第三十一話 空の洗礼
それから。
無為に時間を浪費していたかと問われれば、答えは否で。
たとえ結果論に過ぎなくとも、事実として問題は解決を果たしていた。
黄昏れて――正確に言えば、だらけていた時間を無理矢理に終わらせて、気が乗らないながらも再々羽撃きを始める。
すると、ふわり、と。
綿毛が風に舞うように、何の重圧も感じずに、空へと浮かんだ。
やはり何も言えず、ただ唖然と、憮然としている外なかった。
その後も何度も敵と戦闘を繰り広げ、速過ぎて慣れない体にダメージを受ける。
その度に地上に降りて弱者から体力を奪い、飛ぼうとして倒れたり、落ちたりする。
何回もそんな事を繰り返していれば、その原因にも見当は付く。
――つまり、吸血が原因なのだ、と。
分からない程に、愚かでもなかった。
体の扱いにも少しずつ習熟し、無用に怪我を負う事も減ってきた。
元から慣れていなかったのは速度だけなので、それ程時間もかかっていない。
だから、これからは、態々回復するために飛行を中断する必要はない。
思う存分、飛んでいられるのだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時間は過ぎる。
空は茜色に焼け、黄金の月がその姿を覗かせる。
沈みかけの太陽は、最後にと美相の煌めきを瞬かせる。
森の上空を好き勝手飛び回り――異様な雰囲気を放っている箇所は意図的に避けながら――偶に手慰みにと飛んでいる昆虫を仕留める。
我が世の春が来ている、とでも言おうか。
いつの間にやらレベルも四十二まで上がり、正面からぶつかりあって押し負ける相手も居なくなった。
――かつてであれば、そうはいかなかっただろう。
空を巡回するのは、常に彼の役目だったのだから。
ドラゴニック・トンボ――今は亡き、昆虫族最強の一角を占めた大型の肉食虫。
迂闊に空へ飛び出そうものなら、須くその身を貪られる事となっていた。
因みに俺も過去に一度、空へと逃げた獲物を追って龍蜻蛉と遭遇している。
その時は遠くから信じられないような速さで近付いてくる影に気付き、即座に身を隠したから獲物が犠牲になっただけで済んだのだが。
何か他の要因があったら俺も食われていたかもしれない、そう思うと背筋も冷える。
ともかく、唯一絶対の支配者だった龍蜻蛉が葬られたために、この森林の空は群雄割拠な時代に突入していた。
簡単に言えば、ひたすらに弱い敵にも絡まれるものの、一強のモンスターと遭遇する可能性は減ったという事だ。
時間が経てばまた新たな強者が生まれてしまうだろうが、その前ならば話は簡単だ。
並居る有象無象を蹴散らして、自分だけの支配領域を作り出せばいい。
俺では龍蜻蛉のように絶対的強者とはなれないだろうし、なる必要も感じられない。
儚い蜉蝣らしく、慎ましく過ごせればそれでいい――とまでは流石に言わないが。
一国一城の主には、なってみたいような気がする。
それに手が届きそうだと言うのなら、尚更に。
そうして、空を自由に飛び回って、幾時か。
夜の帳が下りきり、黄金の月が天頂で輝く。
レベルが上がり続けているおかげか、飛ぶ速度も段々と増している。
当初と比較して一・五倍程か、自分の事とは言え信じがたい上昇振りだ。
「クッハッハハハハハッ! ハッハハハァッ!」
テンションも馬鹿みたいに上がり、哄笑を漏らして飛翔する。
羽撃きは加速を続け、可聴域を越えた高音を響かせる。
飛刃を適当に散撒き、通りすがりの弱者を 墜落させていく。
「弱い弱い弱い! 物足りねぇぞっ! クハハハハッ!」
誰も居ない空の下、昴揚した精神が戯れ言を喚く。
冷静な平時であれば頭を抱えたくなるような、自身の痴態。
いつからか。
俺でない何かが生まれたのは、いつが始まりだっただろうか。
羽蟻の頃は、自覚していたので間違いない。
女王に操られないよう、避けてすらいたのだ。
その前の芋虫――確証はないが、おそらく既に生まれていた筈だ。
女王と邂逅した時に、一瞬だけ体を乗っ取られていた……ような気がする。
今一つ記憶も定かではないので、確信はやはり出来ない。
藪蚊は、と。
考えて、思い出す。
初めて別の自己を認識したのは、そう言えばこの時だった。
甲虫の番と遭遇し、何故か戦闘を行う事になり、そして気が付いたら雌に殺されていた。
何が起きていたかは決して思い出せないが、何かが起きていたのは確かだった。
ならば、それ以前は?
その前まで遡ると――つまり、俺が芋虫になった初めは――どうだった?
――ミシリ、ギシ、ギシ、グギリ。
突然に走る、頭該を割るような痛み。
幻痛が脳髄を蹂躙する。
痛みから目を逸らすように、渦巻く狂気を発露して――
「クハッハハハッハハハハハッ! クッハッハ……ッハッ、はぁっ……?」
突如として、体から力が抜ける。
徐々に体の動きが封じられ、振動していた羽も止まる。
落ちる。
墜ちる。
堕ちていく。
空気抵抗を一心に受けながら、放物線を描いて落ちていく体。
突然の窮地に、混乱する頭は答えを出せない。
原因となった事柄を考えようとしている間に、明確な死の足音が近付いてくる。
錐揉み回転しながら、近付く地面を見下ろす。
揺れて、ぶれて、回る視界には、緑色と茶色が混在する。
それが何かを認識出来ずに、激突する。
――ドォン!
――グジュリ。
爆発でも起こったかのような衝撃が発する。
そして、俺はただの土の染みに変わる。
全身を隈なく押し潰そうとする圧迫。
平べったくなった体は、脳に異常を処理させる。
ぐちゃぐちゃに、物理的にも心理的にもなってしまっている現状で、考えているのは一つの事。
それを想いながら、意識は薄れていく。
――嗚呼、もっと飛んでいたかった、と。
そんな他愛もない望みを、胸に抱いて。