第三十八話 逃亡
突き出した頭部は、薄絹のような皮膜を容易く破る。
抵抗なく砕かれた殻からは、四対の毛深い足が姿を見せる。
尻を突き出すようにして、膨らんだ後体部が邪魔な鎧を吹き飛ばす。
手を動かす。
体に纏わりつく粘液を、二本の触肢でこそぐように落としていく。
歩脚たる八足を妨げないよう、念入りに。
悠長な真似をしている余裕は、実はない。
生まれてから未だ一分と経っていないが、何の因果か既に命の危機に瀕している。
蜘蛛という生物の生態を考えれば、予想は出来た事ではあるのだが。
(そう言えば蜘蛛になったんだったか……流石に速い)
鬱陶しい汚れを払い落とした後の八足は、尋常ではない速度での移動を可能にしている。
陸路での移動に関して、この森で蜘蛛達に敵う昆虫は残っていないだろう。
しかし、条件は敵も同じ――否、敵の方が有利ですらある。
尤も、それはこちらが転生を繰り返していなかったら、という条件の下であるが。
(子供殺し、こんなに普通にやるんだもんなぁ……)
やるせなさに胸が痛む。
自分は何と言うか、それなりに覚悟を持って行ったのに、今の相手はその気配を欠片も見せない。
そんなものかと納得してしまう自分に、少し呆れた。
(所詮ゲームだし……悲愴ぶってても仕様がないよな)
溜め息を吐く。
その間にも、体は愚直に逃げの一手を選んでいる。
そう。
逃げの一手を、選び続けなければいけない。
「……それにしても、何で俺を追ってくるかなぁ!?」
愚痴を零しながら、ちらりと後ろを見やる。
そこに居るのは、駆ける黄金の影。
怒りの形相で俺を追う、一体の蜘蛛。
赤子の蜘蛛を二回りも大きくしたような、巨大な体躯。
ギラギラと鈍く輝く、趣味の悪い山吹色の体表。
一歩一歩が地面を掘り返す、太く毛深い八足と二手。
紫に濡れた鋭利な牙が見え隠れする、開かれた口元。
そして殺意を迸らせる、四対の単眼が輝く。
「恨まれるような真似、した覚えはないってのに!」
転生を繰り返し、飛躍的に向上している筈の俺のステータス。
いくらレベルが一だとは言え、その素早さは並大抵のものではない。
しかし、相手は最上級のモブモンスター"トラップ・スパイダー"。
上位種と下位種、レベルの差があるとしても、俺に追随してくるなど信じ難いが、事実として現状がそれを物語っている。
(だけど……望みはある、んだよな……少し残念な事に)
生誕直後、振り下ろされた凶刃を避け、逃走を開始した当初は罠蜘蛛の方が若干速かった。
しかし今では、俺の方が僅かながらも素早く動けている。
その間にレベルアップを行う余裕は、当然ながら存在しなかった。
それは取りも直さず、蜉蝣のデメリット及びメリットが継承されているという事だ。
(時間経過による体力の減少。それと、体力低下に伴うステータスの向上、か)
転生直後の、貧弱極まりない体力だからこそ、こうも容易く効果を発揮しているのだろう。
それはありがたくもあり、同時に歓迎できない事態でもある。
このまま逃げきれずに逃走を続けていれば――程なくして自滅するだろう。
それでは本末転倒もいいところだ。
「だからって、易々と逃げさせてもらえないのが、なっ!」
背後から感じた悪寒に従い、無理矢理に体を横っ跳びさせる。
無茶な制動に関節が悲鳴を上げ、体力の減少を本能で感じ取る。
だが、多少の無茶は元より折り込み済みだ。
何故なら、万が一避けなければ――
「予想通り! つか危機察知能力高くなってるなぁ!」
俺の体があった位置を、一条の白槍が通り抜ける。
風を引き裂きながら通過して、先にある樹木も突き抜ける。
それは糸。
ガチガチに固められ、金属も容易に貫けるだろう必殺の威力を内包する、罠蜘蛛の主武装の一つ。
「ホント、厄介な!」
蜘蛛の武器は多岐に渡る。
破壊力に優れる尖爪に、毒を付与された鋭牙。
後背の膨らみから出る三種の糸や、純粋な一線級のパワー。
それに何より、部位欠損程度では怯まない鋼鉄の戦闘意志。
生命力――つまりは体力が鬼畜な程に高いのも、それを助長している。
(いつかの未来を考えれば、蜘蛛に転生出来たのは喜ぶべきだろうけど……最初からクライマックスとか勘弁してほしい)
内心で苦々しく思いながらも、逃走のために次善を尽くし続ける。
最善――逃走の原因の排除は、至難と言わざるを得ない。
故に取れるのは、次の瞬間の死を免れるための方策しかない。
「くっそ、いい加減に諦めろよ!」
罵声を浴びせるが、何のその。
気にした風もなく、放射した糸を捨てて再び駆け出す罠蜘蛛。
あまりの諦めの悪さに舌打ちを鳴らし、動かす足を速める。
(……二足歩行。いや、四足歩行でも、こんなに走ってたら一度や二度は間違いなく転んでるだろうなー)
一種の極限状態にいるせいか、益体もない思考が脳裏を掠める。
頭を振って排除して、不意に思いつく。
(……空はどうだ?)
咄嗟の思いつきだが、存外悪くないかもしれない。
足が多いのは地上では有効だろうが、空中では邪魔な重りにしかならない。
それは俺にも言えることだが、おそらく問題はない。
根本的なサイズの差が明暗を分けてくれる筈だ。
(そうと決まれば……!)
気をつけるべきは、飛ぶ瞬間。
もし糸で撃ち落とされでもしたら、待つのはデッドエンドのみ。
――逆に言えば、それさえ乗り切れば逃げられる!
「――っしゃぁ!」
決断からの行動は早く。
別の方向に糸を放射した瞬間を見計らって、跳躍する。
そこから、慣れた調子で羽を――
「……あっ」
落ちる。
背中を地面に強かに打ちつけ、ひっくり返った体をじたばたさせる。
焦りが邪魔をして、起き上がるの妨げる。
「や、え、ちょっ、何で!?」
狼狽しかけて、視界が潰される。
右側の視界を埋め尽くしたのは、罠蜘蛛の剛毛。
辛うじて一つが残る左の目には、のしかかる巨体が見えた。
(あ、死んだ)
予想を違う事なく、噛みつきの一撃で体力を全損する。
抉られた腹部が、微妙な風通しのよさに変な気分を覚える。
バリバリと貪られ、毒液で体を消化される感覚には、言語化し難いむず痒さのようなものがある。
(……まぁ、それにしても――)
どうして飛べなかったのか――罠蜘蛛を観察して、即座にその理由に気付く。
寧ろ何故気が付かなかったのかと、先の自分に訊ねたかった。
と言うか最初は気付いていた筈なのだが、いつの間にか忘れてしまっていたらしい。
(――蜘蛛に羽ってないじゃん……)
そんな事を今更理解して、意識は空虚に溶けていった。




