表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間の歴史。  作者: TAK
最強国「日本」
64/176

ネチネチネチネチネチネチネチネチ

鳴かぬなら殺してしまえ時鳥

鳴かぬなら鳴かせてみせよう時鳥

鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥


こんな感じで信長、秀吉、家康の性格を現した言葉があります。

もちろん、本人たちがそれを言ったわけではありませんが。


それにこちらの話も


「眼鏡をかけるために、なんて都合の良いところに耳と鼻がついているのでしょう」


的なことが混じっています。


出来上がった物語を更に引用、剽窃、盗用、しかもそれをお互いにやるうちに、何か出来すぎた物語にしてます。

中国の三国志が当時の日本でベストセラーだったのは間違いないですが、それ以外にも江戸時代の文学で出来すぎた話をお互い持ち寄り、伊達家の話と信長の話の台詞がほぼ似ていたり、なんか秀吉が三国志のような芝居がかった台詞を黒田官兵衛と話をしたり。




そして「そもそも」の「そもそも」


江戸時代の「武士らしさ」を遡って当時の時代の男たちの行動に当てはめているのが超おかしい。

「切腹」は中国で清水宗治が行うまでは、ただの残酷の処刑法ですからね。

そんな武士らしい生き方なんて秀吉以降の話です。


そしてあらゆる当時の書物が、それを強引に過去の男に当てはめていることを忘れてはいけません。

「信長公記」も後から書いたものですからね。

しかも老武将の定年後のサイドビジネスですから。


1600年以降は戦国時代が終わって「愛国心」的な粘ついた感情が生まれた頃。

信長活躍しているときはそんなの欠片もありません。

本来の武士は農民の延長である豪族の代表。



ということで、実際の人物像はどうかはわかりません。

ただ当時の実際の文書とか、敵対した連中のバイアスとか、行動からの予測とかでいろいろと想像することしか出来ません。




たとえば信長。


まず残虐さと果断さ、非道さが前面に出ていますがそれは眉唾です。

なにしろ敵が「比叡山」でしたから、その比叡山が出すコメント、信長がこうであって欲しいという願望がダダ漏れです。

「第六天魔王」に関しては冗談で口にしたらしいですが(おれは仏罰なんて怖くないよ!)、それは厨二病ならではの大風呂敷。

普通にお寺建てて、神社に舞を捧げて、キリスト教の修道士と会話する。

昔から自然宗教で節操がない日本人らしい信心深さです。

叡山については、連中をただの一派閥としか見てないです。

実際加賀の一向一揆なんて一揆じゃなくて豪族として普通に100年間占領してます。

そして和解した後は普通に仏教してます。


#同時代の比叡山の、あるいは比叡山の名を

 借りた生臭坊主、野望を持った坊主の

 悪逆非道さが目立っているので

 そこら辺も考慮する

 必要あるでしょう。


ちなみに傾奇者の頃から民衆には人気者だったらしいです。

平手政秀の件も、そもそもは死因不明


「いじめて自殺に追いやった」


は怪しいですけどね。


だいたい信長が「馬鹿」だったこと自体、物語性を持たせるためのありがちな話じゃないですか?

本当の馬鹿なら人気出るわけないし。

そして当時の平手政秀の説教も、書状からすると苦笑い程度で仲良さそうだし遺恨などなさそうでした。


更に信長は全方位で部下にも優しそうでした。


秀吉の夫婦喧嘩仲裁の話は有名ですが、柴田、明智、丹羽、その他ただの雑兵も含めて優しげな書状ばっかです。

明智の件は...そもそも明智が不人気で非情、公家にも仏教徒にも当時は糞味噌に言われていたようです。

一言で言うと「嫌な奴」


話の流れで「将軍の味方」「公家の味方」「敵である叡山も彼だけは優しかった」は後付けの設定です。

とっても不人気だったのが明智光秀。


比叡山は敵だとはいえ、女子供も殺し尽くしたのに秀吉はあきれていたようです。

部下と同盟者にはとっても優しかったようですが。

明智を慕っていた部下は斉藤に限らずいくらでもいたようです。


信長も彼をべた褒め。

彼の「狡猾さ」「酷薄さ」「要領の良さ」を褒めていたようです。

この上だけ言うと「嫌な奴」ですが、とっても彼を有能と思っていたようで。


こうみると光秀の反乱は単にチャンスを掴もうとしただけかもしれませんね。

彼の評価は他の軍団長より低めで(軍団長自体、よほどの大名より権力上ですが)、これ以上は出世は望めなさそうだったし。






秀吉


かれは一番、後の伝説どおりに近いかな。


俗物で、低俗で、下品で、礼儀知らず。

でも「超有能」「超良い奴」。

ちなみに「信長様、超ラブ!」

彼はどこでも人気者。


公家も秀吉大好き。

下品さや礼儀知らずは、むしろ誠実さ、真摯さと見てくれたようですから。

秀吉がちょっと留守にすると悲しがる公家が多数。


信長の家臣団では有能すぎ、妬まれ、微妙だったらしいですが。

筆頭家老、有能すぎたので仕方ないですね。


部下にも大人気。

石田三成も「秀吉、超ラブ!」


女性にも大人気。

猿顔のくせに(狐顔という説アリ)モテたようです。

人間のモテは顔ではないようです。

北の政所様も可愛く嫉妬していたようですので夫婦仲も良好。

夫婦仲に暗雲が立ち込めても、いざとなったら信長さまがサルを叱ってくれていたので盤石です。


末期はボケた、残念な老人だったという評価はどうでしょうね。

家康をよく見せたいための嘘っぽい気もするし、ボケてたとしてもおかしくないし。

何にせよ後代の家康は前政権を悪く言うしかないので、話半分と考えた方が良いです。

むしろ親族、特に淀君がアホだったので随分とお目こぼしでそんなに悪い印象ないですよね?





家康


一番最後に物語を書かれているので評価高すぎでしょう。

まず温厚であるはずもないし、我慢強くもないし、律儀からは一番遠そう。

狸と呼ばれていたようですが、狸は凶暴な肉食獣です。


家臣たちには恐怖政治。

逆らうものなし、残酷な評判多し。

有能で戦争強いのは確かですが、戦略的なところはいまいち。


後半、武田家の家臣団が配下に入ってから随分と思慮深くなったようです。

それをうまく扱う井伊直政とか、その実力差を素直に褒めてたし。

愛知に引っ込んでいた自閉症児が外に出て治った感じですかね?


しかし、なんというか日本社会を圧縮して濃くしたというか、あるいは元々からっとした乱暴者だった日本人を彼が「ねちねちねちねちねちねち」にしたのか。

彼の家臣団の妬み合い、つぶしあい、足の引っ張り合いとか。

なんか今の日本の、典型的な面白くなさそーな会社を思い浮かべます。

なんか目的と手段を取り違えるというか何というか。

それだけに忠義はすごいです。

さすが恐怖政治。

江戸時代という微妙な保守的な、しかし幸せではあった国は確かに彼が作り上げたのでしょう。

あるいは江戸時代を過ぎた後でも。

まあそういう人です。




そんな彼らが苦労したのは戦後処理。

いえ、もちろん天下取りの真っ最中に終わった後のことを考えていたわけではありませんが、

少なくとも戦前の農民の延長としての武士、散り散りに分かれている社会、自由な中世の社会をそのまま続けたらまずかろうというのは信長が天下取りを始めた頃の戦国時代の半ばは多くの人が思っていたようです。


たとえば茶器なんて典型的ですね。

芸術を土地以外の価値あるモノに仕立て上げ、それを渡すと損得以外の忠誠心も手に入る。

さらにその褒美やらの一つに、それを振る舞うとかは「名誉」というものもついてきます。

「信長様は俺を好きと言ってくれたぜ!」

茶道はなぜかお茶漬けの作り方とかあるのはそういう理由も一つ。


あと農業以外の産業の振興、米ではなくお金での報酬、必ずしも土地に縛りついた認識でない武将たち。


例えば信長は戦働きだけではなく、それ以外の働きを勲功として積極的に認めています。

たとえば鉄砲を生産することだけに特化したもの、築城だけに特化した者、野戦築城(陣地)に特化した者、計数に長けた者、参謀(当時は軍監)としてのみの役割、諜報役だけ。


もちろん知行という概念からは脱せず、未だに体育会系な原始的な軍隊なので戦働きの強さを見せなければ武将として認められなかったので、失敗は多々あったようですが。

例えば計数の得意だが人心掌握がなっていないので一揆で死亡とか、諜報役スパイなのに兵を引きいらせて妙にこった「口だけ武将」とかになっちゃったり。



秀吉なんかは報奨を金塊、一度も自分の知行に戻ったことない経済官僚みたいな。

信長のやり方を更に推し進めてみました。



ついでに朝鮮への出兵なんて人減らし+知行増大のスケベ心でしょうね。

本当の名前は「高麗御渡海事」、「唐国平定」

信長の「支那征服構想」を実現したモノです。

だって秀吉は信長ラブ!


数十万の軍隊をあっさり集められる力、平和になったらどこにも持って行きようがないので外に解放する方向を定めたモノ。

理由はこじつけに近かったんでしょうけどね。

一応は貿易問題と、倭寇と言った奴の治安問題です。

すでに倭寇は中国人と朝鮮人になっていたのにね。


文禄・慶長の役

日本強かったっす。

朝鮮が日本を押し返したなんて嘘。

というか明からも圧力、日本からも圧力、戦っているフリをするために自国民を日本兵に仕立て上げて明に捧げたり、超きっつい立場に立たされています。

今のアメリカと中国に挟まれている韓国人の感じ?

どっかにべったり従属していない小国はきついです。


開戦からわずか21日で朝鮮の首都、陥落。

その後も無血占領ばかりで大進撃。

平壌までほとんどまともな戦なし。

明軍参戦、平壌を急襲したが、8分割した一隊に過ぎない小西行長隊が撃破。

そりゃ中国征服するつもりですものね。


ただ何というか、現場の兵士たちは「やる気なしお」です。

序盤から協調性0、言うこと聞かないわばらばらに動くは、大阪にいる参謀役(石田三成)は現場一切考慮せず、現場も大阪からの意思は丸無視。

とても関ヶ原の緻密な戦いをしたとは思えないずさんな内政連中です。

さらに本気で占領する気はなかったのか、あるいは急進劇すぎたのか、現地治安は全然考慮せず。

反乱多発。

朝鮮の民衆の統治しにくさは昔からですが、こちらを明の通り道、補給路として考えているとは思えない所業です。

(日本は、海の補給は最初っから諦めていたようです。自分たちが弱小海軍ということは知っていた)

そしてすぐに膠着状態というか、なんか日本の官僚も明の官僚もお互い自国をだまして「僕たち勝ちました」、でどんどん勝手に講和を進め、なんかよくわからないうちに終わりました。


秀吉ボケてたというのはどうでしょうね?

だれでもあふれんばかりの数十万の軍隊をただ飯食わせるわけにはいかないし、外征は当たり前でしょうし、そして秀吉の一番得意な「戦略」「政略」でそういう勝手働きを知らないとは思えないし。

なんかどういう事情かはわかりませんが、お互い「勝った」で終わっちゃいました。

しかも両方とも。

結局、数十万の軍隊が多少でも減ったかどうかは知りませんし、多少でも儲けていたら良いのですが、そういうこともわからずに、日本的にはうやむやに、明や朝鮮的には「迷惑かけられたなぁ、たすかった」で終わり。


そして案の定その残った戦力で内戦がはじまり、また日本人同士で潰し合いが始まっちゃいました。

まあ当たり前ですね。

「狭い日本、そんなに急いでどこいくの?」の認識が間違っていて、まだまだ広い日本「開墾」-「開墾」-「治水」-「開墾」をまだまだやりたいのです。

どころか信長の野望では新コマンド「商業」「技術」「貿易」これも楽しまねばなりません。

外征なんてだれも本気でやる気はなかったのが実情です。



家康はそういうの反省したんですかね。


前の二人のダイナミックな解決方法は一切やめました。

もうなんというか、やっぱり「ネチネチネチネチネチネチネチネチ」とした感じで解決します。


女房子供は江戸に済ませろ。

国替えとかよろしく。

城は一国一城な。

とくに弱小藩を中心にネチネチと勢力を削ぎます。


そして参勤交代、変な制度ですよね。

軍隊まるごと、毎年お殿様と一緒に江戸に参り、女房子供と会って、また戻って。

そしてそれを何かステータス的な感じにしてお祭り、競わせて派手にして。

ある意味、信長がやり始めた「茶道」と同じ目的をダイナミックにした感じです。

まあ何というか「生かさず殺さず」の戦国武将版?


そしてようやく長い戦国時代が終わり、平和な日本を取り戻しました。

その後は戦国時代に蓄積したノウハウが爆発します。

かってないほどのGNP。

江戸、大坂、名古屋という世界有数の都市、

町人という農民以外の経済活動が活発となり、大名の力が廃れるとともに関所だの有名無実化し、日本全国自由に行き来が出来るようになり、観光業、富くじ、信用取引、先物取引と言った新たな第三次産業を考え、未曾有の経済国家として繁栄します。


ちなみにみんな江戸時代を「鎖国」とか外国との交易はないと勘違いしていますが大きな間違いです。


幕府が貿易を独占しようとして特定の港に限定したこと、

そもそもキリスト教は危険視されていたこと、

ヨーロッパの貿易取引高より明の貿易の方が大事だったこと、

後年外貨が流出して本当の取引制限があって事実上貿易ができなくなったこと

南京事変とか日本がいつの間に弱小国となってまじやべえとなった18世紀


これを混同して勘違いしています。

そもそもいろいろな地域に外国人居留地「唐人町」があること自体、貿易は活発だったようで。

どころか悪名高い東インド会社設立当時の17世紀、記録で

「日本人は狡猾で抜け目がなくてだまされてばかり。マジむかつく」

とあります。


いろいろと主人公が変わるインド洋の貿易ですが、16-17世紀は取引高の6割は日本人だったころがあったのです。




しかし300年後くらいの維新の時、倒幕軍の総司令官「大村益次郎」があきれるほど軍事は廃れます。

300年前の火縄銃、青銅砲、長槍で攻めてきて、しかも軍事的には大いに後退し、戦国時代には欠片もなかった偉そうな鎧を着た偉そうな武将が名乗りを上げ、かって「Art of War」ともいえるような洗練した軍事行動は一切なく、ただぼーっと攻めてきて呆れさせたようです。


それは家康の目論見どおりだったのでしょうか?

計算違いだったのでしょうか?


せっかくだれよりも一番に近世に近いところにいたのに、それをあっさり捨て去ったのです。

日本が世界の軍事強国であった時代は一瞬でした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ