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今、お父様が来て、彼のことを話していった。どんな理由でうちに来たのかってことを。
彼、国王の騎士団を首になったのですって! 国王の騎士団と言えば、各地の辺境伯の抱える騎士団に並ぶ、大騎士団。それも、腕が立つのはもちろん、大貴族の子弟が集い、最も規律が厳しいと言われ、騎士の中の騎士と呼ばれる方たちの集まりだと聞いている。
しかも、勇猛にして仁愛に優れたハルシュタット家の出身らしい。それを聞いて、すんなりと腑に落ちた。
あれだけの器量ならもっと己を誇っても不思議はないのに、彼は少しも驕った態度を見せなかったから。
お父様は彼にライエルバッハの名を与えたのだそう。つまり、彼はもう家族なのだ。なのに、「お父様と呼んでくれ」というお父様に、とても困った顔をしていた。
それでお父様ったら面白がってしまって、
「おお、そうか。その歳でサリーナと同じ呼び方では恥ずかしかったか。すまないね、娘しかいないものだから、息子への接し方が今一つわかっていなくてね。男の子ならばやはり、父上とかなのかね。……そうだ、親父様なんてどうだね!? ワイルドな感じがいいじゃないかね」
なんて、彼をからかっていた。すまないね、と言う時は真摯そうに、その後も真面目な顔を取り繕っていたけど、彼以外の者たちには、お父様が悪乗りしているのがわかっていたと思う。
言葉につまった彼に、
「うん、まあ、呼び名だけ強制してもしかたないか。では、これから日々、君に心からお父様と呼んでもらえるよう努力するとしよう」
なんて殊勝に言ったりして、気の毒に、彼はずいぶん恐縮してしまっていた。
それだけではなくて、そのあと、城の者たちを紹介したのだけれど、彼は一人一人と目を合わせ、軽く目礼していた。スチュワードのトラヴィスだけでなく、庭師のクレマンやコック兼ハウスキーパーのハンナや、メイドのエルやマチルダという平民たちにも。
彼らは家族みたいなものだから、とてもほっとした。たいていの貴族は悪気がなくても、平民を同じ人間とは思わない者も多い。空気みたいに扱うのはまだましで、理由もないのに蔑んだり暴力をふるったりする。人は皆、混沌の神を母に、光の神を父に生まれてきたというのに。どうして生まれだけで誰かより自分が偉いなんて思えるんだろう。それこそ阿呆だって自ら証明しているようなものだ。
彼はそういう人間じゃない。さすが、『この血は王国のために』を家訓とするハルシュタットの出だ。
でも、そんな清廉潔白を絵に描いたような彼が、どうして騎士団を首になるようなことをしでかしたのだろう。上司を殴ったらしいけれど、彼みたいな人が理由もなくするはずがないのに。
彼は頑として理由を話さなかったらしい。騎士団の団長に、理由を知った者は誰であっても必ず殺すと誓いまでたてたそうだ。だから結局審議できないまま、彼は処分──処刑されるしかない状況だったのだという。
そんなことにならなくてよかった!! 彼が死んでしまわなくて本当によかった!!
「お父様はそこへ颯爽と乗り込んでいって、彼の身柄を貰い受けてきたのだよ。決め台詞はこうだ」
お父様は胸をそらして、んんっと喉の調子をたしかめて、芝居がかって右手を大きく横に振り上げた。
「異議のある者は名乗り出られよ。ライエルバッハの名において受けて立とう!」
私は思わず拍手した。お父様がこれほど頼もしく見えたことは未だかつてなかった。
『触らぬライエルバッハに祟りなし』なんて悪名高い家名、嫌だわと思っていたけど、これからはその名に恥じぬ生き方をしようと思う。それで彼が守れたのなら、いつか先の未来に私の子供の子供たちの誰かが大事な人を同じように守りたいと思うかもしれないから。嫌だからって、私の代でせっかくの悪名を使えないものにしてしまってはいけないだろう。
「それから、私にもしものことがあった場合だけれど」
お父様が真面目な顔でそんなことを急に言い出すから、驚いてしまった。そんな私を見て、お父様は笑って肩をすくめてみせた。平時の九十九パーセントはおどけているお父様が、比較的まともな態度をとると、何があったのかと心配になってしまう。
そうだわ。これは考えものよね。エディアルドは
夢中になってカリカリと書いていたのに、青年の名を書いたところで、彼女は息を吞んで手を止めた。なんとなく気恥ずかしくて、『彼』と書いていたのを、うっかりそのものの名前を書いてしまったからだ。
しかし彼女は、ペンにインクを付けなおし、少し震える指で、次の一行の真ん中に大文字で、『エディアルド』ともう一度書きつけた。それから、やや時間をおいて、そのちょっと下に小さく、『サリーナ』と書き加える。
……そのとたん、彼女はみるみる赤くなって、慌てて自分の名前を塗りつぶした。
「えーっと、なんだったかしらっ。そうそう、お父様の悪ふざけについてよね。うん」
彼は実直な人みたいだから、きっと、お父様に振り回されるにちがいないわ。そんな時は私がすかさず助けてあげなきゃ。
お父様が言うには、お父様があてにならない時には、彼の実家のハルシュタット家はもちろん、アルリード公も頼りにできるとのことだった。
アルリード家ではなく、老アルリード公サザール様本人か、あるいは彼の経営するシダネル商会。公は彼の母方の実の祖父なのだそうだ。内密に尋ねてきて、よろしく頼むと頭を下げられたらしい。
ただし、これは内密にとも言われた。彼の母君は庶子だそうだから、と。くだらないけれど、貴族は血筋を大事にする。確かにそれが知れ渡ると、彼の能力如何でなく、ただ庶子の血を引くと言うだけで見下されることもあり得る。
絶対に彼の不利になることを言ったりするものですか。
それと、彼は騎士の家系に生まれて、騎士であることを何よりも誇りに思っていたようだと言っていた。それを理不尽な形で踏みにじられて、とても傷ついているって。どうか彼の力になってくれって、言われなくても、なるにきまってる!
どうして彼が傷つかなければいけなかったというの。そんなの、何かの間違いだわ。
調べよう。何があったのか。それで、絶対、絶対、絶対、彼の汚名をそそいでみせる。
明日、町に下りて、吟遊詩人や旅芸人たちに会ってこよう。王都の噂を集めてきてもらおう。
サリーナは、書いたばかりの一行の下に波線を引いた。満足げに、うん、と頷き、一行あけて、続きを書く。
その他、今日のエディアルドの様子
彼、お茶を飲むのも優雅だった。お菓子を取り分けて渡したら、ありがとうって笑ってくれた!! 初笑顔だった!! 笑うと、男の人に変かもしれないけど、可愛かった。思わずお父様の分を削って、多く彼にあげてしまった。お父様は、彼をからかった罰です。
彼はお食事するのがとても早かった。がつがつしていないのに、すみやかにお皿の上のものがなくなっていく。私がやっとお肉を一口食べる間に、丸ごと食べ終わっている。目を疑った。運んできたハンナも立ち止まって二度見していた。
彼は歩幅も大きい。お茶の後に庭の散歩に誘おうと思ったけど、追いつけなかった。今度は座っている時に話しかけることにしよう。
「えーと、それから」
彼女は羽ペンの先で自分の顎をくすぐりながら考えた。
全部全部、彼のどんな些細なことも、書き残しておきたかった。
この日以降、彼女の最大の趣味は、エディアルドの観察日記をつけることになる。こうして彼女の夜更かしが始まり、朝寝坊が毎日の日課になっていくのだった。