戦争の夏
さて、たった半年で3割近くの戦死者を出した1914年が終わり、1915年も戦争が続きます。
皆さんのイメージの戦争はここら辺から始まっています。
まずは簡単な戦線を報告していきましょうか。
・アフリカ
引き続き小競り合い、、というには激しい戦闘が続いています。
ドーゴランドやカメルーンに侵攻、それ以外でも散発的なゲリラ戦。
もっとも少数で、兵器も微妙。
そもそも正規軍が来れば鎧袖一触、どころか巡洋艦一隻でひっくり返るような地域なのであまり語るところはありません。
・南部戦線
イタリア参戦、ブルガリア参戦でぐちゃぐちゃです。
セルビア分断されました。
後年に遺恨を残す結果ですが、別にこの地域は1000年前からぐっちゃぐちゃなので特筆すべきか迷うところです。
アルプス挟んで山岳戦とか始まりましたが大勢に影響はないと、、言い切れるのか?
ないとは言えませんが、最終的に終戦まで一進一退の地域です。
・オスマン帝国
ロシアを助けることと、帝国の切り崩しのためにガリポリの戦いを発動させます。
陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦。
近代的な上陸作戦としては世界初と言われてますね。
が、失敗します。
失敗した理由は、、、まあ先進的すぎたというところでしょうかね?
・機雷は排除できず、海軍はポンポン沈む
・上陸するやり方が泥縄で5カ所のうち橋頭堡が得られたのは3カ所のみ
・上陸はしたものの、塹壕、機銃、大砲、防御力過多のこの時代はこれ以上侵攻できず
ここは戦争としては画期的なことであり、私もここら辺の本はたくさん読んでます。
が、このタイトルからみた戦争の影響としては「ほぼなし」
上陸の失敗で協商連合は30万人も犠牲出してます。
オスマンの方も25万人
、、他の戦線に比べて少ないっすね。
しかもこれ以降、、、今までも、、オスマンはドイツのお荷物です。
イギリスに喉元ナイフを突きつけられ、ロレンスさんは散々と放火をし、何の役にも、誰の役にも立たずに滅びます。
合掌。
一国の滅びも、結局主戦場は西部戦線なので戦争の影響なしは悲しい。
あとオスマンではアルメニア人虐殺、アッシリア人虐殺が始まります。
ここらへん、ポグロム、シュシャ、イスラム教徒とキリスト教徒の虐殺として後年の歴史として残っていますがどうなのでしょうね?
タラート・パシャ「世界大戦を利用して内部の敵、すなわちキリスト教徒を外国の外交介入なしに廃除する」
という言葉だけをとらえれば宗教戦争ですが、別に他のキリスト教徒は追い出されていないし、教会は別に壊されていないので何とも。
実は14世紀あたりから定期的にイスラム、オスマンはこういう事件は起きます。
異教徒に寛容なイスラム国家、王もハーレムで何代も続いた異国の美姫のおかげでほぼ外国人、そもそもペルシア(パルティア)を異教徒殲滅戦争で奪い取った宗教国家、でも中東は拝火教、キリスト教、ユダヤ教、様々な砂漠の部族のごった煮自然宗教、とにかく寛容でなければ先進国ペルシアを統治できません。
が、殲滅戦争まで起こしたイスラム教徒は自分の国家としてもプライドもある。
異教徒優遇しすぎると暴発します。
14世紀から現代まで、キリスト教徒の排除はいつでも「あまりイスラム教徒以外を贔屓しすぎではないか?」的な意志やデマ、不満がトリガ。
そしてそこで政治的にイニシアチブ取りたがる過激派がそれに乗ずると。
で、最終的にはその過激派がスコープにあたり「イスラム教徒全員がキリスト教徒にテロを起こしたんだ」的なことになり、一部に真実があるので微妙な感じとなると。
常に過激派が笛を吹いて暴発するのです。
でも言う程支持はない、支持はないのでより過激化して自分の吹いた笛で、より激しく踊りまくる。
現代ではIS?
西側はアラブ全体に見えてしまい、民衆は搾取者の彼らに賛成するわけないがイスラム教を盾に取られて反対し難く、政府は過激化するまで手が出せず混沌の時代は少数なのに主流派になっちゃったり迎合したり(投票率が低い時期の民主党?)、数字だけみるとそんな世界を想像してしまいます。
ここら辺、イスラム教徒、元イスラム教徒の同僚に聞くと何とも微妙な顔をします。
しかもイスラム教徒は自分との契約なんで解釈も様々。
そもそも日本でカツ丼食うのはたいていの人は有りらしいですよ?
偶像崇拝もいろいろな解釈。
親がイランから亡命し、現イラン政府が憎くてしょうがない同僚に聞いたら「現在の宗教国家イランも普通にキリスト教会あるで?」だそうな。
どう解釈するかとか日本人にはわかんないですね。
何にせよ、WW1の文献は様々、こんな感じ。
・オスマン帝国はキリスト教徒を排除しようとしていた
・ロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきた難民問題である
・そもそもアルメニア人が行ったイスラム教徒の虐殺が最初である
・100万人殺した情報そのものがプロパガンダで嘘である
さて、あなたはどれを信用しますか?
スパイが飛び交っている情報戦の地でもあるので何が真実か、何が嘘かはなんとも言えません。
何にせよ、アルメニア人とアッシリア人が殺されました。
ロレンスさんその他が放火してそこら中が部族単位で争いが起こり、国が瓦解するまで混沌が続きます。
ちなみにドイツも「キリスト教徒殺すから!これは国内問題だから!」と言われて困惑しています。
結局、同盟は維持しますが。
ここでもドイツにはお荷物、イギリスはこここそ戦意ましまし(というかイギリスの本当の目的はこちらなので)、フランスはどうでも良いがイギリスの協力はする、ロシアは侵攻の理屈をつくってくれる、誰が考えてもオスマンは選択を間違えてしまいましたね。
といってもそのロシアはもっと不幸ですが。
・東部戦線
ロシア人が死にます。
二月にドイツ人が第二次マズーリ湖攻勢が発動しました。
ドイツ人犠牲者1万6千人、ロシア人20万人、ロシアは東欧から追い出されました。
五月にドイツ人がゴルリッツ=タルヌフ攻勢を始めました。
ドイツ人犠牲者9万人、ロシア人55万人。
ガリツィア(ポーランド)からロシア人を追い出しました。
六月ブク攻勢、七月にナレフ攻勢、最終的にポーランド、リトアニア、そしてクールラントの大半からの大撤退が開始され、ロシア人はこの期間、100万人以上の将兵や民間人が死にます。
それでも戦線は続き、ロシアはそのまま更に大兵力を貼り付け、ドイツは西部戦線に集中できず、、なんてロシア人は命が安いのでしょう?
後に首長であるニコライ2世とご家族がこれでもかというほど悲惨に惨殺されますが、まあよくわかります。
たとえ権力者であろうと、民衆であろうと、過去であろうと、現在であろうと、今のロシアも含めてロシア人には絶対になりたくありませんね。
・西部戦線
パリまで70kmまで、一時的には東京から成田より短い50kmまでドイツは進軍できましたが、ここで英仏の死ぬ気の反撃、ドイツ軍の混乱でエーヌ川まで押し戻し、膠着状態になりました。
パリから130kmくらい?
この後、塹壕戦に突入します。
膠着状態後、基本ドイツは守勢です。
目論見としては「東部戦線でロシアを早急に解決し、その後に全力で!」。
数個師団を東に送り、目論見どおりにロシアを押し返し、目論見どおりにロシアに多大な犠牲者を出し、、しかしロシアはここまで犠牲者を出しても戦力を貼り付けたまま、常識外れの計算違いで戦線の一本化は無理でした。(いや南部戦線もセルビアもアフリカも太平洋もあったのですが大きな影響を与えていない)
そういや第二次世界大戦も似たような感じでソ連に手を出しましたね。
この場合はイギリスが最初の計算違いですが。
が、この年のドイツが西部戦線で守勢だったのは良かったかもしれません。
日露戦争で防御側過多とは知っていましたが、ここまでとは思いませんでした。
3月に協商連合はドイツに第一次シャンパーニュ会戦を仕掛けます。
ドイツの塹壕としてはとてつもなく稚拙なものでしたが、押しのけました。
協商連合の犠牲は1万2千人(イギリス7千人、フランス4千人+その他)
ドイツは1万人
塹壕とは爆風や弾が一番当たる身体をかくし、でも伏せるだけだと射撃が難しいので穴掘って立って撃てるようにした。
それだけですから効果あるのは当たり前と言えば当たり前ですが。
ついでに犠牲者も少ないです。
後のジェームス・ダニガン「戦争のテクノロジー」という本で、後の結果を数字にしただけの結果論ですが、、被弾率1/1000の効果があるそうです。
攻撃側の犠牲が少ないのも当たり前ですね。
イニシアチブは攻撃側なので、好きなときに止めれます。
追撃も出来ますが、、これも日露戦争で証明済みですね。
日本が攻めて多大な犠牲を出し、その成果を享受するためにロシアが追撃したらロシアが壊滅。
妙なにらみ合いが始まります。
4月に第二次イーペル会戦をドイツが仕掛けます。
毒ガスで有名。
致死性のある塩素ガスでハーグ陸戦条約に違反したモノ。
フランス)第87師団、第45アルジェ師団が恐慌を起こしました。
実にこの会戦の犠牲者は10万人。
塹壕戦でまれな事象、攻撃側ドイツは犠牲が少なく3割以下。
ドイツ勝利です。
現在も言われる
「悪逆非道」
「ドイツは悪魔!」
「新しい戦争が始まった!」
NHKが大好きなネタです。
当時のプロパガンダもすごかった。
何万人も犠牲!
毒ガスは悪魔の兵器!
ちなみに毒ガスの死者は1200人、負傷者3千人です。
しょぼいですね。
ベテランの軍人に言わせると
「あれは自然災害みたいなもん。天変地異の方がよほど怖い」
逆風でドイツも死者出しました。
それ以外の犠牲者は恐慌状態で逃げてった人達です。
塹壕は強力だったので逃げてった人以外で持ちこたえ、前進はほぼ出来ませんでした。
5月に英仏が第二次アルトワ会戦を仕掛けます。
連合国軍の犠牲11万人、ドイツ軍は7万5千人。
ほぼ効果ありません。
この頃になるとドイツの塹壕は豪華になりました。
コンクリ、水はけ、物見、土嚢。
ジグザグにして大砲に一部が吹き飛ばされても一部しか影響でないようにしてますね。
大砲の爆風や破片は曲がるの難しいですし。
そして二重の前進陣地を作って一列目の火力を補完し、二列目が一列目の穴を埋め、一列目が破られても二列目が対応できる。
一列目に邪魔されて二列目の観測が出来ないので
予備の概念を塹壕にまで推し進めます。
さすがドイツは戦争巧者ですね。
フランスの定時に突撃、死者バタバタとは一味違います。
尤も、この頃から「歩兵の仕事は8割が塹壕掘り」と言われるようになります。
ついでに、敵の砲弾や銃弾より伝染病が怖くなります。
地面掘ったらそこに水がたまってジメジメします。
水はけ最悪でしょうしね。
5月、イギリス軍の進撃でヌーヴ=シャペルの戦い。
たった3キロの前線に4個師団がひしめき合い、イギリス軍による530門21万発の砲撃。
失敗しました。
予備部隊の使い方が巧いドイツ軍でもありますが、そもそも砲弾の備蓄1/3を射耗しても前進できなかったのがメインでしょう。
西部戦線の鉄道は、兵士よりもまず弾薬。
そしてそれでも足りない状況になりました。
その後も第二次シャンパーニュ会戦、第三次アルトワ会戦、ぜーんぶ失敗しました。
「協商国の部隊は数十メートルの前進のために25万人までの損害を受けなければならなかった」
犠牲者が前年より格段に少ないですが。
あと「協商国」「連合国」と使い分けられ始めたのは、日本、カナダ、イタリア等々、英仏露の協商条約以外の国が参戦し始めたからです。
トピック1「疲弊」
英海軍が制海権を握っている+戦争物資の激増のためにドイツは疲弊します。
実は「英海軍のせい!」「通商破壊戦」とか識者は言ってますが、第一次世界大戦の技術ではそんなん上手くいくわけないです。
普通にこれっすね。
食糧政策の失敗+各国と仲悪くなって貿易滞る+戦争資源の激増+売り渋り
10月、11月には暴動が起こりました。
穀物、パン、バター、ポテトの値段が上昇し、農民も売り渋り始めます。
化学肥料も火薬作るために材料が足りなくなり、激減します。
価格統制が始まりましたが、そもそもそんなの上手く行くわけなく、闇市が出来て更に物資の供給が滞ります。
新聞は嘘ばっか書くようになりました。
デモで逮捕された女性とか戦後まで公開されませんでした。
『食料をくれ!それから、私の夫も!』
トピック2「Uボート」
英海軍に対抗できないため、ドイツは1915年2月4日「商船に対する潜水艦作戦」を宣言しました。
英国封鎖。
まあ第一次世界大戦の技術では無理ですね。
日清戦争でも、日露戦争でも、本当の通商破壊戦の犠牲は微々たるモノでした。
双方、普通に日本海でも東シナ海通して兵員を船で送ってます。
そしてその後も「索敵」という点では大して技術が上がってませんし。
というか、そもそもお互いやる気のある軍艦同士の補足さえままならない時代ですから。
海上船でもそうなのに、索敵に難ある潜水艦はもっと上手くいきません。
「中立国船舶は狙わない」
とか言ってましたが無理っすね。
5月7日、イギリス客船ルシタニア号を撃沈しちゃいました。
アメリカ人200人以上が乗船してました。
子供100人死んじゃいました。
アメリカ人127人を含む1,198人が死んじゃいました。
その後、ヴィルヘルム2世が「潜水艦は中立国の船舶と大型旅客船を撃沈しない」とか約束しちゃいかしたが無理ですよね?
ティルピッツ海軍元帥とグスタフ提督は辞表を出しました。(拒否されましたが)
阿呆な上司をもった不幸って奴ですね。
「やるかやらないか」
という奴を明確にせず、現場の「無理!」は聞こえず、都合の良いことだけを言い、無茶は全て現場に押しつける。
現代の日本の会社あるある?
ドイツ人は真面目ですしね。
この頃になるとヴィルヘルム2世の駄々っ子ぶりが評判になり、いったい何のために戦争をやっているのだろう?と疑問を持ち始めます。
まあフランスはもっとひどいのですが。
こんな感じで「戦争の夏」が続いていきます。




