歴史ってなあに?
歴史ってなあに?
と問われるとなかなかに難しい。
「現代と過去との対話」
「人類の未来にとって何がよいのかを振り返るための学問」
「真の原因を求めてそれを広く深くどこまでも追い求めていくはてしない探求」
etc,etc
こんなことを先生に言われた気がする。
なんか哲学っぽい。
そしてこれを鵜呑みにすると
「なんかきっと自分にわからない難しいことがあるんだろうな」
という風に感じ思考停止である。
うやむやにしては今までと同じである。
くやしい。
なのでまあ「歴史」を書いてあるいろいろなものを読んでみる。
実際は事実(だったと思われるもの)の羅列である。詳細で面白くはあるが。
なるほど。
極論すると年表そのものが歴史なのだろう。
「歴」というものを辞書で引くと、「一つ一つ順をおってゆくもの」。
なるほどね。
「史」というものを辞書で引いてみると、「書きしるす」。
ひとつひとつ順でおったものを書き記すことが歴史なら、極論すると年表であるということはあながち間違っていない。
念のため英語の方もひいてみた。
やっぱり「連ねる」とかである。
連ねたものがが歴史なので、年表というのはあながち間違っていない。
でもまあ「ルター宗教改革-1517年」と書かれても、そのものしかわからない。
当たり前か。
いったいこれがどういうものかを詳細化したものはいくらでも文献がある。
わかった気分になる。
でも
これが単純なものの積み重ね?
となるとはなはだ疑問である。
いくら読んでも分かった気分にしかならない。
いったい何の役割を示すのだろう。
今の日本と関係ないものと扱ってよいのだろうか?
これが、人がつらつらと積み重ねていったもののどういう役割?
自分にどうつながっていくのか...
まあ調べたもので結論付けると、これは
「世界史」=「ヨーロッパ史」
である現代の状況を確認しないと位置づけは理解できない。
ついでにいうとキリスト正教とカソリック、プロテスタントの位置づけを理解しないと一体全体、人間にどのような影響を及ぼしているのか理解できない。
そして人間の宗教観を確認しないと理解できない。
そしてじつはそれはとても単純なことだったりする。
きっと歴史学者なら広くも知っているし、詳細にも知っていよう。
だが凡人である私は謎の何かである。
結果だけ見ると偉く複雑で、詳細で、とても単純な何かの積み重ねではない。
さらに現代の事しかわからない私は、きっと現代の続き物として認識しようとする。
本来、耳と鼻があるから眼鏡が発明されたのに
「眼鏡をかけやすいように、ちょうど良いところに耳があり、鼻がある。人間とはなんと便利なところに耳と鼻をつくったものだ」
アホである。だが凡人な私はこんなものだ。
更に、宗教改革を面白おかしく理解するためにはドラマチックでなければならないというルールもある。
もちろん理由は、書いた人が面白おかしくしたいからだ。
つまらない話は相手にされない。
あと学者は凡人に教える先生でもある。
わかりやすくするために、決められた時間に教えるために結果だけを教え、それから説明をつけ食わるのだ。
手段と目的の逆転である。
面白くない、説明しきれない、時間が足りない、説明しやすいために端折る。
それでは一連の流れを見ると前後はブラックボックスである。
その部分は勝手に現代に当てはめて解釈する。
グラフのマジック、個別の説明でおこる錯覚。読み物は結論ありきで資料はそれを誘導する。
たとえばTBSやらテレビ朝日がよくある手だが
「日本は格差社会!」
と言いたいためにグラフを作ったりする。
アメリカと比べ、アメリカが平準で日本はまるで急激にお金持ちと貧乏人が増えたりしている。
グラフをよく見ると縦軸も横軸も無茶苦茶なのに。
「古代」中国、「古代」日本、「古代」ローマ、個々でみると「へー」で感想は終わるが、個々の文献を見ると全然違う年だったりする。
読み物はなんであろうと書いた人が理解しやすくするために誘導する。
そしてどの国も「古代」と呼ばれず時期の年表は杜撰である。現代史の年表は数年単位で書かれているのに、古代史の年表は100年、1000年、下手すりゃ万年単位である。しかも年代を図る測定法も数百年オーダーでずれるのだ。
そしてそもそも世界史そのものが実は歪んでいる。
不思議なことに、なんとなくカインとアベルからずーっとヨーロッパ人の発展を世界史として語っていたりする。
聖書の元となっているアブラハムの宗教が実は北アフリカ人か、あるいはイエメンあたりのアラブ人?ユダヤ人を信じればエルサレムだかエジプトだかを、ぜーんぶ続き物みたいな感じで現代史へと続いているのだ。
一番最初のユダヤ人は実はアフリカ人など教科書では誰も語っていないが。
#実は聖書がエルサレムの物語というのは
とても怪しいらしい。
でもそれ認めちゃったら
イスラエルの建国そのものが
キナ臭くなってくる
そして、その頃のヨーロッパ人はベルギー人だのアングロサクソン人とも認められておらず、ローマの頃にやっと敵役としてベルガエ族、アングル人、サクソン族など蛮人の部族が出てくる程度だ。
ヨーロッパ人はカエサルを同族でご先祖様で友人のように扱っているが。
#誤解しないでほしい。
べつにヨーロッパ人の友人は、
ほぼ全員、自分たちがローマ時代は
蛮族であったことを知っている。
あくまで教科書の話だ
なぜこんなことに?
もちろん最後の100-200年でヨーロッパ人(欧米人)が勝ったからだ。
ほとんどの時期はヨーロッパ人が主人公でないのに。
旅番組でヨーロッパ観光地の紹介
「古い町並み」
「歴史ある古城」
「年月を感じさせる重み」
とかそういうのを知ると違和感を感じる。
シンデレラ城とかのデザインが何年製で、何を目的に作ったのかを考えると目を剥く。
あれの元になった「ノイシュヴァンシュタイン城」は19世紀に建築されたものだ。
城、要塞ではなく宮殿、別荘。
鉄骨組みのコンクリート、モルタル製で装飾過多、お客様のご招待や外交以外は使えない。
どころか構造上冷暖房に不備があり、とても上出来な建物とは言い難い。
現代人はあれを「古城」としてロマンチック街道のゴールでありがたがっている。
真実は知らない方が良いことはよくある話だ。
高校時代に言われた
「人類の未来にとって何がよいのかを振り返るための学問」
と考えるのならば、個々の詳細を調べるだけでは凡人は理解できた気分にしかならない。
単純な理屈とその積み重ねが欲しいものだ。
なのでこういう観点でいろいろ整理してみた。
・過去を現代から巻き戻した形では見ないこと。
現代がこういう状況だから過去はこうに
違いないという思い込みは目が曇る。
・歴史を語るとき、その一項目を
理解させようと誘導が行われる。
更にドラマになると
面白おかしくしないといけない。
銃を持って馬を駆るインディアンなど
滅多にいないのだ。
馬も銃もユーラシア大陸から持ち込んだものだ。
・グラフの縦軸と横軸は気にしよう。
日本が古代で万年単位の軸、
中国の漢帝国は10年毎のイベントとか
当たり前のように同列で語られる。
そして万年単位の歴史イベントなど
誤差たっぷりだ。
・まるで地球が産まれてこのかた、
ヨーロッパ人が語っているように見える。
じつはヨーロッパ人が主人公だった時期は
ほとんどない。
私も日本人なので、日本人の歴史を中心に
考えてしまうが、日本が世界に
注目されたのは何度もない。
こういう観点で私にもわかる単純ななにかを見つけ、取捨選択し、積み重ねていくと、今までと違う過去が見えてくる。
もちろん、なんかそぐわないと捨てた説とかあるし、間違っているものを理解しやすいという理由で採用しちゃったものはたくさんあるだろう。
それは仕方ない。
所詮私は歴史学者ではない。凡人なのだ。
だがそれが本当にあっているか/間違っているかは、たとえ本職の歴史学者でもわからないだろう。
それは多少凡人には慰めになる。
数十年生きてきただけでも歴史の教科書はどんどん変わっていく。
測定法、誤差、やっぱり間違ってました。
そういうのもたくさん聞いた。
実際にそれが検証出来るのは2112年あたりに猫型ロボットが出来るくらいだろう。
その時期が来るまで生きられるか、あるいは自分の机の引き出しから猫型ロボットが出てくるのを楽しみに待つことにする。