武士らしさをつくった江戸時代
なんか世界史よりももう少し上の層を語るつもりが日本ばかり語ってしまいました。
司馬遼太郎とか好きだったからなぁ。
でも三国志とかも好きだったのにすかっと流せたのに何故だろう?
まあ書いちゃったものは仕方ない。
今回で最後です。
次はまともに世界史行きましょう。
さて、最後は総括として、
何故日本がここまでひとえに世界最強になれたのか?
やはり日本の地形というか、古代より前の狩猟採集ではとても富んでいる気候、豊かな自然、
しかし古代となると決して豊かとはいえない耕作地ばかりで貧乏、
鎌倉、室町という中世となると技術が上がって開墾さえすれば、治水さえすれば豊かな自然を享受できる。
そしてその状態が戦国時代も続き、政治的な安定をえて--他国では考えられませんね、戦争している大名の方が平和な室町幕府という政治機関より優秀なんて--耕作量が更に上がっています。
まず単純に豊かになったのですね。
続いて、中世という中央集権的な政治がしにくい状態~それは商業という自由経済的な要素が発展しやすい~農業以外の富が生じます。
更にその政治的な空白地帯だった各地が、巨大になった経済力にふさわしい政治力が補完されていく。
各大名が切磋琢磨して、強者が一地域でないことも良かったのでしょうね。
政治力が高かった「仙台」「新潟」「東京」「甲府」「名古屋」「大阪」「広島」といった場所が同時に発展していきます。
そして政治に付随した軍事力も飛躍的に上がると。
戦国大名、先のような誰がどう勝ってもおかしくかった状態で、ちょうど良いところにいた信長が当たりくじをひきます。
物質主義者であり、合理主義者であること、ほかの大名でもそういう能力を持った名君はいましたが、その中で信長が抜きん出ます。
大きな有利は、尾張という穀倉地帯を持っていたこと。
食料が富であったその時代の初期状態では有利です。
政治的中心が岐阜ー京都-琵琶湖と移っていても信長の巨大な軍団を支える食料を生産し続けました。
所有している富に相応に軍隊が巨大になっていったのです。
そして京都に続くまでにやはり富んでいたこと。
適度に京都に近かったこと。
能力のある武将なので生き残っていたという前提がまずありますが、その中で天下取りレースの勝者になったのは中央を制御できる近さ、富がある、その二つが両立できたのが圧倒的に有利だったでしょうね。
もっと近くても富がない、もっと富裕でも信長がいるので近づけない。
この微妙なバランスが当たりくじにつながります。
もちろん能力あるなしが前提なので、ラッキーだけで生き残ったとは申しません。
その後、秀吉が今度は商業というもう一つの富を駆使するようになりました。
政治的の中心である「大阪」が、彼の所業の全てを現しています。
陸、海、農業、商業、漁業全ての中心である巨大都市。
運河、堀、道路、商業地、田畑、全てを地形ごと変えていきます。
古代/中世では使い物にならない湿地帯と、防衛には向いているがそれだけである石山本願寺を、大阪という城と都市に仕立て上げる技術を近世では持っていました。
そして大阪城の倉にはあふれんばかりの金塊。
それこそ何でも出来たでしょうし、秀吉という傑物は好きな事しました。
お金の使い方がわからない後継者が愚物だったので(というか織田家の女系が揃いも揃って愚物。淀君は母親のお市と同じくマジキチです)滅んじゃいましたが。
また、こういったことは信長からの意思をそのまま引き継いだだけですが、豊臣家、あるいはそれ以外の大名でも「忠誠心」といういままで武士らしく粘ついた感覚が中央集権というか、近代的な国家の概念を作り始めます。
今までは土地と米、守ってくれる便利な組織が幕府という損得だけの勘定が武士。
しかし組織が巨大となると役割が分化し、それを良いと褒めてくれる、あるいは良くないという判断をする信賞必罰を行う主君にどうしても粘ついた感覚が生じます。
さらに報奨が土地以外「金」「茶器」「名誉」。
同じ価値観同士が共有すると愛国心に近いモノが生まれるのです。
秀吉が信長が死んだときに、天下取りという野望は持ったモノの、本気で信長の後を追いたいという気配がありました。
毛利家に殉じた克己心は切腹という残酷な処刑法を「男らしさ」を現す高みにあげた清水宗治。
あるいは引き上げてくれた秀吉に殉じようとした石田三成。
そのある種の国家意識を高みにあげたのが「家康」。
もちろん、信長、秀吉が行おうとした方針をそのまま完成させ、更に大都市である「江戸」を完成させたという偉業も彼の功の一つですが、今までの粘ついた感覚を「武士らしさ」「主君に殉じる」「国のために奉公する」といった一定の方向に持って行ったのも家康といえます。
我々が信じている「武士らしさ」は、
信長の頃の組織が巨大になっていく過程で、自分の土地や家や富より大事なモノがあると認識させ、
さらに自分がやるより何百倍も強い権力とそれを持たせてくれた主君の方が大事という感覚を持たせ、
その意識に「美」という要素を付け加えた結果です。
そしてその状態と意識をゆっくりと醸成させて固定化していったのが「江戸時代」
戦のなくなった江戸時代、武士を武士らしい立ち位置に保たせたのは「主君」「家臣」「民」という位置づけと、組織が巨大になった農地の防衛という単純な図式ではない「政治」を行うようになって、その連携が密になっていきました。
「国家意識」と言い切れない状況を残して、「徳川家」「譜代」「外様」という愛国心というか、集権的な要素をちょっと外してしまっているのは残念ですが、それに近いものは持てるようになったのです。
あるいはまだまだ日本は原始的で、オラが田畑から「日本」「日本国民」「愛国心」という意識は、武士が武士らしくなった江戸時代という300年の時間が必要だったのかもしれません。
そしてヨーロッパが世界を征服したように、if小説、仮想戦記のように日本は何かがあれば外征に向かう機会があったのか?
難しかったでしょうね。
朝鮮への外征がそれを物語っています。
まず結局、徳川が妥協したので「日本」という国家が生まれなかったのが大きいです。
各大名は、早く戻って自分の国を開墾したかったでしょう。
では信長が生きていて、各大名を完全に配下におき、日本という国家が生まれ場合は?
それでもそもそも大阪という巨大都市を作る機会、誘惑に抗し得なかったでしょう。
本州は世界第7位の大きい島、しかも耕作地と土地面積当たりの収穫量を考えると、更に経済圏として
考えると大きく、下手すりゃロシアやカナダや当時のアメリカよりよほど大人口を抱えられたりします。
その開発という誘惑を撥ね除けるのは難しいし、それを開発している間に数十万という軍隊を維持し続けられたかという問題もあるし、もしその間に外征を行う機会があったとしても、そもそも日本は世界最大の軍事力といっても陸軍でした。
どうやっても、各巨大開発したければお役御免になりそうです。
江戸時代ライクな幸せな時代が数世紀続き、そのあと黒船襲来して今までのツケを支払う図式しか浮かびません。
この後、近代の明治が来るまで、文化的に称賛されても、強国として称賛されることはありませんでした。
もっとも知識、社会、教育、技術の底上げは大きくなされていて、さくっとヨーロッパが行った産業革命に自然にのっかれたりします。
絵画、相場、雅楽... 世界に影響したものも多数
あと、野原だった大阪、江戸をはじめっから中世の絶頂期の技術で都市計画を建てられたという運の良さもあります。
パリなど吹けば飛ぶような百万都市が大阪と東京に出来上がった理由は、あんなに高度な技術があったのに手つかずの地だったから。
何にせよ300年後平和のツケをたっぷり支払い、支払い終わったとはヨーロッパを恐怖に陥れることになります。




