モンゴル人が去った後
さて、
モンゴルがユーラシア大陸の大半を征服し、世界二大巨頭の一つ、中国を征服して「元」という我々が思い浮かべるしたたかな方の中国が出来上がりました。
以前のダサい農業国家的な立ち位置は払拭してます。
しかしながら、その時点で4つに分かれ、やがてモンゴルが散り散りになる徴候がすでに見えてます。
そしてそれは本当に散り散りになるのですが、今回はその話を。
クビライが南宋を滅ぼし、「元」という国を作り上げました。
それは「中世の理想の大帝国ってどんなの?」を力と経済で強引に作り上げたような煌びやかな国でした。
かっての中国を統治した不合理な体制ではなく、合理的な機会主義者であり、技術も統治方法も意思もあるクビライは究極の中世国家を作りました。
首都の「大都」でその全てが分かります。
壮大な宮殿。
世界中の宝が集まる宝物庫。
そしてその前を貫く大通り。
その道はそのままイスラム、インド、ロシア、ヨーロッパといった世界につながる起点となってます。
そして都市のど真ん中に人口湖と「積水潭」と呼ばれる都市内港。
その港は全長30キロ近くに及ぶ城壁の周りの堀と、その時点でオーバーテクノロジーである開門式の運河に繋がり、江南地区の物流を支え、そのまま海まで続いて太平洋沿岸、インド洋、大西洋、アフリカまでその航路は続きます。
もちろんそういった都市なので世界中の人々が集まります。
閣僚、役人も人種様々。
中国人、女真族、タタール人、イスラム人、インド人、日本人、胡人といったオアシス国家。
都市にはイスラム商人にための巨大なモスクがあり、当然のように他の宗教も保護対象。
彼らはもともとキリスト教なので、キリスト教徒も居ます。
そして都市の北側は大平原。
巨大なパオが立ち並び、ステップベルトの大きな騎馬民族達、名だたる大部族が住み、その中に当然のように元戦争相手のアリクブケもいる。
草原地帯の強大な力を持つ者たちがここに立ち並ぶと。
そしてモンゴル人の政策は基本的に自由経済です。
かれらは占領地を奪わずむしろ投資まで行い、経済は極大化しました。
関税も完全に撤廃。
貿易相手のイスラム、ヴェネツィア、日本、インドといったところも自由経済を求め、それに応えた面々と共にさらに経済を拡大すると。
庶民の生活も、いままでは高価か、あるいは店頭にはない文物、食材が流通し、産業も農業から商業にシフトし、軍隊で培った情報インフラは国家全体で根本的には農民で田舎だった中国を激変させます。
ついでに国民意識の合理性も。
皇族の行脚よりも、通信の飛脚を優先させる合理性は、その後に根本的に中国に宗教観や産業、政治の考え方を変えさせます。
モンゴル人が中国を去ったあとの中国は、後代の共産主義まで、カルトな宗教は二度と力を持つことはなくなりました。
この都市を中心に、世界はとんでもなく潤うことになります。
後年、この時代を「パクスモンゴリカ」(モンゴル人による平和)、「パクス・タタリカ」(タタール人による平和)と名づけることになります。
しかしクビライが死んで暫く立つと綻びが見え、内乱が多発、王朝が北走して中国から撤退し、1世紀も満たない短命な王朝として消えてなくなります。
理由。
NHKスペシャルでは、周辺諸国に戦争吹っかけすぎたとか言ってましたね。
多分それは間違い。
なにしろクビライ存命中も、その前代も何度も遠征失敗してるし。
まあ国が大きすぎて対応に追われたとか言いますが、別に他国が攻めてきたわけではないですからね。
元が攻める側で適当なところで撤退、犠牲者は現地人だけということも多く、これで疲弊したとはとても思えません。
ベトナム2-3度攻撃かけるが失敗。
日本には実は3度目ふっかけようとするがとりやめ。
北方樺太とかピルマ方面とかは一時占領するが撤退とか。
上のようなことは、彼らは征服欲で動いてません。完全に経済的な行動。
なので日本は損得勘定で攻撃取りやめ。
樺太は経済的に見合わないから撤退。
東南アジア方面は海路が確立したので必要なくなったのでとりやめ。
ここまで損得勘定シビアな連中が疲弊するほど攻め続けるとは思えません。
内乱の多発とかもいってます。
まあ決定的ではないものの、理由の一つではあったでしょう。
イスラム人の役人が気に入らない、汚職重税がきつかったとか、同時期に中国内部に限らず言われ始めたがどうなんでしょう。
同時期という時点で、実際の汚職よりそれ以外の~例えば社会に慣れてその後の身分確定時期での外国人差別のように見えますけどね。
一応GNP伸びてるし、汚職が突然世界規模で起こるとかあんま信用できないような。
国際国家による弊害は確かにありました。
ペストのパンデミックとか。
現代でも鳥インフルエンザとかありますね。
国際社会になると外国勢力が混じることによる差別意識、病気が国を跨いで攻めてくるとかは時代に関係なくありますね。
あと一次産業、農村の崩壊。
こちらも現代でもありますね。
急激な産業構造の変化による混乱。
二次産業、三次産業が儲かると、一次産業は経済的にも人材的にも疲弊します。
華やかに儲けている連中見て、若者は都市に行きたがるでしょうし。
産業として重要でなくなると、税金とか社会保障も彼らに手厚くなくなるのが通例ですしね。
#現代日本の農業政策とかは例外。
多分に有権者保護、文化保護という面が多く、
衰退している一次産業そのものをここまで手厚く
保護する理由は国家経営としてありません。
ある意味民主主義の弊害。
紅巾の乱による反乱で現王朝が打倒される。
1351年に黄河改修工事の時に白蓮教徒)紅巾党が蜂起し、それ自体は失敗したものの、そのメンバであった朱元璋が華南を統一し、南京で皇帝に即位して「明」を建国しました。
これ自体は直接の原因と言えます。
でも
紅巾党や朱元璋がそんなに強かったっけ?
という部分はありますが。
いままで強大な敵を屈服させてきたのに、紅巾党や朱元璋のようによわよわの蟷螂の斧でやられるモンゴル人とはとても思えませんが。
「弱くなった」という考え方もありますが、普通にその後の時代もモンゴル人は強いですしね。
モスクワ何度も蹂躙されて涙目。
紅巾党や朱元璋のような、単なるインテリゲンチャも糾合できなかったいい加減な不満屋の集まりが根本的な理由であるはずないのですけどね。
まあ、なんにせよ「元」は中国王朝としては短命な政権として終わりました。
実はモンゴル人的には北側に撤退しただけで、明の次代の清朝に「北元」が吸収される1655年まで王朝は存続していた気になってましたが。
あるいは清朝そのもの彼らの国と思ってたかもしれません。
だって、清朝の続きである日本の「満州」も彼らのモノという意識ありましたし。
彼ら自身はあんま中国にこだわってなかったようですね。
「元」はそんな終わり方でしたが他の地域も見てみましょうか。
いちばん小物は「イルハン朝」かしらん?
モンゴル4代目皇帝モンケから命ぜられた「フレグ」が西征して作った国です。
1256年にホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得、1256年にイラン制圧、1258年にバグダードを攻略、1260年シリア、アレッポ、ダマスカスを支配。
まあいつも通り鎧袖一触で中東を手に入れました。
で、クビライがいろいろやらかしている頃、どちらにも組せず、クリルタイも無視してだんまり。
むしろクビライを推挙しているっぽかったので「元」とそのまま好意的な関係になります。
その後は名目上は連合王国、実はそのまま独立国として生きることになります。
で、かれら一応キリスト教徒なので十字軍に遠征したり、なぜかイスラム王朝風になってイスラム国家群の一員としたり
。。。節操ねえな、こいつら。
後継者争いでなんかイスラムの一支族くらいの雰囲気でティムール帝国に呑みこまれ、そのまま解体されます。
ジョチ・ウルス
別名キプチャクハーン国は?
こちら中央アジアの雄。
13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配していました。
首都サライは、中世では世界最大級の都市で大都に匹敵します。
チンギス・カンの長男ジョチが攻めのぼった足跡そのものこの国。
モンゴル人の活躍では飽き飽きした言葉ですが無敵でした。
お父さんが死んだとき、二代目が死んだとき、病没した時以外は全部勝ってます。
なのでヨーロッパの直前、ヴィザンチンの衛星国家「ルーシー公国」まで支配下、アゼルハイジャンあたりまで進軍してます。
ポーランド、イスラム、ティムールと争っている感じ。
ただ、1359年にウズベク・ハンの孫ベルディベク・ハンが死んでバトゥの王統が断絶してから悲劇。
とにかく、息子、孫同士が戦いまくり。
ジョチ裔の様々な家系同氏が王朝争奪戦に参加し、争奪戦に敗れた王族が他地方でハンを称して自立し、
ヴォルガ中流のカザン・ハン国、
カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、
クリミア半島のクリミア・ハン国、
マンギト部族の形成した部族連合ノガイ・オルダ
サライを中心とするハン国正統の政権(黄金のオルド)
ウズベク族(シャイバーニー朝)
カザフ・ハン国
シビル・ハン国
うわぁ。
直系が死んで、みんな性豪だったのでそこらじゅうに子供作って一族が死ぬほど多いとこうなります。
これら国はどれも強国だったので自分たちの勢力争い以外にもいろいろ周辺諸国、支配下に迷惑をかけ、それはその後の帝国ロシアやトルコに恨まれ、「タタールの軛」という悪名で呼ばれます。
最後のチャガタイハン国
チンギス・ハーンの次男チャガタイの通り道とそのその子孫の国。
一応、クビライと争いはしましたがすったもんだで従うことになりました。
が、あんまり関係ないです。
分離した後でもお家争いは続き、オゴデイ家と争い、なんとなくぐちゃぐちゃの状態で、だんだんと土着化が進んでいきました。
で、この地は西はイスラム圏で進んだ商業国家、東は遊牧民国家だったので格差が生まれ、しかもそれを放っておいたので争いが決定的になり、東西に分かれることになります。
そしてキプチャクハーン国でも分裂して争うことになり、それがさらに西を悩ませ、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身「ティームール」がつくったティムール帝国に最後は呑みこまれます。
一応、チャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしてたので、ティムール自体も一応モンゴル帝国の後継者。
。。。まあこんな感じで4つの国が瓦解していきました。
何というか、、
どれも共通しているのは
「無敵だった」
「後継者争いだ内乱でグダグダ」
「埋没していった」
大抵の教科書は
かってのモンゴルは力を失い、
独立独歩で民族運動がおこり、
悪の大帝国モンゴルは打倒したのだ!
と書いてますね。
NHKあたりでも、世界中の歴史書でも、あるいは中国あたりでは「紅巾の乱」とか
「各地の反乱で~♪」とか言ってますかね。
正直、こういうの並べてみると教科書やテレビで言っているわかりやすい理屈ではないと思います。
どれを見ても、最後までモンゴルは合理的で強かったと言えます。
なのに何というか、自由というかいい加減というか好き勝手に生きているというか。
多分、彼らは帝国の維持、血統の維持など興味なかったのだと思います。
それが合理性が理由なのか、そもそもそんなの意識していなかったか、どこか自由民な馬賊の意識が残っていたのかもしれません。
主義の問題なのか、大抵の国家は中国、ヨーロッパ、日本、どれをとっても血統の維持にこだわっているのに、モンゴルだけは頑なにそれを無視しています。
長男が財産を受け継ぐという富の集積の基本の考え方もなし、
「兄弟で平等に」
なんてやっていたらたちまち財産は消えてなくなります。
モンゴルはそれをやってのけました。
後継者争いで、クビライはあっさりと4つの連合国家を許しました。
ほかの場所でも彼らの国家が代替わりの際にどんどん分裂していきます。
後継者あらそいで統治が不安定になり、疫病、天災、ちょっとしたことで瓦解する状態になります。
そして統治者はさっさと飽きて北に逃げると。
最後に紅巾が作った明に追われた時、もう中国に興味がなかったといえます。
さっさと草原に戻ることになりました。
幕をひいたのは次の中国王朝の「明」朝でしょうが、幕を引いたときはモンゴル人の俳優などどこにもいなかったと。
それ以外も同様。
中東も、中央アジアも、ロシアでも勝手にモンゴルは争い、分かれ、吸収されていきました。
分裂したり、統治が不安定になったりあれよあれよという間に、かってモンゴルであった国家が小さく散らばっていきました。
それがあっという間にモンゴルが消えてった、あるいはいまだにモンゴル帝国の血統や国家と自称するものがある理由です。
世界に「商業」という残滓を残し、そこら中を金持ちにし、かつ恐怖を味あわせた状態でいつ失われたかわからないまま歴史の表舞台には現れなくなりました。
そして現代でもモンゴルの血統は力を持っています。
中央アジアの政治、タンガの印、中東から東ヨーロッパ、ロシア、中央アジア、中国、 そこらじゅうに彼らを受け継いだ人々が散らばっています。
彼らが残したもの。
・シルクロードと貿易航路
アフリカ、地中海、インド、日本、北方領土、 網の目のように張り巡らしました。別に彼らが作ったものではないですが はじめて有機的に活用したのは彼ら
・大都(北京)
繁栄の象徴。彼らが作った都市は世界中のあらゆる都市を見劣りさせたでしょう。
ついでに今までにない、功利的で機会主義という中国人とそのイメージ、華僑
・それに負けないイスラム商人、中央アジア、南アジアの商人。
インド、パキスタン、バングラディッシュあたりのしたたかな商人
いまは馬ではなくトラックですが、気持ちの良い連中です。
不潔が気にならないのならばサマルカンドはお勧めの場所。
・ヨーロッパとは言えない特殊な国家ロシア。
アジアではないが、欧と呼ぶには荒々しすぎる国。
東洋と西洋が混じっているので美人が多い。
シベリア鉄道乗るとモンゴル系の顔が多くてびっくりします。
ロシアは白人の国という印象がなくなりました。
・中東に点在するアジア人たち
・中央アジアの貿易国家たち
・悪夢、恐怖
日本では北条政権が倒れる程の脅威
中国は二級民族と思っていたものに征服された悪夢
(その実、自分たちの一級の部分さえモンゴルが作ったにせよ)
ロシアではモンゴル人を滅ぼしたいとさえ思った恐怖
中東と東ヨーロッパでは絶対に打ち勝てない侵略者の恐怖
西ヨーロッパでは神か悪魔の国という幻想
十字軍関係の書物では
神の軍隊と勘違いしてましたが。まあイスラム国を
侵略してましたから)
・夢
とくに中央アジア、シベリア、中国西部の夢のような超帝国は現代でも語り継がれます。
英雄願望と、蔑まれていた者たちへの勇気と希望が与えられたと。
こんなモンゴル人でした。




