日露戦争緒戦
すいません。
年明けから仕事がだだーっと舞い込んできてずいぶんと遅れた投稿になってしまいました。
いつのまにずいぶんとPV数が増えているのに、、
不定期で遅筆でほんとすいません。
1904年2月6日、国交断絶。
1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃で日露戦争が始まりました。
ロシアの戦争目的。
とにかく民衆に負けたと思わせないこと。
そのために朝鮮半島の権益を守ること。
満州の利益を守り、かつイギリスに口出しにくくすること。
扱いは現在の北方領土問題と同じイメージでしょうか。
好んでド田舎な極東に来る人は少ない。
貧乏どころかかなり悲惨な生活。
産業は漁業だけ。
シベリア鉄道もモンゴル(満州)への入口のイルクーツク(のちょいと先のウランウデ)まではそれなり典型的なロシアですがその後は未開発が横たわります。
ウラジオストックは大都市ですが、まさにアメリカ太平洋艦隊との対抗、ベトナム、北朝鮮の支援のみで存在していた軍港都市、孤立しており今も産業育成に苦慮しています。
日本と結べれば別な価値も生まれるし、天然ガスやら北極資源、本国へ回すのは遠すぎる資源が売れれば万々歳です。
なにせロシア貿易の輸出の2/3はエネルギーですから。
モスクワの連中は日本に興味はあっても北方領土の産業など気にしていません。
でも、日本に妥協したとたんに支持率は一気に下がります。
まして北方領土に米軍基地なんて置かれた日にゃあ。
力がすべて!
対立しないほうがお金になっても、弱気な姿を民衆に見せたら即、支持率が下がる。
そんな苦慮している事情は日露戦争も今も変わりありません。
じゃあ日本は?
防衛の要、朝鮮半島を取られちゃかなわん。
中国人にはわからん感覚ですが、同じ東洋、中国人や朝鮮人が朝鮮半島に居座っても何も問題ありませんが、欧米列強、アヘン戦争で中国をめちゃくちゃにしたくずどもだけはまかりならん。
イギリスにも言いたいことはいろいろありますが、まあそんな感じっぽいですね。
満州撤兵を反故にしてイギリス様を裏切ったロシア許すまじ、それを理由にしている本も多いですね。
実際は、、
伊藤博文公も言ってましたが
「朝鮮半島なんていらなくね?」
まあそれを証明する機会は永遠に失われましたが。
だって取っちゃったし勝っちゃったし。
そして「ロシアがんばれ!」と叫んでいた独仏はだんまりとなりました。
案の定ですね。
まあ日英同盟が「二国間になったら参戦するぞ」ですから、参戦されてもロシアは困るのですが。
イギリスは超日本を応援します。
というか自分たちがやらなければならないロシアとの対立を日本が肩代わりしてくれるのです。
日英同盟はこれだけでもお買い得でした。
ということで戦争がはじまります。
最初は旅順港攻撃
とりあえず兵を船で運ぶ日本軍は、強力な本国艦隊が来るまでに、まだ弱小な旅順艦隊を叩いてみようと仕掛けました。
日本側
戦艦6
装甲巡洋艦6
防護巡洋艦12
駆逐艦19
ロシア側
戦艦7
装甲巡洋艦1
防護巡洋艦8
駆逐艦18
ロシア側は4隻沈没、損傷艦多数、一方的に負けました。
尤も、ロシア側はやる気があまりなく、日本が8度も攻撃しても誘引できず、決戦をしかけられなかったので旅順艦隊は健在のまま。
ロシアの基本方針は
「本国艦隊を待つ」
実現しました。
なので日本海軍が勝ちましたが目的を達成できたとは言い難く。
ロシアも戦闘レベルではともかく、戦略レベルでは「負けていない」
その後、制海権があるのだからと封鎖して無力化を試みましたがこれもかなわず。
4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死。
5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈。
どっちがどう封鎖したのかされたのか。
というか、この時代の制海権、封鎖はローマ時代と違ってあんま自由にできなそうですね。
日清戦争の時も、日本が海戦で勝利しても清は平気で兵員を輸送船で急派させてますし撃滅できてません。
帆船ほど無補給で気長に待てず、陸上からも無敵には程遠い、海上出たら現代の海戦のイメージな飛行機やらレーダーやらで捕捉できるかというとそうでもなく。
お互いがその気になったから海戦が出来ますが、そうでないとただの船を捕捉するのも一苦労です。
ナポレオンのころのドレイク提督も、民衆が反乱するほど貿易に制限かけられるけど封鎖には程遠い。
1898年のサンチャゴ・デ・キューバ海戦を参考にこの作戦を試したらしいですが、この海戦だって結局誘引できたからこその米軍勝利なのだし。
そんな感じで 日本海軍 VS 旅順艦隊 は痛み分けというか、制海権というか艦隊というか
「存在するだけで相手方は苦慮する」
という海軍力の考えだとロシア有利と考えてよいかもしれません。
だって日本側は旅順艦隊がああしたらどうしよう、ああなったらどうなっってしまうのだろう、悩むし、その悩みは作戦指揮に影響します。
まあ一方で割り切って
「日本は制海権とって兵隊を安全に大陸に輸送した。目的を果たした」
で良いのかもしれませんが。
仁川に第十二師団が無事上陸を果たし、朝鮮を威圧しながら進軍、後顧の憂いをなくしました。
トピック、1866年にイギリス・オーストリアで発明された魚雷は、以前からしょぼしょぼと活躍していたし、日清戦争でも使われましたが、本当に「役立つ」と認識されたのは日露戦争かもしれません。
初の実戦は1877年と言われていますが、遅い、当たらない、でも一撃がすごい。
命知らずな日本海軍は、遅い、当たらないなら当たるまで近づけばよいと肉薄し、
奇襲、小形艦での襲撃、勇気ある肉迫、一撃で沈没、大活躍して後の伝説にもなる
水雷戦隊のはじまりはここから。
一方でロシアもウラジオストック艦隊は積極的に通商破壊戦を仕掛けていますね。
現在と違って、、現在は落ちぶれたか?、まあ後年の太平洋艦隊の栄光のイメージと違ってド田舎な弱小艦隊。
戦果は輸送船二隻撃沈、一隻大破。
兵隊の犠牲は1000人。
1%も満たしません。
WW2以降の通商破壊戦、いったん船団が捕捉出来たら2会戦分以上の戦争資源が失われれるような悲劇とは程遠いものです。
日本の迎撃艦隊は捕捉できず無駄足。
弱小ウラジオストック艦隊的には大金星ですが、なにかこの時代の海戦を象徴しているようです。
狭い日本海で何週間も動き回ってこれです。
なかなか会敵できないのです。
ちなみにそのとき取り逃がした上村彦之丞中将はあほな国会議員に「無能」呼ばわりされ、民衆は自宅に石投げいれました。
かわいそうに。
中途半端な似非知識人がいる近世、近代は魔女狩りを誘発するものです。
、、近世、近代でない現代でもね。
そのくずな国会議員の程度も含めて現代の日本を彷彿させます。
日本はこの程度なのでしょうね。
陸戦での初戦は「鴨緑江会戦」
ロシア軍ザスーリチ将軍は日本をなめてた。
兵を分散させ、適当に当たり、、同じ武器を使って同じ戦術を習っているのになめてますね。
鎧袖一触でした。
次の会戦は「南山の戦い」
朝鮮を平定しつつ海軍が封鎖、、しているつもりの旅順へ進みます。
満州まで続く交通の要衝、その地域で最大規模の旅順艦隊、主力の部隊、要塞を叩き潰さねばなりません。
遼東半島にさしかかる南山で戦いが始まります。
倍の兵力を叩きつけたのに思わぬ出血をしてしまいます。
半ば要塞化、塹壕戦、機関砲で守備を固めていたら全く違う戦の様相を示しました。
緒戦で10%もの出血。
攻め手は死屍累々。
そのまま続けていたらあっさりここで負けていたかもしれません。
正直、勝てたのはロシア側がはじめっからこの会戦は半ば捨て石で後ろに下がったからっぽいです。
悪戦で乃木将軍のご長男、勝典君が戦死しました。
無能ではないが、大して有能な戦いっぷりでもなかった奥将軍はなぜか「南山の奥」と英雄扱いされます。
ほんと、日本は適当な連中です。
中身見てない。
犠牲が多すぎる理由もとっても象徴的です。
更に奥将軍は進みます。
「得利寺の戦い」
日本軍3万、ロシア軍4万
しかもロシア軍は守備側。
奥将軍、相手が有利にもかかわらず積極的に陣地構築前にロシア軍を踏みつぶします。
あっさり勝ちます。
こちらは有能っぷり目立ちますね。
即決即断、前の戦いもきちんと参考にし、素早さは大抵の欠点をなくせることをご理解なさっている。
また、陣地があるなしでここまで違うのもびっくりです。
「南山の奥」ではなく「得利寺の奥」と言いたいくらい。
あとロシア軍に勝てた理由の一つが、ロシアに倍する大砲を大量に投入したこと。
これも象徴的だったりします。
これ以降、日本陸軍はどんどん火砲の扱いを習熟します。
これでロシアは旅順要塞を見捨てて後方へ。
満州こそ大事なロシアは旅順などプロローグですからね。
遼東半島は孤立し、旅順以外は日本が支配し、旅順艦隊は目の前になります。
旅順に籠る部隊は孤立。
どうやっても旅順だけは確保できそうな雰囲気になってきました。
「朝鮮半島の確保」という日本の目的も半ば達成されます。
ここでの注目点は「技術戦としての日露戦争−日本陸軍による技術革新期への対応 - 防衛研究所」を見ると面白いです。
日本人の良い点「教養がある」「職人」「器用」「現場主義」がぽろぽろ出てました。
特に火砲で顕著です。
小銃は両者ともにほぼ同等、どころか日本の方が新しいのですが火砲はロシアに徹底的に劣っていました。
特に野戦軍の主力火砲であった速射砲は、連射速度は日本はロシアの1/5.
射程も公称では200mほど劣っており、実戦ではさらに1000m 以上もの差が生じていました。
しかし砲架の改造、装填の仕方、可動部分の改造、砲弾の輸送運用、他種の転用、次々と工場、整備、現場で改善していきます。
無線もない時代、、というかまだ十分に使えない時期の間接射撃の手順もどんどんマニュアル化し、しかも軍団を飛び越えて奥将軍の部隊が改善したものが乃木将軍の配下へ、黒木将軍の配下へ、野津将軍の配下へ、マニュアルが出回る前に手順がどんどん変わっていきます。
ほんの短い間に火砲の集中運用、全体の数が少なくても会戦時の数は上回る、性能が劣っても技で改善、さすがです。
別に間接射撃も火砲の運用も欧米のほうがよほど歴史が古いですが、欧米各国が参考にしています。
今でも米軍の203ホテル(大型火砲の砲兵部隊)より自衛隊の155ホテル(ちっちゃい火砲の砲兵部隊)の方が頼りになりそうとかなんとか。
私はどちらかというと米軍の方を贔屓目に見てしまう職務経歴なのですが、こと性能の劣る兵器を十全に使いこなす日本人の職人技はすごいものです。
最初っから日本人は日本人ですね。
さて、2月から始まった戦争はとうとう8月になりました。
旅順が孤立し、戦略的にはどうやっても旅順は失われる(っぽく見える)状況で、虎の子の旅順艦隊をウラジオストックへの回航を目論みます。
「黄海海戦」
尤も、はじめっから逃げ腰、不利な状況、悲惨なことになりました。
旗艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻は膠州湾に逃げ込み、そこを支配しているドイツが抑留。
防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻は上海、防護巡洋艦「ディアーナ」はサイゴンでフランスが抑留。
防護巡洋艦「ノヴィーク」は樺太まで追いかけられて撃沈。
駆逐艦一隻座礁。
駆逐艦「レシテリヌイ」は日本軍に拿捕される。
応援に駆け付けたウラジオストック艦隊も撃破される。
戦艦「ペレスヴェート」だけはなんとか旅順に帰還できましたがぼろぼろの状態です。
実は戦艦セヴァストーポリも封鎖のあおりで動かせない状態、、主力艦なし、事実上旅順艦隊は壊滅してます。
日本軍はそれに気づいていませんが。
ちなみに、家に石投げられた上村中将は見事にウラジオストック艦隊を打ち取り、最後まで砲撃を続けていた巡洋艦リューリクの乗員を救助した美談も含めて国民から称賛されました。
掌返し、、日本国民、手首くるくるしすぎです。
「上村将軍の歌」が生まれ、長く日本海軍将兵に愛唱されました。
上村中将はこの歌は大っ嫌いだったそうです。
気持ちわかります。
現代日本とそっくりですね。
こんな感じで緒戦は「日本TUEEE」という程でもなく、「ロシアYOEEE」というわけでもなく、でも後の方向、どころか軍事技術の変遷や現代日本を現す象徴的なことが続くまま粛々と日露戦争が続くのです。
そして最初のクライマックス
「旅順攻囲戦」
次回はこの話を。




