滅びゆく者のために...
ローマがここまで繁栄した理由は以下をあげていました。
・敗者、他国、民族、奴隷も含めて広く人材が開かれていたこと
・インフラ、公共投資の重要性を知っていたこと
・ローマ市民=重歩兵と軍と市民が一体化して国を守っていたこと
・S.P.Q.R、首長である執政官、皇帝は市民、貴族(元老院)の代表。
金ぴかの王冠や権威などなしで上に立てるほど愛されていたこと
・地中海という浴槽を手に入れているため輸送コストを限りなく低くできること
そして地中海周辺はバリエーション豊富な気候帯、資源、人材
以上の他に実はとっても有利なことがあります。
それは「オセロの隅」というのでしょうか。
南はサハラ砂漠、西は荒海である大西洋、北はライン川とドナウ川で蛮族を押しのけ、東の御しやすいパルティアのみの防衛ですみました。古代エジプトの拡大版ですね。
実に全期間を通して政府の維持費は全GNPの10%を超えなかったと言われます。
下手すりゃ国債で借金だらけの現代日本よりいいかもですね。
とすると、ローマの滅びはこれらが失われていったからでしょう。
今回はそんな話をしましょうか。
まあそもそも
「ローマの滅び」って何?
があります。
現代の国際法を当てはめれば実はローマの滅びは1453年です。
皆が考えるずーっと後。
歴史の教科書の「ビザンツ帝国」「ビザンティン」「東ローマ帝国」と呼ばれている国の国民は、自分たちはビザンツ国に所属していたとか、東ローマ帝国にいたなどとは思っていませんでした。
意識ではただのローマ人です。
きちんと西ローマと東ローマに分かれた時から、正当な皇帝が統治してずーっと存在し続けました。
西ローマがそもそも傍系、おまけと思っていたので彼らが滅びようとどうでも良いことです。
彼らはローマに住んでいて、ローマ人として生きてきました。
国内にローマという都市はありませんでしたが。
まあでも実際そのように思う歴史学者はいませんね。
もう皆が考えるローマらしさなど欠片もない、ただの東欧の弱小な国でしたから。
「神聖ローマ帝国」なるものもありますが、これは誠に図々しい名乗りです。
神聖でもなければローマでもない、帝国でさえないと言われた国
これも放っておきましょうか。
現実的には、後年世界を席巻して勝った西ヨーロッパの人達が愛する西ローマの滅びが主流です。
ローマ帝国からローマが失われた西暦476年に西ローマ皇帝が廃立の時が一般的なローマ帝国の滅びですね。
その時はもうそれはそれはとても惨めな国でした。
国の滅びというものを考えさせられるほど衰えた感じ。
なので後年、ローマの滅びの原因がたくさん議論されました。
だんだんとローマらしさが失われ、やせ細っていったので「なぜ滅びた?」という意見は様々です。
蛮族が侵入したという理由がメジャーでしょうか。
誠に直接的な原因です。
王を廃立させたのはゲルマン人です。
「皇帝が暗君でクーデターが多発したから」という意見も多いですね。
ここらへん漢と同じ時代ではありましたし、似たような意見になるのは当然の事。
役人の肥大化、賄賂、軍人の専横、元老員の衰退、異民族の蠢動、資源の枯渇、身分の流動化がなくなった...
原因か結果かはともかく、どれも実際になされました。
しかし、私的にはどれもパンチがないなあと。
なぜなら、どれもこれも長い期間にローマが何度も経験していることです。
長いローマの歴史で、蛮族の侵入は常にありました。
どころか、それをきっかけに領土が広がったこと多数。
異民族の取り込みもしょっちゅうで、そもそも純粋なラテン系人よりギリシャ系の方が多かったりします。
蛮族?もちろん昔っから元老員にゲルマン人、ゴート人もいました。
寒冷期で蛮族が南下したからだとかのご意見も怪しげです。
そもそもその前の時代に比べて、より侵入がすごかったわけではありませんし。
クーデター?政権交代?
現代の常識からいうと物騒ですし、当然それだろうというのが常識ですが、ローマに限ってはNG.
そもそも純粋に政権交代はもともと執政官がしきっているときは2年ごとの政権交代です。
そんな理屈は無茶といいたいでしょうが、滅びという観点からは同列においても良いでしょう。
そもそも、ネロはともかく、本当の暗君カリグラの時もGDPは延びていたりします。
皇帝がどうなろうと大丈夫な強固な基盤はそもそも持っていたのです。
そしてローマ皇帝の交代は「親衛隊の反逆」「暗殺」「戦死」「(怪しい)事故」、そもそも政権交代より激しいです。
考えてみれば恐ろしい国。
盤石な国というべきか。
とにかくそれをその程度と言って良いのかどうかはともかく珍しいことではありません。
役人の肥大化?
軍人の専横?
身分や人種、民族争い。
これもローマではいつもあったこと。
これが滅びというなら、その底にある原因を知りたいものです。
多神教をやめてキリスト教のローマにしてローマらしさを失わせたコンスタンティヌスの時だ!
分割統治を始めて西ローマ、東ローマとか名乗ったローマはローマじゃないやい!
帝政になったらそれはローマじゃない!
べつにコンスタンティヌスがキリスト教をローマの国教にしたときは、キリスト教徒は30%満たないと言われています。
その後も、一応増えていきましたが別に強制じゃないし。
というか、その時の宗教は「キリスト正教」。
皆の考えている「カソリック」「プロテスタント」というキリスト教とは大きく違うぬるい宗教です。
分割統治も別に制度として皇帝を複数立てただけで、別に「西ローマ国」が分離独立したわけではありません。後世の教科書が便宜上つけた国名です。
帝政、これも皆がイメージする帝政ではなく、単に共和制ローマの延長の制度です。
後年の歴史教科書が後の暴君のイメージの「皇帝」を勝手に想像しただけで、あくまで共和制の延長の「皇帝」。
こっちが元祖。
まあ良いでしょう。
定義などどうでも良い。
こちらの文章の数々で書きたかったのは「人の営み」「人の歴史」。
ローマの歴史などもっと良い文章が本屋にあります。
人の何が変わったのかを焦点にあげるべきでしょう。
そしてそれは「古代」の終り、「中世」のはじまりなのです。
「人類が発達した」「科学技術が発達したから」
それを書くべきでしょう。
#ちなみにこの「科学」というのは政治学や経済学も含まれます
ローマが強固になっていった原因、それが失われて滅びた原因、ローマだけではなく、中国、中東も含めて中世が軒並み暗黒時代になった原因、(日本は別、というか世界が中世にしている頃は日本史は古代です)
古代の人口、産業、文化を支えていたいろいろな旧態依然のシステムが様々な科学の発達で使用できなくなったのです。
たとえば技術が発達していろいろな職業が出来、単純に「農奴」「統治者」という関係ではなくなり、統治システムが肥大化して商業の複雑さに外交や経済、貿易がついて行けなくなったり、複雑な徴収システムで統治システムがパンクしたり、あるいは多民族を巻き込んて治安維持システムがパンクしたり。
中国の破綻はいつもこれ。
これら対応に要する政治、官吏の肥大化で押しつぶされていくのがデフォルトです。
しかしローマの場合はその前にあったのが「軍事学」
ローマの軍事力、というか古代国家の軍事はまず重装歩兵でした。
槍と鎧という装備で固め、指揮官がそれを使いこなし、大人数で戦力を集中し、敵を叩きのめす。
この力は強大でした。
もちろん欠点もたくさんあります。
が、多民族でお金持ち、柔軟なローマの思考はこれらをひとつひとつ解決していき、ハンニバルの騎馬戦術、ゴート人の人海戦術、ゲルマン人の騎馬や焦土作戦や森林でのゲリラ戦、パルティアの弓兵、これらを全て叩きのめし、跳ね除けて逆侵攻をかけ、さらに学び改善して強力になっていきました。
集中による軽快性のなさは間に軽歩兵や投槍兵を配置する散兵戦術でなんとかし、
騎馬を周辺に配置することで機動力のある兵科に対処し、
優れた架橋技術で相手に逆侵入を果たし、
野戦築城によって永続的に守り続ける。
...どころかローマ兵は、その優れた技術で自分の住まう街までつくり、周辺の蛮族との交流で周辺の文明度をあげ、ローマへの取り込みさえ行っています。
ケルト人の殆どはいつのまにローマ人になって農地を耕してます。
ゲルマン人は傭兵としてローマ軍として働いてます。
イギリスのアングル人はさすがに僻地すぎて積極的にローマに取り込んでもらってませんが、神話にまでローマ人の温泉文化が出たり、遺跡がローマ人風の街だったり、充分に文明度を上げてもらってます。
チャーチル曰く「イギリスの歴史はローマが侵攻してきてからだ」
ローマの軍事力は蛮族の社会まで作ったのです。
現在のヨーロッパ都市で、元ローマ兵が作った場所はたくさんあります。
パリ・ウィーン・ケルン・ボン・リヨン・ロンドン..ライン川周辺、ドナウ川周辺は特に多いです。
なにしろここが防衛線でしたから。
そもそも西ローマ皇帝の廃立の二転三転劇は、ゲルマン人のローマへの愛が現れているようで微笑ましい。
あんま無慈悲に侵攻してきた蛮族という態度ではないですよね。
とにかくローマ重歩兵の力、強力さは最後まで保たれました。
一点に大人数を集め、決戦の地で一気に集中して叩きつぶす重装歩兵は無敵でした。
じゃあ、何が失われたのか?
端的にいうと、ゲルマン、フン、その他周辺部族が決戦などしなくなったのです。
優れた騎馬技術の機動力で散発的に弱い防衛戦に侵入し、奪うだけ奪って強大なローマ軍がかけつけると逃げていく、そんな形でローマ帝国を食いものにし始めました。
もちろんローマの優れた文明、文化、技術はそれを跳ね除けました。
似たような機動的な軍(機械ではないので機動とは言いませんが、良く動く軍とでも思ってください。遊撃軍だと別な言葉になってしまうので)を作ることは造作もなかったのです。
が、それでもその全てを守れるわけではありません。
後に日本も含めて各処で行われる運動戦の黎明期といった所でしょうか。
騎馬が侵入しても、ローマがそれを撃退することは簡単でした。
相変わらず勝利しました。
しかし、その撃退場所はローマ内で、いままでの防衛線で撃退していたわけではありません。
その豊穣な土地を幾らかは荒らすことになります。
リメス(防衛戦)で弾き返し、土地や街を無傷で守ることが出来なくなったのです。
さらに機動力のある騎馬兵を撃退するための騎馬兵は人材も財政を圧迫し始めます。
運動戦の典型、自分が勝っているかどうかわからない状態で、勝ち負けもはっきりしないままだらだらと戦闘が続きます。
そして重歩兵が軍政で主ではなくなっていきました。
ローマ市民=ローマ重歩兵
という関係が希薄になっていきました。
そういった軍事技術の変更による次の綻びで次に来たのは「経済」
ローマ帝国は実に低コストで国家を運営していました。
せいぜい税率10%程度、現在の国家に比べても低コストです。
広大な領地も中国に比べるとあきれるほど少ない人数とお金で守っています。
この低コストの運営で民衆は富を持ち、その富を自分のために運用することでより富が産まれ...後に「夜警国家」という言葉が出来、現代ではその言葉は決して良い意味合いではありませんが、少なくともローマは資本主義の基本、自由経済を尊重することで富を得ることだとわかっていたようです。
しかし防衛の綻びで蛮族が侵入することになると、それら地域で安心して生活できなくなります。
また、周辺地域で田畑が耕せないとなると、都市に人口が集中し始めます。
自由経済とは言い切れないアンバランスさが生じます。
古代の産業のほとんどが一次産業であることもそのアンバランスさを激しくしました。
そうなると、それを何とかする為には、その自由経済の「自由」を何とかしなければなりません。
また、その巨大な経済を支える低コストなシステムも組み替える必要があります。
軍事の専門性を高めるために、軍事と経済の流通も阻まれます。
ローマ市民=重装歩兵という関係が崩れ、専門性の高い騎馬の割合を増やさざるを得ません。
税率を上げ、社会福祉を減らし、さらにそれによって役人が肥大化し、社会不安が生じ、スラムができ、産業が縮小して更に税収が下がり...
今の日本が抱えているようなデフレスパイラルが始まります。
ローマは少しずつタガが外れていきました。
ローマの絶頂期、周りの国家が金銀宝石で固めた王や帝王ばかりであったころ
S.P.Q.R(ローマ市民及び元老員の第一人者)を誇りに思うアウグストゥスはオリーブの冠で、世襲制でもない「終身独裁官」(カイザー)の地位に就きました。
しかし、軍事や経済のほころびはローマの全てを変えていきます。
だんだんとGNPに対する軍事費の割合は高騰し、騎馬が主力になるにつれて専門性が増して市民の軍隊ではなくなりました。
徴兵制から志願制、傭兵制に移行による軍政/軍制の変化で ローマ市民=ローマ兵という構図が変わりました。
ずーっと前線に出て(皇帝とはまずローマ軍の司令官だったので)ローマ市民と意識が異なる軍人皇帝がで始めました。
#もちろん、まずローマ皇帝は最高司令官であるからにはそれがもともと問題になるはずは
ないのですが、初めてローマをみる皇帝、軍の都合のみでものを考える皇帝、
あるいは親衛隊という常備軍のみが決めることが「市民の第一人者」とは言えなくなります。
更に軍事費を稼ぐためにあの手この手で税制をいぢりまくり、それが経済の混乱を助長し、それでも蛮族は防げないので農業は衰えまくり、経済は衰えまくり、軍事は衰えまくり...
とうとう後背の地、北アフリカが占領されてしまいました。
碁やオセロで言う角、隅を失ったのです。
低コストでローマを守れる手段の全てがなくなりました。
これら決定的になったのは末期の皇帝、ディオクレティアヌスの頃でしょうか。
完全な防衛をするために専制君主制にし、さらに副皇帝、副副皇帝としてローマを4分割し(いまでいう軍管制というのでしょうか)、更に農民が逃げ出さないように身分を固定化し、高税率の税金を徴収し、土地に縛り付け..
役人の数が単純に考えて4倍必要になりますが、そんな単純なものではなく、無駄なコストでとんでもない統治コストが増えたでしょう。
彼は、自分が一体何をしたか自覚はなかったでしょう。
私も彼を無能とは思いません。
目の前にある問題を丁寧に対処しただけですから。
軍隊上がりの田舎モノらしく、地味に一生懸命ローマを救い、先人を尊重し、強化した軍隊で蛮族を跳ね除け、治安も安定させ...
彼はアウグストゥス気取りで、引き際もローマ皇帝らしく、ローマを救って高潔に引退しました。
S.P.Q.Rの精神を愛していたのでしょう。
しかしディオクレティアヌス自身がつくった国は、もう何もかもがローマとは違いました。
彼は市民の代表でも何でもなくなっていました。
すでにローマ市民は高税率で一生農奴、一生軍人、一生職人、自由な経済で生活などしてなかったのです。
彼の後、
分割した地で副皇帝は血みどろの争い、
「皇帝とはまずローマ市民の第一人者であること」
など誰もが忘れ去られ、他国の王のように権威、権力のみを追い求めました。
ディオクレティアヌス自身も不幸のどん底に陥りました。
権威として、元皇帝の家族は一番の道具だったのです。
権力争いに巻き込まれ、家族は全員殺され、最果ての地で失意のうちに亡くなりました。
ただの専制国家の君主は、「市民及び元老員の第一人者」などではありませんでした。
もう、懐古主義者やディオクレティアヌス以外は、だれもS.P.Q.Rなど気にしなかったのです。
ローマを安定させ、ローマからビザンティウムに遷都したコンスタンティヌス1世はオリーブではなく、金と宝石できらびやかな王冠を戴冠しました。
かっての多民族ローマならではの多宗教ではなく、キリスト教という宗教に権威をもらいながら。
煌びやかなこけおどしし、神から授かった身分、ただそれだけがローマ皇帝となったのです。
以降、東ローマ帝国はただの中世の帝国として数百年生き残りましたが最後はトルコに滅ぼされました。
トルコの人口は1500万人くらい、ローマのライバルであったパルティアよりたいして大きくなっていません。
しかし、もはや一都市しか維持できない東ローマを滅ぼすのには充分でした。
西ローマ帝国は、フン族がトリガで引導を渡されたのは確かですが、その後もローマを懐かしむ蛮族によって、いろいろとドラマがありました。
(ゲルマン人、ゴート人は、あるいはアングロサクソン人は素直に自分達に文明を与えてくれ、かつ受け入れてくれたカエサルとローマが好きだったようです)
フランク王国、神聖ローマ帝国がローマを継承したのかどうかは知りません。
優れた技術、文化は継承したでしょうが、王冠を授けたのは市民ではなくローマ教皇であることが果たしてローマ帝国といえるかどうかもわかりません。
最後の元老院は、東ローマが西ローマに侵入したときになくなりました。
5000万人以上を誇った最盛期のローマに比べ、東ローマ帝国は最盛期でもせいぜい1000万人くらい、
古代都市ローマの最盛期は、しゃれでなく100万都市でしたが、ゲルマン人の侵入で滅ぶ頃はたったの4万人でした。(あるいは数百名だったという話が出てきます)
ローマが存在するころ、全ての技術、文化はここから発信されました。
「すべての道はローマに通ず」
ありとあらゆる技術は彼らが作るか、彼らに与えられるかし、
現代よりも快適かもしれない住居、楽しいお祭り、高度な教育、勤勉な労働者。
奴隷でさえ幸せな記録がたくさんあり、周辺の蛮族でさえ愛した国。
最後のローマ皇帝が去って行ったとき、それは既にローマではありませんでした。
いつローマでなくなったのは当時の人も含めて誰も知りません。
そんな彼らの愛したローマはそっと滅んでいったのです。




