第二十話 頂点の戦い
「殺りなさいっ! 羽の一欠片すらも残らぬよう、全身全霊をかけて殺し尽くしなさいっ!!」
敵意に満ちた女王の叫びは、しかし臣下達には届かない。
羽蟻達は動かず、声が虚しく大気に溶ける。
絶対服従の筈の配下達が動かないのを見て、僅かに疑問に思うも、即座に現状を把握する。
「――よくもやってくれたね、貴様ぁっ!!」
蛾の羽から撒かれる光の粒。
それは当然、ただの粉ではあり得ない。
体を動かせない羽蟻達の姿を見るに、おそらくあの鱗粉には麻痺系の効果でもあるのだろう。
昆虫の最強の一角を占める女王には流石に効果がないようだが、それでも長時間その粉を吸っていたいとは思えない。
何せ、この下種の体から出てきたものなのだ。
微かにでも体内に入ってしまった事が尋常でなく気分を悪くさせる。
ギャギャギャ、と楽しそうな声を上げて嘲う蛾に殺意を向けながら、内心で一つ舌を打つ。
状況は劣勢極まりない。
何せ女王の武器は、他を圧倒する程の数による暴力である。
身体能力という面では他の昆虫のトップ連中より一段も二段も劣る女王は、それを補うように指揮能力に特化している。
しかし、ただの蟻や蜂は近くに居らず、ただでさえ数少ない近衛の羽蟻は何匹も死んでおり、生きている者も痺れて身動きがとれない。
その肉体一つしか存在しない今、女王は手足がもがれているにも等しかった。
(どう、する? これからどうすれば、あの汚物をブチ殺せる?)
策謀――と言うよりは、小賢しい嫌がらせに定評のある蛾が堂々と現れた事には疑問を覚えていたが、まさか初手からここまでの危機的状況に陥るとは考えていなかった。
自分の見通しの悪さに唾を吐きたくなる気分を抑え、現状を打破する手段を思考する。
(……糞っ!)
だがしかし、当然ながら女王の適正はカリスマによる軍団の指揮にある。
その手段が取れない中で、そうそう妙案が思い付く筈もなかった。
――結論。
「ゴチャゴチャ考えてないで、貴様を殺せばそれで終わりよっ!」
気色の悪い表情で女王を見下す蛾目がけて、二対四枚の羽を激しく震わせ、女王は勢いよく飛び立った。
交錯は一瞬。
女王の二本の腕が蛾に迫り、蛾は無防備に晒した二つの手でそれを防ぐ。
――グジュ、グジュル。
あまりにも呆気なく、蛾の腕が二本、千切れて地に落ちる。
泥濘に手を突っ込んだような感触と、理解出来ない蛾の行動に女王は二重の意味で眉をひそめる。
とりあえず離れようとした女王は、腕を引き戻そうとして――離れない事に気付く。
「なっ!?」
引っ張っても、押し出してみても、離れない。
蛾の折れた腕の先から滲み出る体液が、女王の手と蛾の体を固く接合している。
焦燥する女王を見て、蛾はニヤリと笑って見せる。
それは愚者への嘲笑に他ならない。
「……止むを得ないわね」
数秒の逡巡の後、女王は決断する。
短く深呼吸し――くっついた腕を叩き折った。
「――ぐっ!」
突然の奇行に瞠目する蛾から素早く離れ、女王は体勢を立て直す。
手足の三分の一を失った事による重心のズレを調整しながら、付かず離れずの距離を保って空を翔る。
蛾が動揺してくれている時間なんてほんの僅かしかないと分かっている。
けれど、そのアドバンテージを捨ててでも、今は戦える状態を維持しなければならない。
蛾の策謀家としての本領はまだまだ序の口でしかないのだ。
功を焦った結果に敗北するなんて真似は、万が一にも認められない。
「……授業料が高くついたわね」
勝つためには、まず負けない事。
それが重要だと、かつて母から教えられていたが、実感出来たのは今が初めてだった。
苦笑するも、すぐに気を引き締める。
見れば、もう蛾は正気を取り戻し、また卑しい笑みを浮かべて浮遊していた。
次の手は何か――考える間もなく、既に戦局は動いていた。
「あら、そう来るの」
蛾は羽の動きを速めて、天高く飛翔する。
撒かれる鱗粉はこれまでより広範に、しかし密度は薄くなる。
何をするつもりか見当が付いた女王は、攻撃に備えて一度地上に降りる。
互いに睨み合いながら、緊迫した空気が二者間を流れる。
動いたのは、蛾。
バサバサ、バッサバッサ、バッサバッサバッサ、と段々激しさを増す蛾の羽撃き。
動く羽に合わせて、流れる風も形を変える。
初めは微風でしかなくとも、回数を重ねる毎に速度を上げる。
旋風になり、突風になり、疾風になり――やがて、竜巻へと姿を変える。
ギャィギャィと騒ぐ蛾を一瞥し、現れた竜巻の対処に思慮を巡らして――舌打ちする。
一つではない。
蛾が羽撃く度に、新たな竜巻が作り出されてゆく。
その数――ざっと見て、十はあるか。
流石に、想定していた量はこれ程ではなかった。
「これは……ちょっと不味いかしら?」
言いながら、別にそうとは感じさせない気楽な姿で、女王は竜巻を凌ぐための手段をとる。
狙うのは、相殺。
二本の足を深く大地に突き立て、最後の準備を始める。
二対四枚の羽が振動する。
それは体を浮かせるためではない。
速く、鋭く、激しく震える四枚の羽。
風切り音が澄んでいき――壁を越えて――準備は整った。
「食らいなさいっ!」
突き出した手に従うように、不可視の刃が放出される。
それは音の刃。
進路上にある樹木を一閃し、周囲の葉を散らしながら、轟と渦巻く嵐に迫る。
音が風とぶつかる。
小さくも濃い音の刃は、渦巻く風の防壁に傷を入れる。
甲高い音を発して、音の刃は空気に溶ける。
ひびの入った竜巻を、巻き添えにして。
次々に繰り出される音の刃は、竜巻とともに消えてゆく。
小さい分生み出す時間が短いそれは、着実に嵐の規模を抑えていく。
最後の出来つつあった竜巻を消し飛ばして、女王は蛾の姿が見えないことに気付く。
焦りを覚えながらも、どこから攻撃されても対応できるように、音の刃を作り続ける。
何も起きず、ただ時間だけが過ぎていき、女王は追いつめられていることを知る。
常時高い集中を維持している女王は、精神の磨耗も凄まじい。
このままではじり貧だと分かっていても、解決策は見つからない。
(どうすれば……いえ、焦っては駄目。危機的状況でこそ、視野を広く持たないと――?)
不意に、気付く。
周りを、見回して、確認する。
そして、知らずの内に、口角が吊り上がる。
(……もしかすると、これは)
考え、そして、決断する。
(賭ではあるけど……決して分は悪くない!)
無為に作り出していたいくつもの音の刃を、一斉に放出する。
向ける先は地面。
激しい衝撃で土砂が舞い、土煙が立ち上る。
女王の姿が覆い隠される。
どこからともなく来た風が、立ち込める煙を吹き飛ばした。
そこに残るのは、一歩も動かず無言で佇む女王の雄姿。
黙然と、自信に満ち溢れる女王の前に、巨大な蛾が姿を見せる。
相変わらずの醜悪な容貌を更に歪ませ、直視に堪えないものとしている。
けれど、女王は蛾の登場に顔色一つ変えない。
突然の敵の登場にも、一切の狼狽を見せていない。
普段との違いに少しばかり疑問に思いつつも、蛾は愉快そうに哄笑を上げる。
(何を笑って――ああ、成る程)
女王の体は動かない。
口を動かすことさえ、満足に出来なくなっている。
原因はおそらく、戦闘の始めから撒き続けていた麻痺鱗粉だろうと見当を付ける。
いくら状態異常に耐性があると言っても、女王の抵抗力は所詮二線級のものでしかない。
時間をかければ、麻痺状態にすることも可能だ。
つまりはこれが、蛾の狙いだったのだろう。
(麻痺が体に回るまで待っていたのだろうけど……クフ、クフフフフフ!)
笑えない事をもどかしく思い、女王は傲岸な態度を崩さない。
ニタニタと嘲っていた蛾の表情は――突如として一変する。
蛾の視界に映り込んできたのは、黒い線。
一つ、二つ、三つ、四つ――数えられない程の黒い線が、至るところから蛾に迫る。
蛾が咄嗟に風を起こそうと反応出来たのは長い戦闘経験によるものだが、それも遅過ぎる。
背後から近付いた黒い線が、蛾の巨大な羽を貫いた。
驚きで体勢を崩したところに、次々に黒い線――棒が突き刺さる。
最早飛べない程に体を傷つけられた蛾の体は、理解出来ない事態に混乱したまま地に落ちる。
そこに近付くのは、無数の蟻と蜂、そして投擲を終えた羽蟻達。
「――んっ、声くらいは出せるようになったわね」
未だに体を満足に動かせない女王は、声音で感情を表している。
そこに含まれるのは、純粋な殺意。
「さて、一言だけ命じましょう――――――殺せ」
平坦な、あまりにも平坦な声に、蛾の体は寒気を覚えた。
恐怖。
久しく感じていなかったそれに、蛾はひどく逃げたい衝動に駆られる。
しかし、それを許すものはこの場にはいない。
女王の命を受けた瞬間、爆発するように全ての蟻達が蛾に向けて飛びかかる。
それは失態を少しでも濯ぐために。
それは愚かな自分に罰を与えるために。
それは女王を穢すした許されざる悪を誅するために。
個々の様々な感情が渦巻くも、それが向けられる先はただ一つ。
泥臭い、物量による圧迫。
その過程でいくつもの同胞を踏み越え、殺しながらも、それは目標を達成するためなら鑑みる必要もない損害である。
蛾は最強の一角たる矜持を持って、必死になって抵抗する。
しかし、絡め手を物理的に封じられた蛾が、勝てる筈もなく。
――数分後、その場には女王の賛美歌が飛び交っていた。
音の洪水に掻き消されながらも、確かに流れた、無機質なアナウンス。
――ユニークボス"デモリッシュ・モス"が打倒されました!
それを聞き遂げた者は、ここには、居ない。