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第14話「深淵の入口」


---


 六月。


 聖蘭学院に、新しいカリキュラムが導入された。


「ダンジョン総合学。今年度から始まる課外授業です」


 全校集会で校長が発表した瞬間、講堂がざわついた。


 ダンジョン出現から十四年。社会にダンジョンが浸透するにつれ、教育現場でもダンジョンに関する知識を教えるべきだという声が高まっていた。聖蘭学院は、その先駆けとして全学年対象の特別講座を設けたのだ。


「本講座では、ダンジョンの基礎知識、探索の実態、関連産業の現状、そして法的・倫理的な問題まで幅広く学びます。さらに、各分野の第一線で活躍する方々を特別講師としてお招きします」


 俺は客席で身を乗り出していた。隣で玲奈が「前のめりすぎよ」と呆れている。


 第一回の特別講師の名前が読み上げられた。


「鳴瀬葵氏。ダンジョン探索チーム『アストレア』副隊長――」


 心臓が跳ねた。楓の母さんだ。


---


 翌週。特別講義の日。


 講堂には全学年が集まっていた。聖蘭の生徒は大半が良家の子女で、ダンジョンに直接関わる者は少ない。興味本位で出席している者、親の仕事の関係で知識がある者、そして俺のように目を血走らせている者。温度差は激しい。


 壇上に葵さんが現れた。


 スーツではなく、探索者の実働服。ダンジョン用の特殊繊維で編まれた黒いジャケットに、ダンジョン産の蒼輝石をあしらったベルト。本物の探索者の佇まいに、講堂の空気が引き締まった。


「はじめまして。鳴瀬葵です。ダンジョン探索者として八年、今日はダンジョンの『本当の姿』をお話しします」


 葵さんの講義は、教科書とは全く違った。


 第一層の湿った空気の匂い。松明の光が届かない暗闇の圧迫感。仲間の足音だけが頼りの静寂。そして突然現れる、息を呑むような光景――天然の結晶が壁一面を覆う空間や、見たこともない色の水が流れる地下河川。


「きれいだと思いますよね。実際、美しいです。でも、美しいものほど危険。第三層の結晶洞窟では、鉱石の反射で方向感覚を失う『光酔い』が発生します。回復に平均二時間。その二時間が命取りになることもある」


 スクリーンに映し出される探索中の写真。蒼い光に包まれた洞窟。天井から垂れ下がる見たこともない植物。地下湖の水面に映る、星のような鉱石の輝き。


 美しすぎて、怖い。


「わたしのチームでは、過去三年で二名が重傷を負い、一名が今も後遺症と戦っています」


 講堂が静まった。


「それでも、わたしたちは潜り続ける。なぜか。――そこに、人類がまだ見たことのない世界があるからです」


 葵さんの目が、一瞬だけ俺を見た。


 小さく、笑っていた。


---


 講義の後半で、爆弾が投下された。


「最後にお知らせがあります。聖蘭学院と探索チーム『アストレア』の協力により、中学二年生以上を対象としたダンジョン見学会を実施します」


 講堂が揺れた。比喩じゃない。生徒たちのどよめきが物理的に響いた。


「見学会は第一層の安全区域に限定し、探索チームが完全護衛します。あくまで教育目的であり、危険区域への立ち入りはありません。参加は任意。保護者の同意が必要です」


 中学二年生以上。


 俺は今、一年生。


 つまり、来年だ。


「来年……!」


 思わず声が出た。周囲の生徒が振り返る。玲奈が「静かにしなさい」と肘で突いてきた。


 でも、止められない。あと一年。たった一年で、ダンジョンの入口に立てる。見学とはいえ、第一層に足を踏み入れられる。


 十八歳まで待たなくても、一歩だけ近づける。


---


 講義が終わった後、廊下で捕まった。


 沙耶と紫月が待ち構えていた。


「蓮。見学会、行くつもりでしょう」


 沙耶の声は平静だが、目が据わっている。


「当然」


「……分かってた。止めないわ。その代わり、わたしも行く」


「え?」


「あなたの隣で、何が起きるか見届ける。それがわたしにできることだから」


 沙耶がダンジョンに関わろうとしている。反対一辺倒だったあの子が。


「わたしも行くわ」


 紫月が腕を組んだ。


「もともと興味はあったの。剣道の技術がダンジョンで通用するか、試したいし」


「見学会だから戦闘はないと思うけど」


「いいのよ。雰囲気だけでも掴めれば。……それに、蓮を一人で行かせるわけないでしょう」


 二人の鷹司が、ダンジョンに足を踏み入れる覚悟を決めた。俺のために。


「ありがとう。二人とも」


「礼はいらない」と沙耶。「当然のことよ」と紫月。


 声のトーンは違うが、目の温度は同じだった。


---


 放課後、すぐに楓に電話した。


「楓、聞いた? お前のお母さんの講義、すげえ良かった。それとダンジョン見学会――」


「聞いた聞いた! お母さんから全部聞いてる! やばいよね! 蓮、来年絶対行くでしょ!」


「当たり前だ」


「わたしも行きたい……けど聖蘭の生徒限定かあ。ずるい!」


「研究ノートの続き、見学の成果も書けるぞ」


「あーっ、それ最高じゃん! 蓮、メモ死ぬほど取ってきてね! あ、写真も! 動画も!」


 楓の声が弾んでいる。電話越しでも、あの太陽みたいな笑顔が見える。


 理緒にも連絡した。


「見学会……! 蓮くん、絶対に参加してください。わたしがチェックリストを作ります。観察すべきポイント、採取不可でも目視で確認すべき鉱物のリスト、温度と湿度の記録方法……」


「りおちゃん、落ち着いて。まだ一年先だから」


「一年しかありません! 準備が足りません!」


 理緒のスイッチが入った。こうなると止まらない。


 雫は、教室で静かに微笑んでいた。


「見学会、わたしも行くよ」


「しずく、大丈夫か? ダンジョン怖くない?」


「怖いよ。でも、れんくんが行くなら行く。決めたから」


 あの屋上の日から、雫は変わった。静かだけど、もう揺るがない。


 玲奈は自分の席で頬杖をつきながら、ぼそりと言った。


「わたしは二年になったら生徒会に入るわ。見学会の運営側に回れば、色々と融通が利く」


「……それ、わざわざ生徒会に入る理由がおれのためってこと?」


「違うわよ。キャリアのためよ。神楽坂グループの後継者として、組織運営の経験は必要不可欠。あんたは関係ない」


「はいはい」


「はいは一回。……誰の口癖よ、これ」


 玲奈が自分で言って自分で照れた。沙耶の口癖がうつっている。少しずつ、この輪に馴染んできた証拠だ。


---


 夜。自室のベッドに寝転がって、天井を見上げた。


 来年、ダンジョンの第一層に入れる。


 見学だ。安全区域だ。探索とは程遠い。


 でも、本物だ。


 図鑑の写真じゃない。テレビの映像じゃない。蒼輝石を手のひらで感じたあの日のように、全身でダンジョンを感じられる。


 そして、その先に待っているのは十八歳。本当の探索。


 仲間がいる。沙耶、紫月、雫、玲奈、楓、理緒。六人の女の子たちが、それぞれの形で俺の夢に寄り添ってくれている。


 りんねえが見守ってくれている。結月が追いかけてきてくれている。母さんが、静かに背中を押してくれている。


 こんなに恵まれた人間が、前世にいただろうか。思い出せないけれど、多分いなかった。


 胸が熱い。


「――来年か」


 呟いて、目を閉じた。


 夢の中で、蒼い光が待っている気がした。


---


第14話 了


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