ふわふわ聖女は王子様より、今日焼けたアップルパイのほうが大事でした!
「ソフラワーナ・ベリーフィールド。君が、我が国を救う癒やしの力……聖女の片鱗を持つという娘か」
眩いばかりのシャンデリアが輝く王宮の謁見の間。そこに響き渡ったのは、このアルカディア王国の第一王子、ダンガルド・フォン・アルカディアの凛とした声だった。
黄金の髪に、深いサファイアの瞳。誰もが見惚れる美貌の王子からの問いかけに、並の令嬢であれば顔を赤らめ、緊張で息を詰まらせるところだろう。
しかし、呼ばれた当の本人はというと──。
「ふわぁ……。あのぉ、殿下。お話の途中でお口を挟んで大変申し訳ないのですがぁ……」
ソフラワーナは、桃色のふわふわとした髪を揺らし、どこか焦点の定まらない、とろんとした蜂蜜色の瞳をパチくりとさせた。
伯爵家の三女として、のんびりと、それはもうお日様を浴びた綿毛のようにのほほんと育てられた彼女は、緊張という言葉を知らない。
「なんだ、遠慮せずに申してみよ。私の前で怯える必要はない」
ダンガルドは優しく微笑んだ。聖女の力を持つという彼女が、王宮という慣れない場所に怯えているのだと勘違いしたのだ。
「はい。そのぉ、あちらのテーブルに並んでいる、あの……『タルト・タタン』というのでしょうかぁ? つやつやのカラメルを纏った林檎さんが、私を早く食べてと呼んでいる気がいたしまして。お話は、あれを一口いただいてからでもよろしいでしょうかぁ……?」
「……は?」
完璧な王子の微笑みが、ピキリと凍りついた。周囲の近衛騎士たちも、一瞬我が耳を疑い、お互いに顔を見合わせている。
国を揺るがす聖女の認定という厳かな儀式の最中に、まさかケーキの催促をされるとは、誰も予想していなかったのだ。
ソフラワーナに悪気は一切なかった。彼女の頭の中は今、王宮の専属菓子職人が作ったであろう、見たこともないほど美しく、芳醇な甘い香りを放つスイーツたちでいっぱいだった。
「ぷっ……あはははは!」
静寂を破ったのは、ダンガルド王子の爆笑だった。普段、気高く完璧な王子として振る舞う彼が、声を上げて笑うなど滅多にないことだ。
「面白い。実に面白いな、ソフラワーナ。よかろう、まずはその『林檎さん』を満足いくまで堪能するがいい。我が王宮の菓子職人の腕は一流だぞ」
「わぁ! ありがとうございますぅ、殿下。殿下はとってもお優しい、神様のような方ですねぇ」
ソフラワーナは、ふわふわとした笑顔を咲かせると、ドレスの裾を上品に──しかし足取りは非常に素早く──翻し、スイーツが並ぶテーブルへと吸い寄せられていった。
これが、のちに『お菓子聖女』と呼ばれることになるソフラワーナと、完璧超人な王子の、少しズレた出会いだった。
◇ ◇ ◇
それからというもの、ソフラワーナの王宮スイーツ生活が始まった。
彼女が聖女であることは間違いなかった。怪我をした騎士にふわりと手をかざせば、傷口からは光の粒子が溢れ、見る間に治癒していく。
その際、彼女の体からはなぜか、ほんのりとバニラやシナモンの甘い香りが漂うのだった。
「さすがは聖女ソフラワーナ様だ。彼女の癒やしの力は本物だ」
「ああ。それに、見ているだけでこちらの心が洗われるような、あのおっとりとした佇まい……素晴らしいお方だ」
騎士たちや侍女たちの間で、ソフラワーナの評価はうなぎのぼりだった。
そして何より、彼女に心を奪われつつある人物が、もう一人──。
「ソフラワーナ。今日の訓練の視察はどうだった? 少し疲れただろう。私の部屋で特製のハーブティーでもどうかな」
ダンガルド王子は、公務の合間を縫っては、ソフラワーナの元へと足を運んでいた。
これまで、王子の地位や美貌を目当てに群がってくる令嬢たちに、少々うんざりしていたダンガルド。しかし、ソフラワーナは違った。
彼女はダンガルドの身分にも、その整った顔立ちにも、全くと言っていいほど興味を示さない。
「あ、ダンガルド殿下。こんにちはぁ。今日の訓練ですかぁ? 皆さんが汗を流して頑張っていらっしゃる姿、とっても素敵でしたぁ」
ソフラワーナはいつものように、ふわふわとした微笑みを浮かべる。ダンガルドは、その飾らない態度に、胸がトクンと跳ねるのを感じていた。
(やはり、彼女は特別だ。私の肩書きではなく、私自身を見てくれている……)
「そうか。君にそう言ってもらえると、騎士たちも励みになるだろう。それで、その……もし良ければ、この後二人で王宮の庭園を散歩でも──」
「あ! 申し訳ありません、殿下!」
ソフラワーナが急に声を弾ませ、ダンガルドの言葉を遮った。ダンガルドは一瞬、「ついに彼女も私とのデートに興奮してくれたのか」と期待に胸を膨らませたが、彼女の視線は、ダンガルドの後方へと向けられていた。
「今、厨房の方から、とっても香ばしくて、甘酸っぱくて、バターがじゅわっと溶けたような、素晴らしい香りが漂ってまいりました……! これは間違いなく、三日に一度しか焼かれないという、王宮最高峰の『アップルパイ』の焼き上がった匂いですぅ!」
「え? いや、匂い……?」
ダンガルドが鼻をくんくんとさせてみるが、何も分からない。しかし、ソフラワーナのお菓子レーダーは正確無比だった。
「殿下、お誘い大変光栄なのですが、アップルパイは焼き立てのサクサクをいただくのが、何よりも至高の喜びなのですぅ。冷めてしまっては、林檎さんの涙がパイ生地を湿らせてしまいます! では、私はこれにて失礼いたしますねぇ」
「あ、おい、ソフラワーナ……!?」
パタパタと、ドレスの裾を揺らしながら、驚くべき軽快さで厨房へと走っていくソフラワーナ。残されたダンガルドは、伸ばした手を虚しく空間に彷徨わせるしかなかった。
「……私は、焼き立てのアップルパイに負けたのか?」
完璧な王子としてのプライドが、微かに音を立ててひび割れた瞬間だった。
◇ ◇ ◇
数週間が経っても、二人の関係は平行線のままだった。というよりも、ソフラワーナの王宮お菓子巡りが留まるところを知らなかった。
月曜日はマカロン、火曜日はガトーショコラ、水曜日はアップルパイ……。
彼女は王宮のスイーツを全種類制覇する勢いで、のんびりと、しかし確実に胃袋へと収めていった。
その天然っぷりと、美味しそうにお菓子を頬張る愛らしい姿に、王宮の菓子職人長であるジャンも、すっかり彼女の虜になっていた。
「ソフラワーナ様! 今日は新作の『林檎とカスタードのミルフィーユ』を試作してみたのですが、ぜひご意見を!」
「わぁ、ジャンさん! なんて美しい層でしょう。サクサクのパイ生地が、まるで天使の羽のようですね。いただきます……んん〜〜、幸せですぅ……」
厨房の片隅で、幸せそうに頬を押さえるソフラワーナ。それを見守るジャンの目は、まるで我が子を見る親のようであり、同時に、最高の理解者としての連帯感に満ちていた。
その様子を、物陰からじっと見つめる青い瞳があった。ダンガルド王子である。
(くっ……聖女としての公務の時はあんなにのんびりしているのに、お菓子の前だと、どうしてあんなに生き生きとした表情をするんだ。ジャンを見る目なんて、まるで恋する乙女ではないか……!)
完全に勘違いの嫉妬の炎を燃やすダンガルド。しかし相手は初老の菓子職人である。八つ当たりするわけにもいかない。
「いや、待てよ」
ダンガルドは顎に手を当て、思考を巡らせた。ソフラワーナが何よりもお菓子を愛しているのなら、話は早い。
「私が、世界で一番美味い菓子を用意すれば、彼女は私に振り向いてくれるのではないか?」
王子の突飛な思いつきに、影に控えていた側近の騎士は「それは方向性が違っていませんか、殿下」と言いたげな顔をしたが、恋に盲目になりかけた王子を止めることは誰にもできなかった。
ダンガルドはすぐさま行動に移した。
「国内、いや、隣国からも最高級の林檎を集めろ。そして、最高品質の発酵バターと、伝説の小麦粉を調達するのだ。私が自ら、ソフラワーナのためにアップルパイを焼く!」
「は、はあぁっ!? 殿下が、お料理を、ですか!?」
王宮は大騒ぎになった。包丁など持ったこともなく、剣しか握ったことのない第一王子が、エプロンを身に纏って厨房に降臨したのだ。
ジャンをはじめとする職人たちの指導のもと、ダンガルドの猛特訓が始まった。
「違う、殿下! バターを生地に練り込むときは、手の熱で溶かさないように手早くです!」
「くっ……剣の素振りより難しいな……。だが、ソフラワーナの笑顔のためだ!」
「林檎のコンポートは、砂糖の焦がし加減が命です!」
「む、目が痛い……! しかし、諦めん!」
何度も生地を失敗し、林檎を焦がし、ダンガルドの美しい手は傷だらけになり、小麦粉で真っ白になった。
だが、彼のサファイアの瞳には、かつてないほどの情熱の炎が灯っていた。すべては、のんびり屋の可愛い聖女の心を、その胃袋ごと掴むため。
◇ ◇ ◇
そして、運命の日の午後。ソフラワーナは、ダンガルド王子から「どうしても話したいことがある。王宮の東屋に来てほしい」という招待状を受け取っていた。
「ダンガルド殿下、お待たせいたしましたぁ」
いつものように、ふわふわとした足取りで東屋に現れたソフラワーナ。そこには、フォーマルな礼服に身を包んだ、少し緊張した面持ちのダンガルドが立っていた。
そしてテーブルの上には、銀色のドーム型のカバーがかけられた、大きな皿が置かれている。
「よく来てくれた、ソフラワーナ。突然呼び出してすまない」
「いいえ。それで、殿下……そのぉ、お話というのは?」
ダンガルドは深く息を吸い込み、ソフラワーナの蜂蜜色の瞳をまっすぐに見つめた。
「ソフラワーナ。私は、君が王宮に来たその日から、君の飾らない姿、そしてその愛らしい笑顔に心を奪われていた。君が聖女だからではない。君という一人の女性を、私は愛しているんだ。……私の妃になってくれないだろうか」
渾身の、一世一代のプロポーズ。
王宮の庭園に、心地よい風が吹き抜ける。普通なら、ここで感動の涙を流すか、あるいは恥ずかしそうに頷く場面だ。
しかし、ソフラワーナの鼻が、ピクピクと動いた。
「……クンクン。……あ、あのぉ、殿下。お言葉はとっても、とっても嬉しいのですがぁ……」
ソフラワーナの視線は、王子の顔を完全に素通りし、テーブルの上の銀のカバーに釘付けになっていた。
「それよりも、そのカバーの中から、信じられないほど素晴らしい、香ばしいバターと、極上のカラメルを纏った林檎の香りが漂ってきているのですが……。しかもこれ、今、焼き上がったばかりですよね……?」
ダンガルドは、一瞬がっくりと肩を落としたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。こうなることは、百も承知だったのだ。
「フッ……やはり気づいたか。流石は私の見込んだ女性だ。そうだ、ソフラワーナ。そのカバーの中にあるのは、私が君のために、材料を吟味し、この手で一から焼き上げた、特製のアップルパイだ!」
ジャキィン! と効果音が鳴りそうな勢いで、ダンガルドは銀のカバーを持ち上げた。現れたのは、見事な黄金色に焼き上がったアップルパイ。
パイ生地は幾重にも重なって芸術的な模様を描き、中央の切れ込みからは、じゅわじゅわと泡立つ甘酸っぱい林檎の果汁が覗いている。
素人が作ったとは思えない、いや、素人だからこその情熱がこれでもかと詰め込まれた、至高の逸品だった。
「わぁ……! なんて、なんて美しいアップルパイ! 殿下が、これを私のために……?」
ソフラワーナの瞳が、これまでにないほどキラキラと輝いた。涙すら浮かべている。ダンガルドは確信した。
(……勝った! これほどの情熱を捧げ、彼女の胃袋を射止めたのだ。さあ、私の胸に飛び込んでくるがいい!)
ダンガルドが両腕を広げようとした──その瞬間。
「いただきますっ!!」
ソフラワーナは、王子のプロポーズに対する返事よりも先に、テーブルに置かれたナイフとフォークを電光石火の早さで手にとった。そして、躊躇なくアップルパイに入刀する。
サクゥッ!!!
静かな庭園に、完璧な、これ以上ないほど小気味良いサクサク音が響き渡る。
「ふあぁぁ……! 生地が、お口の中でハラハラと解けていきます……。そしてこの林檎さんの、濃厚な甘みと、スッキリとした酸味の絶妙なバランス……! バターのコクが、波のように押し寄せてまいりますぅ……! 幸せ、私、今、世界で一番幸せですぅ……!」
ソフラワーナは、両頬を手で包み込み、文字通りとろけそうな笑顔を浮かべた。彼女の体から、黄金色の聖なる癒やしの光──と、強烈なシナモンの香り──が溢れ出し、周囲の枯れかけていたバラの花が一斉に咲き誇る。
「ああ、ソフラワーナ! その笑顔が見たかったんだ! それで、私のプロポーズの返事は──」
ダンガルドが期待に満ちた目で詰め寄る。ソフラワーナは、もぐもぐとアップルパイを飲み込み、ふぅ、と満足げなため息をつくと、満面の笑みでこう言った。
「はい! 殿下のお気持ち、とってもよく分かりました! 殿下の焼いてくださったこのアップルパイ、本当に、本当に大好きですぅ!」
「あ、いや、アップルパイじゃなくて、私を……」
「これほど素晴らしいアップルパイを焼ける殿下ですもの、きっとこれからも、三日に一度……いえ、毎日のように、私に焼き立てを食べさせてくださるのですよねぇ? でしたら、私、ずっと王宮に居座っちゃいます!」
「……毎日、私が焼くのか?」
「はい! 王子様のお顔を見るより、毎日焼けるこのアップルパイを眺めているほうが、ずうっと大事ですからぁ!」
悪気のない、純度百パーセントの天然スマイル。ソフラワーナにとっては、「王子様を愛している」ではなく、「王子様の焼くアップルパイを愛している」。だから一緒にいるという、彼女なりの最大限の求婚の受け入れ方(?)だったのだ。
「はは……、ははは……」
ダンガルド王子は、乾いた笑い声を上げた。どうやら自分は、一国の王子としての魅力ではなく、専属のアップルパイ職人としての身分を勝ち取ることで、ようやく彼女の隣にいることを許されたらしい。
「分かったよ、ソフラワーナ。君がそう言うなら、私は一生、君のためにアップルパイを焼き続けよう。国務の合間に、な」
「わぁ! 嬉しいです、ダンガルド殿下。では、冷めないうちに、もう一切れいただきますねぇ」
サクサク、もぐもぐ、と幸せそうな音を響かせる聖女。その横で、傷だらけの手を見つめながら、「明日はカスタードの入れ方をジャンに習おう」と心に決める王子──。
王子様よりも、今日焼けたアップルパイのほうが大事。そんな一風変わった聖女と、彼女にお菓子で調教されゆく王子の、甘くてちょっぴりサクサクな恋物語は、これからも王宮の厨房を中心に続いていくのだった。
おしまい
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