ウィトゲンシュタインと生きる事について
ウィトゲンシュタインについて再び調べている。ウィトゲンシュタインという人はとにかく「へん」な人で、同時に、極めて魅力的な人物に思える。
今、考えているのは後期ウィトゲンシュタイン、つまり「言語ゲーム」のウィトゲンシュタインであって、そこでウィトゲンシュタインが何を覗き込んでいたのかと考えていくと、極めて奇妙な光景が広がっていると言えそうである。それはウィトゲンシュタインを「研究する」という行為が、まるで「研究」の名に値しない、非常に不思議な行為になっていく感覚がある。
で、この文章内でウィトゲンシュタインについて解説するのは無理なので、自分の実感だけ語る事にする。
まず、ウィトゲンシュタインが目指していたのは常に、実践的な生とでもいうべきもので、普通の人は現にそうしているような生き方である。つまり、普通の人が既に達成しているものにウィトゲンシュタインは哲学を通じて近づこうとする。では、それに何の意味があるのか、と人が問うのは当然だろう。
僕自身は昔から不思議な感じがあった。つまり、ほとんど全ての人間が、生きる事に対して疑いを持たずに、現に生きているという事にずって疑問を感じていた。例えば、何故テストがあるのか、学校は何か、会社は何か、親とは何か、私とは何か。それら全てに対する懐疑ないし、問答が発生する前に人はもう既に生きており、しかもそれを振り返らない。それが何故なのか、というのが自分にとっての疑問だった。
以前は、僕は自分が、そのように人とは違うという感覚を感じていた。しかし、ウィトゲンシュタインを通り抜けると、違う答えが見えてくる。つまり、僕もまた、そのような人々の一種であるという事、そしてもしそうでない、懐疑的な自分がいても、それは語り得ないという事である。
というのは、つまり、こういう事である。僕が仮に「学校」に疑いを持っても、だからといって、学校をサボるとは限らない。試験前には一応勉強はする。熱心ではないにせよ、仕事を与えられたらそれをこなそうとする。
そして仮に、僕がそれら全てを拒否したとしても、僕はそれらを「拒否した存在」として社会的に生きるのである。つまり、そこでは僕の懐疑というのは、世界の中に入り込む余地はありえない。世界が現にこのようにあり、人々が何らかの形で生きているのは、態度として正しい。…いや、もう少し踏み込んで言えば、人々は正しい生き方以外はできない。例え、人を殺したとしても、それもまた一つの「正しい」生き方に他ならない。
例えば、僕が強盗犯だとして、「金」というものが果たして価値のあるものかどうかと疑問を持つと、もはや「強盗犯」すら成り立たない。そしてその疑問は世界に対しては何らの行動も果たさない。僕が強盗すれば、警察は僕を捉えようとし、法は僕を裁こうとするだろう。もし僕が勤勉なサラリーマンならば、僕の口座に金が月々振り込まれるだろう。
その行為としての生はどこに、限界を破る箇所を見いだせるか。いや、そもそも生のどこに限界があるのか。
ウィトゲンシュタインは死の前に書いた「確実性の問題」で、何を信じるか、信じるべきかについて書いているが、これは人々が疑う事のないものである。疑う事がないという事と、信じなければならないと念じる事は全く違う事であり、この微妙な差にウィトゲンシュタインの苦悩はあるように思われる。
僕にとってもそれは同じであると僕には思われるーーーというのはどういう事だろうか。人々は何にせよ、生きている。僕もまた人々と同様に生きている。それが怠惰な生であろうと勤勉な生であろうと、怠惰、ないし、勤勉である性格づけが行われ、世界の中の一部として生きていく。
それは、例えば、1+1=2である事にたいして疑わない、という生である。1+1=2に対して疑う事ができる。それを拒否する事もできる。しかし、人々がそれを飲み込み、またカント的に言えばそれが我々の認識のパターンと一致している以上、それは「正しい」のである。我々は何が正しいかという事は本当には知り得ない。それでも、あるものを正しいと信じて生きるのである。
だから、人々の、ごく普通に生きている人々の生き方は正しい。しかし、普通に生きている人々は、自分の生き方を「正しい」とは思う事はない。疑う事もない。彼らはそれについては考えない、という意味において、「普通の人」であると言える。そこで彼らがどれほど高い能力を見せようと、低い能力であろうと、それを判定する基準そのものを現に生きているという意味において、彼らは正しい。
一方で、ウィトゲンシュタインはそれを正しいと、考えようとする。ここにウィトゲンシュタインが天才である所以があるように思われる。自分が正にそうであるという事を、認識したり知覚したりする事は必然的にそうでないものを含む。ウィトゲンシュタインがどう言おうと、ウィトゲンシュタインが庭師に化けようと、彼はただの庭師ではない。庭師として生きる生を自覚的に、世界の有様の中の一つの生として彼が選択して生きる生き方と普通の庭師との間には微妙な差異が現れる。にもかかわらず、それはこの世界においては語り得ないであろう。つまり、彼は単なる庭師として、気難しい庭師としてチョキチョキとやっているだろう。
普通の人は、明日、面接があると思ったら、その為の準備をする。僕もする。明日、もし地球が破滅したら面接はなくなるだろうから、準備は明日、地球が存在していたからでいいや、とは思わない。普通は。
では、この「普通」の意味とは、なんだろうか。犯罪を犯すという事はこの社会では異常であると認識されているわけだが、もっと徹底的に考えれば、犯罪の先にも人間があり秩序があり、その先の秩序や人間までも疑う事はできない。それはもはや疑う意味すら持たないだろう。
ドストエフスキーが犯罪を通じて描いた事は、この世界から疎外された存在にもなお、秩序があり、倫理があり、人間があるという事だった。そう言えるだろう。ドストエフスキーは実際に牢獄に入った。そこで彼は何を見たか。牢獄が、牢獄の外と「同じ」だと見て取ったのだと思う。だから、ドストエフスキーは犯罪や悪を異常なものとして描く今の作家とは違う位相にいる。犯罪も悪も、秩序への反抗も、根底にある世界の秩序を乱す事はできない。『だから』、人は普通に生きねばならないのである。
もちろん、この事……つまり、ドストエフスキーが牢獄から帰ってきた先、そこに平凡な生活があるとしても、それは普通の人が現に生きている平凡な生活とは趣が異なっている。異なっているが、これもまた語り得ないものとして社会では処理される。牢獄を出たラスコーリニコフは悔恨を胸に秘めつつ、平凡に生きるだろう。そしてそれが答えの全てである。
ここまで来て、僕が以前から疑問だった事に答えが出るという事になるだろう。僕は、現実を疑う、あるいは生というものを意識的に考える。人はそれについては見ない。人は、例えば、僕が賞を取ったかどうかで僕を判定するわけだが、その判定は人々が普通に生きる上で「正しい」わけである。人々にとって権威はとにかくも尊重するものとしてある。僕は以前からその事に不服だったが、問題はこの不服の意味である。人々は『とにかく』信じる事から始めるから人々なのだ。もし彼らが、権威に服従しない事、自分の主体的な生を押し通そうとすると悲劇に出会うだろうが、それは社会的平面からは見えない。単なるバカとして処理される。それは語り得ない。そして、ここではその単なるバカが僕なのだ。
この事はどんな風に語りうるだろうか。一体、僕は今、どんな言葉で、誰に語っているのだろうか。
ウィトゲンシュタインであれば、この手の言葉は絶対に語ってはならないものとして処理されただろう。しかし、今、僕は語っている。
生きるという事は、難しく考える必要のないものである。それは既に達成されている事柄である。僕もまた達成している。輝かしい生ではないにせよ、達成している。
人間関係において、僕が善人である「フリ」をすれば、人が善人だと捉えるのに対して、疑問を感じてきた。別に詐欺を働くわけではないが、人間関係自体が芝居・嘘の要素があるという事に以前から疑問を感じてきた。その答えは、僕の方が間違っているという事で決着がつく。正しいのは人の方である。もし僕が内心ドス黒い精神を持ちながらも、死ぬまでの間ずっと善人の演技をすれば、それは間違いなく善人である。内心の「ドス黒い精神」は語り得ない。僕は間違いなく善人である。
そして僕が善人のフリをするにしても、基本的にはそれは信じていい、あるいは信じなければ成り立たないのが世界である。もちろん、騙されない為に少しは疑う必要はあるだろう。が、この疑いにはキリがない。したがって、最後の、その人の魂に到達する事はない。だから人は、他人の振る舞いを信じて生きる。そういうゲームを行っている。
そのような世界に僕は生きている。そして僕がそれを疑うにせよ、信じるにせよ、もう既に僕はそのような生を生きている。つまり、目標は既に達成済みという事になる。
現実の果に夢を描く、目標を持つとは通常良い事だと思われているが、それは生の臨界を変える事はない。既に、事は成っている。僕は、あらゆるものを疑う事ができるが、コーヒーを飲みたい時に、カップの存在を疑わない。では一体、お前は何を疑うと言っているのか。既に、生きているのではないか。という事は信じているという事だ。何を? …様々なものを。
このようにして考えていくと、僕は、とにかく普通に生きねばならないし、現に普通に生きているだろう。そしてそれ以上の事は語り得ないだろう。文学をするとは、芥川賞や直木賞を目指すという世間的通念は正に、世間的に生きる人々の生き方の根幹を形成しており、それを否定するのは不可能であろう。そしてそんな人々が世界を形作っているわけだから、僕もそのような人間として生きざるを得ないだろう。
それにしても、ここまで書いてきて、ではこの文章は何か、という事が自分でも疑問に思えてくる。僕は一体、何を言っているのかという事である。結局、僕はこういう事を書いて、世界を乗り越えようとしている。にもかかわらず、乗り越えようする姿は世界には現れない。こういう文章は、例えば、僕が職場でテーブルを拭くという行為と全く同様の行為としてインターネット上(人々の前)に現れるだろう。つまり、この文章は極めて平凡な、普通の文章であるという事である。
だから僕もまた普通に生きるだろうし、既に普通に生きているだろう。それ以上の「普通」を人が望むのであればそれは人の勝手であるが、僕は既に目的を達成している。そしてこれからも目的を達成し続けるだろう。つまり、僕は極めて「平凡な人間」である。それで、僕が人々に抱いていた疑問は、自分自身の内で一応は消えるという事になる。つまり、僕にとってそれは、語り得ないものとして排除されるわけである。そしてその後、「語り得ないもの」について語るのはそれぞれの自由となる。カントは雄弁に語り、ウィトゲンシュタインは沈黙した。僕はそれについて、適当な選択をするだろう。しかしこれで僕が「凡人」だという事だけははっきりした。