そして誰もいなくなった明治政府
いよいよ西洋近代化への第一歩、「明治政府」が出来ました。
「維新の三傑」と呼ばれる人達
木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通。
「維新の十傑」と呼ばれる人達
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、江藤新平、横井小楠、大村益次郎、小松帯刀、前原一誠、広沢真臣、岩倉具視
まあここらへん、「お前の話とちゃうやんけ??」というところもありますが、明治政府前後、壊した人、作った人、これからの人等々いろいろあるので。
ちなみに実際の褒賞としても上位陣は島津公や毛利公がいるのは当然として、実質は2000石の西郷隆盛がトップですかね?
地位的、カリスマ的、おこない的に納得いくところ。
彼がいなければ維新なんて夢の夢ですから。
その後に1800石の大久保利通、木戸孝允、広沢真臣が続き、大村益次郎は1500石というぽっと出、農民にしては破格の待遇で賞されます。
しかし現代の我々が俯瞰して見ると、真の功労者は「徳川慶喜」「勝海舟」「坂本龍馬」「後藤象二郎」な気がします。
本来、日本を二分した大内戦になるはずが、中途半端な小戦闘ばかりになったのは彼らのおかげでしょう。
ちなみに徳川慶喜の功というか、罰というか、それだけのために静岡藩というものが出来て、それがそのまま静岡県になりました。
意外に知らない、横に長い静岡な理由。
一応、最後の最後で徳川家の領地となりました。
三河と江戸が入っていない場所が、最後の徳川家だったのです。
徳川慶喜は見事に「日本を救う」を実現し、その次の優先度である「義務感」で幕府を犠牲少なく終わらせ、最後の「怠け者」の望みを果たして余生を静岡で過ごしました。
必要最低限の義務を果たす以外は静岡にひっこみ、幕臣とは誰とも会わず、大正2年まで生き残りました。
享年77歳で、徳川歴代将軍としては最長命であったのは皮肉なこと。
異論もいろいろあるでしょうが、彼は見事に大望を果たして日本を救い、徳川家の義務を果たし、引き際を心得て消えた良い男に思います。
もっと楽な道もあったろうに、もっと名誉な道もあったろうに、困難な道を進んだ理由は「日本を良くしたい」以外はなさそうですから。
彼の望みどおり、彼は名誉になど関わらず、静岡で多芸で人気者のお爺ちゃんとして亡くなっています。
勝海舟、こちらも黒幕だったか白幕だったか知りませんが、新政府、幕府へ「日本を救うこと」の共通意識を持たせ、同じく将軍、西郷隆盛を誘導し、平和裏に維新をならせて、その後は洗足池にのんびり暮らします。
この人は生涯「口だけ」「お調子者」という陰口が叩かれましたが、案外あってますよね?
口だけで幕府と近代化させ、口だけで維新の最終形をいろいろな人に説き、口だけで江戸城を開城させ、口だけで幕府の幕引きをしました。
洗足池に引きこもり、あいも変わらず新政府に口出し、享年77歳と慶喜と同い年で亡くなりました。
誠に彼らしい人生です。
しかし、そのような犠牲が少ない中途半端な幕引きは遺恨が残るだろうと正確に予測した人物が大村益次郎と西郷隆盛。
日本が焼け野原になるくらいでなければ日本は変わらないのに変わらせてしまった。
そして、それは実際正しかったのです。
未だに日本国民は、「お上」「政府」-「民衆」という意識が根付き、日本政府が自分の延長と考えない、なんとなく東洋的な考えが残っています。
そしてその当事者感覚のなさは、直近でも長く薩長閥を根付かせ、長期的にも民主的な国家にならない状態が現代でも続きます。
なんだかんだで
民衆の声が為政者に届いているか?
といえば届いているので改善も難しいし、実際改善するべきかどうかもわかりませんが。
維新が成った後、大村益次郎は着々と軍備を近代化していきました。
そういった燻っているエネルギーは全て西郷隆盛に集まるに違いないと睨み、大阪城方面の軍備増強に力を入れました。
それが急務と考え、実際それは合っていて、かつそのためにスケジュールをつめて無理したがために暗殺されてしまいます。
黒幕は当時も、後年も、志士としても馬鹿にされ続けた海江田信義の命令で、やはり長州で志士として持て囃され、最後は狂人と扱われた神代直人と言われます。
ちなみに政治問題な「靖国神社」は彼の提唱で作られました。
アーリントン墓地のような、戦死した兵士のための施設が必要であろうと作られました。
後年、靖国を誓って死んでいったWW2では想像できないほど軽い意識で作られたモノだったりします。
「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」
「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めておけ。」
辞世の句まで即物的でした。
彼が生き残っていたら見たいなifは語る気ありません。
仕事の軽重など気にせず、ただただ職人みたいに日本を作っていっただけでしょうから。
木戸孝允は彼の死を大いに悲しみ、その後抜け殻のような人生になります。
口癖は「大村先生がいれば...」。
その後も人気者であり続けましたが、改革者としても、名誉はあれど政治家としてもぱっとしない人生となります。
海江田信義はその後も生き残りますが、その後ろ暗さで、相も変わらず役立たずのまま名誉だけはひっそり受け取り、ひっそり子爵になり、ひっそり消えていきます。
有村俊斎の名で75歳まで生きてきたのが幸せだったかどうかわかりません。
神代直人のような狂人は、西南戦争で死ぬか、捕縛されるか、野垂れ死にですね。、
神代直人自身は、捕縛された、自刃した、野垂れ死にした、いろいろな説がありますが、逃亡し、流浪し、誰にも知られず死んでいったのでしょう。
西郷隆盛の方は、薩長閥、明治政府への不満、薩摩出身の政治家たちの驕慢を憂い、進言し、絶大な名誉と地位を捨てました。
もちろん大久保利通のバックアップをし、彼の危うい道を助けつつ、明治政府への改善を求めつつ..
征韓論もその一環です。
やがて西洋に食われるであろう朝鮮半島を救い、かつ内政の不満を外に置き換えるという良くある手段です。
#そして秀吉と同様、その不満やだぶついた軍事力の
捨て先とされるのは朝鮮半島にとっては
如何なものかとも思いますが。
そこで大久保利通と決定的に袂を分かち、やがて彼らの予想通り士族たちが不満に思い、さらに不満を集める役割を西郷隆盛が受け持ち、不満支族を糾合し、西南戦争という内戦へ突入します。
明治政府が勝利しましたが、その時に大村益次郎が準備した大砲や弾薬は大いに役立ちました。
「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」
という言葉を最後に、志士)別府晋介に首をはねさせたのが最後と言われます。
明治天皇も含め誰もがこの偉人の死を悲しみましたが、賊軍の将として処理されました。
#後に大赦されてます
西郷隆盛が危ぶんだ大久保利通は、大村益次郎と共に「作った人」ではありました。
ただし、憎まれ役を一身に背負って。
彼の政策はこんな感じ。
・大阪遷都論
反対されましたが、その後に江戸を首都にし、天皇陛下も江戸城へと入ることになります。
京都人は未だに京都が首都、天皇陛下はお役目で東京に行ってるだけと思っています。
そしてそれは半分あってます。
実は東京が帝都と言われるようになっても、天皇陛下は遷都してません。
東京が首都と明確に記載した法文書はありません。
いまさらどうでも良いことですが。
・版籍奉還
日本国民は全て天皇陛下に帰属すると明記しました。
ちなみに「藩」ではありませんよ「版」。
土地(版)と人(籍)を返そう。
提案者は姫路藩主の酒井忠邦さんです。
大久保利通さんではありません。
とりあえず最初は形だけ。
そもそも「藩」なんていう言葉がこの当たりでできたと教科書は教えていないので、それがテストの罠なわけです。
・廃藩置県
藩という藩主所属の制度はやめて、県とします。
推進者は大久保利通さんと木戸孝允さん。
これで完全に藩主である殿様と、藩から吸い上げる利益が切り離されます。
これって藩主、殿様の権力が一気に失われるイベントです。
もちろん伝統という奴は全て丸無視、制度は全て藩への石ではなく新政府への税としてのみ統治されることになります。
本当の意味で日本が貨幣経済になる初めての瞬間でしたが、実はみんな気づいてなかったのです。
そして、「殿」は徴税権を全て失いました。
のんびりしていました。
というか、残った人たちは西洋の民主主義を真似しなければいけないと義務感に狩られて誰も文句は言いませんでした。
後、新政府は俺らが世話したやつらばかりだから、いずれ返してくれるに違いないとかも考えていたとか。
...最初は。
後から島津公は烈火のごとく怒ったそうで。
実はいろいろなところで反乱の火の手が上がると思って鎮圧する兵も準備していたのですよね。
肩すかしでした。
既に東京住まいで田舎に帰るの嫌だとか、
当事者感覚無しで中身知らずにほいほいとOK出したとか、
そもそも版籍奉還でOK出しちゃったからこうなるのは当たり前という道理が通っちゃってるとか。
そして後から「騙された」も誠に日本らしいというか。
新政府側は鎮圧軍まで用意したのに、とんだ肩すかしです。
私が作った、生涯で一番醜いシステムは、営業製造ナンチャラシステムです。
総額云十億円後半、なんとハンコ15か所押す申請書とかを作りました。
ばからしい。
そして15か所もハンコを押して許可された申請を「騙された」。
要求した書類がわからないからパワーポイントでプレゼンしてくれ。
そんな経営陣のためにつくりました。
ばっかじゃなかろうか。
外資系で、社長の決裁はラインでスタンプ付で「おっけぇ」ですよ?
もちろんそれは記録に残ってるし、ハンコないから正式ではないとかバカなこと言いませんよ?
社長はそんな適当な承認でもきちんと責任取りますよ?
というかきちんとラインの考え方で、部下は自分の手足で一部です。
「お上」「下っ端」などという当事者感覚のない考え方ではありません。
そしてそれで会社経営は回るのです。
営業製造ナンチャラシステム、総額云十億円後半は全くの無駄なシステムというのが良くわかります。
そして最近、日本大丈夫か?とまじで思います。
老害は昔からということで。
そういう感じでお殿様達は「騙された」そうです。
そしてわけのわからない不満や憎しみは、元部下だった武士たちに波及します。
当事者はいっぱいなのになぜか憎しみは大久保利通に。
そりゃまあ同じ「薩摩」で、一番裏切られたのは「薩摩」の殿様ですからね。
そして不満屋志士どもが集まって西南戦争。
その後、悪いことは全て大久保利通のせい。
西郷隆盛が不安に思ったことが的中したわけです。
彼は「紀尾井坂の変」で暗殺されます。
理由)
・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
・不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。
多分重要なのは「志士を排斥」だけだと思います。
本当に騙されたのか、勝手に騙されたのかはともかく。
なんか浮かばれない人だったなぁと思います。
1878年5月14日に死亡。
享年は47歳。
西郷隆盛に遅れること2年後です。
彼が幸せだったかどうかは知りません。
先に亡くなった西郷隆盛をどう思っていたかも知りません。
しかし、西郷隆盛と共に義務を果たしたのは確かです。
そして彼らを悩ませた島津久光(島津公)は、
政府に対して反発を続け、生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめず、、
でも西南戦争では四男、五男を人質に差出、桜島に避難してます。
みっともない。
この後も政府は叙位・叙勲や授爵だの最高級な名誉を与え1887年12月6日に亡くなりました。
なんとも中途半端な人生ですね。
この人を眺めると、散々会社を引っ掻き回し、社員を悲しませ、最後は経団連だのジャパンディスプレイだののお飾りの役で高給を取り、消えていくどこぞの電労連やメーカーの社長を思い出してしまいます。
その後、彼らの下で「若手」と呼ばれ「弟子」と言われていた者が明治政府を作り上げていきます。
江藤新平、大隈重信、福沢諭吉、伊藤博文、
天皇陛下を元に、プロイセンを真似た中途半端な民主主義政体を選択しましたが、それは正しかったかもしれません。
なにしろ明治政府はそれこそ一番の蚊帳の外だったのは民衆でしたから。
江戸時代の華やかだったものは廃れ、西洋の理屈で動き始めた過渡期は経済が困窮し、また昔の栄華を失った者は不満に思い、西洋的な産業に注力して他が疎かになり。。。
それこそ宿場町とかの寂れっぷりとか半端なかったようです。
しかしその不満の持って行先も良くわからず、江戸幕府と明治政府の違いもわからず。
薩摩閥、長州閥と言われていますが、そんな状態で一体だれをどう選べばよいのやら。
「自由民権運動」やらで少しづつ民主主義は醸成されていきましたが、それでも微妙。
薩長閥ではない「原敬」が首相になった時も、はたしてそれが民主主義の結果かどうかはわからん。
何となくどういう政治レースが行われているか明確ではない状態で、何となく廟堂でちょこまかやられているのが日本政府です。
もっとも「なぜ?」は明治政府から作り上げていた力学で決まるらしく、そのルールはとっても難解です。
なんかWW2では日本は「軍国主義」「独裁政治」と呼ばれていますが「どこが?」と言われてはっきり言える人いないですよね?
政体としては間違いなく民主主義ですし、明治天皇が何かを積極的にしたとはとても思えない。
軍が自由だった?
それこそ「嘘つけ!」ですね。
日露戦争~WW2の間では軍服着ていたら石投げられるような弱い立場でしたよ?
終戦後のGHQも、貴族院とか、当時からまともに機能していなかったものを廃止しただけだし。
#そして全く効果はない
そして安倍政権が民意を反映しているのは確かですが、それが民主主義の結果かどうかは知らない。
善き王様が民衆の声を良く聞いた結果だけかもしれない。
というか、安倍首相は長州閥ですね。
日本を焼け野原にしなかった結果がきっとこれなのでしょう。
それが良いかどうかはともかく。
何にせよ、維新の十傑といわれる偉人は岩倉具視を除く9名全員が大久保利通暗殺までに死んでます。
そのうち暗殺四名、戦死一名、刑死二名、病死二名。
こうやって日本は作られました。
江戸時代終わった~
苦痛だった。
維新なんて皆さんの方が詳しいでしょうにねぇ?




