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人間の歴史。  作者: TAK
最強国「日本」
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(おまけ)日本の城 vs 西洋の城

武士 対 騎士


に続いて


日本の城vs西洋の城


をやりましょうか。




と言いつつ、武士 対 騎士 と逆の立ち位置でフェアではありません。

日本で「城」というものを古代史以前から辿ってみると、ほとんどまともなモノはありません。


城柵、ただの砦、極端すぎる例えですが登呂遺跡の「火ノ見櫓」とその囲い程度が日本のほとんどの時期の城といえます。

堀・掻盾。逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードだけ。



なにせお金持ちの狩猟民族の時は、何百年も定住していても、いつかは移動する前提の生活での定住でしたから砦なんて概念なんてありません。


そして農耕で食べてくようになっても、平安時代前後はとても貧乏。

というか京都や奈良は城塞都市といえましょう。あれでも。



鎌倉時代、室町時代は富が蓄積されて個人の財産はとてつもなく上がりましたが、残念ながら中央で一カ所という感じではありません。

まあそれでも原始的な山城というものは出来上がりましたが。


山の頂上に簡単な建物を造り、食料、武具を保管するだけ、後は自然の地形を利用して山の各所に柵、堀、土塀を設けるといった程度で「城」と言ってました。

土塁の上に掘り立ての仮設の建物を建てたものを「山城」

もともと峻険な地形の日本、これで十分だったんですね。

なので延べで歴史を考えると、日本の城が素晴らしい時期なんてほとんどありません。




では一方でヨーロッパはどうでしょう。

ローマの城塞、野戦築城の「リメス」まで含めると、古代としては満点に近い防衛拠点。

その世界の最高の技術だったと思います。


「ローマ人は現代のヨーロッパ人ではない」と考えても、中世の都市群もそれなりでした。

というか、ヨーロッパの都市は城塞都市です。

なにせ国がボロボロ、教会を中心に住居を建て、敵や猛獣から柵や門で守るしかない。

そしてほとんどの村は数百人レベルでしょぼいモノ、木の柵で守っていましたが、フランスのパリ、ドイツのリューベック、ハンブルク、ブレーメンといった万を超す人口の都市はそれなりすごいものです。


そしてコンスタンチノーブル、古代城塞都市の最高峰に至っては、近世でも難攻不落でした。

負けた原因は、運動戦でほかが全て取られた状態、長期間の包囲、そのおかげの士気の低下、あげくの門の閂のかけ忘れ。

ハードウェアとしての城塞が破られたわけではありません。


ということで


日本の城 vs 西洋の城


は圧倒的に西洋の勝ちです。

まあ中国の紫禁城とか、イスラムのアジャド要塞とか、外見ればもっとすごいのいっぱいでしたが。





...あれ?

プラモで売っている日本の城ってすげぇじゃん。

山に柵囲って掘っ立て小屋なんて見たことないぜ?


ご尤も。

我々の考える日本の城って、あれは戦国時代の後半の非常に短い時間に建設されたモノです。


鉄砲、大砲の普及によって地形だけに頼らず、曲輪全体に石垣を積み、礎石建築に加えて壁に土を塗り籠める分厚い土壁の恒久的な建物にしたもの。


松永久秀が多聞山城、信貴山城、織田信長の岐阜城、安土城、ああいうものが我々の考える城の祖先というかとっかかりです。

意外に新しめでしょう?


そして残りの城は、各大名が真似して自分たちなりに工夫して建てました。

もともと寺院や宗教的な建物で石垣、礎石建築、土壁の技術はあったので、それを大規模にしたもの。

九州、東北、どころか北海道といったところは同じ技術で各地域の特色を生かしてユニークな城を建設しました。

峻険な山を利用した「春日山城」とか、平野で堀の作りやすい泥地を利用した「米沢城」とか。

「安土城」とかは琵琶湖と安土山と利用した平城と山城の良いところを利用したハイブリッドで難攻不落。


ちなみに、「山城」が最初で、それが発展したのが「平城」という考え方は間違いですからね?

冷静に考えてみれば、純粋に軍事拠点と考えた場合は髙地に立てた方が良いのは当たり前。

軍事で一番大事なのは「偵察」。

その一番絶妙な髙地に観測点を置くのが有利なのは当たり前のこと。



では大阪城って何?


となると、西洋に遅れること数百年、近世、近代版の城塞都市です。

考え方は人口集中点を守るのが効率が良いの延長ですが、近世、近代の技術で銃、砲を考慮したらああなりました。

信長の岐阜城の頃が皓歯ですが、城の周りを商人で固めて都市を無理矢理造って人をかき集め、物流/商業の拠点にして経済力をつけるということを行ったのです。

当たり前と言えば当たり前ですが、日本では意外にやっていなかったこと。

大阪城は、防衛拠点、海運、補給路として掘りや運河を縦横無尽に渡らせ、人が行き来しやすい+防衛拠点として橋を巡らせ、大人口を抱えられるよう上下水道を巡らせた「城」といいつつ一大人口都市の構築事業でした。


秀吉の目論見どおり難攻不落。

あの大要塞に立てこもり、港でもあったので補給点、情報を海から得、周りと連携しつつ能動的に都市を守る。


家康にまけたじゃん?


いえいえ、あれば一番大事な堀を埋められ、丸裸にされた結果の後ですね。

惰弱なババアが講和しちゃった時点で終わりました。


「~ネーゼ」「ザマス」なキチガイ婆さんだった淀姫が仕切っちゃった時点で何やっても負けたでしょう。

何事も使い方次第の典型ですな。


何にせよ大阪城は、後のナチスやソ連のように地形まで変えて軍事拠点にしちゃう大規模事業の奔りです。

というかここまですごい事業で、かつ成功しちゃった例はなかなかないでしょう。

我々の知っている食い倒れの町大阪はまさに、最初から計画し、その通りに発展した数少ない大規模都市計画の成功例です。

そして家康はそれを参考に「名古屋」「東京」を作ったわけです。





一方、我々の考える西洋の城、ルパン三世「カリオストロの城」とかディズニーランドの「シンデレラ城」とか?


実はあれはただの別荘です。

まともに戦ったことなど一度もありません。


軍事的にあれほど不合理な構造はないでしょう。


お姫様の閉じ込められた塔など、軍事的には脆弱さがあるというだけで何の意味もありません。

お城の中に飾られている、やっぱり役立たずのプレートーアーマーな鎧と一緒で役立たず。


でも別荘、観光地と考えれば別でしょう?

あれほど美しく絵になる建物はなかなかありません。

みんなに自慢できるほど美しく建て、みんなに美しいと思われ、そして数百年後の我々も美しいと称える。

見事に目的を果たしています。


ということで我々の考える典型的な日本の「お城」と我々の考える典型的な西洋の「お城」、どちらが強い?と考えると、圧倒的に日本の城です。

自慢する気にもなりませんが。





じゃあ実践的な日本の城と勝負してフェアになりそうな城を西洋型の城を見つけましょうか?

意外に近い、それは函館の「五稜郭」

江戸時代の末期に、「西洋すげぇ」、「西洋様はすべて正しい」、的な考え方で建てられたモノですが、ああいう建物はヨーロッパの中世から近世に切り替わる間に流行したヨーロッパの実戦的な建物です。


実際は「郭」より実践的な「塁」で囲ったので五稜郭より防御力は高かったと思いますが。


。。。ま、日本お城の方が防御力は強力です。



よく聞く五稜郭のコメント

「最新式!」「砲と銃を考えた死角なし」「西洋様すげぇ」


そもそも日本のお城と言われ、プラモデルにもなるあのお城は、全てはじめっから徹頭徹尾、銃と砲のための防御力です。

そして、あの五稜郭自体、単にヨーロッパでは中世末期から城塞なんて大して発展していない、近世の遺物の典型と考えて良いでしょうね。



いかにも大量生産風な通り一遍の設計、とりあえず死角なしで砲と銃を設置出来れば良いや的な考え方。

一重の壁で突破されれば終わりの構造。


地形を巧みに利用して、一度破れても次に辿るまでに何十もの防御を施し、その土地土地の地形に合わせ、軍事的な交雑点に永久要塞的に築いた日本の城が負けるわけありません。


が、こちらも自慢する気にはなりませんね。

なぜなら日本の特殊な地形を鑑みた建築物、近世になってようやく作り始めた城塞都市、という日本の戦国時代の同時期に既に西洋はドラスティックに軍事的な思想が変わっています。

拠点で守るという考え方はなくなり運動戦で軍隊を動かし続ける思想に変わっています。

あれはあれで正しいのです。


ただの基地で軍事的な補給集積地点と言うだけ。

日本のように永久要塞として守る考え方をやめ、都市を城塞都市にするという考え方もやめ、捨てる前提の野戦築城の延長です。



技術は発展途上で、永久要塞という考え方は世界ではまだまだ捨て去れず、実際イスラムや中国で要塞というモノはとっても有効でした。


たとえば皆さんの考えている万里の長城は、実は万里の長城ではありません。

「山海関」と呼ばれる明の時代の建築物で、非常に重要な交通拠点に建てられた、まさに日本の山城と同じ考え方の要塞です。

明が清に変わってもついぞ破られることのなかった永久要塞。

満州の日本が派遣した軍隊「関東軍」はこの山海関という「関」の東側にあるという意味。



世界中3大無用な物とかに必ずある「万里の長城」

そしてその紹介の写真は難攻不落の役立たずどころではない、どころか世界で一番役に立ったであろう要塞「山海関」の写真です。

これをみるとなかなかに複雑な気持ちになります。



そしてそんな要塞がずーっと永久に残ったままの頃、ヨーロッパ人の五稜郭ライクな城はどんどん取り壊され、ただの四角い兵舎のある「基地」に変わりました。


そして自らの正しさを証明するようにそんな永久要塞は「無視」し、大きな船に大きな砲を積んで届く場所だけ砲撃をして目的を果たし、そのうち飛行機が飛ぶようになると、そんなことさえ考えなくてすむようになり、「俺様の城すげー」はいつの間に歴史と本以外では語られなくなります。


それが「城」のなれの果て。

日本でも江戸時代から、城などエッフェル塔や東京タワーと同列のランドマークと言うだけ。

そういう存在にすぐになってしまいました。


-------


日本人の優秀さというかすごさというか、「築城」という概念を各武将が持っていて、誰もがそれなりにこなせるというのはすごかったろうなぁと思います。

築城って現場監督みたいな頭悪そうな武将がキャンキャンわめくだけのイメージではなく、きちんと今の建築会社がやっているような「立案」「設計」「手配」「発注」「作業監督」「納品」、きちんとやってます。


縄張~普請~作事


という言葉がこれにあたります。


そしてそのマネジメントというか資金繰りも彼らがやってます。

福島正則が武闘派で筋肉馬鹿?


そんなん徳川家康の立身出世を面白おかしくするためのスパイスでしょう。

そんな世の中「知性派」vs「武闘派」みたいなわかりやすい勧善懲悪なんてあるわけない。

そもそも、三国志のように、武将が一番前にたって1000人殺すような甘々な戦ではないのです。

マスケットを中心に諸兵科連合コンバインドを自在に動かす知性の集大成が戦。

民衆にわかりやすい物語が、逆にそのまま逆流してなぜか歴史の教科書はそうなっちゃってますが。



で、武将たちはなぜそのように知性な事が出来たのでしょう?

理由ははっきりしています。

日本の我々がイメージする「お城」というのはひじょうに短い時間に突発的に多数作られ、同時に技術が押し上げられ、我々のイメージする「お城」そのものが作れる事態になったとき、すでに残っている「武将」が勝ち組で優秀な人しかいなかったのです。


加藤清正、福島正則が武闘派で猪武者、石田三成が知性派とか、上を考えてもあり得ないですね。

どちらも傑物です。

城からわかる変わった人物像でした。

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