第三十五話 産みの苦しみ
ふぅ、と息を吐く。
どこか艶めかしさの残る吐息。
熱っぽく、粘ついた、荒々しい息吹。
戦ぐ冷風に体を晒す。
昴り、火照る体の熱を奪っていく。
脳の興奮を鎮め、思考を再開する。
(賢者タイムが恋しい……いや、何でもない。何でもないさ、うん)
自分で思う程に冷静でもないらしい。
ぐるんと首を回し、頭殻の中身をシェイクする。
大切なものが掻き回される感覚に恍惚とした。
(……ッ! は、ぁ……)
ゾクゾクと背中を這い上がる快感。
口から漏れ出る声は、常では気色悪いとすら思うだろう。
今だけは、その想いも遠い。
陶酔感。
アルコールでの酔い方とは違う、悦楽のみが脳をくすぐってくる。
まともな思考は許されず、ただただ快感のみを貪り求める。
「はあああああぁぁぁ……」
体を蝕む微熱は段々と強くなり続けている。
大鍋でぐつぐつと煮えられるように、何もせずとも消耗が止まらない。
その中でも、頭一つ抜けて熱を増しているのは──
(腹の中に違和感……? いや、今気にしている余裕はないんだ。早急に解決しなきゃいけない問題は……)
軽い――重力を感じられぬ程に軽過ぎる体。
スキル取得の前は寧ろ、地上での行動に支障が出かねない程度には重かった。
つまり体力は満タンか、それに準ずる位にはあったのだ。
それがたったの十数分後には殆ど失われているなど、何らかの原因が存在して然るべきだろう。
(考えるより先に、まずは……)
行動しなければならない。
止まっている間にも体力が減っている恐れがある以上、速やかに吸血を行わなければならない。
知覚出来る範囲に手頃な敵を確認出来ないのだから、この場に留まって思索に耽る余裕はない。
「……とは言っても」
ともかく、異常なまでに体力が落ちている以上、あのスキルは何らかの効果を発動しているのだろう。
それが今も継続して効果を発揮しているかは分からないが、何かは起こった筈なのだ。
腹部の異物感。
どこか温もりさえ感じられるそれは、どうにも悪いものには思えない。
不快感よりも先に、好意の情が立つ。
「結局、何も分からず、って。そんなもんかね」
無意識に腹部を愛おしげに撫でる。
視線は空へ向いたまま、宿った何かを慈しむように。
繰り返し、繰り返し。
「……行くか」
決意を新たに、羽撃く。
木の上の、ぶつからない程度の高さまで。
地上を見下ろして、餌を探す。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――テッテレー! Falioはレベルが70に上がった!
「ふぃ、ぅぅぅぅぅ……」
深く長く、嘆息する。
転がる戦利品、興味を欠片も抱かないそれを意識から外す。
五つ目のレベルアップは、群がる七体の蚤を一蹴して起こった。
「少しばかり、芋虫の頃が羨ましく思えてくるかも。敵一体を倒せばレベルが上がるなんて、楽でしょうがなかったもんなぁ……」
口にしつつも、内心では半分も肯定出来ない。
芋虫の頃では勝利とは効率的でも、かつ絶対的でも得られるものではなかった。
いくら必要経験値が少なくとも、取得経験値も少なければ価値は薄れる。
と言うか、戦闘の楽さから言って、二度と芋虫に戻りたくはない。
戦闘の度に死に怯えるような事は避けたい。
埒もない事を考えていると、不意に違和感が走る。
急激に熱を帯びて、羽の一つも動かせなくなる。
ピリピリと電流が体中を駆け巡り、熱に浮かされてふらついた体が横倒れする。
(何だ……? 何が起きている?)
パクパクと開閉する口からは音が出ない。
蛾の麻痺鱗粉を受けた時のような状態だが、周りに敵の存在は認められない。
風は凪ぎ、森は深く、地は悠然と止まっている。
生物の呼吸一つない空間で、倒れ伏したまま状態を検査する。
ギョロギョロと視線を巡らせても、体にも周囲にも異常は見受けられず。
手足に力を込めてみても、ピクピクと震わせるのが限界という始末。
頭は浮ついたように、羽のように軽い。
時間を経過するごとに、体は熱さを高めていく。
その大元は、どこか予想していた、下腹部の中身。
(ちょっと……忘れてたな。あは、ははは……)
内心だけで苦笑して、取るべき手段を考察する。
けれども、出来のよくない頭では何も思い浮かばない。
と言うより、何も出来ない状態で出来る事なんて、そんな矛盾した事は――
(……っ!?)
急激に違和感が強くなる。
体内に感じていたそれは、緩慢に体の外へと押し出されていく。
ずちゅり、ずじゅる、と音を立てて何かが排出される。
「ぁ、っ……っ! っ、ぁ……っ!?」
声にならない掠れた音。
違和感が脳を侵食し、正常な機能を妨害する。
思考能力を奪い、制御能力を奪い――狂わせる。
「――、――」
ぼやけて混ざる視界。
聞こえてくるのは壊れたテレビの電波音。
蕩けるような、醒めるような異臭。
苦くて辛く、甘くて酸っぱい味わい。
膨らむような、萎むような感触。
「――ぁ、――っ、――――ぃ!」
混迷を極める状況下。
狂った五感に惑わされながら、狂気の時間は過ぎていく。
やがて、事態はきちんと終わりへ向かう。
「――――っ!? あああああぁぁぁぁぁあああぁぁぁあぁっっっ!!!!!!」
突然解放された喉は、猛る遠吠えを上げる。
叫びながら、体から抜けていく熱の塊を感じる。
途切れて、静まると、体の機構も動作を始める。
重い腕を動かし、胴体を僅かに浮かせる。
無理矢理体を翻して、やっと視界に入った物は――
「たま、ご……?」
白い卵。
鶏卵のような硬質なものではなく、どちらかと言えば蛙のような脆そうなもの。
粒のような小さな球が、幾十幾百、粘性の液体に絡まって転がっている。
「は、ははは……どう、反応しろと言うんだ、これは」
よろよろと立ち上がり、一本の腕で頭を押さえる。
冷たい夜風のおかげか、昴りも治まりを見せている。
腰砕けになって地面に座り込み、乾いた笑いが零れる。
見上げた夜空には、綺羅星がぼんやりと見えた。




