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人間の歴史。  作者: TAK
20世紀に入る前に
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堕ちてゆく中国

さて、前回に続き中国の話を。


20世紀に入る前後に限っては、実は中国は堕ちてないというのが前回の主旨ですが...ヨーロッパは産業革命で桁外れな経済力と、それを背景とした桁外れの科学、文化、軍事力を手に入れましたが、そもそも中国が桁外れだったし。

本当に引き離されるのは「第二次産業革命」とその後の列強たちの動きで、特に軍事力で致命的に差が付きます。

その原因は多分ですが日本。

その時こそ中国はドツボにはまりますがまだまだいけてます。



と言いつつ、それは後から数字を見て言える話。

当時の誰もが、「中国は負けた」「世界は列強に言いようにされる」という危機意識が蔓延し、中国自身が「中国はもう終わりじゃね?」という気持ちと政府の惰弱さに憂いています。

今回はそんな話を踏まえての中国の動きを。




そもそも現代の中国をイメージしての元祖を考えると、農奴と為政者という関係は、自分たちが一欠片くらいしか「漢民族」という遺伝子を持っていないに関わらず「漢民族」を自称するだけに「漢」、、正確にはそれを作ったのは「秦」ですが、、それが元祖です。


しかし「~アルネ」とかの「華僑」、したたかな中国人、巨大な都市「北京」、太ももがちらりと見えるチェイナ服のお姉さん、雑多で宗教ごたまぜで節操がないけど面白い「西遊記」や「水滸伝」、とかのイメージは元をたどるとモンゴル人が作った「元」と言えるでしょう。


チンギスハーンが活躍した時、彼らの傍らで頭脳ブレーンとして働いていたのは漢民族やモンゴル人だけでなく、女真族、オアシス国家、イギリス人、南冥人、紅毛アラブ人、多岐にわたります。

そしてその子孫)クビライハーンがつくった大都(北京)も多民族の商人がひしめき合い、運河を渡って北京に直接物資をやりとりしていた多民族の都市でした。

それこそ都市の北半分はモンゴル人の住まいであるパオが並び、西側はオアシス国家に続く道、航路は北はロシアや北方領土、日本、朝鮮半島、南はベトナム、タイ、インド、アフリカ、ヨーロッパ、北欧まで続く長大なものが続いています。

紅毛アラブ人に習い、中国人も商業に乗り出します。

当初こそ商業は国に許可された大商人のものでしたが、それだけにとどまらず、アラブ人の小舟の大量生産で、その気になれば誰にでもなれる状況にしています。

とっても活況だったでしょう。



しかし、当然多民族国家は争いがおこります。


たとえば紅毛人アラブの官吏に搾取される農奴、モンゴル人に専売される生活必需品、胡人オアシスに独占される貿易路、まあじくじくとモンゴル人の元首に反感を持ちます。


そしてモンゴルの「血統を維持する」ことに頓着しないというか、危機感がないというか、元王朝もぐっちゃぐちゃ。

1307年、テムルが子を残さずに死ぬと為政そっちのけで権力争い。


チンギスの母ホエルン、皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンの元の宮廷貴族、テムルの皇后ブルガン、テムルの従弟にあたる安西王アナンダ、カイシャン、弟アユルバルワダ、コンギラト部出身のアユルバルワダの母、ダギ・カトン、トゴン・テムル、アスト親衛軍の司令官であるバヤン、エル・テムル、ヤンの甥トクト、その他カタカナがいっぱい。

私は興味ありませんが興味あったらGoogle様に固有名詞入力して検索して下さい。

たくさん出てきますが一行目で読む気を失いました。

13年の間に7人の皇帝が交代したということだけは言っておきましょうか。




モンゴル人が支配したロシア、中東、中央アジア、全部がぐっちゃぐちゃですけどね。

多くの美姫を抱いて、万人近くの子を成すモンゴル人らしいというか何というか。

後先を考えねえなぁ。


そして為政も雑で、、まあ巨大国家ですし、、飢饉もまともに対応せず、ペストまで蔓延し、それで起こった反乱が「紅巾の乱」。

元々は「白蓮教」という仏教の一派が起こしましたが、なんか全然関係ない人が「俺も!」「俺も!」とのっかり、大勢力になって、なんか「朱元璋」という人が統一して「明」という王朝を立てました。

ちなみにこの人は後に白蓮教を邪教として滅ぼしたので、切欠だけで宗教なんてどうでも良かったのでしょう。


ちなみに「元」はこんなんなっても宮廷を争い、そのまま居を北に移し、あいも変わらず争ってます。

大都を捨て、クビライの子孫だのアリクブケの子孫だのと争い、そんな状況で明は「もう元は中国の王朝じゃないよ!」と勝手に宣言され、勝手に「北元」と言われ、蚊帳の外になりました。






ということで「明」は北方に「元」を残したまま不安定なまま新しい王朝となります。

政策は、、まあ元と同じですかね。

今まで通りに「為政者」-「農奴」を維持しつつ、商業を奨励しつつ、過去の物産による年貢は復活せず、貨幣、紙幣の文化をそのまま残しつつ「税金」を徴収します。


北はモンゴル、西は胡人、南はベトナム、海は日本(倭寇)に悩まされつつ生きてます。


為政的にはモンゴルの蛮勇を残したまま、官吏は何かと「懲罰」「死刑」の影におびえつつ、事なかれ主義になりつつ、結果的に夜警国家みたいな感じになります。

今でこそ「夜警国家」は社会福祉を大事にしない悪い典型に思われますが、自由貿易という観点ではむしろ良い方向で発展してますね。


「鄭和の大航海」で海にのりだし、東南アジア、ベトナム、ジャワ、スマトラ、インドと親密になり、貿易は海が主役になります。


貿易国家らしく発展も雑多で、


学問は「朱子学」「陽明学」やら、


宗教は新たな「キリスト教カトリック」がもたらされ、


文学は「唐詩選」「金瓶梅」「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「牡丹亭還魂記」「永楽大典」など世界的な大ベストセラーが刊行され、


科学も「農政全書」「幾何原本」西洋暦法「崇禎暦書」、薬学者李時珍による「本草綱目」工芸技術本「天工開物」など、超帝国に恥じない発展を見せてます。



まあこんな感じで幸せそうに見えます。

が、北はモンゴル、西はティムール王国、南はベトナム、海からは日本に悩まされ、圧力が凄いです。

日本で秀吉が起こした「文禄の役」「慶長の役」は対「明」への戦争で、朝鮮半島は通り道ですからね?


そんな弱々な国家なので、最後は「清」に倒されます。



「清」は有名なヌルハチが統一した女真族の国「金」が元です。

明の圧力に負けず、明が日本の圧力に手一杯になっている隙間を縫って女真族を統一し、モンゴル人の「元」を吸収し、、チンギスハーンが女真族を吸収し、最大のブレーン耶律楚材が女真族、、今回はヌルハチという女真族の英雄がモンゴル人を従え、明を滅ぼしました。

縦横無尽に馬を走らせ、各個撃破も元と同様な戦術。

明の方も知っていたのですが本職には敗けました。



トピックは、、、万里の長城が大活躍したことですかね?

よく写真で紹介される万里の長城は「山海関」が多く、それが万里の長城かどうかはともかく清軍を良く止めて難攻不落でした。

呉三桂とかいう惰弱が降伏しなければ。

明は南に逃げ、その途中で清に貴族として召され、そのまま消滅。

ということでこの後は「清」王朝になります。


「清」の特徴、明でもその気配があったのですが外国の制度を取り入れてます。

多頭会議と言えばよいのか、「議政王大臣会議」という会議で有力氏族と方向性を決め、内閣で行政をし、そのポストは各民族で同数になるように調整をし、民族ごと争いを避けるような議会体制です。

別に今までの王朝が法治国家ではないわけではないのですが、為政者自らの権力がかなりセーブされる体制。

共産主義の「共産」という似非科学を抜かした政府をイメージすれば良いのでしょうか?

似非正義がない分の権力争いがないので、なんぼかマシかもしれませんが。


税制も統一化し、明瞭会計、思い浮かべられる「税金」と同様なものが施工されます。


農業も、海外から取り入れて改革が行われて、痩せた土地でも育つトウモロコシ・サツマイモ・落花生なども作りはじめ、おかげで人口大爆発。

過去もこの地はすごい肥沃ですが、1833年のアヘン戦争勃発の頃はとうとう4億人を超えてます。

まさに超大国ですね。


また製鉄も盛んで、工業も大発展してます。


日本のせいでデフレ、慢性的な不景気なってますがそれは個々の事、総合力では圧倒的です。

西洋の文物を取り入れ、製鉄など盛んになって産業も活気に満ち、モンゴル人の悪いところ「後継者争い」「権力闘争」はうまくコントロールし、日本は江戸時代で大人しくなり、西も北も南も沈静化し、まあまあ慢性的にデフレで不景気気味で、その対応で鎖国気味ということ以外は悪くない状態だったと思います。

西欧人が来るまでは。





清は海外の制度を積極的に取り入れ、おかげで更に経済力をつけ、かってない超大国となった状況で悩みの種は常に外交、というか海外との付き合い方でした。

日本とは慢性的なデフレ、北はモンゴルを吸収したらロシアが台頭してきて貿易問題がおこり、チベット、西方、台湾を服属させて領土は拡大して官僚の処理能力はオーバーフロー気味。

とにかく貿易は制限をし、内政に力を入れるべき時でした。

しかし、西欧が産業革命を終え、その大量の製品を販売するルートを必死に探しています。

当然、清もその一つ。


イギリスは広州と茶貿易、アメリカは茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具。

特にイギリスは対中輸出拡大を強く望み、何度も皇帝に貢物をしています。

更にイギリスは慢性的に対中貿易は赤字、当時は世界最大の軽工業地域だったインドはイギリスの産業革命のせいで織物が売れず大不景気、数少ない黒字なのが当時は嗜好品で医薬品だった「ケシ」いわゆる「阿片」ですね。

ここに目をつけます。

これが拡大し、慢性的に不景気だった民衆はこれにはまり、しかも海外は経口で薬代わりだったのものが、喫煙という形で直接血液に送り込む威力マシマシな摂取方法を発見します。


やばいので1839年、林則徐はアヘン密貿易の取り締まりを強化しました。

イギリスはこれに対して戦争をおこします。

これがアヘン戦争。


たった数隻のフリーゲート(しかも6等艦という最低のモノ)、数隻の蒸気船で敗けてしまいます。

ここで清が敗けたかどうかは微妙なところです。

清の総兵力は20万人以上、それに対してイギリス軍は2万人もいません。

しかし、かれらは小さな快速船フリーゲートを海岸線に縦横無尽に走らせて清を悩ませます。

そしてしょぼい蒸気船を揚子江や運河に走らせ、小舟サンパンを沈めまくります。

蒸気船は外洋こそ力ありませんが、南北戦争でもミシシッピー川といった河川、明治維新でも湾内で高杉晋作が大活躍してますね。


そして阿片の取り締まりは今や遅しというか、清の商人が一番儲けていたりするので「今更遅いよ」と国内も二分し、議会も紛糾してます。


もしタイムマシンでもあって当時の人が未来を見えていたら、多分清政府は徹底抗戦していたと思います。

そして兵力は圧倒的、多分勝利していたでしょう。


しかしそんな便利なタイムマシンはありません。

対処不能、議会二分も含めて「元々やってた貿易だしまあ妥協しても良いかな」と敗けることになります。

結果としては広東、福建といった貿易拠点の開港、自由貿易の許可、英国への賠償金、香港の割譲となりました。

ちなみに「不義の貿易」とイギリス人自体にこの戦争は詰られますが、中国と貿易できる誘惑には勝てなかったのでしょう、僅差で出兵は賛成されてます。




さて、総合力を見た限りはたった2万人のイギリス人に攻められたからと言って、撫でられた程度の被害です。

なにしろ総合力は圧倒的ですから。

しかし清がそもそも女真族で外国人、しかも清が栄えたのは海外の文物を取り入れたから、しかも人口大爆発、いままで枯れた地であった農地を開拓して一番人口爆発の恩恵を受けたのは漢民族。

そんな増えた漢民族の不満は、アヘン戦争を契機に爆発します。

敵は惰弱な女真族である現政府、そしてイギリス人。



外国人排斥運動が盛んになり、1842年12月に広州英国商館焼き打ち事件が起こります。

それ以外でもイギリス人、アメリカ人に投石、暴行、殺人。

彼らは厳重な抗議をしますが、そもそも政府のコントロールを失ったからの排斥運動なのでどうしようもありません。

しかも治世が乱れ、賄賂や不正、犯罪が横行、イギリス人自体が解決を望みます。

インド人にも同様な要求していますのでその点ではイギリス人って良い人達とは思いますが、不義の戦争が原因、と考えると「おまいう」というかインドと違って随分と図々しい奴らだなぁと思いますが。


開港地広州が焼け野原、とうとうイギリスブチ切れて、更にフランスに声をかけ、戦争を起こします。

「アロー戦争」



阿片戦争のころはイギリス軍も「ちょっと悪かったかなぁ」と思ってましたが(それでも図々しい)、今度は散々な目に合ってますので遠慮なしです。

しかも清皇帝は面従腹背というか、裏切るは口約束だわ、反故だわでなんか嫌な奴になっています。まあイギリス人の方がよほど嫌な奴ですけどね。

しかも一緒に行ったフランス人がまた極悪非道。

進軍途中で略奪暴行焼き討ち。

イギリス人、フランス人に対して激しい非難をします。


と言いつつ北京まで進軍して、天津条約を結び、更に反故にされ、捕虜を殺害され、それでイギリス人もむかついて円明園焼け野原。

フランス人のあれは何だったんだ。



最終的に1860年、連合軍は北京を占領、北京条約が締結されます。


内容は天津の開港、九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可。

アヘン貿易の公認(このころはイギリス人にも麻薬性は気づいてます)

中国人の渡航許可




ちなみに最後の「渡航許可」とは実質は奴隷売買です。

労働者移民の公認、一定の移民保護。


制度的に西欧に奴隷はなくなりましたが、実質の奴隷、いわゆる悲惨な境遇の労働者は激増します。

「おまえは奴隷ではないよ!」と解放され、主人の保護がなくなって食い詰め者になり、悲惨な仕事に従事する黒人、それに中国人が「苦力クーリー」として加わります。

その後は日本人なんですけどね。


なかなかえげつない結果になりましたね。

もう欧米列強は剥き出しの欲望で中国を食いものにし始めます。


いくら国力が高くても、民衆は反乱多発、その原因である外国人は逐次に介入して図々しく無茶を言い、政府は弱体化でまとまりがない状態。


その後、1858年にロシア帝国は掠めるようにウラジオストックを手に入れます。

さらにカザフスタンもこそっと。

日本は弱体化した隙をねらって琉球王国(沖縄)を手に入れます。

台湾へも出兵。

フランスはベトナム。

イギリスはビルマ。

アメリカもここぞとばかりに権益の圧力をかけてます。



それに対して清は嬲られるだけ。


国力は未だ保ってますが、治安は最悪、政府は議会制でおまとまりが欠け、有効な海軍は機能せず、民衆も離反して離れていきます。

というか名目上は賃金労働者、実質奴隷の「苦力(ク-リー)」

イメージとしてはヤクザの元締めをイメージしてくれればよいです。

いろいろな形で捕まえられ、渡航費用などの諸経費はすべて借財とする労働契約を結ばれ、ほぼ無償なほどの賃金で劣悪な労働条件で働かされ、死亡率が高いという。


南北戦争、奴隷はけしからん、人類皆兄弟!啓蒙主義!


ほぼこれがきっかけで、その奴隷より劣悪な身分が生じました。

ちなみにベトナム、ビルマ統治もそれに乗じます。


ここら辺から西欧が本当に剥き出しになった頃ですかね。




そしてその惰弱さ、西欧の圧力による不満、当地の緩みによる治安劣化、アヘンの蔓延、それが原因の匪賊の横行、アヘン戦争やアロー戦争の賠償金が原因の増税、そんな不満が爆発して1851年に太平天国の乱が起こります。


中国最大の内戦。

きっかけは中国のキリスト教徒です。

中国南部で起こった現象。


教義的には「宗教改革」ですかね?

「神の前では人は皆同じ」


メンバーにはイギリス人)オーガスタス・リンドレーも参加してます。

清軍が300万人に対し、太平天国軍が500万人。


目的は南京奪取による政権交代。


清廉潔白でなかなか評判の良い軍隊だったようです。

略奪は清軍ばかりでますます評判を落とす清軍。

キリスト教なので当初は西洋列強にも好評でした。


しかしアロー戦争の結果で西欧列強は清軍支持。

天京事変で内部分裂。

争いが激化でなりふりかまわわなくなり、民衆への略奪等での離反、最後は外国のバックアップを受けた清軍に敗戦で内戦終了。

敗戦時、領土の民衆は20万人が虐殺されたそうです。


死者総数は2,000万人以上。


これでも数字上はまだまだ列強とは肩を並べてはいましたが、致命的なほど民衆は離反します。


更に苦力クーリーとして売られたのか、移民したのかはともかく輸出された民衆、さらに「元」から盛んだった商人、紅毛人イスラムを参考にしただけに忠誠心に薄い彼らも離れはじめ、清は崩壊を始めます。

その成れの果てがいわゆる日本人がいう「華僑」(帰化したものは正確には「華人」)が生まれます。

各国に中華街が産まれることになりました。



中国は強固で、強固だけに崩壊もすざましい。

ちょうどその機会に海外列強の介入が重なり、以降は致命的なほど弱体化が始まります。

そして更に具合が悪いことに第二次産業革命が始まり、ありとあらゆる意味で中国は取り残されることになります。


その後は中国人の長い苦難の道がはじまります。

こんな状態が日清戦争で日本に食われる前夜でした。

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