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西郷隆盛は間違いなく実在した歴史上の人物です。

 西郷隆盛は間違いなく実在した歴史上の人物です。幕末から明治初期にかけて活躍し、明治維新の立役者として「維新の三傑」の一人に数えられています。西郷隆盛の存在に関する主な事実は以下の通りです。実在の証明: 多くの公的記録や同時代人が残した日記、書簡に登場しており、彼が主導した政治的・軍事的な出来事(薩長同盟や西南戦争など)は歴史的な事実です。写真が存在しない理由: 生前の写真が1枚も残っていないため「実は架空の人物だったのでは?」と噂されることがありますが、これは彼が撮影を極端に嫌ったためです。東京の上野公園にある有名な銅像も、本人の顔を知る親族(弟の従道)などを参考に作られたもので、実は本人の顔ではありません。本名: 彼の本名は「隆盛(たかもり)」ではなく、元々は「隆永(たかなが)」でした。のちに友人の父の名前と混同されて登録されてしまい、それが定着したというエピソードがあります。


 西郷隆盛の本当の諱(いみな・公式な本名)は「隆永(たかなが)」です。

 また、普段の呼び名(通称)は「吉之助(きちのすけ)」でした。

 私たちが知る「隆盛」という名は、もともとは彼の父親の名前です。明治政府が彼に位階(官位)を授ける際、役人が本名を尋ねたところ、旧友がうっかり父親の名前である「隆盛」を伝えてしまい、そのまま戸籍に登録されて定着してしまったというエピソードがあります。


「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)と並んで「維新の三傑」(いしんのさんけつ)と称される、幕末に日本を大きく動かした中心人物です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の下級武士だった西郷隆盛は、薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まり、側近として活躍するようになります。島津斉彬の死後、沖永良部島(おきのえらぶじま:鹿児島県大島郡)へ流刑となるも、大久保利通らの尽力により薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)へ帰還。その後、薩摩藩はもとより国をも動かす存在となっていくのです。倒幕へと気持ちが傾く西郷隆盛は、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)と「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を結び、江戸幕府を追い込みます。その後も「江戸城無血開城」(えどじょうむけつかいじょう)を実現するなど、大きな業績を残しますが、日本最後の内戦「西南戦争」(せいなんせんそう)で自害。明治維新の中心人物でありながら、自ら作り上げたはずの明治政府と戦い、この世を去った西郷隆盛の波瀾万丈な足跡を振り返ります。


西郷隆盛と刀

西郷隆盛のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。


島津斉彬の側近として頭角を現す

西郷隆盛

西郷隆盛


西郷隆盛は、1827年(文政10年)に薩摩国に生まれ、父は下級藩士で生活ぶりは決して豊かではなかったと伝えられています。


下級武士として働いていた西郷隆盛を見出したのは、薩摩藩主の島津斉彬でした。


島津斉彬から直接教えを受けた西郷隆盛は、彼の手足となって仕えます。ところが、1858年(安政5年)に島津斉彬は、病にかかり急死。


敬愛する藩主の死に、生きる意味を見失った西郷隆盛は尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を敬い外国を排除する思想を持つ集団)の僧侶「月照」(げっしょう)とともに入水(じゅすい)自殺を図りますが、一命を取り留め、奄美大島(あまみおおしま:鹿児島県奄美市)で潜伏生活を送ることに。


その後、薩摩に呼び戻されるも1862年(文久2年)、薩摩藩で実権を握っていた島津斉彬の弟「島津久光」(しまづひさみつ)の命に背いたため、今度は沖永良部島への流刑に処せられるのでした。


流刑にて島で暮らす

このように、実は西郷隆盛は2度も島で暮らしています。島津斉彬の死後、薩摩藩からの命で奄美大島へと送られ、潜伏生活を送ったのが最初の遠島生活。


奄美大島では、「愛加那」(あいかな)と言う島妻(あんご:島に滞在中のみ婚姻関係を結ぶ妻)と結婚し、2人の子どもをもうけています。1862年(文久2年)、大久保利通らの働きかけにより藩政に復帰することが許されると、島での暮らしは終わりを迎えました。


2度目は島津久光の命令に従わず怒りを買い、沖永良部島へ流刑。沖永良部島での暮らしは大変厳しく、狭い座敷牢で過酷な日々を余儀なくされました。この地で出会ったのが、「川口雪篷」(かわぐちせっぽう)という書家。彼から書・漢詩を習い、交流を深めたと言われています。


西郷隆盛が沖永良部島にいた1862年(文久2年)、「生麦事件」(薩摩藩士による英国人殺傷事件)が起こり、翌年1863年(文久3年)に「薩英戦争」(さつえいせんそう)へと発展。


人材不足の薩摩藩では西郷隆盛を推す声が高まり、大久保利通と薩摩藩家老「小松帯刀」(こまつたてわき)らの勧めもあって、西郷隆盛の流刑を赦免。およそ1年半ぶりとなる1864年(元治元年)、西郷隆盛は薩摩国の地へ戻ることとなったのです。


明治維新の立役者として

薩長同盟を結び、江戸無血開城を果たす

1864年(元治元年)、藩政に復帰後、京都で「禁門の変」(別名:蛤御門の変[はまぐりごもんのへん])が起こり、西郷隆盛は長州藩を討伐するため、薩摩藩の指揮を執ります。


「第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)で江戸幕府軍の参謀役に任命された西郷隆盛ですが、江戸幕府軍艦奉行の「勝海舟」(かつかいしゅう)と話し合ううちに平和的解決の道に同意。結果、第一次長州征伐は戦わずして終息することとなったのです。


江戸幕府が再び長州藩への征伐を目論むなか、薩摩藩と長州藩は「坂本龍馬」(さかもとりょうま)を介して接近。そして1866年(慶応2年)、坂本龍馬の取り計らいにより、西郷隆盛と長州藩士の「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの木戸孝允[きどたかよし])は「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を結びます。


それまで反目し合ってきた薩摩藩と長州藩が協力することで、倒幕への機運が一気に高まり、明治維新へのターニングポイントとなったのです。


1868年(慶応4年)、明治政府軍の要職に任命された西郷隆盛は江戸へ進軍し、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよよしのぶ)の処罰と江戸幕府討伐のため、総攻撃を計画。


ところが、総攻撃の直前、勝海舟との会談で徳川慶喜の謹慎、江戸幕府軍の「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)明け渡しが申し入れられます。


西郷隆盛はこの条件を受け入れ、江戸城への攻撃を中止。これが「江戸無血開城」です。交渉により、江戸に住む民の命を救った歴史的快挙として今も語り継がれています。


薩摩へ戻り、西南戦争に散る

明治維新の立役者として奔走した西郷隆盛でしたが、明治政府が樹立すると薩摩国へ引きこもることが多くなっていきます。


1871年(明治4年)には参議(朝廷における最高行政機関・太政官[だいじょうかん]の官位のひとつ)として就任、「廃藩置県」(はいはんちけん:藩制度の廃止と県制度への移行)を断行するも、明治政府との方針の違いや閣議の進め方に不満を持った西郷隆盛は辞職して薩摩へ戻り、1874年(明治7年)に私学校を設立。


江戸を離れ、穏やかな日々を過ごす西郷隆盛でしたが、1877年(明治10年)に私学校の生徒が暴動を起こすと、西南戦争が勃発。


西郷隆盛は部下、私学校の生徒に請われ参戦しますが、薩摩藩は劣勢に陥ります。もはや逃げ場がないと悟った西郷隆盛は自決。西南戦争は終わりを迎えたのでした。


このように、西郷隆盛は明治維新を推し進めた中心人物でありながら、明治政府への反乱を起こしたため逆賊(ぎゃくぞく)として扱われてしまったのです。


しかし、1889年(明治22年)122代「明治天皇」(めいじてんのう)の意向により、正三位(しょうさんみ:位階のひとつで勲一等に相当する位)を贈られることとなりました。


西郷隆盛と交流した幕末の志士達

勝海舟

勝海舟


西郷隆盛は幕末の志士達と交流し、互いに影響し合いました。


大久保利通・坂本龍馬・「橋本左内」(はしもとさない)など多くの志士と意見を交わしましたが、勝海舟との出会いは、西郷隆盛にとってとりわけ大きな衝撃だったのです。


勝海舟は幕臣の身でありながら「江戸幕府が政治を行うには限界がきている。今後は諸藩が手を取り合って政治を行う世にすべきだ」と力説。西郷隆盛は勝海舟の視野の広さや先見の明に感銘し、大いに影響を受けるようになるのです。


勝海舟もまた、西郷隆盛をして「これから天下の大事を取るのは西郷隆盛ではないだろうか」という旨の言葉を残しており、立場は違うものの互いに認め合っていたことが伺い知れます。


その後、江戸無血開城へとつながる会談で再会する2人ですが、お互いを重んじていたからこそ、実現した歴史的出来事と言えるのです。

西郷隆盛の直接的な死因は、西南戦争の最終局面である明治10年(1877年)9月24日、鹿児島・城山での銃撃による負傷と自決です。政府軍に追い詰められ、腰と太ももに被弾して動けなくなった西郷は、自らの首をはねて介錯するよう、側近の別府晋介に頼んで命を絶ったとされています。その際に「晋どん、もうここらでよか」と言い残したという言葉が有名です。なお、彼の最期については現在でも歴史的な論争が存在します。銃弾が急所に命中してすでに瀕死の状態であったため、家臣が武士としての名誉を守るために介錯したという見方や、自らが引き金となって自決したという説など、複数の解釈が伝えられています。


西郷隆盛は、明治10年(1877年)に起きた国内最後の内戦「西南戦争」の最終局面において、鹿児島市の城山で新政府軍に追い詰められ自刃しました。


国立国会図書館国際子ども図書館

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【最期の様子】

挙兵と敗走: 新政府の政策に不満を持つ士族たちに担ぎ上げられ挙兵しましたが、近代装備を持つ政府軍に圧倒され、九州各地を転戦の末に鹿児島へ敗走しました。

終焉の地: 満49歳だった1877年9月24日の早朝、政府軍の総攻撃を受ける中、西郷は遥かに東(明治天皇がいる皇居)を拝礼し、「晋どん(別府晋介)、もうここらでよか」と言い残して切腹しました。

介錯: その後、腹心であった別府晋介(べっぷ しんすけ)の介錯(刀で首をはねること)によってこの世を去りました。


西郷隆盛が残した死ぬ時の言葉として有名なのは、「晋どん、もうここらでよか」です。この言葉は、西南戦争の最中、鹿児島県城山の洞窟で被弾した西郷が、盟友である別府晋介に「晋どん、もうここらでよか(晋どん、もうこの辺りで良いだろう)」と言い、自らの首をはねさせた(介錯を頼んだ)場面として広く伝わっています。

他にも、彼が残した最期に関わる言葉や歌には以下のようなものがあります。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」

『西郷南洲遺訓』に残されている有名な教えの一つで、損得勘定や私欲を超越した人物は、誰にもコントロールできず最も手強いが、大きな偉業を成し遂げられるという意味です。

辞世の句(雨)

「雨降る日はいかにもおもしろく、風吹く日はいかにもすさまじきと、見つる心は常に変わらじ」

天候や周囲の状況(世間の風当たり)がどれほど変わろうとも、自分の心(信念)は決して変わらないという意味を込めて詠んだ歌とされています


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