『北川古書店』 【6】菊坂、二人の文学散歩
文学をきっかけに、心が静かに寄り添う。
菊坂での出会いと余韻が、二人の関係に新たな光を差し込みます。
『北川古書店』 【6】菊坂、二人の文学散歩
二十六日午後三時四十分、雅人は地下鉄・春日駅のA2出口で綾乃を待っていた。
白いシャツに紺のカーディガン、黒のジーンズというカジュアルな装い。やがて、階段を上がってくる綾乃の姿が見えた。雅人が手を振ると、綾乃も笑顔で応えた。
ピンクのスリーヴィングに紺のジーンズという、学生のような服装だった。
「待った?」
「五分くらいかな」
どこから見ても若々しく、親しげな二人だった。
並んで歩き出し、菊坂方面へ向かう。狭い道が続き、まるで明治時代にタイムスリップしたかのような風情がある。右手に小高い公園が見えた。
「綾乃さん、これが清和公園です。昔は『右京山』と呼ばれていて、一葉日記にも出てきますよ」
二人は立ち止まり、公園に登り眺た。時間が止まったような静けさがあった。
少し戻って左に曲がる。階段の多いこの界隈は、歩くのに気をつけないといけない。
鐙坂の階段を下りていくと、明治時代の『菊坂下町』が目の前に広がる。かつて樋口一葉が、苦しい生活を送っていた場所だ。
「ここは別世界ですね……時間が止まっているみたい」
「出てきた一葉に挨拶できそうな気がするよ」
綾乃は足を止め、ゆっくりと周囲を見渡した。
「あの井戸、明治時代からあるんですね。昔はつるべ井戸だったけど、今は手押しポンプになってる」
「一葉はここに三年住んでいたんですよね」
昔を偲ばせる静かな通りを、なるべく迷惑にならないように歩く。菊坂下道を左に曲がり、さらに階段を上がって進む。
「この辺りは入り組んでいて、目的地に行くのも一苦労ですね」
「ほんとに……」
道を進むと、片側にだけ歩道がある。ふと雅人が指差した。
「見てください、あれが旧伊勢谷質店。一葉がよく通っていたお店です」
白い土蔵に格子戸、木の引き戸。明治の風情が色濃く残る建物だ。
『開館中』の札がかかっている。
「見学してみます?」
「うん、ぜひ」
中に入ると、明治の時代を思わせる店内が広がっていた。座敷の奥には、当時の質屋の暖簾が展示されている。
「ここで一葉は、季節の変わり目になると生活のために品物を預けていたのかな……と思うと、切ないですね」
三十分ほど滞在し、次に一葉終焉の地へ向かった。菊坂下の交差点を左に行き、白山通りに出て右へ。ほどなくして、薄茶色の石碑が見えてきた。
「ここが『一葉終焉の地』……」
横には『一葉 樋口夏子碑』と文学碑もあった。綾乃が碑文を読んでいる。そこには一葉日記の四月と五月の記述の一部が刻まれていた。
「四月の日記、もう読みましたか?」
「はい、読みました。ここで読むと感無量です」
一葉の作家生活は十九歳から二十四歳までの短い間だった。
「二十四歳で亡くなったのか……若すぎますね」
「雅人さん、今日は本当にありがとう。とてもいい散歩でした」
喜ぶ綾乃の顔を見て、雅人も嬉しかった。
電車を乗り継ぎ、新十条駅に着いたのは午後六時ごろだった。
「近くの居酒屋で、夕飯でもどうですか?」
「いいですね」
駅近くの商店街を50メートルほど進むと、「居酒屋北国」の大きな提灯が見えた。暖簾をくぐると、明るい声が響いた。
「いらっしゃいませ」
店内には数人の客。二人は奥の隅の席に座る。
「お飲み物は?」
「生ビールでいい?」
綾乃は頷いた。
焼き鳥セットと生野菜の盛り合わせを注文し、ビールが届いた。
「本郷・菊坂に乾杯」
再び今日の散歩を振り返った。
「菊坂下町の井戸のある風景、あれは当時を偲ばせる場所ですね」
「写真では見てたけど、実際の景色はずいぶん変わってるわね。家も修理されてるし」
「それも時代の流れですね……」
「二十四歳の人生か……切ないわ」
「一葉日記、買って本当によかった。碑に刻まれてた日記の一部、あれ読んだところだもの。今日は行ってよかったです」
ビールを飲みながら、互いの距離が少し縮まったようだった。
「高校生のお嬢さん、どうしてます?」
「毎日勉強に来てますよ。熱心で、成績も良くなってる手応えがあります」
蓼科に行く前、叔父は「和美のことは頼むぞ」と本人の前で言っていた。
「でも今日は『臨時休業』って伝えてあります」
「綾乃さん、お酒強そうですね」
「家族はみんな飲んべえよ」
「それは頼もしい」
「和美さんが勉強してるところ、今度見せてくださいね」
「いつでもどうぞ」
午後七時半過ぎ、店を出て古書店まで歩き、一緒に帰った。綾乃と別れ、雅人が店内を点検していると、ドアが開いた。
「遅くまで大変ですね」
振り返ると、和美が入ってきた。
「大学生のお姉さんと、どこ行ってたの?」
「本郷・菊坂だよ」
「そこ、何のとこ?」
「樋口一葉の文学散歩だよ」
「和美も一葉が好きって言ったじゃない! どうして連れて行ってくれなかったの?」
「ほんとに一葉が好きなら、今度一緒に行こう」
「『北国』に入るとこ、見たんだから」
口を尖らせて、和美はくるりと背を向け、出ていった。
一歩ずつ、静かに紡がれていく関係の糸。
小さな出来事の積み重ねが、大きな物語の流れへとつながっていきます。
次回も、どうぞお楽しみに。