落ち夢ひろい
心機一転、日立晃、と絵馬に書いた。
「あの、演劇部に入りたいんですけど……」
晩秋の合格祈願から5か月ほどが経ち、4月の1学期、祈願通りの山の丘大学に入学。早々に一人で、文化系クラブ棟の前にたどり着いていた。
山なのか丘なのか、山の丘大学は地元の山の上にあり、その敷地の端に位置する文化系クラブ棟は、高台から町を見下ろす絶景スポットであるという。入学式会場を出てからここまでの道中、逆ひったくりのように押し付けられた部活勧誘パンフレットではそのように紹介されていたが、確かに、山の裏側に位置するここは表ほど切り開かれておらず、つやつやした緑の葉が、眼下の灰色の町を縁取って眺めがいい。と言っても、それもフェンス越しの景色であって、色あせた青い網目のこちら側はアスファルトの道として整備されている。道を挟んだフェンスの対面には、2階建てくらいのコンクリートむき出しの古い建物があった。
この建物の表には、左に出入口のドアと、右に一つシャッターがあった。そのシャッターを上に半分だけ上げて、頭と腕をつっこみガタガタと何やら作業している人がいる。小柄でスキニーのジーンズ。女性。上には黒のパーカーを着ていて、背中には白抜きでロゴが入っている。
『アクト』
俺は、もう一度その人に声をかけた。
「演劇部、入りたいんですけど……」
ガタ、と一瞬音が止まり、また一際忙しない音が聞こえた後、ようやくシャッターの下から体を引き抜いてくれた。
茶髪の三つ編み。
「え? 新入部員!?」
軽やかな声。振り返った顔は童顔で、目をまん丸にして、ついでに口も丸く大きく開いている。そして薄く化粧をしている。化粧をしている。高校までにはいなかった、化粧をしている女子。
「すごい、今日まだ初日なのに! 新歓イベントとかなんにもしてないのに! 待って、ちょっと待っててね」
シャッターの取っ手に手をかけ、全身を使って豪快に閉めると、飛び跳ねるようにこちらへやって来た。
「わたし、教育学部2回生の小桜りん(こざくらりん)。演劇部。君、わたしが演劇部ってわかったの? すごいね?」
「あ、その、パーカーに、パンフレットに載っていたのと同じロゴが入っていたので」
「えー! すごい、あんなのちゃんと見てる人いるんだ!」
小桜さんは尻上がりに声を出して笑った。そりゃあ見るだろう、見るためのパンフレットじゃないか。ちょっと面食らった隙に、自己紹介のタイミングを流される。
「じゃあ、部室に案内するね。書いてもらわなきゃいけないものがあるの」
「あれ」
そう言って歩き出した小桜さんを俺はその場で止める。
「この建物じゃないんですか?」
小桜さんが向かおうとしたのは、シャッターがある建物の入り口ではなく俺が歩いてきた道だった。
俺がコンクリートの壁を指さして言うと、小桜さんは振り返り、また笑いながら違うと手を振った。
「これはね、文化部の倉庫。大昔にクラブ棟だったもの」
そう言いつつ手招きする小桜さんの後について、道に出る。倉庫だという建物を過ぎて、道の突き当り、両隣から伸びた大樹の枝葉のせいで奥が見えない先に向かって歩きながら、小桜さんは喋る。
「演劇部ってね、機材も多いし、部員は50人もいるのに、クラブ棟で割り当てられてる部室はすっごく狭いの。だから、あのシャッターの中と、もう一つ、向かい側に網走あったじゃない? ああやって、部室以外の収納場所を使わせてもらってるんだ。それでもまだ足りないくらい!」
「網走?」
「あれ、納屋みたいなやつ」
倉庫を振り返り、小桜さんが後ろ向きで歩きながら指さす先を見ると、小さなトタン小屋のようなものが、シャッターに向かい合うようにして建ててあるのが見えた。背後であったし、正直、クラブのものとは思えないほど素気なかったので、気付かなかった。
「機材、って、照明とか?」
「そうだよ。あ、もしかして君、演劇経験者?」
「まあ、はい。高校の時に。でも、裏方のことはそんなに詳しくなくて」
「そっか」
小桜さんの声が、浮き輪から空気が抜けるように低く漏れた。でも直後、こちらに向けられた笑顔は、なぜかいたずらっぽく得意げだった。
「照明、音響、装置、小道具、衣装、情報宣伝。うちの部は、役者も含めて、全員が裏方をやるんだよ」
ついたよ。と、付け足すように言われた。いつの間にか太い枝葉の下をくぐり抜けていて、目の前には広い自転車置き場と、奥にゴミステーション、その右横に、縦長い白壁の建物があった。こちらに開かれた自動ドアの横には、石造りの札に、ああ、しっかり「校友会文化系クラブ棟」と書かれていた。
「そういえば、こんなに早く入部するクラブ決めちゃっていいの? 入ってくれるなら嬉しいけど。他にもいっぱい楽しそうなクラブあるよ? 入ってほしいけど」
三階の一番端っこの部屋だよ。と、疲れるんだよね、との愚痴を合間に挟み、これは予想をしていた質問だった。階段を上がりながら、前を行く小桜さんを見上げる。
「入学前から、演劇部に入ろうって決めてたんです」
「えー? 何それ、流行ってるの?」
「え?」
踊り場でくるりとこちらを振り返り丸い目を見せてから、また次の階段を上がる。
「いや、実は既にね、一人入部してるの。その子も高校から演劇やってて、入部も即決だって。すごくない? 早くない?」
「早いですね」
「今、部室にいると思うよ」
3階で階段は途切れていた。廊下に出ると、対面の壁に部屋がいくつか並んでいる。ドアが開いている部屋も、閉まっている部屋もある。小桜さんは左に曲がって、一番端の部屋の前で立ちどまった。突き当りの屋外階段への出入り口から差し込む光を、開け放したドアが遮っていて、ドアストッパーのかわりに、「演劇部」と書かれた立て看板がドアを抑えている。
「ほら、いた」
こっちを見て微笑んで、小桜さんは、ねえ、新入部員ー! と部屋の中に向かって叫ぶ。俺も続いて、演劇部の部室を覗いた。
すぐそこは靴を脱ぐスペースになっていて、端に避けるように1組、脱ぎたてのように1組、靴が並んでいる。それ以外の場所には青と白の、パズルみたいに組み合わせるタイプのカーペットが敷かれていて、正方形の低い机が二つ、奥と手前、手前の机には座布団が四方に、その一つ一番入り口に近いものに一人――。
そいつが振り返った。
――あ。
――俺、やっぱり、今日はやめておこうと思います。
「新入部員の、あれ、名前、何だっけ? ていうか、聞いたっけ?」
「おい、小桜ぁ」
「え、緊張してる? あれ?」
「あ」
あ、と。そいつが口を開いた。
「日立?」
瞬きをすると焦点が合った。真黒い瞳と目が合っていた。
ひたち? ひたち、と、男性と女性の声が雑音のように耳に入る。黒い瞳と目が合っている。肌は蛍光灯の光を白く反射していて、耳にかかる黒髪のてっぺんには輪っかの形の白抜きが、そいつの首をかしげるのに合わせてずれた。
上からの光が、彼を照らす。
「日立晃?」
ああ、と、俺はひとつ頷いた。
「え? 君らどっちもひたちなの? ていうか、知り合い?」
小桜さんがこちらをのぞき込んできて、俺とそいつを交互に見る。小桜さんの茶髪で視界がいっぱいになった。
そいつが答える。
「知り合いでは。去年の高校演劇の県大会で、舞台に立っていたのを見ただけです。同じ名前なのに、漢字が違うから覚えていて」
――漢字が違うから覚えていて。
――舞台に立っていたのを見ただけです。
「俺、月出征司。お前も、演劇部入るの?」
覚えてるよ。
「や、やめます」
俺はやっと、それだけを絞り出した。
しん、と誰も喋らなくなった。一歩引いて一礼しかけた時、時間が動き出したように小桜さんが騒ぎ出して、通せんぼのように俺の後ろに回ってきた。
「待って待ってなんで!? 入学前から決めてたんでしょ!?」
「いや、あの、すみません。気が変わったっていうか、もうちょっと、考えてからにしようかなと」
「えー!?」
部室の前で押し合いへし合いする俺たちに、後ろから、低い声がかけられた。
「俺のせい?」
そいつが、月出征司が、立ち上がって、靴を履いていた。顔を伏せて、かかとを指で引いている。ひく、と、俺の喉が鳴った。
覚えている。去年の県大会、常に予選落ちだった俺の高校が、初めて出場した県大会だった。少なくとも、俺の地元の地区の人たちには認められたんだ。未だかつてない自信があった。それをこいつは、たった60分で覆した。
部室から出て、俺の隣にやってくる。隙のない伸びた背筋とか、聞き取りやすくて響く声、髪は、いや少し伸びたが、あの日の舞台とほとんど変わらない彼がいる。外からの光が、ドアを縁取るようにこちらに伸びてきている。その光の縁取りの真ん中に立って、月出征司は、
「俺がいる部には、入れない?」
上からの光が、こいつを照らすのを、俺は覚えている。
「ああ」
俺は、しっかりと頷いた。まっすぐに見つめた、俺より少し高い位置にある眉が、痙攣するように寄せられた。
「あ、けど、お前が悪いわけじゃなくって」
「お前の中の、俺の記憶は、いいものじゃないんだろう?」
俺は、大きく息を吸い込んだ。
「それでも、心機一転しようと思って、演劇部に入るつもりだったんだ。だけど、お前がいたんじゃ意味がない。ごめん」
月出征司の目元は、ピクリとも動かなかった。
「いや、」
異質というか、この空気を断ち切るように、快活で強めの声が部室の中から届いた。
「ひとまず、全員入りなって」
月出征司が座っていた座布団の、机を挟んで対面に位置する座布団に、短髪の男性が座って、眉をハの字に、手招きしていた。そういえば最初から座っていたけれど。そいつの背中押してきて、という言葉に反応して、小桜さんが俺と、月出征司の背を捕まえ、部室の中に押し込む。
「あれ、小桜ぁ、チラシどこだっけ、チラシ」
「春公演の? そこ」
「あー、あった」
男性は、奥の机の下からA4サイズの茶封筒を引っ張りだし、その中からつやつやした紙を2枚取って、俺と隣のに渡してきた。受け取って見ると、中心を横断するように「山の丘大学演劇部春公演」という文字が、ポップな字体で書かれている。男性を見返すと、呆れたように首をかしげて微笑まれた。
「俺は工学部2年の部長。桃尾。桃尾さんね。まだ一方は部員じゃねえのに、部長面するのもどうかと思ったけど、あんまり見てらんないもんでね。これ、再来週の週末にある新歓公演のチラシ。新歓イベント前に色々考えるのも結構だけど、俺らの手前、一回、この部がどんなもんか見てから、入るかどうか決めてくれてもいいんじゃない? ねえ?」
はあ、と、思わず大きな息が漏れた。肩の力が目に見えて抜ける。裏を見ると、詳しい公演日時と、公演場所が地図付きで載っていた。
あー、それいい! と、背後で小桜さんが飛び跳ねている。
「いいよね、さすが桃だよね! わたしの活躍見てよ!」
肩を掴まれ、顔をのぞき込まれた。勢いに、はい、と頷いてしまう。
「月の方のひたちくんも!」
「もちろんです。あの」
月出征司がおもむろに、スマホを差し出してきた。
「いつ行く? LINE交換してくれない?」
「え?」
肩の力が抜けた体で、俺は月出征司を振り返った。目が、自然にぱちくりとする。
「一緒の日に行かなくてもよくない?」
「え? 一緒に行かないの?」
黙ってしまった。黙っていると、俺、まだ友達いないよ。と、真顔で言われてしまった。
一緒に来いってことだったのか? 目線を桃尾さんに投げる。背後で、小桜さんがえ? え? と言っているが、くすくすと笑っている気配がする。桃尾さんは俺と目を合わせたあと、月出征司にも目を向けた。気づけば、月出征司の方も、桃尾さんをじっと見つめている。桃尾さんは大きくニコリとして、スマホを取り出した。
「まあ、ちょうどいいじゃん。俺とも交換して。授業のとり方とか、わからないことあったら連絡してくれていいからさ」
2つのスマホがこちらに向いた。自分を囲むスマホを交互に見る。俺は、ポケットの中のスマホに触れた。
下宿を始めた。大学が建つ山の麓、「シティテラス坂之下」。ダサイ名前のマンションだとは思っている。実家は県内にあるとはいえ県境の辺境だ。それでも電車通学の方が安いと両親は渋っていたが、このマンションの大家さんが親戚で、男だしユニットバスでいいんだろ、家賃は安くするしチャリも貸すぞ、と提案してくれて、ご厚意に甘えたという次第だ。ユニットバスでよくはないが。仕方ない。
「俺は実家」
らしい。月出征司は隣の市から、毎日電車で通うようだ。駅から大学の門まではバスが出ている。自力で坂を登らなくていいのは羨ましい。
でも、なんでそんな事情を明かし合わなきゃいけないのか。
「だから、夜は遅くならないように、昼の公演に行きたい」
そういうことか。俺は床に寝転んだ。引っ越したばかりでモノが少なく、ベッドの上よりむしろ床の方が手足の自由が利く。これからどんどん散らかっていくんだろうな。カーペット等は敷いていないので、頭と腰が痛い。でもカーペットを敷く予定はない。敷かない方が清潔だと思っている。
仰向けになって、スマホを見上げるように持つ。何と言えばいいのか、おっかなびっくり言葉を打った。
「ていうか、本当に一緒に行くの?」
「劇とか、一人で見たいタイプ?」
そういうわけではないけれど?
そもそも、なぜ突然LINEを交換してくれなどと言われたのかも不思議なのだ。そういう雰囲気ではなかったはずだ。そんな、フレンドリーになれる雰囲気では。そんな間柄でもないはずなのだ。
なぜ俺は今、自分の自信も矜持も一挙に奪った人間とLINEでメッセージを送り合っているんだ?
「寝た?」
寝てない。
「昼の公演なら日曜の千秋楽だけど、俺、千秋楽に行くのは好きじゃないんだよな」
「じゃあ夜でもいいよ」
いいんかい。手が滑って、スマホが顔の上に落ちてきた。一緒に行きたくねえんだよ察せよ。
「土曜の夜はいい?」
「いいよ」
嘘だ。何もよくはない。
スマホを伏せ、体を起こす。縦長の七畳の部屋で、背後にはパイプベッド、ベッド下には、今日もらった部活紹介のパンフレットを、そこかしこで配られている種々多様なクラブの新歓チラシと一緒に、雑多に置いている。パンフレットを引っ張り出し、演劇部以外の欄に目を通した。運動部にはあまり興味がないから、文化部。オーケストラ、グリークラブ、軽音部って、そういえばいくつかライブのチラシをもらったな。吟遊……吟遊? いや、ここは大学デビューと称して、何かスポーツに挑戦してみてもいいかもしれない。高校までにはないようなスポーツなら、初心者でも入りやすいんじゃないのか? 新歓コンパも日数が多い……。……。
春公演、というポップな字体が目についた。空をイメージしたような、爽やかな水色をバックに、春らしいピンクと黄緑の文字が躍る。チラシの下部には、文化系クラブ棟の周辺を彷彿とさせるような深緑の木々のグラフィックが、デザインとして盛り込まれていた。裏には、詳しい公演の情報と一緒に、過去の公演の様子であろう写真が載せられている。まず衣装やメイクの凝り様に驚いた。それから、役者の表情の豊かさ。揃いのパーカーの人たちは、裏方だろうか。高校演劇の規制ではできないような長さの脚本をやってみたい。
――やりたい。演劇。
入りたいクラブなら、とっくに決まっているんだ。もちろん。山の丘大学の演劇部が、この辺りの大学じゃ一番活発に活動していることも知っていた。志望校を絞る最後の時期、高校までじゃダメだったけど、大学で伸びることができたら、と思った。舞台上で輝く存在に、どうしても憧れがあったんだ。俺が感じているような感動を、俺も人に与えられたら、俺はどんなにすごいだろうって?
高校までの俺はダメだった。月出征司の演技が、それに気づかせた。月出征司は、俺と同じ年齢で、同じ年数演劇をした。到達するレベルってのは、年数の問題じゃなかった。人を感動させるには、月出征司くらいにならないとだめで、俺はそれには程遠くて、俺はあれとは根本的に違うと。自分がダメだと気づくきっかけとは、自分により近い、自分より優れた手本なのだ。月出征司の演技を見た日、先にも言ったように後に心機一転を目指すわけだが、その日その時は、本当に、憧れを追うことを諦めたんだ。
もし、そんな奴と一緒に演劇部に入ったとして。一度は心を折られた存在の横で、俺は演劇を楽しめるか。
あんなすごい奴の横で、俺は、舞台に立てるのか。
なあ。
通知。
通知が溜まっている。さっきからスマホが震えている。話は終わったはずじゃなかったか。
伏せていたスマホを翻すと、画面には未読のメッセージが連なっていた。
「そういえば、俺もヒタチだから、下の名前で呼んでいい?」
「なんか、希望のニックネームとかある?」
「学部どこ? 俺経済」
何だ、希望のニックネームって。愛称って自身が希望するものじゃなくね。学部は文だよ、お前数学できるタイプの文系かよ、どこまですげえやつだよ。
「あれ」
「寝た?」
寝てねえよ。
約束の土曜の夜までには2週間余りあったわけだが、その間にも月出征司からのLINEは三日置きに来て、なぜか彼は俺に演劇部の新入部員の入部状況を報告してくれていた。わかったことは、新入部員がもうすぐ10人に達することと、五月まで一回生の活動はないこと、六月に、一回生が全員役者として出る新人公演が催されることなど。不思議なのは、俺がもらった演劇部の情報と同じくらいの量、俺個人のことについての情報を、搾取されていることである。時間割、どんな風に立てた? 一般教養科目って何取る? 空きコマいつ? 好きな食べ物は? 誕生日いつ?
何お前?
月出征司のLINEに馬鹿正直に全て返信している自分に気づいた時、俺は一度原点回帰してこんなことを尋ねた。
「なんで、俺とLINE交換したの?」
「友達が欲しかったから」
絶対嘘だろ。
お前がいるクラブには入れないと、俺は言った。そんなことを言ってくる相手と、友達になろうとする人間がいるか。
そういうわけで、月出征司の真意について何も掴めないまま時間は過ぎ、件の土曜の夜というのが、今なわけである。
「中央の前の席とっておいたよ」
当然のように席を取られては、バックレるわけにはいかなかった。会場は、大学敷地内にある大学会館の大集会室という場所だ。大学会館は、立地としては食堂の隣にあり、外観だけは頻繁に見る建物だった。横長の2階建てで、白壁にレンガ色の屋根が乗っており、レトロな雰囲気がある。会館というだけあって、何かの記念の建物か、事務所的な近寄りがたい場所かと思っていたが、月出征司によると、多くのクラブが課外活動において頻繁に使っている場所であるという。しかも、一階にはカフェがあるらしい。まだ行ったことはない。
開場は18時、席は取られているらしいので、俺は18時25分についた。ギリギリを狙っていきたかった。
大学会館の正面の自動ドアを入り、階段を上がる。道中の壁には、以前もらった春公演のチラシと同じものが、会場まで導くように点々と貼られている。2階にたどり着き左に曲がると、突き当りには開け放されたドア。しかし、入り口には暗幕が垂れ下がっていて、中の様子は見えなかった。それから、ドアの前には、例の黒いパーカーを着た女性が二人いて、通路と平行方向に置いた長机に椅子を並べ、こちらを見ていた。
「こんばんは。こちらパンフレットになります」
手前側の女性からパンフレットを受け取る。それと同時に、部屋の中にいた男性が暗幕を手で避けてくれて、暗幕が割れた隙間から大集会室に入った。
俺は、はっと息をのんだ。
大集会室は、全く、真っ平らの部屋だった。広さは確かにあったが、ホールと言うには天井は低く、演劇等の声や音を使う催しのためにしつらえられた部屋でないことがはっきりとわかった。入ってすぐ、左手には天井に着きそうな高さの黒いパネルが建てられている。右手には、2列に並んだ客席。2列目は平台の上に設けられている。客席は30席ほどあるようだったが、もう結構埋まっている。客席の中央で、月出征司が手招きしながら、左隣の席から鞄を取り上げた。姿勢を低くしてそちらに移動し、鞄が置いてあった席に腰かける。中央から見れば、会場の全体が分かった。客席から前にはグレーの毛の極短い絨毯のようなものが敷かれていて、その絨毯の範囲内が舞台となるようだった。絨毯の奥、正面には黒いパネルが並び、舞台のバックと袖を形作っている。左右に腰の高さのスピーカー、照明機材。そして何より、舞台上、奥に置かれているのは平台だろうが、随分意匠が凝らされている。軽くやわらかそうな布が敷かれ、平台の横にはオブジェのようなものがあり、それにも布が巻き付いている。布の端は舞台の空を縦に切るように張られ、前面の床に止められていた。会館と言うし、大集会室と言うし、てっきり、もともと舞台が設けられているものだとばかり思っていた。だけど、これはまさか、一から、大学生の部員が作ったのか。
客電が落とされた。左右のスピーカーから流れる曲が、一段と大きくなって途切れた。いよいよ、劇が始まる。
――。
「お手元のアンケートにご協力ください」
主演の最後の挨拶をもって、俺はパンフレットに挟まっているアンケートに記入を始めた。アンケート用紙には、クリップ付きの鉛筆が差してある。鉛筆の芯は丸くちびている。
年齢、性別、観劇に来たことはあるか、演劇経験はあるか、わかりやすかったか? 好みだったか? 面白かったか? 最後に、ご意見をお聞かせください、と、広めのフリースペース。
60分。まず、こんな会場なので役者との距離が近く、普段の語らいのように言葉が聞こえてくる。息遣いや、ちょっとした仕草の抜け感まで見える。それが、いいのか悪いのか、俺にとってはよかったんだが、人物の実在感を醸し出していて。でもそう見えるのは、役者の力だけじゃなかった。初めに見たオブジェ、最初に、あれが解体した。劇中で舞台装置が解体したんだ。しかも、別の形にどんどん移り替わって、舞台の様相が話に合わせて変化していった。仕掛けのある大道具。物が移動する時どうしても鳴る自然の物音を、音響が別次元の音に切り替える。それから最後に、照明。照明が、舞台を照らしていた。舞台の様相を変える。音に合わせて、道具に合わせて、役者に合わせて、その舞台上のモノやヒトの色を、光の色が完成させる。こんな、世界観が、世界がこんなにも目の前に溢れてくる舞台を――
「結構、書くね」
びくっと隣を見た。月出征司。ああ、月出征司だ。そういえば。椅子に座ったまま俺の手元をのぞき込んでいた。パンフレットとアンケート用紙を右手にまとめ、鞄を左手に抱えている。俺待ちか。
手元から目線が上がってくる。明るくなった客電のオレンジ色の光が、鮮明に彼の演技を思い出させた。この瞳は、日本人の中でも大分黒い方だろう。黒目の中に、背中から光を受けて影となった俺が映っている。
「そんなに舞台美術すごかった?」
「え」
上から、軽やかな声がかけられた。いや背後だ。背後上方。声に気づくと同時に、小桜さんが俺の手からアンケートを取り上げた。
「おー、ちゃんと、わたしの活躍に気づいてくれたんだね」
「小桜さんの活躍?」
小桜さんは以前と同じく、白のロゴが入った黒パーカーを着ていた。役者としては出ていなかったはずだ。小桜さんは、ふっふっふと、親指で背後を指さす。小桜さんが示したのは2列目の客席のさらに後ろ、さらに一段高い台の上だ。そこには、上手と下手に1つずつ長机が置かれている。
「下手側のあの机、あれが、照明卓なの。公演中、照明を切り替えてたのはわたしなんだよ。照明プランを立てたのも、わたし!」
下手側、俺から見て右側の机には箱状の黒い機材が置かれている。機材にはたくさんのコードが刺さっていて、そのコードの先は、舞台の上下に立つスタンドや、天井近くのパイプに吊り下げられた灯体に繋がっているんだろう。
やっぱり、あの舞台を、俺と同じ大学生が作っているんだ。
再び、舞台に目を向ける。公演が終わった、最初の形とは違う舞台を眺めていると、小桜さんの深呼吸と溜息の合間のような、大きな吐息が聞こえた。
「それにしても、良かったねえ、ツキチくーん。ヒタチ君が公演に来てくれて。こりゃ好感触って感じだねえ」
「あ、ちょっとまだだめですよ、小桜さん」
小桜さんが、月出征司の背後の椅子にドンと腰かけ笑う。それに、月出征司は慌てたように振り返って唇に人差し指を当てて見せる。ツキチ君って。いや、それよりも、まだだめって何の話だ。
しかし俺が質問する前に、舞台裏から桃尾さんが出てきてこちらにやって来た。桃尾さんもパーカー。舞台には出ていなかった。
「おい、小桜。お客さんと喋るな。まだ客出し終わってないぞ」
「えー、いいじゃん。もうほとんど身内みたいな人しか残ってないよ」
「というか、卓を離れるなよ」
小桜さんの言葉に、周囲を見回す。本当だ、客席に座っている人はもうほとんどおらず、むしろ揃いのパーカーを着た人たちが、どこに隠れていたのかというほどに増えていて、席の前を行きかったり席を陣取ったりしていた。
「あ、すいません。俺めっちゃ遅いですね」
慌てて立ち上がると、桃尾さんがああ、と手をひらひら振った。
「お客さんはいいんだよ。まあ、ここ9時に閉まるから、なるべく早く出てほしいのは本当」
「すみません、もう出ます。あ、アンケート」
「いいよ、わたし持っとく。あ、ツキチ君のも回収するよ」
「ありがとうございます」
ツキチ君のアンケートも小桜さんが受け取る。こいつは帰る時まで一緒なのか……。
失礼します、と二人で帰る。ツキチ君より半歩前を歩いて会場の出口に差し掛かった時、後ろから桃尾さんが揶揄するような調子で声をかけてきた。
「おーい、ツキチ君。しっかりおせよ~」
会館の階段を、二人そろって降りる。歩幅がどうやら、月出征司の方が大きいらしいので、追いつかれてしまった。
「面白かったね」
控えめな声でつぶやくように、というかおそらく、こちらを窺いながら言われた。
「うん」
俺は、大きく頷いた。
「その、やっぱり、演劇部には入りたくない?」
俺は、ちらりと隣を見る。うつむき加減でこちらを見返しているのに気づいて、すぐに目を反らした。
なぜこいつは、自身も新入部員のくせして勧誘活動をしているんだ。しかも、わざわざ俺にこだわって。
小桜さんの「好感触」とか、決め手は桃尾さんの「しっかりおせよ~」だが、こう考えるとまあまあ納得できる。LINEで部員の入部状況を教えてくれていたのも、一緒に公演に来ると言ったのも、全部勧誘活動だ。友達が欲しかったからなんて、わかりやすい嘘の理由はこれだ。
会館のエントランスから外に出ると、辺りは真っ暗で、建物から漏れる明かりと、申し訳程度の街灯が、うすぼんやりと道を照らしていた。俺はチャリがあるので駐輪場に行くと言うと、今日はもうバスがないから、歩きだがついてくると言う。
「演劇部には入りたいんだよ。最初から。ただ本当に、お前のいる演劇部に、入りたくないだけ」
駐輪場でチャリを探す。銀色の古い型のママチャリだ。暗闇に溶け込んで姿が見えない。
「県大会、俺も、お前のとこのやつ見てたよ。すごかったな、お前。お前が俺を覚えてたのは、苗字が同じだからってだけかもしれないけど、俺は、お前の演技がすごくて、お前のこと覚えてたよ」
そうだ、屋根付きの一番右に置いたんだ。
チャリを見つけて、ポケットをまさぐる。輪っかになった紐がついた何かよくわからないストラップを引っ張り出す。先には目当ての鍵がついている。
「俺は、お前の横には立てない」
「だけど俺も、全国には行ってないよ」
がちゃん、と鍵が開いた。顔を上げて見ると、チャリを挟んだ向こう側で、月出征司が真顔で立っていた。真顔の、緊張した面持ちで。
「審査員に言われたんだ。俺だけが目立ちすぎている、演出は何をしていたんだって」
月出征司は続ける。青白い街灯が、ちちちと鳴って点滅した。
「演技の上手い下手とか、どういう基準で言うのかわからないけど、俺は上手いらしいし、それ以上に華やからしい。でもその華やかさって、他の役者とか舞台の作りとかによっては、悪目立ちにもなるでしょ。それを、誰も指摘してくれなかったんだ。俺、ずっと好きにやらされてたんだよ。俺も、好きにさせてもらってたから、合わせるとかわからなかった。全部終わった後、なんで指摘してくれなかったんだって聞いたら、演出やってたやつね、何て言ったと思う?」
ちちち、街灯が切れた。大学会館から漏れる明かりだけが、間接照明のように、辺りを照らすでもなく残っている。
「主役だし、上手かったから、何も言えなかったって。そんなの、何、俺が悪いの? みんなで良い物を作ろうってのに、みんなでやろうってのに、俺はそれの、邪魔になるわけ?」
だんだんと暗くなる。9時になり、会館の窓が一つずつ黒くなっていっている。
「お前も、俺のこと、邪魔だと思うの?」
「それは、当たり前だろ」
俺は、チャリのハンドルに一度手をかけて、放した。
「主役で、上手いやつに、もうちょっと抑えて、とか言えないだろ。周りがレベルアップするしかねえんだ。でも俺には、お前に追いつくなんてできないんだよ。多分。わかるよ。お前はこれからもっと伸びるんだろ。俺はそれを追いかけたとして、俺の歩幅はほんとに小さいから。それがわかってて入部できるほど、俺のメンタル強くねえんだよ」
月出征司の眉は、もうずっと不安げに震えていた。こいつにとってはトラウマなんだ。舞台で邪魔だとされることが、同じ団体に参加することを拒まれることが。俺が、こいつにしたように。
「でも、すごかったよな。大学演劇」
俺は、静かに言った。つもりだったが、案外その声は震えていた。考えながらしゃべっているんだ。俺は、どっちに進むんだ。
「あれを、俺と大して年の変わらない人たちがやってると思うと、たまらなかったよ。俺も、同じ団体に入って、同じことができる、その一員になれるかもしれないんだ」
もちろん、クラブに入ればすぐにあんな舞台が作れるようになるとは思っていない。沢山勉強しなければならないだろうし、全てを身に着けて終えることもできないかもしれない。
でも、小桜さんとか、桃尾さんとか、俺が知ってる人たちが、普通に大学生やってる人達が、実際にあの舞台を作っている。
「俺にできるかどうかとか、お前が同じクラブにいることとか、もう一旦置いておいて」
置いてもいいと思ってしまって、それ以上に、お前が。
そういえば、大学会館の明かりは既に消えているのに、なぜ月出征司の表情が見えるのか。なぜ月出征司の目に、期待を表すような、光が映って揺れているのか。光源はどこだ。
ああ。
月だ。
春のわりには不自然なほど金色で、霞みを振り払ったような月が、月出征司の頭の上で、どこか見えない太陽の光を受けて、輝く。
「それ以上にお前が、俺が憧れる役者のお前が、あんな舞台で喋って、動いて、そんな姿を、一番近くで見たいと思っちゃったよ」
その舞台を俺が作れたらって、俺がお前を照らしたいって、思っちゃったんだよ。
すうっと、月出征司が喉を膨らませた。その吸い込んだ息は全てが声にはならず、吐く息に交じるように、言葉が俺に尋ねる。
「それって、演劇部に入る、ってことでいい?」
俺は、一回、首を縦に振った。
「……っ、よかった……!」
月出征司は、俺のチャリの荷台に手を置いてしゃがみ込んだ。
「え、何、大丈夫?」
荷台をがたがた揺らすと、こちらを見上げて、目を細めて微笑まれる。心底安堵したようなその表情に、俺は訳が分からず眉をひそめた。
「よかった。入ってくれて。俺のせいで入らないとか言われたから、どうしようかと思ってた」
「あのさ、何でそんなに、俺を入部させようと必死だったんだ?」
俺が聞くと、月出征司は立ちあがって答えた。俺の視線が、下から上に移動する。
「俺もね、見てたって言ったでしょ。お前んとこの劇。あのね、別に上手くはなかったけど」
笑いながら言うな。少しはぼかせ。
「演劇が好きなんだなってことは、すごく伝わったの。それなのに、俺のせいで辞めさせたとなったら、俺はそれこそ自殺する!」
するな。
「は、お前もしかして、すぐ死ぬとか言うタイプ? やめとけよ、よくないぞ」
「いや、本気だよ。だから逃がさないように、春公演一緒に行くとか言ったし、バックレないように席もとったし! 上手くいってよかった!」
思わず唖然とするようなことを言われた。本当に上手くいっている。俺は今まで、まったくその目論見通りに動いてきたわけだから。
「もしバックレられても大丈夫なように、学部とか、とってる授業とかも聞いたし」
「お前怖すぎるだろ。もし入部希望しなくてもそれはそれで放っておいてくれよ。何であれ、他人なんだから」
「他人じゃないよ!」
他人だよ?
「俺の、最初の友達なんだから!!」
月出征司が、俺のチャリの荷台にドンと両手をついた。タイヤがきしみ、かごまで振動が伝わってガシャンと鳴る。大きく揺れるハンドルを慌てて抑えつつ、俺は月出征司に向かって鳩のように顔を突き出した。
「なんて?」
「あ」
月出征司は声を漏らすと、やけに真剣な顔から急に力が抜けたように表情がなくなり、おもむろにスマホを取り出した。既視感がある。
何やら操作するのを黙って見つめていると、俺のスマホの方にも通知が来た。見れば月出征司が、俺のLINEアカウントを「山の丘大学演劇部」というグループに招待した所だった。
「早速……」
そのとき、
「ツキチ君の第一友達入部おめでと~~~!!!」
キャーとか、わーとかの叫び声と共に、そんな言葉が大学会館の方から聞こえてきた。見れば、大学会館の玄関前の植え込みの陰から、6、7人の黒いパーカーの人たちがこちらに向かって走ってくる。騒ぎ声がだんだん近づいてきて、とうとう月出征司に抱き着いた。抱き着くというか、もはや上から抑え込む勢いである。
蚊帳の外とはこのことかとその様子を眺めていると、月出征司を襲う軍団の中から桃尾さんが分裂した。
「悪い。これは本当に悪いと思っているんだが、悪い、ヒタチ君」
聞く所によると、この軍団が今の演劇部の2回生、俺の直近の先輩となる人達で、俺とツキチ君が駐輪場で話しているのに気づいて、しばらく様子を窺っていたらしい。
「あの、第一友達って……」
「それが一番謝らないといけないことかもしれない」
俺が演劇部の部室に行った日、既にそこで入部手続きを終えていたツキチ君は、俺が来るまでの間桃尾さんと話していたらしい。というのも、先ほど本人から聞いた、舞台の邪魔になると言われた件についての話だ。その話を聞いて、桃尾さんはアドバイスの一つとして、こう言ったらしい。
――演出が何も言ってくれなかったのは、部員との距離感にも問題があったんじゃないか。
――じゃあ、もしこれから新入生が部室に来たら、その人と最初の友達になってはどうだろう?
「入学式の後に演劇部に来るなんて、入部希望の可能性が高いからって話だったんだが、ヒタチ君がやっぱりやめるとか言うもんで、色々と琴線に触れる形でツキチ君に火をつけちゃったんだ。しかもそれだけじゃ終わらなくて、紆余曲折の結果『第一友達を演劇部に入れるの応援し隊』が結成されて」
「めっちゃ入部早かったからね、ツキチ君! もう長男のごとく先輩の寵愛を一身に受けて、ああでも、本当に応援しかしてないよ! だいたいツキチ君の作戦通りって感じ。ツキチ君頑張ったから誉めてあげてほしい!」
桃尾さんに続いて小桜さんが、軍団の中から発言する。その隣の、毛先を脱色している男性が、くすくすと笑った。この人は、さっきの劇に出ていた人だ。
「そのツキチ君てニックネームも、ヒタチ君が入る前提で考えられたものだからね。あ、俺副部長ね」
「そうだ、晃!」
最早ヘッドロックをきめられていた月出征司が、その腕をくぐるように抜けて、チャリ越しに俺の方へ身を乗り出してきた。またかごがガシャンと鳴る。こいつは俺の借り物のチャリを壊したいのだろうか。
待て。
晃。
「お前は、ツキチ君ヒタチ君っていうニックネーム使うなよ! 俺が偽物のヒタチみたいになるから。征司って呼んで! いい?」
月出征司の後ろで、先輩方がきゃあきゃあと言っている。俺の眼前には月出征司の黒い瞳が迫っていた。俺より背が高いはずなのに、いつの間にか俺より下に頭を下げ、器用に見上げてくることが多い。ああ、そうやって顔をのぞき込んだり、身を乗り出したりできるほど、俺がこいつから距離を取っているということなのか。
第一友達って。それがこいつの罪悪感とか、色々を駆り立てたのか。こんな、しつこいくらいの勧誘活動を成功させるほどに。友達が欲しかったからLINEを交換したというのは、本当じゃないが、嘘でもないのだ。
ツキチ君。割とこのニックネームは、気に入っていたのだが。
「……いいよ」
――演劇が好きなんだなってことは、すごく伝わったの。
友達かどうか定かじゃない奴を友達と呼んで、友達のことを他人と言わず、トラウマもジレンマも必死さに変える、こんな憧れの人の名前は、しっかり呼ぶべきなんだろう。
征司の顔が、わかりやすく華やいだ。
「一緒に帰ってもいい?」
「いいよ」
「スマホ貸して。演劇部のグループに入れといてあげる」
「あ、どうも」
「今日家までついて行ってもいい?」
「いや、もう逃げないから」
【終】