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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

兆候の獄

pregnancy

作者:

 私の腹の中に、異様なものがいる。──ような気がする。


 腹部の膨らみには数ヶ月前から気が付いていた。だが男性と縁のない私には、妊娠などという真似事ができるはずもなかった。この頃過食気味のために太りつつあるのだ、と自分を戒め、食生活を見直し運動もするようになった。

 しかしそれから一ヶ月経過しても、腹周りは痩せるどころか更に膨張しているようにも思えた。

 処女懐中など神話の類でしかない。その考えは勿論今でも変わらずに持っている。だが、この腹が全てを物語っていることも忘れてはならない。


 共に暮らす両親にこの事を話すと、酷く驚いていた。私や両親は然るべき行程を経てこの世に生まれ落ちたのだから、驚くのも無理のないことだろう。腹の出た張本人がこんなにも驚いているというのに、出産経験のある母が平然としていたら、それはそれで己の出生状況を疑う。


 私は山の奥深くに位置する小さな村に住んでいる。裕福な人間は数えるほどしかおらず、皆が互いに支え合って生きている。そんな所だ。

 両親と話し合った結果、私は山の神の元へと預けられることになった。

 この村には特殊な慣習がある。

 災厄があった時には山の神へお供え物と共に、人間を一週間祠に閉じ込めるのだ。選ばれる人間は最も災厄に近い者だ。簡単に云えば人柱であるが、祠に置く()(もつ)が荒らされぬように見張る役目も果たしている。

 その人間は一週間後に村人から自宅へ帰される決まりがあるのだが、大体の者は何処かへ姿を消していたり、変死体となって祠の中で横たわっている。災厄が大きければ大きい程、人柱への被害の規模は比例する。


 私がその山神の元へと送られる羽目になったことは、この村の中で解決できる問題の少なさが顕著に現れている。

 村自体が小さなものだから、当然家にはお金などない。──そしてまず此処に小さな診療所すらない。

 もしこの(ひな)びな農村に何らかの感染症が拡がったとしても、誰も対処できずに皆死んでゆくことになるのだろう。私は昔からそんなことを危惧していたし、同時に諦めの念も持ち合わせていた。

 事実、私のよく知る仲間たちも「原因不明の疫病」に冒されて死んでいった。その後は例の通り、神頼りで事を鎮めたのだが。


 祠は村よりも更に奥にある暗い山道を通らなければならないため、余所者は愚か村の人間すら立ち寄ろうとしない。私は薄い長襦袢を着、蝋燭を片手に裸足で歩いている。枝や硝子の破片で足の裏を切ることもあったが、それよりも腹の痛みが強かった。

 その場に辿り着く頃には張り裂けそうな痛みに我を忘れて叫んでいた。古くなった祠の扉を強引に開け、無理矢理横になる。既に夥しい量の供物が私を囲むように置かれている。


 妊娠というものが、ここまで辛く苦しいものだとは考えてもいなかった。

 しかし──何かがおかしいのだ。陣痛と呼ばれる痛みではない。

 そう、内面から受ける痛み••••いやしかし。──同時に八箇所もの刺激を私が受ける筈もない。


 祠を強く叩く音で目が覚めた。どうやら長く眠っていたらしい。瞳を開くと腐った天井が視界に入ってくる。腹の異物はいつの間にか暴れることを忘れ、大人しくしているようだ。

 もう夜だというのに、何の用事だろう。私は疑問に思ったが、誰でもいいから人間の存在をそこに感じたいという思いもあり、祠の扉をそろそろと開いた。

 外は月のない闇の世界だった。虫の音もない静寂が少し寂しい。そこにぽつんと立ち尽くしているのは、手作りのように見える狐の面を被った小さな少年だった。──いや、少年だと言い切ることはできない。しかし素顔の隠れた彼はやけに低身長だ。

「──誰?」

 私は祠の中から、少しぶかぶかの着物を着た少年──或いは青年──に声をかける。

「貴女のそのお腹に宿る命は、本当に化け物だと思う?」

 私の言葉などはなから聞いてないかのように、まだ声変わりしていない声で狐面の男の子はそう云う。

「え?」

「貴女は腹の中の存在を畏怖している」

 その冷たい声に私はたじろぎながら答える。

「だって、こんなのおかしいじゃない!私、妊娠なんでするはずないのよ?!」

「この世には不思議な事など何もありません」

 何処かで聞いたことのある台詞を、あたかも自分の言葉のように言ってのける彼は、一体何者だろう。

「悪魔の声に盲従していると、悪魔の子しか産まれませんよ。貴女はこんな場所にいる必要はない」

「よく分からないのだけど••••」

「僕が伝えたかったのはそれだけです」

「ちょっと待って!」

 私の声も虚しく、少年はまだ彼には大きい着物を翻し、闇の中へと溶けていった。


 少年の姿が見えなくなり、私は再び祠の中へと閉じこもった。

「何だったんだろう、あの子」

 まだ年端もいかない少年に、自分の心が見透かされているようで私は不思議な感覚に襲われていた。

 紺の着物に、下駄に、あの狐面──。まるで神の遣いのようだった。

 私は短くなった蝋燭を消し、新たなそれに火をつける。薄ぼんやりとした炎が映すのは、黒い影や米俵、果物といった供物だけだ。

 山の神とは一体、どんな姿をしているのだろう。苔に覆われた翁か、それとも──。私はそれに殺されてしまうのだろうか。


 腹がまた痛み出したのは、明くる日の夜だった。まるでそれは私の栄養を食い尽くすかのように蠢いていた。きゅる、と不快な音が中で響く。また私の子供は獰猛に成長してゆくのだろう。

 先日の狐の面を被った少年のことを考える。あの時は彼の言葉の意味を理解することができなかった。しかし皮肉にも時間は有り余るほどにある。この状況を打破することができるのなら、どんなものにも縋ってみせよう。


 トントン、とまた木の叩かれる音。もしやあの少年が──と期待し祠を開けると、何やら奇妙な物体が地を這いながら私を見ていた。

 小さな悲鳴を上げ、後ずさる。目を凝らしてそれを見ると足が二本、三本、四本••••。ああ、何てことだろう。私が心の中で思い描いていた怪物によく似ている。

 ガサガサと祠の周りを旋回し、時折こちらを見て奇怪な声で鳴く。その余りの恐ろしさに私は全身の毛穴から汗が噴き出した。

 ああ、何てこと──。

 私はこんな怪物を、心の中で飼い育てていたのか。あの少年が云っていたことは、こういうことだったのか。

 立て付けの悪い祠の扉を両手で一気に閉めた。その途端、黒いシルエットが飛び上がり、扉の間から毛を纏った太い足が侵入してくる。

 力ずくで戸を押し付けると、その足は折れてこちら側にぽとりと落ちた。

 ぎゃあぎゃあと喚き声が聞こえ、暫くして静寂が訪れた。

 動悸が激しくなり、息が上がる。胸に手を起きながら、精一杯の深呼吸をする。


 気分が落ち着き始めても、鼓動は相変わらず速いままだった。その理由は、意識せずとも視界に入ってくるものがあったからだ。

 黒々とした毛むくじゃらの蜘蛛の足。それは私の腕よりも太く、あそこで断ち切ることができたのは奇跡と云っても良いだろう。

 あの少年の言葉を反芻する。

 ──悪魔の声に盲従していると、悪魔の子しか産まれませんよ。

 そうだ。私はいつからか、腹に宿る命を人間だと思って接することをやめていた。子供は母親の愛情で育ってゆくというのに私は、その子が誕生する時を怖れている。

 親の心が全て臍帯で伝わるのだとしたら、この子は数ヶ月間負の感情だけを吸って成長してきたことになる。

 子供に罪は無かった。あの姿を私に見せたのは、悲しみを訴えたかっただけなのだろう。こちらに飛びかかってきたのは、母親との別れを悔やんだから──。

 私にとって妊娠とは、最大の夢であり永遠の憧れだった。愛する者と結ばれ、孕む愛情。

 しかし私は、それがいつまで経っても叶わなかった。どんな形でもいいからこのお腹が大きくなってくれないかと何度も願った。

 それが叶ったというのに、今度はこの腹が萎んでしまうことを願っている。何と愚かな人間だ。私こそ悍ましい怪物ではないか。

 ごめんなさい、私の愛しい赤ちゃん。どうか優しい姿で生まれてきて。



 気が付けば私は、数人の村人に囲まれていた。眩しい朝日が差し込み、己の目を焼いた。

「山の神に授けて助かった人間など、数えるほどしかおらん」

「あんたは良くやった。さあ、村へ帰ろう」

 私をこの場に送り出す時の神妙な顔は既に消え去り、皆笑顔をこちらに振りまいている。

 不意に腹の方を見やると、その中に生体が宿っていたとは思えぬほど平べったい皮膚だけだった。

 村人が草履を手渡してくれ、私はそれを履いて祠を後にした。結局山の神の正体は分からなかったが、知らぬが華というものだろう。

 朝方の山路は、行きではきつい上り坂だったというのに、今ではきちんと先が見え、緩やかな下り坂になっていた。

 村人に何かをしきりに問いかけられた気もするが、私の耳はその言葉たちの侵入を許してはいなかったようだ。

「あの••••」

 私は凹んだ腹を摩りながら、談笑する村人に声をかける。

「私の子供は、どうなったのでしょう」

 震える声を絞り出した刹那、笑顔を浮かべていた村人の表情が一斉に曇った。

「──え?どうして誰も••••」

 男たちは焦ったように顔を見合わせたが、遂に何も云わなかった。

「あ!君!」

 私は村人たちを振り切り、先ほど下ってきた坂を再び駆け上がる。道にまで伸びた草に足を取られながら、闇雲に走った。

 ついに祠の姿を認め、私は急いでその扉を開けた。その先に、己が腹を痛めて産んだ子供が眠っていることを信じて疑わなかった。

 ゆっくりと二畳ほどの祠の中を見渡す。すえた臭いのする畳に置かれた腐ってしまった果物たち、虫に喰われた団子。

 そして──。


「あ、があ••••がっ••••ぎゃあああああああああああああ」

 私は、自分が発したとは信じられぬほどの咆哮を上げながら、血の味がする涙を流し続けた。

 畳に広がる液体の染みに横たわっていたのは、いつかの夜に見た巨大な蜘蛛でもなく人型の胎児でもない。掌くらいの大きさの、白く濁る小さな八つの卵だった。

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