銃弾吹きすさぶ中、勇猛そうにも見えず、のんびり悠然と前線に立って眺め
さて、江戸時代はいよいよクライマックスを迎えます。
そんな中、日本がどうなっているか、背景を確認しておきましょうか。
民衆は...まあ言うほど不幸でもないし、言うほど攘夷に共感しているわけでもなし、外国人が無法をしていたという感覚はないですね。
不景気の理由の一つが外国人というのは知っていたようですが、もう一方で言うほど大打撃でもないよなぁという感じ。
たとえば農民の飢饉だ一揆だ米騒動だとかありますが、まあ小作農が増えたのは確かです。
でも小作農って別に奴隷でもないですしね。
景気の左右で、むしろ人不足の時は自作農さんは頼んで小作に来てもらってたようですし。
景気は上下し、安政前後は一気に不安になりましたがちょっと改善してます。
「ええじゃないか」騒動、なんか幕末が民衆の不満だらけとかの話で教科書とか出しますが、これは私的には眉唾かなぁ。
だって明治政府の江戸時代に対するバイアスのかけ方半端じゃないもの。
江戸時代は地獄!
幕府は無能!
民衆は虐げられ一揆や米騒動!
逆に討幕軍の陰謀とかの話も出てますが、そういうの含めて無視し、ロンドンブーツやヘビメタや男のロングヘアーやアフロと同じような流行なのだろうとかで片づけときます。
ついでに民衆はあんま政治の動きも気にしてない様子。
江戸は相変わらず公法様(徳川家康)だし、彰義隊人気あったし、京や大阪では長州が人気あったり、新撰組が人気あったり、会津が人気あったり、徳川慶喜が人気あったり、その時代時代でころころ変わってます。
じゃあインテリゲンチャはどうだったか?
開国、西洋化は当たり前の思想になってきました。
横浜が出来て、外国人と取引する輩が増え、書物を読み、「西洋列強」の幻も含めて共通意見です。
「誰が?」というところは二分。
正直、幕府もだらしないが長州や薩摩が信用あるとはとても思えないし、それ以外だと言語道断。
中央集権、天皇陛下は当たり前ですが、実行する組織については完全に意見が二分されてます。
面白いのは、双方ともにその意見は分散されていること。
まあ西郷隆盛や高杉晋作、大村益次郎だのは討幕、尊王で当たり前ですが..
多分、勝海舟や徳川慶喜は尊王。
幕府のダメさ加減を良く知っていて、大事な時にサボタージュしてますよね。
坂本竜馬はそれに近い佐幕。
徳川慶喜の性格を知っていて、戦争大嫌いで、まあ徳川家がいても討幕軍が勝てば何とかなるだろうと。
実は島津公その他、薩長土肥のお殿様達も。
理由は背反ですが。
なんせ西洋の事なんて良く知らないし、自分がお殿様としてふんぞり返れるのは「藩」「国」があってこそ。
徳川家の排除や廃藩置県でお怒りのご様子。
福沢諭吉のように、「なんとかしなきゃ、幕府はだめだ、攘夷の連中はキチガイだ」と吹聴はするが実質なにもしない人もいました。
まあ役割違うからよいのか。
小栗忠順や大鳥圭介などは素直に佐幕。
軍制改革に励んでいて、とっても強力な軍隊を手に入れましたから。
まあそんな感じです。
ちなみにこの期に及んで「攘夷」だの言ってる輩は浮き始めてます。
新撰組に斬られまくってますね。
まあ新撰組も反撃されてたくさん斬られてますが。
当時の新撰組の人気ぶりからすると、攘夷連中を斬って治安を守っている新撰組が民衆の味方で攘夷連中は敵になってますね。
皮肉なことに、会津藩も正義の味方になってます。
悲劇のはじまりですか。
長州の志士たちも浮き始めて、後は碌な死に方してません。
神代直人なんか調子ぶっこいて暴れまくり、高杉晋作まで殺そうとしました。
薩摩だけは、西郷隆盛のおかげで特殊ですね。
妙ちきりんな役立たず集団として名をはせてます。
何をやらせてもうまくいかない。
でも初期のメンバなんで威張る。
大村益次郎暗殺の黒幕と言われる海江田信義は、西南戦争で西郷隆盛が死んでも、ちゃっかり要職に就いてますね。
頭が軽くて、考えが浅くてお調子ものという記載多数。
まあ本当に彼が黒幕かどうかは永遠に謎ですが。
幕府は...
老害がはびこりながらも必死に西洋化に邁進してます。
進んでいません。
勝海舟もいつの間に左遷されてます。
では肝心の薩摩の評判は...
まあ第二次長州征伐になるまでは裏切っていないのですが...正直、同じ京を守っていた会津に比べて評判はいまいち。
というか、当時もその二枚舌ぶりはそれなり有名でした。
まあ殿様も問題児でしたしね。
地に足を突いていないというか、バカ殿を地でいっているというか、
西郷隆盛がが久光を田舎者と切り捨てたのは、うなづける話です。
そしてその西郷隆盛の二枚舌っぷり、今となっては海江田信義を代表する攘夷志士への扱いっぷり含めて
人気はないわ信用ないわ。
薩摩だけで討幕しようとしてもうまくいくわけがない雰囲気を漂わせていました。
どうしても長州とくっつけたかった各人はわかる気がします。
まあ、その相手の長州は...不人気というか、もうキチガイ扱い?
騙されたとはいえ禁裏に踏み込む所業は、その軽さの現れでしょう。
実際、長州人の志士たちの書生並みの思慮のなさ、考えの浅さは有名でした。
そして老害というか..そういう連中を甘やかす年寄り共も問題だらけで。
徳川家へのうらみつらみも、端から見ると気持ち悪いだけですからね。
「薩摩とくっつけて討幕できるんだ」という考えを述べたらアホ呼ばわりされるでしょう。
というか、もう滅びる国としてほぼ確定している感じ?
行くとこまで行っちゃってます。
しかもそれを何とかしようとすると、その今まで飼っていた攘夷連中に裏切り者呼ばわりされて斬られますし。(高杉晋作も、木戸孝允も、井上馨も、命からがら逃げてます。)
もう二進も三進もいかないときに来たのが大村益次郎だったわけです。
第一次長州征伐は凌いだものの、第二長州征伐はもうすぐ。
もうなりふり構わずの状態で富国強兵に努めます。
そんな状況で「薩摩とくっつけて討幕できるんだ」と考えた、坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元(多分、イギリスのグラバーとか勝海舟も)薩長同盟を実現させます。
もう切羽詰って権力が桂小五郎(木戸孝允)に集中します。
老害どもはこの期に及んでぶん投げました。
駄目になるまで老害がいぢ繰り回し、いよいよダメになったら老害がぶん投げる、誠に日本らしい所業です。
誰もが負けると思い終わりと思った状況で、大村益次郎は既存の武士階級を無視し、市民軍を組織します。
それは身分を超えた「奇兵隊」を作った高杉晋作にも通ずるところ。
今までの組織を丸無視し、蘭学書(あるいは英学書かもしれませんが)のまま、教科書通りのままに軍隊を組織し始めます。
武士という装備も無視、マスケットや槍、日本刀という幕府の在庫の武器も無視。
まったく新しい軍隊を作ります。
今となっては彼の弟子になった伊藤博文、彼に賭けた宿老の井上聞多(井上馨)はイギリス商人グラバーからミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入します。
当時はすでに旧式ですが背に腹は代えられません。
(その時は西郷隆盛が多大な貢献をした)
高杉晋作は薩摩と強力な関係を築くと共に、蒸気船「丙寅丸」を購入。
第二奇兵隊を創設し、大村益次郎と組みながら練兵してます。
そんな中、幕府側は海外から突き上げ、幕臣の突き上げ、従わない長州、意見がまとまらない各藩、こんな中、最終通告を突きつけます。
「封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶」
まあ今までだったら従ったかもしれません。
特に幕府が強力な武断政治が出来るなら。
長州は拒否。
各国に長州征伐を命じますが、薩摩は約束通りに拒否。
1866年6月7日、幕府海軍は周防大島へ砲撃、開戦となります。
その直後、伊予松山藩軍が上陸、占領します。
乱暴狼藉で評判悪かったらしい。
大村益次郎は、それについては無視。
戦略的に意義がなく、勝てばそのまま孤立して終わりと踏んだようです。
ただの村医者、初めての戦争なのに落ち着いてますね。
「戦略」という言葉が出ている時点ですごいです。
が、まあ全く反撃しないのも士気の問題もあるので、高杉晋作が蒸気船)丙寅丸と第二奇兵隊で斬り込みます。
幕府海軍は湾で停泊中で身動きとれず、大成功だった様子。
広島側は、幕府歩兵隊と紀州藩、彦根藩、高田藩が攻めてきます。
膠着状態。
双方ともなりふり構わず。
お互い被差別民まで駆り出し、大活躍しました。
農民、町人の奇兵隊をはじめ、江戸時代の身分制度、というか武士の役割が終えつつあることがわかる戦いです。
鳥取県側は大村益次郎の直接指揮の元、鎧袖一触でした。
浜田城を陥落させます。
始めての指揮とは思えないほどの卓越ぶりでした。
...と言えないような所業ばかりだったそうです。
馬が面倒で徒歩。
近所の民家の人と友達になってその屋根から指揮。
自ら交渉して庭に大砲を置かせてもらう。
兵隊と一緒に歩いて歌まで作って行進。
川は自ら尻丸出しで渡ってみるとか。
冷静に考えてみれば合理的です。
沈思黙考する偉そうな指揮官より余程正しい。
自分の指揮や知識が常にあっているか考え抜いています。
地形が考えた通りなのか、
民衆はどう考えているのか、
一番偵察に向いているところはどこか、
民家に置ける可能性、
とにかく指揮官は指揮だけをすればよく、それが正解かどうか常に調べ直すのは教科書どおり。
そして銃弾吹きすさぶ中、勇猛そうにも見えず、のんびり悠然と前線に立って眺め、命令していたそうです。
部下はその態度を褒めるべきか、だらしないと考えるべきか悩んだようです。
将軍とは思えない程だらしない行進、威厳は全くなく、仕事放りっぱで近所の人と世間話(それこそが偵察なんて一兵卒には想像つきませんし)、戦場は最前線でのんびり勇猛さの欠片もなく、逃げもせず。
そんな評価し難い態度でも確実に勝ち、彼のスケジュール通りに軍隊は進み、数倍の敵を相手に彼の予定通りに勝ちました。
関門海峡側は高杉晋作。
大村益次郎は当たり前のように教科書通りに戦って数倍の敵に勝ちましたが、高杉晋作は奇襲、ゲリラ戦に終始します。
自らの方が地位高いのに第「二」奇兵隊の指揮なのは、大村益次郎と示し合せたのかもしれません。
高杉晋作は、桂小五郎や伊藤博文の影響か、彼を信奉しまくっていた様子。
大村益次郎から高杉晋作のコメントないので完全に片思いですが。
1000人vs2万人は海なことと「少数」「最新兵器」なことを利用した奇襲ばかりでした。
20倍の戦力差。
いきなり田野浦海岸に奇襲上陸し、小倉藩を殲滅し、直ちに撤退。
次は大里に上陸、小倉藩を攻めます。
今度は苦戦しましたがなんとか撃退します。
またも直ちに下関に戻ります。
次は同じく大里に上陸、高杉晋作は大里に陣取ったまま、別働隊が小倉城を目指します。
真正面からは無理でしたが、7月20日に将軍徳川家茂が死去。
肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督小笠原長行も離脱、残された小倉藩が8月1日小倉城に火を放ち逃走で幕府軍が敗北しました。
この後、将軍死去で停戦。
慶喜は大討入りと称して自ら出陣しようとしましたが小倉城失陥であきらめます。
9月2日、勝海舟と井上馨が宮島で会談、停戦合意。
しかし、その後も長州は小倉を攻め続け、幕府の面子を大いに潰します。
しかもこの内戦で各藩が米を貯め込み各地で一揆が頻発。
薩摩が居なければここまで弱いのか..幕府は張子の虎が印象づきます。
この一戦で「終りのはじまり」を予感する人多数。
慶喜の最初の仕事は軍制改革です。
なんでかイギリス軍が薩摩に肩入れしたので、絶対にイギリスと敵対すると決めているらしいフランス軍が幕府に肩入れし始めました。
ちなみに教育には大村益次郎とおなじ適塾出身の大鳥圭介が活躍してます。
「慶応の改革」で軍隊は大幅に増強され、歩兵隊8個連隊、伝習歩兵隊4個大隊と、日本最大の西洋式軍隊となりました。
なんか旗本と農民上がりの士官が混在して混乱してますが、とっても強力な軍隊です。
フランスだけでなく、イギリスやプロイセン、なりふり構わず財力で各国を招聘してました。
海軍も小栗忠順、勝海舟という名だたる人材を投入して拡充してます。
東洋最大の軍隊。
しかし、それで惰弱な幕府のイメージは振り切れず、米不足の影響は変わらず、世論的に失墜しまくってます。
1867年1月30日
孝明天皇がいきなり死去しました。
正直、乱すだけ乱し、混乱させたままの状態で尊王だの公武合体だの宙ぶらりんになります。
禁裏は大混乱。
そこで頑張ってしまい、逆に慶喜大いに嫌われます。
1867年5月、四侯会議が行われます。
長州藩は名誉回復しましたが、列侯会議として薩摩は公武合体の新しい政治体制を模索したものの失敗しました。
慶喜、ここで頑張ってしまい、逆に幕府の硬直した世が続くものと印象づきました。
薩摩はこの時に討幕を考えたようです。
1867年5月17日、高杉晋作が死去します。
奇兵隊に対する遺言は「大村益次郎を頼め」
30代にもならない若さでの死去。
半生は攘夷で小火を点けまくっていましたが、残りの半生は新しい長州を作りまくっていました。
文官としての有能さ、多少奇をてらっていますが将としての凄味、偉人として尊敬できます。
外交官として薩摩や西郷隆盛、イギリス大使グラバーとも信頼取り付けてましたし。
例えば
「もし西郷隆盛が生きていたら」
「もし大村益次郎が暗殺されなかったら」
「坂本龍馬が暗殺されなかったら」
こんなことはあんま考えませんが、
「もし高杉晋作が病死しなかったら」
これは大いに考えさせられます。
この後、
・カリスマあって信頼あるが政治的にも技術者的にも無能な桂小五郎。
・技術者として有能だが政治的に無能な大村益次郎。
伊藤博文はまだまだ未熟、それ以外は所詮口だけ。
実行力はあるが政治力のないアンバランスな書生の国に戻ってしまった長州。
・つくるものという意味での「技術者」として、政治家)大久保利通しかいない薩摩、
・政治的にもカリスマとしても有能だが、あまりに徳がありすぎていろいろ囚われている西郷隆盛。
実力も政治力も大いにあるが技術的に裏づけのない政治的動物に成り果てる薩摩。
討幕軍が大いに歪み始めたと思います。
これから薩摩の暴走が始まります。
その余波は明治政府にまで続き、修正するまで何十年もかかりました。




