンらしい。僕も言い終えてから気がついたが、取引先の御仁を迎えるような言葉を選んでしまった。
気を取り直して応接間へ案内する。フランシスカ嬢は非常に大人しい。時折、周りにちらちらと視線を投げているほかは、おかしなところは全くなかった。
紅茶を勧めると、素直にカップを持ち上げる。
彼女がカップをソーサーに戻すのを待ってから、口を開いた。
「フランシスカ嬢、僕の友人になってくださいませんか?」
ずっと落ち着いた表情を保っていた彼女が、初めて驚きを見せた。
「友人、ですか? ……婚約者ですのに」
声も動揺からかわずかに震えている。
「話したこともなかった相手といきなり婚約といわれても、戸惑うでしょう? 実を言いますと、僕はこの話を今朝聞かされたばかりでして」
部屋の入り口近くで控えているアレンが、身じろぎしたのが視界の端に映る。余計なことを言わない方がいいとでも思っているのだろう。
でも僕は、母と同じ境遇のフランシスカ嬢に対して、少しでも誠実でありたかった。
ドレスを見て、確信したのだ。彼女はきっと、経済的な理由で行き遅れ、商人と婚約することになったに違いない。
売られるように嫁いできたという母が静かに壊れて行ったのを、なすすべなく見ていた。ちっとも母親らしいことをしなかった人だったけれど、僕にとってはたった一人の実の母親だったのだ。
フランシスカ嬢は膝の上で両手を握って、うつむいた。思わぬ反応に慌てると、彼女は小さな声で言った。
「申し訳、ありません」
謝らせて、しまった。深い後悔が僕を襲う。正直であることと、誠実であることは違うというのに、僕は失敗してしまった。
僕の方こそ謝ろうと口を開いたが、彼女がさっと顔をあげたので言葉は出てこなかった。
フランシスカ嬢は、泣いてはいなかった。どこか必死な表情で、目が離せない。
「きっとご不満なのでしょう、そうでしょうとも。こんな年増で、みっともないドレスを着て、話も面白くない女など、だれも欲しがりません。でもボールドウィン家とのつながりのために、持参金がなくともわたくしと結婚してくださるのだと聞かされております。いないものとして扱ってくださって結構ですから、このお話はぜひとも進めていただきたいのです」
ほとんど一息で言われた内容に圧倒されて、僕はしばし黙り込んでしまった。フランシスカ嬢は目の前で大きく息を吸っている。
また何か話し出そうとしているのかもしれない。これ以上誤解を大きくさせないために、僕は急いで口を挟んだ。
「フ、フランシスカ嬢。不満など、とんでもありません。戸惑っているのは事実ですが、結婚するからには、あなたと仲良くなりたいと思っていて……」
「……仲良く? そうなのですか?」
そう聞き返してきたフランシスカ嬢は、どこか幼く見える表情をしていた。
僕は大きく頷く。
「そうです。それにもし仮に婚約を解消しようと思っても、それができるのは僕ではなく父です。あなたもでしょう? いわば僕たちは同志ですよ。父親に決められた婚約を、ただの契約で終わらせるのか、親しくなって楽しく過ごすのか、僕ら次第なんですから」
「同志……」
しゃべりすぎただろうか。つぶやいて考え込んでいるフランシスカ嬢を前に、僕は落ち着きなく椅子に座りなおした。
「では、わたくしの早とちりでしたのね。……でも本当にわたくしに不満はありませんの?」
不安そうに尋ねるフランシスカ嬢に、僕は真剣に言葉を返す。
「年増などとおっしゃっていましたが、全く気になりませんよ。……あなたが気になさっているなら、僕にできることはないですが。……話も、面白くないかどうかはこれからわかることです。つまらなかったとしても僕が面白い話をしてみせます、たぶん」
口を閉じてから、しまったと思った。また失敗してしまった。僕は柄にもなく緊張しているのだろうか?
フランシスカ嬢は、少し顔を赤くして声をあげた。
「ドレスはみっともないと思ってらっしゃるんじゃないですか!」
「いえ、違います! 事情はわかりましたから、触れるのに忍びなくて!」
言い訳のようで、みっともないのは僕の方だ。二人とも大きく息をついて、顔を見合わせた。
「本当に、恥ずかしい……。これは、姉のおさがりなんです。それもデビュタントのときの……こんな年で着ていいドレスじゃないのに! このドレスも泣いているでしょう」
「ドレスが泣く……」
不思議なことを言う女性だ。思わず繰り返してしまった。
「エリオット様は、わたくしが持参金を払えないで行き遅れていたのはご存知でしたか?」
「いえ、先ほどのお話で知りました」
「うちはご存知の通りそこそこの家ですが、父が見栄っ張りなのです。姉二人を嫁がせるときに張り切りすぎて、わたくしの分の持参金のことは頭からすっぽり抜けていたんだとか。でもそれを他の貴族に知られるのは恥だから、わたくしの結婚は宙に浮いたままこの年になってしまいましたの。夜会や茶会に招かれても、お受けしなかったら何か問題があるのだと認めるようなものですから、参加だけして、どなたとも親しくせずにこそこそと息をひそめて早々にお暇して……そんなことを繰り返していたら、名前しか知らない、存在しないのではなどと噂される始末」
「なるほど……」
この短時間で、フランシスカ嬢の印象は大きく変わった。なかなか手厳しいことも言うようだ。
「新しくドレスを仕立てるほどの財産もなく、なんとか体裁を保っていたところに、この婚約ですわ。父は、伯爵様に叱責されることになったとしても、体面と家の存続のために、ブライス商会に助けを求めたのです。わたくしをほいと差し出して」
今わかった。彼女はそうとう怒っている。……僕にではなく、彼女の父親に。そうであってほしい。
眉を寄せているフランシスカ嬢を見ていたら、ふと思いついた。
「フランシスカ嬢、このあとお時間はありますか?」
「え? ……ええ、空いておりますけれど」
僕は自然と微笑みながら、彼女に提案した。
「お近づきのしるしに、ぜひドレスを贈らせてください」
フランシスカ嬢は、みるみる目を見開く。
「よろしいのですか?」
「もちろん。うちと取引のあるドレス工房にお連れしますよ」
僕は、さっと時計を確認した。これから行っても、ドレスの注文をするのに十分な時間がある。
フランシスカ嬢は、戸惑いの色を見せながらも、グレーの瞳を輝かせた。
「ありがとうございます。この御恩は、わたくしきちんとお返ししますわ」
……ずいぶんと、大げさだ。なんだか斜め上の方向に受け取られている気がする。
「恩だなんて。ドレスを贈るのは、…………婚約者の特権、ですから」
「まあ」
柄にもないことを言った自覚はある。フランシスカ嬢も目をぱちりと瞬いた。
ひとつ咳ばらいをして、僕は立ち上がった。
「早速参りましょう」
フランシスカ嬢も頷いて立ち上がり、僕たちは応接間を出た。
いつの間にか、アレンがいなくなっている。きっと馬車の用意をしに行ってくれたのだろう。たしかに自分で言うように、アレンは優秀な秘書だ。