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第9話「研究ノートと、素顔」

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 十歳。四年生の春。


 俺の生活は、以前にも増して忙しくなっていた。


 毎朝六時半に起きて楓と走る。学校から帰れば素振り百本。月に一度、鷹司家の道場で紫月に稽古をつけてもらう。


 紫月の稽古は容赦がなかった。


「遅い。足が死んでる。構えが甘い。集中しなさい」


「ぐっ……はっ……」


「今の打ち込み、三十点。前回よりマシだけど、まだ話にならないわ」


 毎回ボコボコにされる。でも、紫月は決して手を抜かない。それは信頼の裏返しだと、最近になって分かるようになった。


「……六十五点」


「え、今のそんなに良かった?」


「調子に乗らないで。まだ赤点よ」


 六十五点が赤点という採点基準はどうかと思うが、紫月に認められたい一心で竹刀を振り続けた。


 稽古の後、紫月が無言で差し出すスポーツドリンクがやけに美味い。「余ってただけ」と毎回言うが、蓋が開けたてなのはバレている。


---


 一方、学校生活にも変化があった。


 きっかけは理緒の一言だった。


「蓮くん、ダンジョン研究ノートを作りませんか」


 四月のある昼休み、図書室で。理緒がノートを広げながら提案してきた。


「研究ノート?」


「はい。わたしたちが集めたダンジョンの情報を、一冊のノートにまとめるんです。各層の特徴、発見された素材、危険な生物の情報、探索チームの報告……全部整理すれば、いつか本当にダンジョンに潜る時の指針になります」


「りおちゃん、天才じゃない?」


「て、天才だなんてそんな……えへへ」


 理緒は照れながらも、すでに目次案を作ってきていた。この子の行動力は、好きなことに関しては別人だ。


 楓と玲奈にも声をかけた。


「いいじゃん! わたし、お母さんに聞いた探索の実体験書くよ!」


「……まあ、あんたたちだけだと情報の質が心配だから、わたしが監修してあげるわ」


 四人で一冊のノートを作り始めた。


 理緒が論文や書籍から学術的な情報をまとめ、楓が母親から聞いた現場の知恵を書き加え、玲奈が神楽坂グループの公開資料から産業面のデータを提供し、俺は全体の構成を考えてイラストを描いた。


 絵は下手だが、各層のイメージ図くらいは描ける。「蓮くんの絵、味がありますよね」と理緒はフォローしてくれたが、楓には「ヘタウマってやつ?」と笑われ、玲奈には「……画伯ね」と真顔で言われた。画伯は褒め言葉じゃない気がする。


---


 ノート作りは放課後の図書室で行うことが多かった。


 四人で机を囲んでいると、自然と雑談が増える。


「ねえ、第三層の『星露の実』って食べたことある人、周りにいる?」


 楓が言う。


「お母さんが一回だけ持って帰ってきたことあるよ。半分こして食べたんだけど、もう、やばかった。甘いとか美味しいとかじゃなくて、身体の芯がじわーって温かくなる感じ」


「いいなあ。おれも食べてみたい」


「市場で買うと一個五十万以上するんでしょ。無理だって」


「うちなら手配できるわよ」


 玲奈が何でもないように言う。全員の目が集まる。


「えっ、まじ?」


「神楽坂グループはダンジョン産食材の流通もやってるの。サンプルくらいなら……」


 玲奈は途中で言葉を切った。四人分の期待に満ちた視線に囲まれて、たじろいだらしい。


「……一個だけよ。一個だけ。あんたたちのためじゃなくて、研究ノートの食味レポートに必要だから」


「「「やったー!」」」


「だから違うって言ってるでしょ!」


 玲奈が真っ赤になって怒る。最近、怒り方に力がない。


---


 翌週、本当に星露の実が届いた。


 玲奈が小さな保冷箱を持って登校してきた日、放課後の図書室は異様な熱気に包まれた。


 箱を開ける。中に鎮座していたのは、淡い銀色に輝く果実。手のひらに乗るくらいの大きさで、表面に小さな光の粒がちりばめられている。まるで、夜空を丸めたみたいだ。


「きれい……」


 理緒が息を呑んだ。


「これが星露の実。採取後七十二時間で光が消えるから、新鮮なうちに食べないと意味がないの」


 玲奈がナイフで丁寧に四等分した。


「いただきます」


 口に含んだ瞬間。


 ――世界が、変わった。


 味、という概念を超えていた。甘さでも酸っぱさでもなく、身体の隅々にまで染み渡る「充足」としか言いようのない感覚。楓の言った通り、芯が温かくなる。細胞の一つ一つが喜んでいる、としか表現できない。


「…………」


 四人とも、しばらく無言だった。


「……やばい」


 最初に口を開いたのは楓だった。目に涙が浮かんでいる。


「これ、やばい。お母さんの言ってた通りだ。もう、これだけでダンジョン行く理由になる」


「同感です……。味覚の概念が覆されました……」


 理緒が震える手でノートにメモを取り始めた。学者魂は健在だ。


「……こ、これくらい、うちでは別に珍しくないわよ」


 玲奈は平静を装っていたが、頬が上気している。何よりも雄弁だったのは、銀色の果汁が唇に残っているのを名残惜しそうに舌で拭ったことだ。


「玲奈、ありがとう。すげえ美味かった」


「……べつに」


 玲奈はそっぽを向いた。


 そして、ほんの一瞬だけ。


 笑った。


 高飛車な仮面を外した、十歳の女の子の、無防備な笑顔。


「……あんたたちと食べると、一人で食べるより美味しかった」


 声は小さかった。聞き逃しそうなくらい。でも、確かに聞こえた。


「え、今なんて?」


「何でもないわよ! 聞こえなかったなら聞こえなかったでいいの!」


 玲奈は鞄を掴んで図書室を出ていった。


 楓が「あの子、素直じゃないねー」と笑い、理緒が「でも、いい笑顔でしたね」と微笑んだ。


 ――あの笑顔を、また見たい。


 そう思ったのは、俺だけじゃなかったはずだ。


---


 帰り道。


 りんねえが校門で待っていた。最近のりんねえは、大晦日のあの夜から少し距離の取り方が変わった。以前は腕を組んできたのが、今は横に並んで歩くだけ。近すぎず、遠すぎず。


「今日、遅かったね」


「図書室で研究ノート作ってた。あと、ダンジョンの果物食べた。すっげー美味かった」


「……楽しそう」


「うん、楽しい」


 りんねえは少しだけ黙った後、空を見上げた。


「わたしも、れんくんの役に立ちたいなあ」


「りんねえは十分役に立ってるよ。毎日迎えに来てくれてさ」


「そうじゃなくて。……もっと、特別な形で」


 その声には、十一歳の少女が抱えるには重すぎる感情が滲んでいた。


「……りんねえ」


「なんでもない。帰ろ」


 りんねえが歩き出す。夕日が、その背中を橙色に染めていた。


 追いかけて、隣に並ぶ。何も言わず、ただ一緒に歩く。


 それが今の俺にできる、精一杯の答えだった。


---


 第9話 了


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