第二十一話 戦後に
喧々囂々、騒がしい洞窟の内部。
ホーネット・アントの居住地であり、蟻達の本拠である坑道の中では、祭りとはかくあるべしといった宴が繰り広げられている。
蟻達は配膳された食料――女王謹製の極上の蜜を互いに掛け合い、舐め合い、笑い合っている。
勝利を讃え、敗者を罵倒し、戦果を嘯き、過程を反省する。
誰も彼もが口を動かし、無音の時間は存在しない。
陰鬱な空気が流れる場所は、一点を除いて存在しなかった。
虫の気配が薄い、とある一角。
俺はそこで、独り黄昏れている。
全身はこの場所に来るまでに掛かった蜜に塗れ、黒い体色は淡く照っている。
振り返れば、滴り落ちた蜜が足跡のように俺の道程を示す。
勿体ないと思いつつも、地面に這い蹲って舐めたりはしようと思えない。
(あ……)
鼻孔を擽る甘い匂いが、体を覆う液体が食物だと感じさせる。
おもむろに、肩口から肘にかけて指を這わせる。
掬い取った粘性の固まりを、そっと口元に運ぶ。
ちろりと舐り、指ごと咥え、絞るように啜る。
甘く、甘く、甘い蜜。
蕩けるように、溶かすように、そして刻み込むように。
取り返しがつかない程に、心を緩ませる。
(あ、ぅぐ、っ……!?)
ズキズキと。
頭が――正確に言うなら、おそらく脳が――分割されるような幻痛に苛まれる。
人格が解離するような、言語化し難い不快感。
今まででも兆候があったそれが、ここにきてその勢いを激しくする。
頭を抱え、蹲りながら、指は勝手に蜜を口へ運ぶ。
体の節々を擦り、拭い、集め、舐める。
体に付着していた蜜が少なくなれば、指が向かう先は自然と変わる。
知らぬ間に足が動き、点々と土を濡らす滴に近付く。
腕が伸ばされ、少量の土ごと蜜を口へ――
(……何、やってんだ!?)
自分の意志を無視して動いていた腕を掴む。
零れて落ちる土混じりの粘液を見て、自分ではない何かが悲しく感じる。
衝撃で飛び散った蜜の欠片に向かおうとする腕は、最早自分のものだとは信じられない。
故に――折る。
ポキリ、と小気味よい音が、微妙な不快感を伴って起こる。
折れた先からはドロリとした体液が噴き出すも、間もなく傷口は塞がる。
瘡蓋のようなものだろうか――気付けば、唐突に消えていた頭の痛みに驚きつつ、何とはなしに傷口を撫でる。
ざらざらとした感触は、どこか病みつきになりそうだった。
(……あぁもう、最近は色々と訳が分からない。甲虫と戦った頃から、いや、悪化したのは羽蟻になってからか。精神汚染――は言い過ぎかもしれないけど、どうにも変に頭が痛む時があるんだよな)
頭痛から解放された安堵から、呆けるようにその場に佇む。
淀んだ脳髄を一度空っぽにするように、脱力して思考を閉ざす。
無心のまま深呼吸を繰り返し、残る意識を体から引き剥がしていく。
微睡みにも似た恍惚に浸っていると、足音が反響した。
(……誰だ?)
内心での誰何の声に、何故か返答が来る。
「お邪魔するわね」
現れたのは、三体の昆虫。
ホーネット・アントと、護衛らしき羽蟻二体。
巣の内部で警戒する必要があるのかと考え、万が一はいくらでも起こりうるかと納得する。
仄明るい光源を浴びて、女王は惜しげもなくその裸身を晒している。
金箔のような肌は、溢れんばかりの優美さを誇る。
秘部を塗り潰す黒い線が、滲み出る扇情さに拍車をかける。
頭頂から生える二本の触覚が、穏やかに吹いた風に揺れた。
「畏まらなくてもいいわ。今は誰が見ているという訳でもないのだから。ああ、私の横に居る子は気にしなくていいわよ?」
逆上せる程の甘い声音が、安定していた精神を掻き乱す。
沈んでいた意識が浮上し、体の支配権を奪取される。
俺という自己が抑えられ、新たな自分が台頭する。
――抵抗を試みる。
体の一部でも動かせれば――失敗。
代償か――頭が、酷く痛む。
「私がどうしてここに来たか、気になるでしょう? 率直に言えば、貴方が気になったのよ」
ドクン、と心臓の鼓動を幻聴する。
体内が沸騰するように熱く滾る。
言葉をかけられた事実と、気にかけられているという内容に、二重の意味で歓喜する。
「初陣で生き残って見せたのはこれまでに貴方だけ。しかも、相手はアーマード・ムカデの群。本来なら三十に満たない数の子供達――しかも、どの子もまだまだ発展途上だったわ。そんな子達が容易く勝てる相手じゃない」
問いかけるような、女王の声。
心の底にまで浸透している黄金の蜜。
体内に摂取されたそれが、女王への反抗を許さない。
毒の回った羽蟻は、偽りの許されない問答を強制される。
「どうやって倒したのかしら? 少しばかり貴方の戦い振りを聞いたけれど、異常に過ぎる。その体での戦いのいろはを知らない筈なのに、歴戦の戦士のように戦っていたそうじゃない。それに、何か……変な攻撃もしていたという話だし。どうなの?」
回答は、沈黙。
俺の体を操る意識は、女王の問いに対する答えを持たない。
俺にとって、先の戦いは何ら特別ではないのだ。
自分に出来る範囲で、最善を尽くしていただけ。
かと言って、そんな答えを返せる筈がない。
女王がそんな陳腐な答えを欲してるとは思えない。
「答えはなし、か……ねえ、貴方は私に何を見せてくれるのかしら? 有象無象の子ではあり得ない、知性を持った我が愛し子は」
頭痛が続く。
頭が疼く。
直接に脳を触りたい。
掻き毟りたく、掻き回したく、掻き乱したい欲望。
衝動を抑制出来ているのは、偏に女王の眼下であるからというだけ。
「……駄目ね。今回だから駄目なのか、それとも別の理由があるのか。どちらにしても、今回は諦めるべきでしょう。また来るから、次は努力なさいな」
女王は颯爽と背を向けると、振り返る事なく遠ざかっていく。
迷いのない足取りは、自身の行動への自信の程を窺わせる。
けれど、ほんの一瞬だけ、その足が止まる。
「――それとも、見込み違いだったのかしら」
口遊む言葉は儚く。
歩みを再開する女王は、そのまま姿を消す。
風に乗って聞こえた呟きが、長く鮮明に耳に残った。