第92話 夜の海は水が黒く冷たい
何も考えられない。
いつもなら次何しようか、どう動こうか、なんか良い事ないか、俺の愛刀格好良いとか、新作のソフビ出ないか等、くだらない事を考え絶え間なく動く脳。
なのに、嫌でも回転しまくる脳みそが、走ることを諦め嫌なくらい静寂を決め込んでいた。
母の死後、大切な手続き等を終えてから丸2日間座り込んだフローリングは、カズキの体温で温まり冷たさすら感じない。
スライム化の影響で食事を必要無いので、動く意味すら見つける事ができなかった。
自分の成長の為、強くなる為に利用し放置した【秘密基地】ダンジョンが、最悪の形でC級からE級へと終わりを迎えた。
そこから解き放たれたちっぽけで最弱なはずのスライムは、カズキに対し憎悪の炎に取り憑かれた最悪だった。
E級へと昇華したスライムは、人類に対し甚大な被害と恐怖を与え、カズキの大切な人を奪い心に大きな穴を空けた。
全てはカズキが右足を踏み下ろすだけで未然に防げたというのに。
その後悔と自分への負の感情が織り混ざり、心の穴は広がり続けカズキの原動力を奪い去った。
何回かインターホンとスマホが鳴ったが、身体が動かない。
アツシとユキの着信音は分かりやすい様に他と変えているのだが、その音は一度も鳴っていなかった。
2人を我が子同然に接していたカズキの母親マキの死は、カズキの心以外にも多大なるダメージを与えていた。
ピンポーン
郵便だろうか、インターホンが鳴り響いた。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
誰だよ。
今は、今だけは静かにしてくれ。
ピピピンーピピンピピピーンポーン
しつこいな
あり得ない連打でインターホンが鳴らされるも、カズキは起きあがろうとはしなかった。
「やんなタカシ」
「ちょお母さん本当にやるの!? え、タカシ? 短刀しま……あーもうやっちゃった」
そんなやりとりが、カズキのステータスで強化された耳に入り込んだ直後、玄関の引き戸が勢い良く開け放たれる。
ずかずかと上がり込んでくる足音と、申し訳なさそうに歩く足音の2つがカズキに近づいてきた。
喪服を着た松本家の3人が、カズキの前に立っていた。
「あーあーパーティーメンバー揃ってこんな調子かい。私との契約は余裕って事でいいのかい?」
「ちょっとお母さんカズキ君だって今は」
いつもとは違い髪の毛をお団子状に括っていないサヤを、「黙んな」とケイコ社長は一喝し話を続けた。
「この業界で私にデカい口を聞くやつはそうそういない。あの日私の元にやって来て契約する為のペンを寄越せと大見栄を切った高校卒業したてでケツの青いガキはどこへ行った?」
目を合わせる事は愚か、顔向ける事すらせず放心状態のカズキに向かってケイコ社長は話しかけ続ける。
「小遣いで生きて来た人間が5000万返済するからと、冒険者にしてくれと、直向きに走っていた無鉄砲な男はどこへ行った?」
熱く、真っ直ぐな想いさえも無鉄砲なガキを奮い立たせる事は出来なかった。
フローリングに座り込む男を見て、大きなため息を吐き出して吐き出し切ったケイコ社長は、女性にしては大きな手でカズキの胸ぐらを掴み、力任せに立ち上がらせる。
「お母さん!!!」
その行為を見逃せなかったサヤが、いつものおっとりとした喋り方と打って変わり怒鳴り声を上げ止めに入る。
しかし、その手が届く前にタカシが止めた。
「ちょっとタカシ、私いま怒ってるからやめて」
「……ちゃんと見ろ」
母親の目は熱く、潤み、唇は震えていた。
いつもとは違う母親を見たサヤは次の言葉が見つからずに押し黙る。
邪魔者がいなくなった事で再喝するケイコ社長。
「どんな冒険者よりも私に冒険を見せてくれた男は………、私が見込んだ佐倉和希はどこに行ったんだ! ええ!?」
熱い意志が、吐息さえも伝わってきた。
「………」
しかし大きな穴が空いたカズキでは、受け止めても流れ落ちてしまうだけだった。
「この度はご愁傷です。何かあれば来てくれればいい、では」
何も溜める事の出来ない器になど、ケイコ社長は水を差し出さないのだった。
踵を返しカズキの前をケイコ社長とタカシは去っていった。
「カズキくん……私は、いつでも頼ってね」
そう言い残しサヤが小走りに玄関に行き、切られた鍵の補修をしてから家を後にした。
どんな言葉でさえも、優しい言葉でもカズキという穴の空いた器には何の意味も無く、虚しさだけを垂れ流す。
何も考えられない。
夜の海の様に真っ暗で嫌に静かな心の中で、赤く光る悪意が蠢く。
光も届かぬ夜闇を映す黒い水の中に沈んでいたソレは、その時を待っていた。
契約が一番効力を発揮しやすい様、狡知に嗤いながら。
「っなん……だ?」
内側から自分を食い尽くされる感覚に違和感を覚える。
魔力操作をしていないのに両手足は白くなり、体の線は細く華奢に縮んでいく。
「どういうことだ?」
髪は黒から銀へと色を変色させ長く伸び、黒い瞳は赤く変貌した。
カズキだった存在は、長く癖毛混じりの銀髪を後ろに手で流し、長いまつ毛の下で赫く瞳を光らせ、息を吐く。
「ふぅー、契約通りこの身体は貰っちゃうわあ」
人差し指でくるくると髪の毛を弄りながら、カズキから身体の主導権を奪ったミラ・フレデストは妖艶に嗤った。




