第三部
「どこがすぐなのよ」
「馬の足だったらすぐなんじゃない?」
「ケンタウロスに会っちゃった」シンディは一人で盛り上がっている。
ロッシーナがお腹が空いて、とうとう泣き出した。
「どうしてこんな目に」
「街が見えてきたよ!」シンディが小躍りして来た。
ハウリッカだ。
海辺の街。
「無銭飲食でもする?」ロッシーナが言った。
「路頭に迷うってこのことね」
「あれ、ポーロじゃない?」
日の当たる防波堤に座って何か食べている。
「ポーロ!」
「よお」
「お金、ちょうだい。お腹空いてるの」
「これ、食べるか?」
パンにチーズを挟んだものだけを三人はむしゃぶりついた。
「ああ、・・・・食べるのって、愛おしい・・」ロッシーナが頬張りながら、また涙を流した。
「これで仲直りできるなら安いもんだ」
「私はまだ許していないから」
「どうしてここに?」
「見学。俺も太陽号ってもんを見てみたいからな」
「太陽号ってあれ?」
沖に大きな船が浮かんでいる。
「そうらしいな」
「進水式はもう済んでるみたいだけど」
「ソラフルハハを待ってるんだ」ポーロは立ち上がった。
「腹ごなしに行ってみるか」
「うん。コーゼもいるかも」
「関係者以外立入禁止だとよ」
門前払いをくらった。
また防波堤に戻ってきた。
「エレヤ!」
「コーゼ!」
コーゼが手を振って駆けて来た。
「来てくれたんだね」
「私達も太陽号に乗ってみたいの」
「もちろんだよ! 招待するよ」
四人ともチケットをもらった。
「どうやって飛ぶの?」
「気球だよ。ほら、あそこに付いてるだろ? まず大きな大きな火を焚いて、あれを膨らませるんだ。同時に気流を作って、それに乗るんだよ。湯気が空まで昇るんだよ。すごいだろ。大量の水を消費する。だから、海なんだ」
「海が干上がっちゃう」
フフとコーゼは笑った。
「コーゼ! ソラフルハハだ!」誰かが呼びに来た。
遠くにソラフルハハが見える。
「まるでエレヤ達が連れて来たみたいだね。じゃあ、来なよ!」コーゼはまた手を振って駆けていった。
「みんな魔法を忘れてる」シンディが呟いた。チケットはクシャクシャに握り締めてあった。
「魔法は幹なの。本来、魔法を解く術が科学だったはずよ。今は枝葉ばかりが大きくなって、自分を見失ってる」
ポーロがあくびをした。
「私たちウィザードは忘れられた種族なの」
「忘れられた原因は何だ?」ポーロが笑った。
「私たちのせいだって言うの!?」シンディが声を上げた。
「これ以上進んだら、私たちは戦う」
「穏やかじゃないな」
チケットはシンディの手の中で火になって消えた。
「遠くで見てるから」シンディは行ってしまった。
「どうする? シンディ怒ってたよ」
「俺は行く。俺はウィザードじゃないからな」ポーロが立ち上がった。
「お前らも急がないと間に合わんぞ」
「私も行ってみたい」ロッシーナが言った。
「一度、ソラフルハハに会ってみたいから。少しでも」
「そうするしかないね」
エレヤもロッシーナも港へ向かった。
「大っきいー」
眼前に巨大な気球の付いた船が横たわっている。
ボートからタラップを渡る。
「客船みたいね」
ゴーゴーと海風の音がする。
「ねえ、ソラフルハハに近付いたら合図してね。私、触ってみたいの」
コーゼが何か話し合っていた。
こっちを見ると軽く笑った。
外に出ると、気球の用意をしているところだった。
パッチワークのように色とりどりの布地が使われていた。
「これでホントに飛ぶのかしら」
「飛ぶよ」後ろを見ると、コーゼがいた。
「これはまだテストなんだ。まずソラフルハハ。ソラフルハハのことは何も分かってないだろ? 生物なのかも分からない。それから世界中を旅して回るんだ」
「知らない方がいいこともあると思うけど」
「何だって?」
「海風で聞こえないの?」
「人間はまだ何も知らな過ぎる。ソラフルハハがれっきとした証拠さ」
海鳥たちが逃げて行く。
気球がどんどん大きくなっていく。
「すごい音」ロッシーナが耳を押さえた。
「中に入ろう」エレヤはロッシーナを連れて船の中へと入った。
浮かび上がる。
「外は湯気で何も見えないわ」
だんだん高くなってゆく。
「シンディの魔法の方がすごかったね」
窓が明るくなってきた。
空だ。
「ソラフルハハは?」
「こっちに向かってくる。このままだと・・」
運転席。
「ソラフルハハにぶつかる!」
「落ち着け! すり抜けるはずだ!」
「わー!」
「お母さーん!」
気が付くと、エレヤは真っ暗闇の中にいた。
手を動かしてみる。ロッシーナがいない。
浮いてる。
ようこそ。
声だ。
「誰? ここは何処?」
私はソラフルハハ。ここは宇宙。
「ソラフルハハ? 宇宙?」
人を見る瞳と自分を見つめる内なる目、それは意識。
「宇宙って夜のこと?」
いいえ、夜より深い地上の反対。
完璧な存在。
感じませんか? 意思を。
全存在。
意識は、宇宙へとつながっている。
宇宙はつながっている。
全部、宇宙のかけら。
座りたい。
見えない椅子に腰かけた。
「宇宙って、ねえ、何なの?」
うみともそらともつかない世界。
介在するもの。
「介在?」
スプーンのようなもの。
「スプーン?」
あなたがスクランブルエッグをすくったようなね。
「あなたは?」
私は伝令。
「伝令?」
郵便配達のようなもの。
私は水の意思。そこにしかないもの。
私はここにいる。そこには誰もいない。
私はそれが不思議だとは思わなかった。それが当たり前の世界だったから。
不思議だと思わなかった?
あなたがあなたであることが?
宇宙に揺蕩っている。
たゆたう宇宙の中で燦然と輝く白い星。
私の白い星。
エレヤ、あなたは一番高い星。その理由はいずれ分かるでしょう。
あなたは太陽の子。
紺碧の空。
「あのかき卵みたいなのは何?」
あれは銀河。運命の渦。みんなあそこから生まれたのよ。
真実を知りたいのなら、目を瞑りなさい。
「こう?」エレヤは目を閉じた。
穴に落ちて行く。
意識の奥、深淵、無意識の内に。
「ここは・・」
「おかえり」
明るい。
「ここは天。星座の迷宮」
女の人はすぐ目の前に立ち、言った。
青白、陽炎のように淡い。
「みんな星。形のあるもの、形のないもの・・」
星と星が天の川でつながっている。
天の川に流される。
「これに掴まりなさい」
「ロッシーナのステッキ!」
「安心しなさい。あの子は無事です」
天の川に突き立ててつかまる。
古代から続く光。
星の風が吹く。
所々で欠けたように下に空が見える。
「あれは・・」
「宇宙は一羽の鳥。今は眠っています」
「大きな目。まるでフクロウみたい」
「上を見なさい」
「どこを?」
「ただ高く」
星座の迷宮は三角になっている。どこからでも見えるように。
銀色に輝く閉じた羽。
金色にも見える。
光の鳥。
「あれは主。司るもの。フォーレ。霊鳥。来光を抱いています」
「来光?」
「ほんの未来」
「私たちはみんな宇宙のかけら」
「あなたを待っている人がいる」
「誰?」
「神よ」
「神様?」
「引き返しなさい。今すぐ。あなたはあなたで、あなたでなくなるのです」
「どうやって帰ればいいの?」
「出口と入口は一緒」
ソラフルハハは微笑んだ。
「あなたの正体は瞳の色」
透明な瞳。
女の人がソラフルハハの姿になった。
「未来は不可知。失敗は成功の母ですよ。エレヤ」
エレヤはまばたきをした。
「おめざめ」
目が覚めるとソラフルハハが目の前にあった。
宙に浮いている。
「水になりたい」
ソラフルハハが言った。
ソラフルハハはエレヤの空色の泪になって海に落ちていった。
エレヤは海に落ちた。
助け上げられた船に乗って、港に着いた。
ポーロとロッシーナとシンディもあの防波堤にいた。
太陽号は不時着していた。
「どこ行ってたんだ?」ポーロが心配そうに言う。
「ロッシーナ、これ」エレヤはロッシーナのステッキを返した。
「私のステッキ! どうしてあなたが持ってるの?」
エレヤはあった事を洗いざらい話した。
「聞いたことがある。何にもあてにならない世界があるって」シンディが言った。
ポーロは半信半疑な様子だったが、神の件になると、顔色を変えた。
「ソラフルハハがそう言ったのか?」
エレヤは肯いた。
「永年の謎が、やっと解けた」
「どうするの? エレヤ」
「卵が先か、庭鶏が先か」ポーロが呟いた。
「引き返す」
「そうね。その方がいいわ」
「空って何かの印よ」
「何かって何?」
「何かって何かよ」
「運命とは分からないものだな」ポーロが何か渡した。
「象牙だ。駄賃にはなるだろう」
エレヤ達はそれでロバに乗った。
「ロッシーナはペイハーズね、私はピーバー。シンディは?」
「私には故郷ないもん」
「故郷がない?」
「私たち一族は故郷を持たないの。人に恐れられるから」
「へー」
「人に知られちゃいけないから、定住しないの」
「不便ねえ」
「きょうだいがいたらなあ・・」
「私、弟が生まれるんだ」
「もうすぐ産まれるよ」ロバが老婆の声で喋り出した。
聞いたことのある声。
あのサーカスの占いテントの老婆の声だ。
「どうしてロバになっちゃったの?」
「死んだからだよ」
「誰? 私には見えないわ」ロッシーナがキョロキョロする。
「このおいぼれにも、ようやく運が回ってきたね。また会えるとは」
「あのおばあさん」シンディが言った。
「ああ、あのウィザードだね。引き合わせたかいがあったね」
「私も占ってもらったのよ」
「予め定められたこと。運命が糸なら、定めは板。歩いてるつもりが流されてる」老婆ロバが言った。
「どうすればいいの?」
「占いは呪いじゃないからねえ」
「リザのことは覚えてる?」
「あの怖がりの娘だね。元気にしてるよ」
「私達、これからどうなるの?」
「定めが大き過ぎて見えにくいね・・」
老婆ロバの背に乗って、三人とも居眠りをした。
「エレヤ、エレヤ。ロッシーナがいないよ」
「え?」
本当だ。寄りかかって寝ていたはずなのに。
「寝ぼけてどこかで落っこった?」
ステッキは置いたままだ。
「おばあさん、ロッシーナは?」
老婆ロバは黙っている。
ロバになってしまったみたいだ。
ロバから下りて、ロッシーナを探した。
「ロッシーナー!」
「シンディ、ステッキに魔法をかけてロッシーナの所まで行こう。ポーロの時みたいに」
「妖精の(ー)物語」
何も起こらない。
「魔法が届かない」
ステッキは黙ったままだ。
「そんなことないのに」
「さらわれた?」
「誰に?」
「私を待っている人」
「神様が?」
呆然。
茫然自失としているのはエレヤだった。
「私、そばにいたのに」
「エレヤのせいじゃないよ」
「どうしよう」
エレヤはロッシーナのステッキを握り締めた。
「神様ってどこにいるの」
「そんなの知らないよ」
「このまま、ペイハーズに行こう。ロッシーナの故郷だから」
「帰ってるかも知れないね」
二人ともそんなことは信じてなかった。
期待していただけ。
ロバの背に乗った。
「ミゾウに会いに行く? あれだって神様なんでしょ?」
「なれの果てよ。今は今の神様がいるんじゃない?」
「世界は二度生まれたんだもんね」
ロバの足は遅い。
「にっちもさっちも・・」
「ロッシーナ、困ってないかなあ・・」
ロッシーナのステッキを魔法の杖みたいに振り上げてシンディが言った。
「困ってるに決まってる」
エレヤは泣き出しそうになるのを堪えた。
「どうして私を待ってるの?」
一人言になった。
「ロバって何食べるの?」
「草とかじゃない?」
「私達、知らないことばっかりだね」
エレヤはコーゼの言葉を思い出していた。
何も知らないから、ただ見ているだけしかできなかった・・。
「神様ってホントにいるんだね・・」呟いた。
「ポーロなら何か知っているんじゃない?」
「またどっか行っちゃってるよ」
ソラフルハハは見えない。
もうどこにもいない。
私の泪になっちゃったから。
「私、あの時よく分かんなかったけど、今でもよく分かんない。あの占いの話」
後ろを見ると、ロッシーナのステッキを持ってシンディが泣いていた。
やっとペイハーズだ。
「館に行ってみる?」
「娘さんがいなくなっちゃったから持ち物貸して下さいとでも言うの? それに、ステッキだけで充分よ」
結局、ペイハーズは素通りした。
「私の街にね、キロクっていう色んな事研究してる人がいるの。その人に聞いてみようか」
「色んな事って?」
「魔法とか。きっとシンディ見たら目丸くするよ」
「エレヤ!」
「母さん!」
大分、お腹が大きくなっていた。
「この子は?」
「シンディ」
「はじめまして」
「身ぐるみはがされて帰って来たのかと思ったよ」
エレヤは父と母に事のあらましを喋った。
「知らない人について行くなって何度も言ったじゃないか!」
「友達をさらわれておめおめ帰って来た? さっさと助けに行きなさい!」
こっぴどく怒られた。
横で聞いていたシンディは居所がなさそうに俯いていた。
キロクの所に行ってみた。
「コーヒーでも入れようか?」キロクがもてなしてくれた。
ウメは不思議そうにシンディを見ている。
「で、そういうことなのよ。一体、どうすればいいのか・・」
キロクはしばし考えた。
「死んじゃやだ」
ウメが急にグズり出した。
「死んじゃやだー!」
「ウメ、誰が死ぬの? ウメ」
「もう、やだのー」
「この子、精霊の血が宿ってる・・」シンディはウメの額に手を当てた。
キロクは読んでいた本をパタンと閉じた。
「この子は僕と精霊の間に授かった子なんです」
「さっきのは予言?」シンディが聞いた。
キロクは黙って肯いた。
「予知は危険なの。早く母親の元に返したほうがいいわ」
「日記はもうやめるか」キロクはため息を吐いた。
「僕の書いた日記だ」そう言うと、キロクは分厚い本をパラパラとめくった。
「ウメの成長記録。この頃はそういうことが多くなってる」
「ごめんなさいでした」ウメが頭を下げた。
「ウメ、誰が死ぬの?」
「聞かない方がいいよ。そういう時のことはウメはほとんど覚えてないんだ」
「あそこなら何とかなるかも」シンディが言った。
「あそこって?」
「もぐら島。ウィザードの地」
「故郷がないって」
「私も行ったことがないの。一生に一回、帰ることが認められているの」
「早く行こう!」
「いい? しっかりつかまっててよ。私もどこまで飛ぶか分かんないんだから」
「うん」
「妖精の(ー)物語」
見ていたキロクとウメがパチパチと拍手をしていた。
「イラッシャイナイト!」
飛んだ。
今度はずっと先まで飛んだ。
疾風のように空を駆け巡る。
「着いた!」
降りた所は崖で、向こうにこんもりとした島が見える。
夜だった。
「いつもは海に沈んでるの。満月の夜しか姿を現さないはずなんだけど・・」
「満月って何?」
「昔は、月が丸くなったり細くなったりしてたの。満ち欠けって呼んでたのよ」
「へー」
「渡るわよ」
ゴツゴツした岩を這い上りよじ登り、やっと島まで来た。
鬱蒼とした森。
「人の手が一切入ってないから」
「ここに来るとどうにかなるってどういう事?」
「この島ではね、魔法だけが絶対になるの」
「どういう事?」
「何にも干渉されない。魔法だけが本当になるの」
森の中からガサゴソと音がした。
「何?」
「多分、熊」
「キャー!」
二人は逃げ出した。
熊に追われて夜の森を駆け抜けた。
川を横切って、平地へ出た。
「もう大丈夫ね」
工場の跡みたいな所だった。
「ここにも昔、人が住んでたのね・・」
「ずっと昔ね」
エレヤは上を見上げた。
山から山に渡されたロープに熊の毛皮が幾千も洗濯物みたいにバタバタと風に吹きさらされている。
「信じられない光景ね」
「ありきたりよりいいでしょ?」
エレヤはロッシーナのステッキを見詰めた。
「待ってよ。夜の間は無理ね。歩き回るから。儀式が必要なのよ、この島では」
夜空を見て、驚いた。
月がまん丸い。
「夢見てるんだわ。この島が」
「あれが満月」
幻の月。
「太陽がくっついてない。太陽はどこへいったの?」
シンディは何も答えない。
「卵の黄身みたい」
二人とも座った。
「古代ではね、月は女、太陽は男を意味してたの」
シンディはエレヤを見た。
「この意味分かる?」
「・・なんとなく」エレヤは顔を赤くして肯いた。
「不自然なのよね。どことなくね」
「違和感?」
「きっと世界が変になってるせいね。賦活作用って知ってる?」
「ふかつさよお?」
「そう。元に戻ろうとする力」
「シンディ、何でも知ってるのね」
「受け売りよ。寝ましょ」
エレヤはモカシンの紐を解いた。
満月の下にはもう一個、島が見える。
「グアナの島よ。蘇りの島。生まれ変わりが誰にでも見られるんだって」
「グアナの島」
「ドラゴンも住んでたのよ。昔は」
「ドラゴンなんて絵本だと思ってた」
「聖域だから誰も立ち寄れないの」
山道を歩いて、山峰に着くと、洞穴があった。
「ここを抜けると誘われるはずよ」
狭い洞穴に一人ずつ入る。
洞穴には壁画がいっぱい。
「特別に中に入れてるのよ」
「一体、何なの、これ?」
「私たちの原点よ」
「ねえ、シンディのお尻しか見えないんだけど」
「待っててよ、キツいんだから!」
全て一繋がりの絵。
「私達のスエル語は文字を持たないの。だから、こうして絵を残すの」
シンディがロッシーナのステッキを伸ばした。
「抜けるわ! つかまって!」シンディとエレヤはロッシーナのステッキでつながった。
また穴に落ちていく。
落ちた所は森だった。
「覚えてる。ケンタウロスの森よ」
気が付くと、ケンタウロスに囲まれていた。
「何すんの!」
「通す訳にはいかないな」
「何が何でも」
「ロッシーナをどうしたの!」
「我々は番人」
「妖精の(ー)物語」
ケンタウロスは眠りに落ちた。
「走って!」
森がだんだん暗くなってゆく。
「こんな森だったっけ?」
「万事休す」
ポーロは囚われて幽閉されていた。
「枷を外せ」
「うるさい奴隷だ」守衛が言った。
「どうせここからは逃げられやしねえよ」もう一人の守衛が言った。
「外は雪か」
「この高さじゃ助からねえよ」
「神のみぞ知る」ポーロは独房の中で不敵に笑った。
「遅れることはない」
エレヤとシンディは細い薄暗い通路のような道を歩いていた。
もう誰も追って来ない。
「どう見ても人工物ね」
羽の生えた幾体もの男女の死体が累々と。
「天使だ・・! 天使の死骸だ・・!」シンディが飛びのいた。
乳白色の天使たちの死骸は皆、苦悶の表情を浮かべている。
シンディの肩を抱くエレヤの手もカタカタと震えていた。
「あそこだけ明るい!」
二人はもたれ合いながら、走った。
抜ける。
氷の海。
「ここは、何処?」息が白い。
「エレヤ?」コーゼがいた。
「コーゼ、何でここに?」
「分からないんだ。太陽号の整備をしていたら、急に・・」
まるで鏡面のようなその大地には世界が映っている。
それなのに、まるでだれもいない。
ため息さえ冷たく。
寒い空。
音も何もない世界。
ただ青いだけ。
氷の海の真ん中に誰かいる。
少年と、ロッシーナだ!
ロッシーナが駆けてくる。
「エレヤ? シンディ?」
ロッシーナが真っすぐこっちに。
「目が、見えるの・・?」
ロッシーナは何度も肯いた。
「こんな顔してたのね」ロッシーナはエレヤとシンディの顔を何度も手の平で撫でた。
寄り目がちだった焦点が、はっきり合っている。
ロッシーナはネグリジェ一枚だった。
「寝てたの?」
「今起きた」
「寒くない?」
「凍えそう」エレヤは麻袋からデニムのコートを出してロッシーナに着せた。
「今日は」少年も歩いて来ていた。
「あの子・・!」
エレヤも肯いた。
バージエで「家具のない部屋を紹介しようか」と言ってきた子だ。
「あなたがやったの?」エレヤはロッシーナの肩を抱いた。
少年は肯いた。
「なんてひどいこと・・!」
「こうするしかなかった」
少年は俯いた。
「僕はジュスイ。神だ」
碧眼、バター色の肌。
「ここはフォリオラ。永遠の世」
どこまでも蒼い瞳、今にも泣き出しそうな蒼い瞳。
「驚いてるね。ここは意識の原野。君たちが来ちゃいけないところだ」
悲しみしか知らないような瞳。
「君達が今抜けてきたのは誕生の森」
ジュスイは誕生の森を指差した。
「怖いんなら、また穴ぐらの中に入り込めばいい」
「あの天使たちは・・?」
「みんな、僕の悲しみを吸い込んで死んだ。もう天使も生まれなくなった」
ジュスイはふとため息を吐いた。
「この世界を食べる。それでもう何も生まれないで済む・・」
「じゃあ、この世界は?」
「無に帰す」
ジュスイはまた目を伏せた。
「葬る」
エレヤもロッシーナもシンディも、ジュスイを見てミノタウロスのことを思い出していた。
「世界はなかった」
ジュスイの目に青い星。
「ここには永遠しかない」
「妖精の(ー)物語」シンディが光に包まれた。
「時間よ止まれ!」
何も起こらなかった。
「そんな手品」
「あなたは知ってるはずよ」
「また僕のせいか」
エレヤはジュスイに近づいた。
「こんなに優しいのに」
「孤独なんてないの」
「久しい」ジュスイはエレヤを見て、そう言った。
エレヤは首を傾げた。
「僕が唯一愛した、片羽の天使」
私は誰なのか。
「天使はみんな人に生まれ変わる。その、片羽の天使が君さ」
「だから、私に会いたかったの?」
「君が見えないから、僕は盲なんだ」
ジュスイは上を見上げた。
「ソラフルハハが消えた。あれは天使達の魂だ」
エレヤを見た。
「悪夢を見たことは?」
ジュスイの隣に小さい女の子が現れた。
泣いている。
「スクリ!」コーゼが駆け寄った。
「誰?」
「多分、亡くなった妹さんよ」
コーゼはスクリを抱き寄せ、抱き締めている。
「あの時、寂しさに肯いてしまったんだ」
スクリが消えた。
コーゼが泣いている。
「また、あいつか」ジュスイは空を見上げた。
「別れるために生まれてきたの?」
ジュスイは一歩、二歩後ずさりしてしゃがみ込んで目を隠した。
「助けて。僕の白い星」
ミノタウロスのノックの音が。
「貴方!」エレヤは天に向かって叫んだ。
無言。
私の目に白い涙。
泣いた天使。
「神様」
涙が落ちた。
氷が割れる。
分厚い氷が。
氷の下にソラフルハハの影が。
地割れ。
氷が隆起する。
「エレヤ!」皆が氷の下に落ちていく。
「先に溺れた方が負け」ジュスイが言った。
ジュスイが氷に飲み込まれる。
沈んでいくジュスイ、助けようとするエレヤ。
エレヤは手を伸ばす。
「やっぱり、君の負けだよ。エレヤ」微かに耳元で聞こえた。
ジュスイは少し微笑っていた。
エレヤも水に落ちて、その冷たさで目が覚めた。
目が覚めると、ムスクのヒンクの森だった。
シンディもロッシーナもコーゼもいる。
みんな夢の中。
「エレヤ」シンディが声をかけた。
「あの子、わざと・・!」エレヤは目を覆った。
月は太陽に突き刺さったままだった。
ロッシーナの目も見えないままだった。
「でも、いいの。ちゃんと見れたから」
「見て」
エレヤは立ち上がった。
エレヤはポニーテールの髪をほどいた。
空に向かって手を広げた。
今の私ならきっと出来る。
太陽を動かす。
思い。
放す。
つながる。
はじける。
ながれる。
太陽は左に、月は右に、離れていった。
ロッシーナの眼差し。
「キセキ・・」シンディが言った。
夜が来た。
「斜め星!」シンディが指差した。
雪が降った。
「フォリオラのかけらかしら・・」
フォリオラのはずれ。
飛び散った氷の破片。
「これで永遠に生きられる」
打ち上げられた氷を拾ってポーロはそう呟くと、立ち去った。
海に来た。
ヤシの木。
「日の出だ・・」
俄に海から姿を見せたのは、太陽じゃなく、私の白い星だった。
邂逅。
青く光る。
来光。
そうあったんだ。
肯く世界。
新しい。
懐かしい。
出口と入口は一緒。
――ごめんね。
涙じゃ足りない。
閉じ込めていた。
私の手だったんだ。
死は、閉じ込められた部屋。
心になった羽。
飛ぶための羽じゃない。
心から生まれた。
心抱きしめて。
「少しだけ優しくなれた」コーゼが言った。
海が見える。
穏やかな海。
凪いでいる。
誰かが消えた。
私は忘れない。
海は静かだ。
時は詩のように流れる。
「やっと海か」呟いた。
海が見れた。
「よし! さあ行こう!」立ち上がった。
「運命なんかない。決められてることなんて何もない」エレヤは言った。
「私達が選ぶの」
「大して変わらないのかもしれないね」
「うん」ロッシーナも肯いた。
「ずっとずっと友だちだからね」
「仲間だもん」
「当然よ」
「宝物よ」エレヤとロッシーナとシンディは手をつないだ。
「でも、春、恋じゃなくなっても、誕生の歌を歌おう」シンディが虹を架けた。
「あれ、コーゼは?」
「どっか行っちゃったよ」
「あの片想いの彼?」
「片想いじゃないよ!」
「じゃあ、何? 両想い?」
「コーゼが私に片想いなの!」
夜のルー砂漠。
夜の間から光が下りて、足跡が降る。
帰り道にミゾウの所へ立ち寄った。
苔がむしり取られた跡。
「誰かしら? ポーロ?」
ペイハーズまでロッシーナを送って、少し遠回りして、キロクの所へ向かった。
「私はキロクさんとこのウメちゃんをお母さんの元へ送り届けるわ」
シンディはウメとキロクを連れて、別れた。
「バイバイ」シンディが手を振った。
結局、行き着くところは母さんなんだな。
今日あったことを全部話せる人。
全部話せるようになった。
小さい冒険のはずだったのに。
ピーバーが見えてきた。エレヤは空を見上げ、ホッと息を吐いて、笑った。
「空が広い」
白い雲。
緑が青々と。
「ただいまっ!」
小さな家。
――4年後。
ボロボロになった服は標本みたいに壁に貼り付けている。
ポーロの消息も知れず、シンディともあれから会っていない。
科学は目覚ましい発展を遂げていた。
電話が出来た。タイプライターの練習もしているし、エレヤは18歳になっていた。
「酒が飲める年齢になったよ」
「馬鹿。酒は20歳になってからだ」
弟のタイタンは緑色の髪の毛を持った少年に成長していた。
「カエルみたいねえ・・」エレヤはタイタンの頭を撫でた。
タイタンはひなげしの咲く草原で、風に吹かれていた。
「ジュスイ?」エレヤは声をかけてみた。
振り返ったのはタイタンだった。
夜、窓がガタゴト揺れる。
エレヤは星座を見ていた。
赤い竜が、屋根をかすめて飛んでいった。
「ドラゴン!」
タイタンはクレヨンでお絵描きをしていた。
「僕、絵描きになりたい。どうしたらお姉ちゃんみたいになれるかな?」
「そうなるようにならなきゃ」
「小さい手袋!」エレヤはタイタンの手袋を見て、キャハハと大笑いした。
「何言ってんだい。エレヤが使ってたやつじゃないか」
小鳥が鳴いて平和な朝。
陽が差してきた。
エレヤははっと目を覚ました。
「もう朝・・?」
エレヤは時計を見た。まだ、早い。
「もう少し、寝よ」二段ベッドの下でうつ伏せになるエレヤ。上のベッドではタイタンがスヤスヤと寝息を立てている。
「エレヤ! タイタン!」母の大声がする。
「いつまで寝てんだい。もう起きる時間だろ」ベッドの木枠を叩く。
エレヤは半分目を開いた。
「お早う。お姉ちゃん」ベッドの梯子を下りてきたタイタン。「お早う」寝ぼけ眼で返す。
大欠伸をしながら豊かな髪を、エレヤは紐で結びつけた。
「このチビ、このチビ、立ったまま眠ってるぞ?」といつものようにタイタンをからかいながら歩く。
タイタンも欠伸をしながら、「やめてよ、お姉ちゃん」と歩く。
「父さん、お早う」
「お早う」
父の座っている席には、金の粒が光っている。
また、父さん、金の粒、見てる・・。
いいこと思いついた。
「じゃあ、すぐ帰るから」
「母さん、私、出かけるから」
「ああ、タイタンも連れていってあげてね」
「はーい」
母がドアを閉める。
シメシメ、うまくいったぞ。
父も自分のラボに行く。
「タイタン、眠いならこの中入ってな」
タイタンは素直にバスケットの中に入る。
「もしもし、ロッシーナ? あ、私、エレヤ」
ツーカー。
「早い者勝ちよ」
タイタンはもうバスケットの中で眠ってる。
上からキルトを被せる。
ワードローブからよそ行きの服を出した。
馬の毛を編んだセーターを着て、ロッシーナからもらったつぎはぎのジーンズを穿く。
黒革の鞄に父さんの金の粒を入れた。
エンジニアブーツを履いて、バスケットを持った。
「重い・・。あんた太陽より重いわ」
占い商のおばあちゃんの所に着く。
「エレヤじゃないか」
「悪いけど、これ預かってくれない? 大切なものなんだ」
「いいけど・・」キルトをめくる。
「タイタンじゃないか!」
目を覚ましたタイタン。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
「グアナよ。グアナの島」