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第16話「それぞれの答え」

---


 見学会の翌日。


 学校は休みだった。見学会参加者への配慮措置らしいが、俺は全く疲れていない。むしろ身体が熱い。昨日の蒼い光が、まだ網膜に焼きついている。


 問題は、家族の方だった。


 見学会中の脈動事件はニュースにはならなかった。あくまで安全区域内の軽微な現象で、怪我人もゼロ。学校から保護者への報告書にも「想定内の自然現象」と記載されていた。


 でも、母さんの目は誤魔化せなかった。


「れん」


 朝食のテーブルで、母さんが俺の顔を見た。


「どうだった?」


 簡単な問いかけ。でも、その声には覚悟が滲んでいた。母さんは、この答えによって何かが決定的になることを分かっている。


「……すごかった。想像の百倍」


「そう」


「怖いことも少しあった。でも、それ以上に――」


「楽しかったのね」


 母さんが先に言った。俺の表情を見れば、分かるのだろう。


「……うん。楽しかった。もっと奥に行きたいって思った」


 沈黙。


 母さんは箸を置いて、両手を膝の上に重ねた。正座のまま、しばらく目を閉じていた。


「母さん……」


「分かってたわ」


 母さんが目を開けた。その瞳が、潤んでいた。


「あなたが生まれた時から、分かってた。この子はどこか遠くに行く子だって。普通の男の子とは違うって。……赤ちゃんの頃から、あなたの目は遠くを見てたもの」


 声が震えている。でも、笑おうとしている。


「母さんは、ずっと怖かった。あなたがダンジョンに行きたいと言うたびに、いつかこの日が来ると思ってた。実際に足を踏み入れて、もう止められないって確信する日が」


「母さん……ごめん」


「謝らないで」


 母さんの声が、ほんの一瞬だけ強くなった。


「あなたの夢を、謝らないで。……母さんだって、蓮の夢を否定したくないの。怖いだけ。それだけなの」


 涙が、頬を伝った。音もなく、静かに。


 母さんが泣くのを見たのは、これが初めてだった。いつも穏やかで、いつも「れんのままでいい」と笑ってくれていた母さん。その人が、十四年分の恐怖を涙に変えて流している。


「……必ず帰ってくる。何があっても」


「当たり前でしょう」


 母さんは涙を拭いながら笑った。


「帰ってこなかったら、母さんがダンジョンに迎えに行くからね」


 冗談のつもりだろう。でも、半分は本気だと分かった。


---


 昼過ぎ。りんねえが帰ってきた。


 高校一年生のりんねえは部活でバスケットボールをやっている。意外に思われるかもしれないが、あの大晦日の夜から始まったストレッチが格闘技へ、格闘技がバスケへと変遷した結果だ。「身体を動かすのが好きだって気づいた」とりんねえは言ったが、本当の動機を俺は知っている。


「れんくん、ちょっと」


 りんねえが俺の部屋のドアをノックした。入ってきたりんねえは、制服のままだった。部活帰りで汗の匂いがする。


「見学会、どうだった」


「すごかった」


「……でしょうね。あんたの顔見れば分かる」


 りんねえは俺のベッドに腰かけて、天井を見上げた。


「わたし、決めたことがある」


「何?」


「大学、ダンジョン関連の学部に進む」


 予想外の言葉だった。


「探索者になるわけじゃない。でも、ダンジョン関連の医療とか、救助とか、そういう分野を学びたい。……れんくんが潜った時、地上で待つだけじゃ嫌なの」


 りんねえの目は、十六歳の少女のそれだった。子供の頃の無邪気な過保護ではない。自分の意志で、自分の道を選んでいる。


「れんくんを追いかけてるように見えるかもしれないけど、違うの。わたし自身がやりたいことなの。……半分は」


「半分は?」


「半分は、れんくんのため。それは否定しない」


 りんねえは俺を見た。まっすぐな目。


「わたしはお姉ちゃんだから。あんたが帰ってくる場所を、わたしが作る」


「……りんねえ」


「泣くなよ」


「泣いてない」


「泣きそうな顔してる」


 りんねえが、ふっと笑った。それから、立ち上がって部屋を出ようとした。


 ドアの前で足を止めた。


「……ねえ、れんくん」


「ん?」


「わたしがれんくんのために生きてるって、重い?」


 心臓が痛んだ。


「……重くない。ありがたい」


「そう。……ならいい」


 りんねえはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。


 閉じたドアの向こうで、小さな吐息が聞こえた。安堵の、吐息。


---


 翌週。学校が再開した。


 昼休み、沙耶から「放課後、中庭に来て」とメモが渡された。短い文面に、普段の沙耶にはない緊張感があった。


 放課後。中庭の銀杏の木の下で、沙耶が待っていた。


 秋の夕日が沙耶の黒髪を金色に縁取っている。制服のリボンが風に揺れていた。


「蓮、あのね」


 沙耶は珍しく前置きを入れた。普段は単刀直入なのに。


「見学会の時、あなたが笑ってるのを見たの。結晶が降ってきて、みんなが怖がってる中で。あなただけが、笑ってた」


「……うん」


「怖かった」


 沙耶の声が小さくなった。


「ダンジョンが怖かったんじゃない。あなたが、あの場所に吸い込まれていくような気がして。わたしの手が届かないところに行ってしまうような気がして。……あの笑顔が、怖かった」


 胸が締めつけられた。


「でもね、同時に思ったの。ああ、この人はここが好きなんだって。心の底から。理屈じゃなく。……それを否定する権利は、誰にもない」


 沙耶は顔を上げた。


「だから、わたし、答えを出した」


「答え?」


「わたしも、探索者になる」


 世界が止まった気がした。


「ダンジョンに反対してたわたしが可笑しいと思うでしょう。でも、あの蒼い空間で、あなたが笑ってるのを見て、分かったの。わたしはあの笑顔のそばにいたい。地上で待つんじゃなく、あなたの隣で。同じ光を見ていたい」


 沙耶の目に、涙はなかった。あの花火の夜とは違う。今の沙耶は泣いていない。迷っていない。


「鷹司の力も使う。装備も、資金も、情報も。全部使って、あなたと一緒に潜る。……それが、わたしの答え」


「…………沙耶」


「だめ、とは言わせないわよ」


「言うわけないだろ」


 笑った。沙耶も笑った。


 銀杏の葉が、二人の間をひらひらと落ちていった。


---


 その日の夜。スマホにメッセージが届いた。紫月からだった。


 中学に入ってからはスマホでのやり取りに移行している。手紙もまだ続けているが、急ぎの時はメッセージだ。


『沙耶から聞いた。探索者になると決めたそうね。』


『うん。正直、びっくりした。』


『わたしは驚かなかったわ。あの子が蓮の隣から離れるわけがないもの。』


 間があった。紫月がメッセージを打っては消している「入力中」の表示が、何度も点滅した。


『わたしも、ずっと考えてた。見学会の後から。』


『蓮が笑ってるのを見て、わたしも思ったのよ。この馬鹿を止めるのは無理だって。』


『だったら、わたしにできることは一つしかない。』


『あんたの盾になる。』


『剣道を始めた理由、覚えてる? 最初は力ずくで止めるためだった。でも今は違う。あんたがダンジョンで前だけ見ていられるように、後ろはわたしが守る。』


『……沙耶みたいにきれいな言葉は出てこないわ。でも、これがわたしの答え。文句ある?』


 画面を見つめながら、胸の奥が熱くなった。


『文句なんかあるわけない。ありがとう、紫月。』


『……礼はいらない。覚悟しなさい。わたしの稽古、今の三倍厳しくするから。ダンジョンで死なせないためにね。』


『怖すぎるんだけど。』


『怖がれ。それくらいがちょうどいいのよ。』


 最後に、小さなスタンプが送られてきた。怒った猫のスタンプ。紫月がスタンプを使うのは初めてだった。


 不覚にも笑ってしまった。


---


 ベッドに横になる。


 母さんの涙。りんねえの決意。沙耶の答え。紫月の覚悟。


 みんなが、動き始めた。俺の夢を中心に、歯車が回り始めている。


 嬉しい。でも、同時に思う。


 これだけの人の想いを背負って潜るからには、絶対に死ぬわけにはいかない。


「……全員で、帰ってくる」


 天井に向かって呟いた。


 窓の外で、秋の月が静かに輝いていた。


---


第16話 了

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