第三十話 空への憧憬
パキ、パキリ。
ビリリ、ビリビリ。
繭を破り、肉体を産み出す。
纏わり付く糸の破片を払い除け、生乾きの甲殻を大気に晒す。
湿り気を帯びた柔皮は、時間とともに硬化を進める。
「……何度目だったっけ。芋虫、藪蚊、芋虫、蟻、蟻地獄……最初の芋虫は数えないとして、これで五回目の変化って訳だ」
首を軽く回す。
固まり始めの甲殻がパキパキと気持ちのいい音を立てる。
背を反って伸びをし、大きく深呼吸を一つ。
体の感覚を確かめるように、体中の可動部を動かしてみる。
「……繰り返せば慣れるかとも思ったけど、今一慣れるものでもないのか。まあ、死ぬ時の消失感とも別物だから、それ程嫌悪はしてないけど」
腕の一本を頬を掻こうと伸ばす。
勢い余って口の中に入り込んだ手を慌てて引き抜き、プラプラと振るう。
存在しない味覚に、口の中には違和感だけが残る。
「あっと……この体、蜉蝣だよな? 何か、脆いって印象があるけど、飛ぶのは早いんだっけ」
呟きながら、全身をぐるりと見回す。
まず見えるのは、棒状の胸部と腹部の淡褐色。
その上に薄く、しかし隈なく生え揃った黒い剛毛。
首を回せば、力なく垂れる、網上の脈が張り巡らされる羽。
そして、静かにその存在を主張する雌雄の生殖器を最後に頭を戻す。
(……えぇぇぇ……)
何と言うか、溜め息しか出ない。
端的に言って、蟻地獄の方が強そうだった。
柔く、脆く、儚い――蜉蝣には、そんな印象しか受けない。
「前から貧弱なのは分かってたけど、これはなぁ……とりあえず、ちょっと飛んでみようかな……?」
背中に付いた、透明の四枚羽を軽く震わせる。
ブゥゥゥゥゥ――と重い風切り音が響く。
そして間もなく、ふわり、と浮かんでいく体。
「うわっ……!? ――痛っ!」
反射的に羽の動きを止め、地面に落ちる。
体が軽く潰れるような感覚。
未だに痛いと言ってしまうのは、誰が見ている訳でなくとも羞恥を覚える。
「……ふぅ」
小さく鼻息を漏らす。
何事もなかったように、むくりと起き上がる。
幸いにも、体のどこにも異常は出ていないらしかった。
体に付いた土を払い――元から付着していないと直後に気付き――小振りな爪で頬を掻く。
「……こんなに簡単に体が浮くのは初めての経験だな。儚い生き物って言われてるし、自重が軽いんだろうか」
確認するように、その場で何度か跳躍してみる。
その気もないのに、僅かな時間ながらも滞空出来てしまう事に驚きが隠せない。
藪蚊も随分体重が軽かった(と記憶している)が、蜉蝣の体はその上を行くようだ。
「……問題なく飛べそうだな。いや、何せ蟻地獄の時でも飛べたんだから、そこに不安は感じてないが……って、誰に言い訳してるんだか」
最近、微妙に独り言が多いような気がした。
無意識の内に人恋しさを覚えているんだろうか――先日、女王の一件で久し振りにプレイヤーと接触したのが原因かもしれない。
芋虫の体になった時から声ならぬ声は多く上げていたし、その名残でもあるかもしれない。
そう言えば自分はモンスターなんだよな、と今更に過ぎる事を再確認し、緩やかに浮かび上がる。
滑らかに体が空を漂い、吹き抜ける風を一身に浴びる。
思わず嬌声でも発してしまいそうな快感に、背筋がゾクリと震えた。
(気持ちいいなぁ……んん、それじゃあ行きますか)
穏やかだった羽の動きを加速させる。
重たい音は次第に鋭く、甲高く変わる。
キィィィィィン……と風を切りながら、引っ張られるように宙に飛び上がる。
「空中散歩……ってのも、乙なものかも。ははっ」
愉悦に口を歪めて、銃弾のように勢いよく飛び出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
飛行は順調だった。
何度か飛んでいる虫に遭遇したものの、それらは問題にならない。
藪蚊や毒蚊、増して蟻地獄など及びもつかない高速で飛び回る俺に、追いつける敵はほぼ居なかった。
それに、レベルも少しだけ上がった。
蜉蝣の脆さはある程度自覚しているので、戦闘は出来るだけ避けていた。
逆に言えば、戦闘にならなければいいのだ。
一撃で沈められるだろう貧弱そうな昆虫――それも、藪蚊に限定して、攻撃を仕掛けることにした。
まず選んだ攻撃手段は、突撃速度を生かした体当たりだったが、これは直ぐに失敗だと悟った。
突撃の勢いが強過ぎて、反動で受けるダメージが非常に大きいのだ。
耐久力が転生で上昇していなかったら、間違いなく死んでいただろうと思える程の大ダメージだった。
次に選んだのは、これまでにも存分に活躍している吸血だった。
だが、これは実行する前に却下した。
高速移動中に舌を伸ばすと、風圧的な何かで折れてしまうのだ。
飛行中に何の気なしに伸ばしてみたら、体勢が崩れてあわや墜落の危機に晒されたのだった。
そして最終的に選んだのが、新たに修得していた【飛刃】というスキルだ。
これは蛾との決戦で女王が使っていた、所謂ソニックブームを発生させる攻撃だ。
とは言っても、意識して使った訳ではない。
偶然に、いや、ある意味で必然として起きてしまったのだ。
ただ、そう。
――突撃してきた蜂を寸でのところで躱したら、勝手に発動した【飛刃】が蜂を知らぬ間に落としていたのだ。
危なかった、などと愚痴る間に唐突に鳴ったレベルアップの音に、俺もまた墜落しそうになったというのは、笑い話にしかならないだろう。
そして、問題はここから始まる。
初めの衝突を発端とする、僅かずつながらも削られていった体力。
蟻地獄の頃であれば無視出来たであろう被ダメージの量も、蜉蝣となった今では放置しておけない。
掠めた程度であれ、敵の二、三度の攻撃分の体力を回復しようと、一旦地上に降りて吸血する獲物を探した。
程なくして見つけた一体の羽蟻に、背後から頭部へ管状に丸まった舌を突き刺す。
一撃で意識を奪い取り、抵抗を許さないまま体力を回復させていく。
元々の最大値が低いのか、一体だけで十分に体力を取り戻す。
どことない充足感を得て、飛び立とうと羽を振動させ――跳躍した直後に墜落した。
突然の事態に理解が追いつかず、暫くそのまま無様に地に伏す。
おもむろに立ち上がり、頭を捻る。
考えているようで、事実何も考えられず、再度羽を震わせる。
今度は慎重に、注意を密にしながら、少しだけその場で跳んだ。
ほわ、と微かな浮力を感じた後、静かに足が地面に接する。
無言。
何も言えない。
何の前触れもない異常の発現に、口に出せる言葉がない。
全身を精査して、羽は勿論、どこにも異常が見当たらない事に口をまた噤む。
おっかなびっくり、よろよろと飛ぶ事は出来るだろう。
一応さっき、飛べそうだとは感じられた。
だが、それだけだ。
先程までの高速飛行は、望むべくもない。
得も言われぬ徒労感。
別に何をしたという訳でもないだろうに、体がずっしりと重たく感じる。
それは錯覚か、それとも正常な知覚の結果か。
分からず、空を見上げる。
青く、蒼く、碧い空。
薄く棚引く白雲に隠された、切れ切れの太陽。
旋風に揺れる、深緑の木の葉でさえ。
手を伸ばせば届きそうで、けれど果てしなく遠く。
伸ばした一本の腕は、何も掴めずに、ただ空を切った。