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ある異邦人の旅立ち

作者: 弘せりえ
掲載日:2020/08/18

ルークは今、自分が死に面していることを知っていた。




窓辺の草花がガラス一枚を隔てて風になびいている。


この間まで手を伸ばせばすぐ手に取ることのできた花々がだんんだんと遠のいていく。




秋になったせいだ、と言い聞かせてみるが、


自分の人生には、もう一足先に冬がやって来ていることに気付き、苦笑する。




世界に冠たる英国の一流画家ルーク・バートンは今、


病の床に伏せっていた。




彼の人生はありとあらゆるもので満ち溢れていた。




彼は数えきれないほどの恋愛をしてきた。


華々しい女たちや情熱的な男たちとスキャンダルを巻き起こし、


貞淑な女性たちやプラトニックな男性たちと大人の恋を楽しんできた。




ついに子供には恵まれなかったが、彼は通り一遍の人生を、


人の何倍もの迫力と努力と悪運とで以って駆け抜けてきた。


年を追うごとに高まってくる名声、


彼自身が誇りに思う作品の数々―それらを彼は我が子を思うような気持ちで慈しんできた。




最近、自分の最期を悟って描き上げた作品は、


神技とも称されたほどだった。


世間に病状の悪化が知れた直後、この作品は即発表され、


そのタイトル『天国』が人々の心を打ち、評論家をうなさせた。




ルークは半生を振り返り、思う。




彼の名声の半分は利用する側に作り上げられたものだった。


そもそも彼は天国なんて信じていなかったし、


たとえあったとしても好き放題やってきた自分が行ける場所ではなさそうだった。




往年の画家は深くため息をついた。




人生のかなりの時間を費やしたラブ・アフェア。


ギャンブル、マリファナ、自殺未遂。


若い頃は自分が世界の太陽だと思っていた。


既成の概念にとらわれない自分を異邦人になぞって、


その自由奔放なイメージを描いた作品は、彼にとって最も大切な一枚である。




あの頃、世界は本当に彼を中心にまわっていた。


そう信じられる自信が、彼を支配していた。




しかしその当時、ヒーローを気取っていたにも関わらず、


彼は、作品『異邦人』の片隅に悲しい死のイメージを付け加えた。


そのアンビバレントな要素が面白いと思ったのだろうか。


しかし今となっては、まるで何十年後かの自分の姿を見透かしていたかのように思える。


あるいは逆に、あの絵の通りの人生を送ってしまったのだろうか。


どちらにしても、自らの描いた世界で生涯を送るというのも奇妙なことである。




彼の人生は、その他いろいろなシーンがあり、作品として姿を留めている。




初めてバイクに乗った時の爽快感、


世界中の何もかもを手に入れて見せると決意した夜、


宇宙へのあこがれを抱き仰ぎ見た星空。


弱々しいが、力いっぱい翼を広げて夢を追う少年、


路地裏で生きる下層階級者たちの熱き想い。


プレッシャーに押しつぶされた男優の最期。


生と死について描いた教会のステンドグラスを思わせる作品は、


聖職者の心さえもつかんだ。




力がみなぎり、希望に満ち溢れていたあの頃。




雑然とした秋の草たちの間を、一陣の風が吹き抜けた。


ルークは目を閉じた。


今、彼の心の中にも、その人生が一陣の風となって通り過ぎたような気がしたのだ。




ルークはある少女のことを思い出していた。




あれはまだ彼が青年だった頃。


大きな庭があるルークの家で親戚のパーティが開かれることになった。


大学の休暇で家に戻っていたルークは、うんざりとその日の午後を過ごしていた。


年配の叔父や叔母たちは、こぞって若い見内の愚痴をこぼす。


その上、従姉妹たちは不美人揃いで、


ルークが唯一敬愛している従兄は旅行中で不参加ときている。




ルークは裏庭に面したポーチの椅子に座り、不機嫌に本を読んできたが、


いつしか書物をポーチの低い壁の上に置き、脚を小さなサイドテーブルの上に投げ出して、


うとうとし始めた。


嫌な時間までは長くあって欲しいと思うものであり、


そう望むと、今が嵐の前の至福の時のような気がしてくる。


ルークはまるで世紀末を心安らかに待つ世捨て人になったような不思議な感覚にとらわれていた。




太陽がまぶしい。


どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。


そよ風は花の香りと、午後の台所で作られているクッキー菓子の甘い香りを運んで来た。




そよ風の合間に、ルークは何かを耳にしたような気がした。




「・・・こんにちは」




 明らかに自分に向けられた二度目の呼びかけに、


彼はゆっくりと目を開いた。




そこに立っていたのは小さな女の子だった。




どこから庭に入ったのだろうと不思議に思うが、すぐに今晩のパーティに思い当たった。


どこかの遠い親戚の子だろう。




「あなたは、ここのおうちの人?」




 少女は砂糖菓子のような甘くやさしい声でたずねた。


はにかんだ表情と明るいまなざしが何ともかわいらしい。


ルークはゆっくり椅子から身を起こした。




「君は誰? 名前は何て言うの?」




「モニカ」




モニカは恥ずかしそうに茶色の巻き毛を口元にもっていきながら答えた。


大きな茶色の瞳と、ほっぺたにうっすら広がったそばかすが、


金髪碧眼の多いバートン家のものとは異質に見えた。


ルーク自身、髪も瞳もダークブラウンだったので、


モニカは数多い親戚の中で唯一の同胞のように思えた。


この子がいるパーティなら、まんざら自分だけが異邦人ということもあるまい。


ルークは小さな味方を見つけてうれしくなった。




「モニカ、だね。僕はルーク。よろしく」




 右手を差し出すと、モニカは照れくさそうにそっと握り返した。




「モニカ、年はいくつ?」




幼いモニカは両手を差し出し、指で数を示しながら言った。




「8つ」




その様子がひどく幼く見えて、ルークは笑ってしまった。




「まだ小さいんだなぁ」




それを聞いてプッとふてくされるモニカを見て、ルークはあわてて次の言葉を探した。


「いや、素敵なレディだったもんで、つい・・・ごめんよ」




それを聞くと、今度は天使の笑みを浮かべる。




次々変わる小さな少女の表情に、芸術家ルーク・バートンは強く惹かれていった。


いつの間かひどく創作欲をかきたてられていることに気付きつつ、


ルークはたわいもない会話を楽しんだ。




「いつ来たの? 誰と一緒に来たの?」




「さっき、ママと・・・」




ほんのひとときの出会いだった。


何を話したのか具体的には殆どおぼえていない。




すぐに母親らしき女性の声が表の庭の方でして、


モニカはちょっと行ってくるといった様子で小さな手を振ると、行ってしまった。


去り際に、ルークの方を振り返り、


まぶし気に目を細めた顔が一瞬とても大人っぽく見えたのをおぼえている。


そしてその日の午後はそれきり、もう裏庭には戻って来なかった。




その昼のイメージが強すぎて、


ルークはその晩のパーティでモニカに再会できたのかどうかおぼえていない。


たぶん会わなかったのだろう。


その程度の関心しか、当時は持っていなかった。




ほんのちょっと心をかすめたにすぎない出来事だった、少女モニカとの出会い。




そのモニカが何十年も後になって死の床に伏せっているルークの元に、


こんなにも鮮やかに戻ってこようとは驚きだった。


長年の様々な経験、苦労、喜びや悲しみは一体何だったのだろう。


最後にはモニカと過ごしたあの午後のひとときに出し抜かれてしまうなんて。




これを自分の伝記作家が知れば、さぞ驚くことだろう。


ルーク・バートンが死の瞬間に思いだしているのが、


とうとう一度も作品として描かれることのなかった、いやそれどころか、


その存在さえ口外されることのなかった一人の少女のことだとは。


この非凡な人生の終着駅がたった一人の幼い少女だったなんて、


拍子抜けもいいところではないか。




しかし、ああ、ちがうのだ、とルークは思う。


あの少女は自分の人生の始まりだったのだ。


『異邦人』という旗を掲げて世に乗り出していく自分を、


あの少女は見送りに来てくれたのだ。


彼女はあの時、これから始まろうとするルークの華々しい未来の輝きに


目を細めたのかもしれない。


そして今、彼は、あの時を昨日のことのように思い出し、


あの少女の元に帰って行こうとしているのだ。




自分と同じ色の髪と瞳を持つ少女の元へ。




 午後の太陽がまぶしい。


小鳥のさえずりとクッキーの焼けるにおい。




 そよ風が花の香りと懐かしいモニカの甘い声を運び、


そして『異邦人』の悲しい色彩が最期にルークの瞼をかすめた。



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