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人間の歴史。  作者: TAK
中世の日本
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お~しえて~ください~ このよにいきとしいけるものの~ byさだまさし

さて、古代の大帝国が滅び、世界は中世になった時期、日本はどうでしたでしょうか?


一応、教科書上での日本の中世は、鎌倉幕府の成立(1192年)から室町幕府の滅亡(1573年)までと言われてます。


とすると平安時代が今までの私の話では抜けてる。



一応、平安時代も飛鳥時代、奈良時代から続く中央集権国家だから良いのだろうか。

で、鎌倉時代の武家政治が封建主義っぽいんで中世という解釈らしいです。



ただ、「中世って何?」となると、以前の中国の話から「唐」が外れちゃいますね。

一応スリム化して、雑多になっちゃっても中央集権ですから。



あと、日本の武家政治は、そもそも「技術のノリで~」とか「古代世界が破たんして~」とかでもなんでもないんで困ったちゃんです。



そもそも日本ってどこ?


ってのも明確でもないですしね。


古代でも九州は統べていたでしょうが、東北を統治していたかも怪しいもの。

「アシタカ」みたいな村は九州でも、中国でも、伊勢の山奥でも、長野の山奥でもあったはず。

他の国とはずいぶんと違います。


ちなみに私の実家は三重の山奥です。


ばあちゃんが死んだときは既に昭和でしたが、一応火葬ですが私の目の前でぱちぱちと燃えていきました。

大人たちは泣き笑いみたいな感じで楽しみ、私は子供心に


「お祭りみたいできれいだなぁ」


と気楽に思っていたものです。


私の村が、日本の法律が無視していたのに気付いたのは大学に入ってからです。

火葬は決められた場所、決められた施設でやらねばならないのを知ったのがその頃。


まあ私の村が日本の秘境で誰にも見つからないような山奥ならともかく、普通に電気ガス水道来てましたけどね。

テレビもUHFだった気がしますが2ちゃんねるくらいありました。

あ、別に掲示板でもないです。

普通の村だと思ったんだがなぁ。

そしてそんな統治されてたんだかされてないんだかの村は多かった思う。

日本は行き来が難しいは、山がちだわ、谷がちだわ、川は激しいわ、森だらけだわで。

国道、橋、鉄道、トンネルで気づかないけど、もしこれらがないことを想像するとそうなるのもわかる気がする。

しかも九州とか伊勢とか、もう歩くだけでむりむりむりむりかたつむりくらい辺鄙。




こんな感じで、明治以降どころかGHQが睨みを聞かせている日本政府でさえ「日本を統べている」かどうかも怪しい場所で、教科書みたいな「古代」「中世」「近代」と区分けして、封建主義はこれですなんて説明してそうでぜんぜん説明になっていない日本史の教科書、いいのだろうか?



まあいいでしょう。

別に教科書のために日本は歴史を歩んできたわけでもないし。

適当な歴史学者のお題目に強引に当てはめる必要はないでしょう。

だいたい、中世の定義でさえ怪しいのに何言ってんだか状態ですしね。


普通につらつらと平安時代あたりから日本を書いていきましょうか。





平安時代。


上にも書いてある通り「中央集権政治」です。

すでに九州は南端まで統べており、関東以北もいけてます。

藤原氏が大和から東北に移り、ブイブイ言わせていた状態で参入も大きいですね。

東北も全てとは言えないでしょうが、本州の大半が「日本」、あるいは「大和」らしいです。


一応異説。

初期のころは九州は実は別な国で「倭」だったらしいとかなんとか。

意外に説得力あります。

私もそうだなぁと思ったのは663年の白江村の戦いの記録。


これ古代日本の運命を決める戦い、あと唐をこみで考えると中国が強いのは当たり前で必敗の戦い。

その割になんか記録者が他人事というか、戦いの概要、事実の記載は正確っぽいものの、当事者の名前、仲間の戦死も酷薄だし、本当にヤマト朝廷の記録?、というほど他人事の記録に感じました。

端的に言うと「倭」が戦いの当事者で、ヤマトはそれをはたで見ていただけとか。

まああくまで異説です。

本当かどうかは皆さんの判断で。


  


桓武天皇が西暦784年に長岡京(京都)に遷都したところから「平安時代」と言われています。

奈良からの遷都はこんな感じ?

 ・仏教勢力がウザくなってきた

 ・琵琶湖ルートが魅力的になった


まあこれまでの日本は頻繁に遷都しています。

都市として小ぶりだったり、都市開発の一環として集落をつくる方策の一つだったりするので。


そしてこの後、土木工事の失敗、治水が面倒とかいろいろあり、794年に近くの平安京(同じく京都)に引っ越しました。


そしてその後、いくつか例外はあるものの、日本の首都は京都として長らく続いていきます。




平安京が建てられる頃はいくつかの日本特有のターニングポイントとなっています。


原因の原因は663年の白江村の戦い


当たり前の当たり前ですが、中国が「唐」というスーパーパワーで諸国制圧に乗り出し、朝鮮半島を平定しました。


当時、日本は混迷の時代の隙間を縫って、朝鮮半島の一部を制圧し、その鉄鉱石からの製鉄を独占することで大和朝廷は権威を保っています。

しかしあっさりと唐に敗北し、この源泉は失われました。



ここでいきなり日本の状況を塗り替えます。


そもそも日本の製鉄は段階を踏むことなく、弥生人(中国人)が来て伝来し、高炉での製鉄が当たり前のことから始まってます。

なので日本の遺跡で高炉は結構当たり前。

そしてその鉄鉱石、というか多少一次加工した素鉄塊というか、そういう類を朝鮮半島からの輸入に頼っていたのは明らかだったりします。



滋賀県(山陰から奈良京都への入り口-鉱山があったのでここに高炉跡があるのは当たり前)、

東北の多賀城あたりを筆頭に東北全域にぽつぽつ(こちらは藤原氏が台頭してからの年代なので多分に政治的なものかもしれません。大きくない。権力を保つため?)、それ以外は山陰地方に高炉跡が集中しています。



そして白江村敗戦を皮切りに高炉数は激減し、逆に蹈鞴製鉄跡が激増と。

世界での製鉄の歴史は 蹈鞴→高炉で鉄器の増産が当たり前ですが、日本だけが逆行しています。

もしか縄文時代にはあったかもしれせんが、そんな古い技術を逆行して引っ張り出しました。


そして蹈鞴製鉄の原材料は鉄鉱石より砂鉄がメイン。

一応製鉄で山陰地方が重要なのは変わらずですが、全国に散らばることになります。

そして蹈鞴製鉄自体は高炉ほど大量生産できないので、人口比に比べて妙に鍛冶屋や職人が多くなると。


日本だけ妙な人口構成の国になってしまいました。

そして朝廷の権威は失墜すると。

砂鉄で鉄器をつくるのなら、自分達で独占できません。


広島県大矢遺跡などが日本の歪みを現しているようです。

製鉄法は古来からの蹈鞴、でも炉は大型、長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m

の最新型。

こんな妙ちきりんな遺跡は日本だけです。




ちなみに各国の製鉄業が流行ると、燃料の木炭をたくさん使うので自然破壊が激しいのですが、蹈鞴は自然に優しい製鉄。

日本の自然が守られたのも日本特有の製鉄だったから。


映画「もののけ姫」はとても時代考証が調べてあり、面白いだけでなく興味深い映画と思いますが、根本の根本の「環境破壊」というテーマがちょっとなあと思ってしまいます。

海外で見られるような禿山は、明治になるまでついに日本ではでなかったわけですし。


もっとも日本の森林が、日本に便利なように作り変えられているのは確かですけどね。

本当の原生林に住んでいた私は、ディダラボッチというかシシ神というか居そうなところですが、とっても人間に住みにくいです。

子供の頃は自然破壊おっけぇと物騒なことを考えてました。

だって本当の自然は人に優しくないし。

長野の別荘地、東北の夕焼けの似合う山林なんて私にとっちゃ「自然」なんかじゃないわけです。

人間に優しいし。

原生林に住むとわかりますが、生態系も含めて人間に厳しいことばかしです。

鹿やらイノシシやらを食いものとは考えるが可愛いなどとは思えん!

あいつらは自然と山林や田畑を破壊する権化です。

はい。




話がいつも外れるな。

続いて政治的にも大混乱。


とにかく後悔して中国と朝鮮半島にあやまりまくります。


「戦争なんてナマしてすいませんでした。

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」


お前はがんばれタブチ君か..


遣唐使、遣新羅使として外交使節おくりまくり。

結構、唐とは仲良くなりました。


新羅はダメでしたね。

険悪な仲、お互い無礼な振る舞い、最後は遣新羅使が天然痘を朝鮮から持ち込んで奈良の都、絶滅寸前。

以降、袂を分かちます。

=鉄鉱石は失われました。


唐や新羅に媚び売る派、我が道をいく独立派、政治も混迷拡大中。




672年に古代最大の内戦である壬申の乱が始まります。

天皇家同士の争い。

直接的には後継者争い。

女性の取り合いもあったらしい。ニッポンジン、スケベェネ。

あと戦争で疲弊して人心が離反しているのも大きい。

外交政策、防衛問題で大混乱でしょう。


古代日本史最大の内戦は勃発し、日本はますます疲弊しました。


更に唐との争いを恐れて防衛準備で疲弊。

結局、唐はそんな暇なしで大丈夫でしたがお金はかかる。


九州の防人は悲しい仕事。


おしえ~て~、くだ~さ~い~、この~よに~いき~とし~いけ~るも~の~の


後にさだまさしとか言う人が歌うことになります。


私はこの暗い歌好きでしたが、鼻歌はおすすめしません。

不気味がられます。




とにかく日本混乱マックスファイヤー!

なんとかせねばなりません。


そんな解決策が「人に頼ろう!」。

いきなりぶん投げます。


大宝律令たいほうりつりょうは、701年にそんな意識で作った法。


最初は軽い気持ちだったかも知れません。

有力者は外戚、縁戚、しかも高級官僚だったから有能な奴ばかり。


藤原氏がその筆頭でぶいぶいいわせます。

こちらは藤原鎌足を祖とする神別氏族。

彼らに任せるのはあんまり抵抗なかったでしょう。

天皇家との交流多いし。

片腕でもあるのでツーカーな仲。


近世に至るまで多くの公家を輩出し、1200年以上もの間、廷臣の一大勢力。


「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」


聞いたことあると思いますが藤原氏の別名。

五摂家として別れた藤原氏の直系達です。

いまでも活躍してます。





ここまではまあ中央集権と言えないことはない。

由緒正しい藤原氏だし。


しかし、その後も貧乏、混乱が続きます。


そこで出てきたのは平清盛。


保元の乱で後白河天皇の信頼を得、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣になった人。

ここらへんになると、中央集権、天皇家の統治という言葉がギリな状態に突入します。


まあまだギリです。

武家とは聞こえが良いけど、ようするに豪族ですから。


出自が一応明らか。

高望王流坂東平氏。

この単語だけでは良くわからんでしょうが

「親戚の親戚のおじさんの甥と結婚した人」

くらい遠い血族です。

まあ、親戚と名乗るのはギリギリ(アウト)とでも思ってください。


「東国の源氏、西国の平氏」


とか言われていますがウソです。

出身は東国(関東)です。

というか、鎌倉幕府の執権北条氏と祖は同じ。


平将門とか有名人のご先祖様はいます。

東京を呪っているかどうかは知りません。



一応、天皇家と縁戚になろうとしたのでギリ、秩序には従おうとはしたようです。




有能でした。

日宋貿易で財政基盤の開拓、強化、

宋銭を導入して初めてのまともな通貨経済の基礎を築く。

公共事業の推進。

そもそも福原(今の神戸)に目をつけただけでも素晴らしいでしょう。

世界の潮流が交易であることを敏感に嗅ぎ取ったようです。


悪虐、非道、非情、暴君、傲慢も嘘っぽいです。

むしろ偉くなっても腰が低いとか、何十年たっても恩は忘れないとか、親切とか、良いことばかり聞きます。

どころか、とっても低い身分に対して、大した落ち度でもないのに礼を尽くして謝ったりとか。

彼の悪口は敵対勢力からのみ。

ドロドロした政治、ギトギト脂ぎった連中に対するのは、こういった温厚な性格で乗り切っていたのかもしれません。

そもそも源義経、源頼朝が処刑もされずに生きている時点で非情とか言うのはとても恩知らずに思う。




しかしこのころの日本はやばかった。

というか、日本がやばいのって大抵は既得権益にしがみつく老人と、野望をもった頭の悪い経済人が組んだ時ですよね。

太平洋戦争も、現在でもそんな感じするし。


天皇家、摂関家、公家との権力争い。

昔と違ってあまり重視されていない仏教徒達の不満(しかも京都を囲んで強力な僧兵を温存している)。

平氏を面白く思っていない武家、豪族たち。

そんな綱渡り政治は長く続かなかった。


しかもタイミング悪く飢饉が。


1181年に発生した養和の飢饉。

大飢饉です。


前年の1180年が極端に降水量が少ない年で、旱魃で農産物の収穫量が激減、大量の餓死者の発生、土地を放棄して流浪化する農民が多数。

京都市中の死者を4万2300人。


結構有能な政治家だったと思うんですけどね。

各所からむかつかれ、各所から責任取らされ、各所からすべて押し付けられ、

もうこんな不幸が重なると滅ぶしかないっす。


運が悪くても飢饉は責任取らなければならないでしょうけど、それ以外の我儘争い、権力闘争は勝手にやってろですよねぇ?

もうフルボッコ。

最後は源氏が敵役として反対勢力を束ね、更に平清盛病死。

一族は壇ノ浦で滅亡。


平家物語はこうして生まれたわけです。



慰めは...


大活躍とはいえ、たった一代の活躍だけで「源平藤橘」の間に入ります。

そして勝ったはずの源氏も、


・最大功労者の義仲は騙されて戦死

・義経も反乱分子として誅殺、

・頼朝も決して良い晩年とは言えず

・その後は北条にのっとられ


清盛もこの結果に喜んでいることでしょう。


「ザマー」「メシウマ!」「だから言ったじゃん!」


しかも彼らを陥れた公家、摂関家、寺社、あるいはさんざん悪口言ったであろう京都人も充分に仇を討たれました。

今まではギリで済んでいた中央集権は崩壊しました。


源氏は面倒な奴らを全部置き去りにしたまま鎌倉にバックれたんです。



あーあ。

彼らは京が永遠と考えてパワーゲームを楽しみ、自分たちが全てをコントロールしていると考えていたかもしれません。

しかし、平氏を引き入れていた時もギリやばそうでしたが、源氏を引き入れちゃったあとは決定的でした。

かれらが権力を取り戻すのは、明治維新前夜までほぼ0


いまの電労連の企業とか、左翼団体とかみているみたい。

あらかじめ失われるものを、一生懸命奪い合っていたわけです。

最近、「ムラマサ先輩って良いよね!」とJK1の長女と話していたら、妻と次女に大いに軽蔑されました。

「ゾロ、カッコいい!」はよくてエロマンガ先生は何故ダメなのか?

解せぬ。

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