第二十九話 進化の軌跡
蟻地獄に転生してから、一昼夜を越えて。
今俺が居るのは、プレイヤーの男を殺した場所から程遠い。
何となく、あの場所で倒し続けるのが嫌だった。
掘った穴はそのままに放置したので、誰かが気付かずに嵌まってしまう事もあるかもしれない。
どうでもいい――とは流石に思わないが、まあ不幸な方はご愁傷様、と言ったところ。
それに、早めに穴に入れば、男のドロップアイテムも拾えるだろうし、寧ろ得するかもしれない。
至近距離で殺したために、何であるかさえ確認出来ないまま拾ってしまったいくつかは除かれるが、ほぼ全てのアイテムが残っているのだから。
ところで、俺が次に狩り場に選んだ場所は、どことも知れない大樹の側だ。
実際、理由と呼べるものはない。
強いて言えば……フィーリングだろうか?
微妙に陰鬱な気分を引き摺ったまま彷徨していた俺に、深い思索は不可能だった。
何となく良さそうに思った――のかさえ今でも不明だが。
ともかくも、そんな軽過ぎる理由で掘った穴ではあるものの、結果は上々。
敵が穴に落ちる度に見る空は、記憶にある始まりからあまり変化が感じられない。
……だと言うのに、既に二十を越えるモンスターを倒していた。
それも芋虫のような雑魚だけでなく、蟻や甲虫、小亀子など多種多様な昆虫が既に経験値と化していた。
前の立地が悪かったのか、今の立地が特別なのか――おそらくは後者だろうが、どちらでも構うまい。
結果として、非常に効率のいいレベル上げが行えているのだ。
落ち込み気味だったテンションもじわじわ上昇し、今では嬉々として餌がかかるのを待っている。
七十にも迫る俺のレベルは、進化がそう遠くない事を教えていた。
(――来た)
そうこう考えている間にも、新たに落ちてきた芋虫の体を顎で挟む。
ぶくぶくと肥えた体は容易く断ち切られ、体液を撒き散らしながら流砂に飲まれる。
芋虫は未だ状況の急激な変化に追いつかないらしく、その顔に驚愕を張り付けながら、遺骸を静かに消滅させた。
――テッテレー! Falioはレベルが71に上がった!
レベルアップの音に喜びを隠せず、口元が微かに弧を描く。
内心でくつくつと笑いながら、落とし穴の偽装を元に戻して次の獲物の来訪を待った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――オオオオオォォォ……。
――グィィィクゥゥゥ……。
二体の昆虫の断末魔の叫び。
甲虫の巨体が穴に蓋をし、天道虫の矮躯が二つに分かたれる。
俺はその光景を、地中ではなく地上で目にしていた。
好きでそうしている訳ではない。
寧ろ、可能な限り穴から出ないようにしている。
甲虫と天道虫がアイテムに変わる。
その最中から穴の中へと潜り直し、慣れた手つきで入り口を埋める。
そこまで終えて、ようやく一息ついた。
――テッテレー! Falioはレベルが97に上がった!
――テッテレー! Falioはレベルが98に上がった!
――テッテレー! Falioはレベルが99に上がった!
レベルアップの音が止まる。
後一レベルで進化だと思うと、流石に惜しく思った。
(……まあ、気にしなくても、すぐに進化出来るだろう)
溜め息を吐きたくなる。
原因は、ある意味でストレスなのだが。
対処の仕様がない事に、改めてどっと疲れを感じた。
あれから、何体もの昆虫を倒していくにつれて、落とし穴にはいくつもの問題が浮き彫りになっていった。
穴が小さくて大型の昆虫には上手く効果を発揮しなかったり、複数の敵が同時に来た時の被ダメージ戦闘について、等。
そう時間もかからずに判明した諸問題は、しかし解決にまで至らなかった。
理由は、単純極まりない。
穴の改造を試みる時間もない程に、敵が頻繁にやって来るのだ。
奇襲による利点を生かす以上、俺が敵と対峙するのは地中でなければならない。
地上でも戦闘自体は行えるが、ここ周辺の敵は異常なまでに群れている。
そもそも、俺が正面から相対して確実に勝利を収められるだろう敵さえ早々居ない。
加えて、俺の使うスキルは完全に対個用なので、多対一の戦闘では死の危険が著しく高まる。
故に俺は不用意に穴から出る事も叶わず――時にはダメージ覚悟で複数の敵も退けながら――レベルだけを順調に上げていた。
(しかし……流石に気疲れが酷い……)
獲物に警戒されないために、一番気を遣うのは戦闘を見られないようにする事だ。
事前にばれている奇襲程、滑稽かつ危険なものもない。
行動は迅速かつ最小限に、見られる可能性を出来るだけ減らす。
絶え間ない戦闘の度にそれだけ気を張っていれば、疲労が蓄積するのも当然だった。
(……おっと、記念すべき進化のための餌が来たか)
地面の微かな振動を感じ取り、敵の登場を確信する。
気持ちを入れ替え、軽く舌舐めずりをする。
十分に身構えて、罠にかかるのを身じろぎもせずに待ち続ける。
(ん……? おかしくないか?)
未だに、敵が罠にかからない。
それどころか、振動が段々と強まっていく。
ズシン、ズン、ドン、ザー、ズシン――地面を踏みつける音まで、地中の俺に聞こえてきた。
得も言われぬ不安が沸き上がる。
(まずくないか? これ、大型……なのは、まず間違いない。俺の穴は中型の昆虫達でもギリギリで入らないのに、大型とか絶対無理だ。罠の意味があるかさえ疑わしい)
膨れ上がる焦燥感。
近付いてくる巨躯の闊歩が、思考の冷静さを駆逐する。
秒刻みで大きくなる足音の増大は、俺の不安を表しているかのようだった。
(決断を、しないとな……)
一歩一歩が地震のごとく、隠れる体も揺れ始める。
時間はもう、残り少ない。
早急な、一刻も早い決断が必要とされている。
(もう少し遅ければ、進化できたんだが……言ってる余裕は――)
「ないな!」
ザパンッ!
逃げると、そう決めたのなら迷わない。
即座に地中から飛び出し、迫る昆虫の姿を何気なく視界に捉える。
そして、ピシリと体が凍り付く。
その威容は悠然と。
伸びる三本の刀剣は、絢爛でありながら剛健で。
佇むだけで、漏れ出る気配は濃密極まる。
クリーム染みた薄茶色の体色に、紅色の波紋が複雑に走り回り。
跳躍していてなお、見上げる程に巨大な体躯。
それでいて、その後ろに道はない。
森の守護者であり、調停者。
――トライホーンクワガタ。
森林で最強の個体が、俺の前に立ち塞がっていた。
「はは、は……あ、はははっ……」
引きつった、乾いた笑いが零れる。
ここの罠にいくら何でも敵が現れすぎじゃないか、俺はそう考えてもいた。
そして、その考えが正しい事が、眼前で完全に証明されている。
立ち並ぶ影。
芋虫が、蟻が、蜂が、毒蚊が、甲虫が、飛蝗が、藪蚊が、金亀子が、刃蠅が、天道虫が、蜉蝣が、蚤が、蛆虫が――見知った昆虫達が、全てこの場所に集っている。
残った唯一の王の下に馳せ参じている、のだろう。
そうだとすれば、この場所に敵が来過ぎる程来ていたのも納得出来る。
「■■■■■――! ■■■■■■■■■■――――!!」
トライホーン・クワガタが咆哮する。
自身の存在を猛々しく主張する、王者の雄叫び。
ビリビリと大気が震え、木々が揺れて葉擦れを奏でる。
向けられる先は、同族殺しの裏切り者。
王者の視線が、憤怒を秘めて睨め付ける。
喉がカラカラに渇く。
総毛立つ程のプレッシャー。
一つだけではない、
敵を――否、塵芥でも見るような幾多の眼光。
視界の端々に映る数多の瞳は、ギョロギョロと忙しなく蠢いている。
(――殺される!)
背筋を悪寒が駆け抜け、そんな確信を抱く。
全身の震えを自覚する。
知らず、体が硬直している事実を、今更になって初めて把握した。
(……に、逃げないと。逃げないと、また細切れに殺される。あれは、嫌だ。もう、嫌なんだ)
混乱に叩き込まれた思考がそう判断するも、現実を見据えきれていない。
四方八方を敵に囲まれ、抜けられそうな隙間はない。
たとえ空を飛んだとしても、蜉蝣や毒蚊等の空戦能力持ちに押し止められ、撃墜は免れないだろう。
(……だけど。でも。そうだとしても)
諦められない。
諦める必要はない。
僅かでも可能性があるのなら、それに賭けるに越した事はない。
こんな、どのモンスターに拾われるかも分からない状況でアイテムを失う――奪ってしまった者として、そんな事態は許容出来ない。
生き延びる手段が残っているのなら、足掻かずにいられる筈がない。
(だから――)
……最悪、俺は死んでもまた生き返るのだ。
いつか、殺し尽くして、再び取り戻せばいい。
「――押し通らせて貰うっ!!」
絶叫し、飛び出した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「はっ、ひっ、はっ、はっ、はっ……」
息を吐き、吸い、吐き、吐き、吐く。
繰り返し、繰り返し、気息を徐々に調えていく。
それでも暫く、荒く激しい息吹が続く。
「はぁ、はっ、ひっ。ひっ、はっ、ひっ、はぁ、はっ。ひっ、はっ、はぁっ……」
吸って吐いて、吐いては吸い、吸って吐き出す。
嘔吐感は振り払い、余計なものは吐き出さないように気を付けて。
尤も、余計なものが吐き出せる機構は付いていないが。
「がっ、あぁっ、ぐぅ……ふっ」
呼吸が落ち着くに従って、傷口の煩わしさが気にかかるようになる。
むずむずとした感覚に唸り声が上がる。
ちらと自分の体を見直して、思わず苦笑が零れる。
体の節々には大小様々の穴が空いている。
手足は折れ、甲殻はボロボロで、鎌状の顎は根本から断ち切られている。
ここまで飛んできた羽ももう飛行限界だったのだろう、薄羽は見ている前で無惨に朽ち果てていった。
精神的にも限界で、気力を振り絞っても立っていられない。
満身創痍――その四文字が自然と脳裏を過った。
その表現は、正しく自身を表している。
実際、死ななかったのはほとんど奇跡だ。
藪蚊の頃に取得した高速飛翔のスキル、女王を食らって著しく上昇した基本ステータス、そして堅固な蟻地獄の甲殻。
それが上手く絡み合い、ギリギリの綱渡りをどうにか成功に導いた。
足の遅い虫を壁にして、防備の柔らかな壁を突き破り、時には態と攻撃を受けて致死を避ける。
これまでに培ったプレイヤー・スキルを存分に駆使し、いくらかの幸運も手伝って、俺はあの絶望を乗り越えたのだ。
だが、しかし。
「は――」
喉の奥から漏れる吐息。
空気を微かに震わせて、溶けて消える。
刹那、何かが決壊したように、口を大きく開く。
「あは、あはははは、あっははははははははっ!」
体の奥底から沸き上がる衝動。
その発露は、抑えられない。
狂ったように、壊れたように、哄笑を高らかに喚き散らす。
「あっははは! あはははははははっ! あはははあっはははっはははははぁぁぁあああがっ! げぇづっ、ばっはははあああああっはははははっあはははぁぁぁっ!!」
嗚呼――最高だ。
生きてる。
生きている。
生き残っている。
それだけの事が――――なんて素晴らしいんだろうか!
愚者のように馬鹿笑いをして、歓喜に打ち震える。
屈託のない純粋な笑みで、迸る恍惚を受け止める。
心の髄まで蕩けるような感情の渦が、収まる事を知らずに噴出する。
「クッハハハハハッ、あはははははっ! あへぁっはばっははあはははっ! クハハハハハァッ! いっひはははぁっ! あっはははっ! クハハハハハ! ヒャッハハハハハばはぅっ、いっはははははは、クァッハハハハハッ!!」
いつになく、世界が輝いて見える。
空は蒼然と晴れ渡り、森林は超然と佇んでいる。
風は粛々と凪へ至り、大地は永々と不変を保つ。
美々しきこの景観は、全てが燦然と煌めいていた。
――テッテレー! Falioはレベルが100に上がった!
――進化を行うことが出来るレベルに到達しました!
――進化先がこれまでの経験により自動的に選択されます!
――【リバイバル・カゲロウ】に進化します!
――30秒後に進化を開始します!
流れていった、機械音声。
無粋な音も、今だけは気にならない。
笑って、嗤い続けて――ブツン、と意識を失った。