「俺は残った分でいいし」
「お前さあ。俺にしておけば良いのになあ」
スクールバスの時間まではまだ随分時間があった。放課後に入り、ぼうっとしているうちに一本目のバスを逃してしまったせいだった。
今更焦って外に出たところでどうにもならない。どうせ待つことになるのなら、と放課後の教室に残って本を読んでいた僕に、不意にそんな声が降ってきた。
クラスメイトはとっくに全員帰ったと思っていたから、驚いて顔を上げる。ベランダに続く窓が開いている。そこから隣のクラスの内田がこちらを見ていた。入り込む風がカーテンをぱたぱたと揺らしている。
窓枠に凭れるように頬杖をついた内田が、聞いてんの、と言いながら少し目を細める。
顔を上げた拍子に僅かにずれた眼鏡を直した僕を、にやにやと笑いながら見ている。嫌だな、と思った。
去年は同じクラスだったが彼とはこれといって話した記憶がない。接点がなかったからだ。通っていた小学校も違う、部活も違う、所属しているグループも違う。きっと趣味嗜好も違うのだろうと思っていたから、馬鹿にされるのを覚悟でわざわざ話しかける気もなかった。髪を染めて群れる集団と盛り上がるような会話の引き出しを僕は持ち合わせていない。
ベランダも本来は立ち入り禁止だったように思うが、彼のような人種はきっと教師に見つかって怒られることを気にしないのだろう。
「……えっと、内田? 何?」
静かな教室に僕の声が響いた。中途半端に声変わりを終えた、まだ少し高い声。我ながら少し嫌になる、クラスの大半はもう大人のそれになっているのに。
だからさあ。内田が伸ばした腕に頬を預けるように体勢を変えた。机で居眠りするみたいな姿勢。
「鈴木さ。俺にしとけば良いのに。何で黒沢なの」
あいつ図体ばっかじゃん、と少しつまらなそうに内田が言った。彼の機微などは理解出来ていないから、あくまで想像でしかないが。
黒沢。小学生の頃から仲の良い僕の友人のことだろう。僕たちの学年にはその苗字の人間が確か二人居るが、もう一人の黒沢さんは話したことのない女子だったように思う。
黒沢がどうかしたの。本を読むのを諦めて栞を挟んだ僕の手を眺めながら、内田はじとりと視線を上げた。
「仲良いだろ、黒沢と」
「まあ、うん」
僕は本を読むのが好きだ。ミステリも純文学もライトノベルも、何だって良いからとにかく活字を追う作業が好きだ。没頭しているその瞬間だけは自分ではない人間になれるような気がしているし、読み終わったあとにその世界の余韻に浸る時間は何物にも変え難い。
黒沢はゲームや漫画が好きで、内田のようなやんちゃな生徒の多いこの中学では数少ない同士であるとお互いを認識していた。僕はアニメは観ないけれど、ライトノベルから始まったものであれば原作だけは読んだものもあるし、漫画もそこまで詳しくはないが薦められて読むこともある。
先日も黒沢に付き合って映画館に行ったばかりだ。SNSからバズって人気の出たアニメであるとのことだったが、僕はまだ読んだことのない作品だった。
ポスターからは想像のつかない内容に驚くと同時にそれと似た世界観の話を読みたくなって、今日は久しぶりに図書室から借りた本を開いていたところだった。
邪魔をされてしまった。本の世界から抜け出すように、ふう、と細く息を吐く。ぴくりと内田が伸ばした指を動かしたのが見えた。
「友達だからね」
「本当に?」
「僕、黒沢と仲悪く見える?」
「全然」
何が言いたいのだろう。ちらりと見上げた時計はまだ全然進んでいなかった。バスはまだ来ない。
校庭で誰かが遊んでいるのか、弾けるような笑い声が聞こえた。
「内田」
「何?」
「まだ帰んないの」
「うん。俺チャリだから」
文脈が分からない。首を傾げた僕を内田は何も言わずに眺めている。
茶色い髪の毛が風で揺れている。去年は真っ黒だったと思ったが、いつの間にこんなに明るい色になっていたのだったか。普段話さない上にクラスも違えば変化には気付けないものだな、としげしげと見つめる。
内田が少し目を逸らした。ぱさりと落ちた前髪で顔が隠れる。
「鈴木、バス何時」
「四十分後」
「俺も待ってて良い?」
良いけど、自転車なんでしょ。投げかけた疑問には返事がなかった。未だ俯いている彼の表情は窺えない。
入るわ、と言った内田が滑り込むように窓を飛び越えた。踵を潰した上履きが歩くのに合わせてぱたぱたと鳴っている。
「何読んでたん」
「サスペンスかな」
「知らねー、こんな字ばっかのやつよく読むなお前」
前の席にどかりと座り、机に置かれた本を内田が手に取った。一瞬それで殴られるかと身構えてしまったが、表紙を見て満足したのか予想に反してすぐにまた机の上へと戻される。
窓枠にそうしていたように椅子の背もたれに頬杖をつく。彼をこんなに近い距離で初めて見る。目の色素が薄いな、と思った。
「鈴木、目悪いの」
「かなり」
「ふうん」
何の時間だろう。帰宅したとて暇なのだろうか。
続きを読んでも良いものか分からずにはみ出た栞を眺めていると、この前さ、とぽつりと内田が呟いた。
「映画館行ってたじゃん、鈴木。黒沢と」
「うん」
「俺も友達と行ってた」
「そうなんだ」
「お前らの後ろの席。気付かなかったろ」
周りなんて見なかったから気付かなかった。頷いて肯定すると、ポップコーン食ってたな、と無表情のまま内田が言う。
キャラメルも塩も食べたいからと黒沢と半分ずつ分けて食べていたのだが、その現場を見られていたのだろうか。食べるのが早い黒沢に食べ尽くされそうで守るために途中から抱えながら食べた記憶があるから、あれを見られていたのなら少し恥ずかしい。
「ああいうの観るんだ、内田」
「誘われたからな。面白かったわ、映画は」
机が微かに揺れている。ちらりと下を覗くと、内田が貧乏揺すりをしているようだった。
黒沢待ってんの。唐突にそう問いかけられる。
「黒沢? 待ってないよ」
「だって鈴木いつもはすぐ帰るだろ」
部活終わんの待ってんじゃないの、と囁くような声が落ちた。
確かに黒沢は長身だからと請われてバレー部に在籍しているが、どうして用もないのにわざわざ待たなければならないのか。気付いたら一本目のバスが出発する時刻になっていただけだと告げると、然して興味もなさそうに、あっそ、と返されてしまった。
一体何だと言うのか。
「付き合ってんでしょ」
「何が?」
「黒沢とお前」
「ないよ!」
驚いて大きな声が出た僕を、同じく驚いたのか内田が少し口を開けたまま凝視している。
付き合いは長いし家が近いから仲は良いが、付き合うような仲ではない。
このような相手に誤解されてはたまったものではない。そう思って早口で付き合ってなどいない旨を告げると、ふうん、と言って彼は少し目を伏せた。
「僕が女子だったとしても、黒沢は無理」
「何で」
「シェア前提で買ったものなのに勝手に沢山食べちゃうし、あいつハンカチ持ち歩かないから」
なんか嫌。そう答えると、はは、と内田が笑った。
「じゃあやっぱり俺にしようよ、鈴木」
「何が?」
「俺、鈴木に買ってあげたもんは絶対取らないし。ハンカチはまあ、今度から持ち歩くわ」
だから何が。意図が理解出来ずに眉間に皺を寄せた僕を愉快そうに内田が見ている。今度さあ。茶色い毛先を引っ張りながらちらりと僕を覗き込んだ。
「俺とも映画行こうよ。なんか観たいのないの」
「あるにはあるけど」
「何?」
「ホラーだよ。でも」
「良いじゃん、俺ホラー好きだし」
「何で内田と僕が映画?」
大前提として意味が分からない。内田に向かってそう聞くと、この前の、とつまらなそうに呟いた。
「お前らが二人でいんの見て、なんか嫌だったから」
「嫌って」
「よく学校で話してんなとは思ってたけど、休みまで一緒にいるとは思わなかったんだよ」
ずるいじゃん。拗ねた子供みたいな言い方に、もしかして黒沢と仲良くなりたいの、と問いかける。
黒沢も明るい方ではあるし、見た目も良いからか友人は多い方だ。ただ内田とはタイプがかなり違うから、もしかしたら話しかけるきっかけがないのかもしれない。
趣味が少々内向的なだけだから、ああいう映画が面白かったなら黒沢と話が合うかもね。そう続けると、内田がぎろりと僕を睨んだ。同級生とは言えやんちゃな生徒に属する相手に睨まれると少々怖い。
「どうしたの」
「俺、黒沢はあんまり好きじゃない」
「どうして?」
「……鈴木と仲良いから」
「僕が何なの」
「去年から可愛いなとは思ってたんだけど。プライベートで遊ぶほど仲良いやつとか居ないと思って、油断してた」
なあ、俺にしとけよ。突っ伏した内田がぼそぼそと呟いた。
茶色い髪の隙間から赤く染まった耳が覗いている。
「僕、ポップコーンは塩もキャラメルも食べたいんだけど」
旋毛を見ながらそう答えると、内田はがばりと顔を上げた。




