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第11話「夏の海と、初めての涙」


---


 八月。


 鷹司家の避暑地は、伊豆の海沿いにあった。


 白い砂浜を見下ろす高台に建つ洋館。その規模は「別荘」という言葉では収まらない。門をくぐった瞬間、潮風と一緒に非日常が押し寄せてきた。


「……すげえ」


「鷹司の別邸の一つよ。大したことないわ」


 紫月がさらりと言う。金持ちの「大したことない」は信用できない。


 沙耶の招待で、三泊四日の滞在。母さんは最初渋ったが、鷹司家から丁寧な保護者向け案内が届き、沙耶の母親から直接電話もあって、最終的に許可が出た。


 りんねえは「わたしも行く」と主張したが、招待は俺だけだった。出発の朝、玄関で「鷹司の二人に取られないでね」と真顔で言われた。結月は「にいに、おみやげー!」と手を振っていた。温度差。


---


 初日の午後、三人で海に出た。


 プライベートビーチ。他に誰もいない。波の音だけが響く、贅沢な空間。


「蓮、泳げるの?」


「人並みには」


「なら勝負よ。あの岩まで競争」


 紫月が水着姿で腕を回している。赤いビキニに、鍛え上げられた身体。剣道で培った体幹がしっかりしていて、十一歳にして既に「強い」という印象が先に立つ。


「お手柔らかに」


「お手柔らかにする気はないわ」


 案の定、ボロ負けした。楓もそうだが、女子に運動で勝てる気がしない。この世界の女性は身体能力が高いのか、それとも俺が弱いのか。


 息を切らせて浅瀬に戻ると、沙耶が波打ち際に座っていた。


 白いワンピース型の水着。肌の白さが際立っていて、砂浜の中で一枚の絵画のように見える。膝を抱えて、静かに海を眺めていた。


「沙耶、泳がないの?」


「……わたしは見ている方がいい」


「えー、もったいない。せっかくの海なのに」


「わたしがここにいるのは、海のためじゃないもの」


「じゃあ何のため?」


 沙耶は一拍置いて、俺を見上げた。


「蓮がいるから」


 潮風が吹いた。沙耶の黒髪が、ふわりと舞う。逆光の中で、その瞳だけがはっきりと俺を映していた。


「……沙耶って、時々すごいこと言うよな」


「事実よ」


 紫月が海から上がってきて、その光景を見た瞬間ぎりっと奥歯を噛んだ。


「沙耶。蓮を独占しないで」


「独占してないわ。蓮が自分でここに来たの」


「わたしと泳いでる最中にふらっと戻ってきたんでしょう! 蓮、わたしとの勝負の途中だったわよ!」


「とっくに負けたけど」


「もう一回よ!」


 腕を掴まれて海に引きずり戻された。沙耶が砂浜から小さく手を振った。珍しく、柔らかい笑顔だった。


---


 二日目の夜。花火をした。


 洋館のテラスから、三人で手持ち花火を灯す。パチパチと火花が散って、暗闇を小さな光が彩る。


「線香花火、誰が一番長く持つか勝負しない?」


 俺が提案すると、紫月の目が光った。


「いいわ。負けないから」


「わたしも」


 沙耶も珍しく乗り気だ。


 三人で線香花火に火をつけた。小さな炎の玉が、夜風に揺れる。


 紫月の花火が先に落ちた。


「……っ。こんなの、実力じゃなくて運よ」


 悔しそうに唇を尖らせる紫月を横目に、俺と沙耶の花火が残る。


 ちりちりと音を立てて、炎の玉が小さくなっていく。


「……落ちるなよ」


「蓮こそ」


 互いの花火を見つめる。沙耶の横顔が、線香花火の温かな光に照らされている。普段の凛とした表情が、今だけは少し幼く見えた。


 ぽとり。


 俺の花火が先に落ちた。


「……わたしの勝ち」


「ああ、負けた」


 沙耶は消えかけた花火の残りを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「蓮。来てくれて、ありがとう」


「こっちこそ。楽しい」


「……うん。楽しい。こんなに楽しいの、初めてかもしれない」


「大袈裟だなあ」


「大袈裟じゃないわ」


 沙耶の声が、かすかに揺れた。


「わたしの周りには、いつも『鷹司の娘だから』近づく人ばかりだった。学校でも、親戚の集まりでも。誰もわたし自身を見てくれない」


「……沙耶」


「でも蓮は、最初から沙耶って呼んでくれた。鷹司じゃなくて。友達になろうって、手を伸ばしてくれた」


 沙耶が俯いた。長い髪が顔を隠す。


「わたしが蓮を守りたいのは、義務じゃないの。恩返しでもない。ただ……」


 声が途切れた。


 暗闇の中で、微かな音。


 泣いている。


 沙耶が泣いているのを見るのは、初めてだった。幼稚園の卒業式でも、別れ際でも、この子は泣かなかった。いつも静かに感情を飲み込んで、完璧に振る舞っていた。


 それが今、線香花火の残り香の中で、崩れている。


「ただ、蓮のそばにいたいの。それだけなの。……こんな気持ち、どうすればいいか分からない」


 十一歳の告白未満。名前のつけられない感情。


 俺は何も言わず、沙耶の頭にそっと手を置いた。


 沙耶の肩が小さく跳ねた。それから、堰を切ったように涙が落ちた。声は出さない。沙耶は泣く時も静かだ。ただ、肩だけが震えていた。


「……泣いていいよ」


「泣いてない」


「泣いてるじゃん」


「泣いてない。……目から水が出てるだけ」


「何それ」


 少しだけ笑った。沙耶も、泣きながら小さく笑った。


 テラスの隅で、紫月が壁に背を預けてこちらを見ていた。その表情は暗くて読めなかった。ただ、拳がぎゅっと握られていたのだけは見えた。


---


 三日目の朝。


 朝食のテーブルで、紫月が不機嫌だった。普段の不機嫌とは質が違う。静かな怒り、というより――焦り。


「紫月、どうした?」


「別に」


 それきり口を開かなかった。


 午前中、紫月は一人で道場にこもって素振りをしていた。竹刀の音が、屋敷中に響いている。異常な回数だ。止まる気配がない。


 見かねて道場を覗くと、紫月は汗だくで竹刀を振っていた。


「紫月、休めよ。倒れるぞ」


「うるさい。放っておいて」


「放っておけないよ」


「……なんで」


「友達だから」


 紫月の竹刀が止まった。


「……友達」


「うん」


「わたしは……友達でいたいんじゃない」


 紫月の声が震えていた。竹刀を握る手が白い。


「昨日、沙耶が泣いてた。蓮が頭を撫でてた。……わたしは、遠くで見てるだけだった。いつもそう。わたしはいつも、一歩遅い」


「紫月……」


「わたしだって……わたしだって、蓮の隣で……」


 言いかけて、紫月は唇を噛んだ。


 それ以上は言わなかった。代わりに竹刀を俺に投げてよこした。


「……稽古。今すぐ」


「……おう」


 その日の稽古は、いつもより荒かった。でも、いつもより近かった。


 打ち込む度に、紫月の瞳が揺れていた。怒りじゃない。悲しみでもない。名前のない感情が、竹刀越しに伝わってきた。


 十一歳の夏。


 何かが、確実に変わり始めていた。


---


 第11話 了


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